アトリエmのWebサイトには建築家プロフィールのページもあります。
その中に、BIOGRAPHY/おいたちのページもつくり、1970年、0歳から何枚かの写真を掲載しました。

1974年、4歳。
私のスポーツ歴はスキーから始まりました。

1980年、小学5年生。
しかし小学校で熱中していたのは野球です。

3番サードだったので、多少の自信は持っていました。
低めを打つのが得意でしたが、これはファール(笑)

春と秋に地域の子供会単位で優勝を競うのですが、区大会にでる時は小学校オールスターです。そこでもエースでした。
平野区は学校が多く、決勝まで6試合くらいあったと思います。準決勝までは完璧に抑えていたのですが、決勝は打ち込まれて結局準優勝。
前列左から二番目が私ですが、泣きはらしていたと思います。メダルを掛けていないのは悔しかったからかもしれません。

1984年、中学2年生。
中学に入っても野球です。後列の真ん中でチームメイトの頭にピースしているのが私です。
身長は一番小さい部類でしたが、2番ショートでした。実は坊主頭にするのが嫌で、高校は野球部に入りませんでした。
野球は大好きだったので、今の世の中なら野球を続けていたと思います。

1989年、予備校生。
今は無き大阪北予備校のクラス対抗ソフトボール大会。
十三に予備校があったので、淀川の河川敷で真っ黒になるまで練習していました。

なぜ予備校にそんな大会があるのか分かりませんが、5回戦くらいあるトーナメントで優勝。
決勝では文系のトップチームをやっつけました。練習量が違いますから。

1992年、大学3回生。
大学に入るとスキーに戻りますが、学生時代の中盤、一番好きなスポーツは野球でした。
先々週逝去された水島新司さんの漫画は沢山読みましたが、心に残っている作品があります。確か「野球狂の詩」の中にあったなと思い探してみると、見つかりました。
劇場版の映画にもなっていたようです。
製作会社のサイトに「ストーリー」がでていました。
北の狼南の虎 [劇場版]
東京メッツのエース・火浦健には、父親の仇討ちをして逮捕され、野球を挫折した過去があった。しかし、甲子園の英雄・王島大介のプレーを見て再起を期す。メッツに入団した健はある日加代という女性と知り合うが、加代は幼い頃いなくなった母親だった。実は、健と大介はまだ赤ん坊だった頃火災に会い、母に捨てられ生き別れとなっていた双子の兄弟だった。真実を知った健は兄弟対決の末優勝し新人王を獲得し、加代を「かあさん」と呼ぶ。TVシリーズの「勇気編」終了後、好評だった前後編のエピソードを編集して映画化。
代表作「ドカベン」も大好きでしがたが、憂いを秘めたキャラクターが多く登場する「野球狂の詩」は、特に心に残っています。
そのひとつが「北の狼南の虎」です。上のストーリーを少し補足してみます。
北の狼こと火浦健。彼は赤ん坊の時、事情あって母に捨てられます。彼を道端で拾ったのは侠客でした。家族を失ったばかりの彼は、男手ひとつで赤ん坊を育てるのですが、その場面が何とも切ないのです。
成長した火浦健は、甲子園にでるため父に組を辞めて欲しいと伝えます。その結果、父は組に盃を返しに行くのですが、リンチにあい命を落としてしまうのです。
事情を知った火浦健は、父が封印していた日本刀をもち、組事務所へ仇討ちに向かいます。刑期を終えた火浦健は東京メッツに入団し、双子の兄弟と新人王を争うというストーリーです。
おそらく読んだのは40年程前だと思いますが、鬼気迫る表情だったり、悲哀に満ちたストーリーが忘れられません。
子供の頃、家業の手伝いで大好きな野球ができなかったことが、水島新司さんをここまでの野球狂にした動機になったそうです。
人、言葉、本、漫画、音楽、映画、スポーツ……
自分という人間が形成されるにあたって、どれだけのことが影響しているのでしょうか。
野球の面白さ、人生の悲哀を教えてくれた野球狂に心から哀悼の意を表します。
■■■ 『ESSEonline』にコラム連載開始■■■
12月6日「キッチン・パントリー」
1月4日「土間収納」
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