大善は非情に似たり‐1365‐

 当社の隣では「平野西のアパートメントハウス」の工事が進んでいます。

 職長が、新入り君らしき若者を叱る声が聞こえてくることもしばしば。

 中学校をでて、すぐくらいの年齢でしょうか。

 小さい体で頑張っている姿をみると、まずは「頑張れよ」と思いますが、他の気持ちも湧いてきて、複雑な気持ちにもなります。

 1人では無理だが、2人いれば出来ること、が現場にはあります。

 どんなに長けた職長でも、人の手を借りないとできないことが多々あるのです。

 若手の教育はどの業種でも大きな課題ですが、なれ合いが命にかかわることがあるかもしれません。

 やはり、現場とは上品だけではやっていけないところです。

 私の仕事がら、現場に是正を求めることがあります。

 現場チームと仲良くするのが目的なら、是正を求めるのは気が重いことです。

 実際、楽しいことではないかもしれません。

 しかし、最終的にクライアントに喜んで、感激して建物を引き取って貰えないとしたら、全ては無になります。

 多くの時間と情熱をかけて創り上げたものが、そうなることを誰も望んでいません。

 それを考えると、是正を求められた人の立場においても、厳しく監理したほうが最終的には幸せにつながると確信しているのです。

 稲盛和夫さんの著書、「成功への情熱」にこんな挿話が載っています。

 IBMの創始者、トーマス・ワトソンがよく社員に話したそうです。

 ある湖のほとりに、老人が住んでいました。

 この湖は、野鴨が暖かい地方に渡っていく途中に、立ち寄る場所になっていました。

 ある年寒波がやってきて、食べ物がなくなり、数羽の野鴨が立往生してしまったのです。

 かわいそうに思った老人は、毎日彼らに食べ物を与えました。

 その後、年ごとに老人の優しさを頼る野鴨は増え、最終的には群れの全てが移動しなくなってしまいまいした。

 そしてある冬、老人は亡くなりました。

 エサをもらえなくなった野鴨は、何百羽もが飢え死にしてしまったのです。

 「小善は大悪に似たり」の1例です。

 数羽の野鴨といえ、それは命です。

 この否定できない真実があったとき、これらの間違いは起こりやすい気がします。

 命を救うこは正しいことです。しかし、族、種別が滅びることは誰も望みません。

 「大善は非情に似たり」なのです。

 非情を簡単に理解してくれる人などそうはいません。

 リーダー業とは基本孤独なものだし、それで当たり前なのだろうと思います。

 さらにいえば、行きたいところがあることが、何より幸せなことなのだと思うのです。

「どうせ」はやめた‐1364‐

 先週の金曜日、中高の先輩に声をかけてもらい、京都へ行っていました。

 20歳ほど上の先輩が、2件目に連れていってくれたのが「カルシウムハウス」

 京都で35年続くニューハーフのショーパブです。私も名前くらいは聞いたことがありました。

 こちらのオーナー、梶子ママはかなりメディアに露出しているそうで、高槻中高の先輩でした。

 何期上かは彼女(彼?)の商売柄を考えて控えておきます。

 お土産にもらった、「なにわのおばちゃん&おネエの牛すじカレー」。

 右が梶子ママです。

 見た目は美しいですが、声は完全に酒やけしたダミ声。もちろんそれも商品のはずですが。

 その翌日、ご一緒したその先輩から、「ビフォーアフターに 貴兄が出てますね」とメールをいただきました。

