今週の月曜日は春分の日で祝日。
日曜日は香川、尾道を回り、三原で一泊。この日は朝から広島へ向かいました。
今まで、原爆ドームへ行ったことが無かったのです。
初めて見る原爆ドームは、雨にも関わらず多くの人が訪れていました。
印象として、65年の月日は感じませんでした。
未だ足元に散乱する瓦礫を見て、確かにここに原爆が落ちたのだと実感します。
その写真は、数えきれない程見たはずですが、体感は全てを凌駕するのだと改めて感じたのです。
澱のような思いを持ったまま、すぐ南の平和記念公園へ向かいます。
原爆ドームと一直線に結ばれる縦軸と、直交するよう配置された平和記念資料館。
これらをを中心とした公園は、丹下健三の設計で1955年に完成しています
丹下は高校時代を広島で過ごし、1945年の8月6日は父危篤の知らせを受け、帰郷の途中。尾道にいました。
この計画案はコンペで選ばれたものですが、関係は浅からぬものがあったのです。
見返すと、一直線に並んでいるのが良く分かります。
戦後10年。この建築は、日本復興のシンボルでした。
資料館には、原爆の爪痕を残す悲惨な写真、遺品など、膨大な資料がありました。
家族4人で行ったのですが、6歳の長男と3歳の娘には途中で見せるのを止めました。
今の時点で、その現実を受け止めるのは難しいと思ったです。
正視出来るようになった時、自分たちで行くことを勧めようと思います。
ただ、私自身が今その現実を見れたのかも分かりません。
戦争の前では、人は只々無力なのだという事だけ、痛いほど感じたのです。
その後、20kmほど西にある安芸の宮島へ。
あの有名な社殿は1168年、平清盛によって造られたものです。
日本三景、重要文化財、世界遺産と、様々な側面を持つ厳島神社。
私が訪れた時は干潮で、残念ながらその幻想的な風景を見る事は出来ませんでした。
鳥居のそばまで歩いて行きました。
逆光気味で分かり辛いかもしれませんが、鳥居の縦材が一本の樹をそのまま使っています。
あえてなのか、やや歪んだものを使っていることに驚いたのです。
この厳島神社も、決定的な水害を受けない位置に造営されたと言われます。先人の知恵が活かされているからこそ、現存しえたのです。
短い広島行きでしたが、色々考えさせられました。
原爆によって廃墟となった広島は、世界で最も悲劇的な痛手を被り、世界一劇的な復興を遂げた街と言えます。
長崎と共に、これほどの被害を受けた街は世界中にないのです。
平和記念公園は、あまりの瓦礫の多さにどうすることも出来ず、盛り土をして木々を植えました。50cm掘れば今でもその当時のままです。
路面電車は原爆投下から3日目に、運転を再開しました。それが広島市民を勇気づけ、現在も路面電車を愛する気持ちに繋がっているのです。共にボランティアの方から聞きました。
今朝の新聞には、原発事故で水道水にヨウ素が含まれているという報道がありました。遠くアイスランドのレイキャビックで、放射能を測定したというニュースもありました。
東北、関東、日本というレベルでなく、水や空気は地球規模での話です。私たちは運命共同体なのです。
何があっても、人は生きるために生きるほか無い。
そんな言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消えします。広島、長崎の人々がそうであったように。
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建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
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