 土曜日の午後2時から、「住之江の元長屋」の再放送があったようです。地上波放送は今回で3回目だったと思います。

 テレビ局側から再放送に関して連絡はないので、全く知りませんでした。

 放送後「 明かりも大切ですが、私は 風が抜ける設計を評価しますね。 通風性の重要さを思い付かない方が多いし、解決策が 見事です」とメールをもらいました。

 ニューハーフのオーナーママあり、建築好きの税理士ありと、改めて母校の奥行きを知ったのです。

 この春から、長男が中学校へ行きます。

 部活は必須だそうで、候補にしている卓球を一度やってみようとなりました。

 妻がカミ卓球場というところを見つけてきました。

 加美は平野区なので、車で5分くらい。

 また、2006年の作品「加美の家」も近いので土地勘はあります。

 住宅っぽい門扉の先にあるのは元作業場のよう。

 それらを改修し練習場となっていました。

 中には卓球台が4台ありました。3人で2時間借りて3000円。

 子供達は、実家にある小さいテーブルで練習を重ねているそうで、思った以上でした。

 長男は左打ちなので、結構いけるかもしれません。

 娘も負けず嫌い感をだして頑張っていました。

 壁には、福原愛、石川佳純、伊藤美誠とオリンピック選手の色紙や写真が飾ってありました。

 こちらのコーチは、先日結婚した福原愛ちゃんの練習相手をしていたそうです。

 ここで練習していたのかは分かりませんが、トップ選手ながら、卓球をとりまく環境も楽ではないのだろうと想像します。

 ベスト4まで進み、盛り上がりを見せていたワールド・ベースボール・クラッシク。予想以上の活躍を見せ、注目を集めたのが巨人の小林捕手です。

 彼の談話が載っていました。

 「『どうせ』って言うのはやめました。僕は下手くそなんで必死にやるだけ。がむしゃらに。それだけです」

 巨人のレギュラーである小林捕手にしても、超エリート集団にはいると「どうせ」と言いたくなるのです。

 ということは、どんな分野の、どんなレベルであれ、同じことが起っていると想像できます。

 入社試験を1日で辞退。

 それは個々の生き方なので自由です。

 イエール大学の建築学科卒なら別ですが、エリート街道という言葉がある通り、私達に舗装道路など残っているはずがありません。

 でこぼこで水たまりだらけの泥んこ道を行くしかないのです。

 大した努力もしてきていない非エリートの私達が口にしてよいのは「どうせ」ではありません。

 「せっかくなら」以外ありえないのです。

彼岸にわたる‐1363‐

 今日でお彼岸も終わり。

 暑さ寒さも彼岸までと、公園の花水木もほぼ満開です。

 そして菜の花も。

 「お彼岸」とは彼岸会(ひがんえ)の略で、春分・秋分の日を中心に前後3日間におこなう仏事を指すそうです。

 「彼岸」を広辞苑でひくと「生死の海を渡って到達する終局・理想・悟りの世界」とありました。

 反対に、生死を繰り返す迷いの世界が「此岸(しがん)」。私達が生きるこの世の中です。

 お釈迦さまは、此岸(この世)から、彼岸(悟りの世界)に到達することを波羅蜜(はらみつ)といいました。

 そのために必要な修行が六波羅蜜です。

六波羅蜜

1 布施 人を助ける。
2 持戒 戒律を守る。
3 精進 努力をする。
4 忍辱(にんにく) 耐え偲ぶ。
5 禅定(ぜんじょう) 心身をおちつける。
6 智慧 学ぶ。

 俳優の高倉健さんが亡くなる前に語っていた言葉が好きです。

 「俳優という仕事には、生き方がやっぱりでているよね。テクニックではないんでしょうね。

 柔軟体操なら、いいトレーナーにつけば体を壊さずに柔らかくなる。いい本を読めば知識はつく。

 しかし、最もでるのは普段の生き方。偉そうなことを言うようですけど」

 六波羅蜜をみれば、お釈迦さまであれ、私達一般の市民であれ、すべきことは大差ないのがよく分かります。

 それは、高倉健さんのいう日々の行いであり、一過性のものではないのでしょう。

 この陽気に誘われて、早咲き桜もポツポツと花開き始めました。

 花はすべき時に準備をし、ほこるべき時に咲きほこります。

 桃源郷という言葉がある通り、理想の世界にはいつも花であふれています。

 この時期に先祖を参るのが彼岸参り。

 岡山と香川、高槻と和歌山を訪れなければと思うのです。

白川郷でみた「結」の本質‐1362‐

 昨日は、岐阜の荘川高原スキー場に行っていました。

 東海北陸道の高鷲インターを過ぎ、ひるがの高原サービスエリアの次のインターチェンジが荘川。

 かなりローカルな感じのスキー場ですが、ここにしたのには理由があります。

 ひとつは、久し振りにスノーボードをするためです。

 長男に水をあけられたボードですが、私の練習のため、広く、すいているところがよかったのです。

 まだ時々こけますが、娘のボーゲンにはついていけるようになりました。

 ようやく長男と同じくらいまできたでしょうか。

 なんとも昭和の匂いがするレストハウス。

 このほうが落ち着くのは昭和45年生まれなので当り前か。

 席の確保に苦心する必要もなしで、気楽に午後2時まで滑りました。

 ただ「シニア券(50歳以上)」の表記にたじろいでしまいました。

 もう数年で、ついにシニアなるというのが現実なのです。

 荘川まで北上してきたもうひとつの理由は、白川郷に寄るためです。

 前回白川郷に来たのは2008年の秋。娘が生まれて半年くらいでした。

 家族で47都道府県制覇を掲げていますが、いずれも4人で回るのが前提です。

 今年の夏休みには達成できそうですが、その次は日本の世界遺産制覇にしようと思っています。

 私は満足しているけれど、子供には記憶がない。

 これでは目的を果たしていないので、記憶にないところは、再訪しなければと思っているのです。

 夕方3時半に着きましたが、この時間でも続々と観光客が訪れます。

 私達もそのひとりですが。

 2008年にも訪れた、明善寺の庫裡に入ってきました。

 1階には囲炉裏があります。

 電気やガスなど無い時代、寒い冬は炉を中心とした暮らしがありました。

 内部は5層構造になっており、中央はすのこ状の床になっています。

 囲炉裏の暖気が登ってきて、茅葺屋根の内部を燻します。

 それらは、虫を駆除する役目もはたしているのです。

 また、茅葺屋根なので、窓は妻面(屋根のかかっていない側面)にしかありません。

 光はより貴重なものだったでしょう。

 2~4階はカイコを養殖する空間です。

 長い冬、大きな屋根裏を養蚕工場として活用されていたのです。

 1階にあるこの囲炉裏は暖をとるだけのものではなく、全ての中心でした。

 茅の葺き替えは、片面だけで1千万円以上かかるそうです。

 また、100人から200人の人手も必要になってきます。

 その膨大な人出は、「結(ゆい)」という労働交換によってまかなわれます。

 豪雪地帯である白川村は、長く他の地域と隔離されるため、それぞれの家庭だけで生きていくことは不可能でした。

 互いが助けあうことが、どうしても必要だったのです。

 「結」は日本各地にありました。沖縄では「ゆいま~る」です。

 「結」という思想は、農業国であった日本の原風景といえるのです。

 彼岸をむかえ、茅葺きの屋根からは雪解け水が茅の1本1本からしみ出し、滴となってしたたり落ちます。

 村内に張り巡らされた水路の流れは、春の訪れをしめすよう。

 本格的な春を迎える彼岸は、現代とは比べられない程、待ち遠しいものだったのではと思います。

 現代社会が失ったものを、簡単に断ずることはできません。

 しかし、若者の「まずは自分の権利があってこそ」という姿をみて、果たしてそれでよいのだろうかと思います。

 その時間そこにいれば、今度の葺き替えの時に手伝って貰える訳ではありません。

 役にたってこそ、屋根を葺いてこそなのです。

 もし手伝って貰えなければ、その先にあるものはたったひとつなのですから。

直感を信じる勇気、失敗を許容する寛容さ‐1361‐

 塾でテストがあった日、娘はたこ焼きを食べに行きたいと言います。

 大阪で、たこ焼きの昼食は「あり」ですが、娘は会社近くにある店「チャッピー」限定。

 確かに、ここのたこ焼きはまわりがサクッとしていて、なかなかに美味しいのです。

 おじさんは「ちょっといい粉を使ってます」と言っていましたが、多めの天かすも理由かもしれません。

 しかし、ここまで好きだとは分かっていませんでした。

 店のおじさんに、手紙を書くと言い出したのです。

 たこ焼きのイラスト付。

 先日「冬になってお客さんが減ったと、おじさんが言ってたよ」という話になりました。

 「あの店がなくなったら、もうあのたこ焼きが食べれない。自分が食べに行かなくては」と、気が気でなかったようなのです。

 大阪のたこ焼きで、美味しくないところもそうありませんが、よければ食べてみて下さい。

 8個300円。味は私が保障します。

 一応、地図も貼っておきます。

 おじさんは、店を辞めても手紙は置いておくよと言ってくれました。

 この高度情報化社会、SNSやインターネット網に引っかかれば勝者、そうじゃなければ敗者というような風潮です。

 娘の舌がすごく肥えているとは言いませんが、彼女にとって手紙を書きたいほどの店。

 客足が遠い現実をみて、何が正しいのだろうかと考えます。

 彼女の好物はアジの刺身で、醤油を付けずに食べます。また、味の濃いラーメンなどは「辛い、辛い」と全く食べません。

 味覚はは小学4年生くらいが最も鋭いようなので、案外一番味が分かっているのかもしれません。

 たまの外食は「やっぱり美味しかったね」が理想です。

 しかし、飛び込みの店で「見ためより美味しかったわ」や「完全に見掛け倒しだったねえ」も、もちろん「あり」です。

 誰しも失敗は嫌ですが、長い(短い)人生、失敗の数こそが、そのまま成長への係数になるような気がします。特に若い頃は。

 長男がスマホで検索する姿をみて、どうしても寛容な気持ちになれないのは、このあたりにあるのかもしれません。

 はずれの店もよし、時にはぼったくられるのもまたよしなのです。

 ネットで検索して、知ったような顔になっていないか。自分の目、直感を信じる勇気をもっているか。

 そして、多少の失敗を許容できる寛容さをもっているか。

 これらは、大人側の問題だと言えそうです。

苦味あってこそ‐1360‐

 長男が何とか希望校に通ったので、お礼参りに行ってきました。

 北野天満宮は学問の神様、菅原道真公が祭られた、天神社の総本山です。

 言わずと知れた、ですが。

 1月3日は、混雑を避けて早朝に到着しました。

 今回は午後2時の到着でしたが、梅の名所でもあり、かなりの賑わいでした。

 朝日があたるここがいいんじゃない、と奉納させてもらった絵馬掛所の一角。

 前回より、さらに絵馬が盛り上がっています。

 後半生、不遇だった道真公はこう遺言を残したそうです。

 自らの遺体は牛に車を引かせ、立ち止まったところに葬って欲しい。

 それで、天神さまのお使いは神牛となりました。

 本人は「僕も結構頑張ったんやで」と言っていますし、もちろんそうでなければ合格しないと思います。

 それでも、少し後押しがあったように感じるのは、私が親になったからでしょうか。

 梅苑も散策してきました。

 道真公は博学であるがゆえ、時の天皇に疎まれるようになっていきます。

 そして、大宰府へ左遷されそこで一生を終えるのです。

 大宰府天満宮へは、2014年の夏に訪れました。泣き出しそうな空だったことを覚えています。

 東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花

 主なしとて 春を忘るな

 京を去る際に、詠んだ歌です。

 小ぶりな梅の花が切なげに、慎ましやかに咲き誇ります。

 梅は枝の形がさまざまで、紆余曲折のある人生のようにも見えてきます。

 梅は枝と合わせてみるものではと、この歳になって気づきました。

 今日、2時間程かけて入社試験の面談をしました。

 若い彼らに、苦味と喜びの両方を経験させてあげられたらといます。

 博学を疎まれるほどの経験がないことを、喜んではいられませんが、それなりの屈辱も経験してきました。

 しかし、ビール、コーヒー、サンマのはらわたと、苦味の無い人生は、それはそれで味気ない気がするのです。

あべれいじ‐1359‐

 20代の後半、まだ競技スキーを本気でやっていた頃のことです。

 土曜日の夜、仕事が終わると信州のスキー場へ向かいます。

 昼過ぎに試合が終わり、大阪への帰路は500kmほど。帰りの中央道はFMを聴きながら車を走らせます。

 午後の日差しが眠気を誘うなか、DJは山下達郎、松任谷由実、福山雅治の順だったでしょうか。

 そのあと、ちょっとコミカルなラジオドラマがありました。

 2月のスキーの帰り、未だに続いていると知ったのです。

 「NISSANN あ、安部礼司」というタイトルらしく、サイトをみるとこうありました。

 この物語は、ごくごく普通であくまで平均的な45歳の安部礼司がトレンドの荒波に揉まれる姿と、それでも前向きに生きる姿を描いた勇気と成長のコメディである。

 昭和46年10月10日生45歳

 ご存知!Mr.フツー。仕事も恋も家庭も友情も、大事なことはすべてマンガから学んだと豪語する平成のお気楽サラリーマン代表。iPodには「今さらツボなセレクション」と題された懐かしい楽曲が2万曲近くも入っている。

 冬の黄昏時、ちょっと楽しみにしていたのを覚えています。

 静岡市出身の45歳、身長172cm。安部礼司=Average。作り手が思う、平均的日本人がよく分かります。

 「あ、安部礼司」は ” a   average  “か。面白いタイトルです。

 先日、元商社マンで、現在外資系の会社で働く人がこんなことを言っていました。

 「中国の平均年収は未だ日本より低いが、とびきりの金持ちが沢山いるだろう。インドネシアなんかも同じ構図だよ。平均という言葉がナンセンスだね」

 確かに、と納得したのです。

 北海道と沖縄。

 春と秋。

 夏と冬。

 都心部と農村部。

 平均することに全く意味はありません。

 「偏差値50」「一般的には」「平均寿命」と、それでも人は平均を意識するもの。勿論私も同じです。

 花をみて、どうして人間はこうも比べたがる?と槇原敬之は問いますが、やはり人間だからでしょう。

 そこから解き放たれたいし、張り合いのために基準を持っていたい。とかく人の心は複雑なのです。

古希‐1358‐

週末は、母の古希祝いで天橋立へ行っていました。

両親、弟家族との旅行は久し振りです。

日本三景と言えば、宮島、松島、そして天橋立です。

南にある天橋立ビューランドからの景色は「飛龍観」とよばれます。

特に「股のぞき」をすれば、天に龍が舞い上がるようにみえるとのこと。

娘と姪っ子にさっそくトライしてもらいました。

娘なので失礼して。

天に舞う龍にみえるでしょうか。

父がカニが食べたいというので、夕食はカニ尽くしのコース予約していました。

そして子供には、丹波牛のしゃぶしゃぶ。

いずれも、バチがあたりそうなくらい美味しかったのですが、私はカニの刺身が一番でした。

そして、女の子チームから花をプレゼントしてもらったのです。

翌朝は、反対にある笠松公園からも股のぞきをしてきました。

こちらは昇り龍のように見えるので「昇龍観」とよぶそう。

正直、その違いは分かりませんが、股のぞき発祥の地はこちらだそうです。

集合写真には興味がないのですが、11名全員が揃う機会もなくなってきたので、昇龍の前で失礼しました。

伊根の舟屋なども回ってきましたが、天気に恵まれ、良い古希祝いになったのではと思っています。

平均寿命が80歳を超えたとはいえ、70歳まで元気でいることは当たり前のことではありません。

更に、まだ介護の仕事をしているので、感謝しなければなりません。

あまり言いたくないのですが、最近小さなに文字が見難くなってきました。

ずっと視力は2.0だったので、「早くに老眼がくる」と言われていましたが、まさか自分に限って、と思っていました。

何事も経験しなければ分からないものです。

自分が70歳になったとき、どんな視力で、どんな体力で、もしくは生きているかも定かではありません。

それでも、死ぬまで仕事は現役でいたと思っています。

昔なら、稀なことだったので「古希」。

祝い事なので「希」の字があてられているのでしょう。

どれだか体がおんぼろになっても、希望の灯だけはいつも燃やしていたいと思うのです。

戦争と沖縄‐1357‐

終戦から72年。

戦争を、20代、30代で体験した祖父母は、すでに4人とも亡くなってしまいました。

終戦時に8歳だった人が現在80歳。戦争体験を聞く機会は、この10年でほぼ無くなってしまいます。

2月11日12日と初めて沖縄を訪れましたが、戦争についてはやはり素通りできないと思っていました。

那覇の目貫通りは国際通り。

夕方だけなのか、歩行者天国になっていました。

ある交差点では、ストリートパフォーマンスをしている若者がいます。

平和な日曜午後の風景です。

後ろに見えるのは安売りのドン・キホーテ。

この建物は安藤忠雄の設計で、もとの名は「フェスティバル」だったと思います。

今はベージュのペンキが塗られ、打ち放しの見る影もありません。しかしそれも時代の流れです。

ここに書くのはあくまで私の歴史観、戦争観です。

2ヶ所だけですが、沖縄戦の痕跡を訪ねてきました。

旧海軍司令部豪は那覇市街を見下ろす、小高い山にあります。

アメリカ軍の砲撃に耐えるため、山をくり抜いて作られた地下陣地でした。

450mあったうちの300mが公開されていました。

ここは司令官室。

漆喰が施されています。

ここは下士官兵員室。

スリット状に影が見える部分に、元は木の支柱がありました。

下士官は、立錐の余地なく立ったまま眠ったそうです。

ツルハシの跡が生々しく残るこの空間で、立ったまま眠り、戦に勝てる訳などありません。

そして幕僚室。

壁に残るのは幕僚が手榴弾で自決した際、飛び散った破片の跡です。

生々しく残るその跡を、正直、真正面から見ることは出来ませんでした。

責任は自決してとる。

その場にいればそれが正しいと私も思ったかもしれませんが、どんなことがあっても生きてこそです。

それを分からなくするのが戦争でしょうか。

もう1ヶ所は糸数アブチラガマ

那覇から南東へ10km程いった小高い丘の中腹にあります。

先の戦争で、沖縄への上陸は本島中部、読谷村(よみたんそん)あたりから開始されました。

アメリカ軍は徐々に南下してきたため、本島南部は最終の激戦地となりました。

「ガマ」とは沖縄方言で、洞窟やくぼみを指します。

「アブ」は深い、「チラ」は崖をさします。深い、深い、とても暗い洞窟でした。

以前は撮影を許可していたそうですが、現在はガマの手前まで。やはりネット社会は難しとのことでした。

内部には照明はなく、懐中電灯を手に1時間程かけて案内をしてくれます。

この糸数アブチラガマは、もとは集落の非難指定豪だったのが、陣地豪となり、病院の分室となりました。

病院分室となってからは、ひめゆり学徒もこの地に配備され、負傷兵の治療にあたります。

トイレなどないので、糞尿を一斗缶に入れ、夜の間にガマの外へ捨てに行くのも彼女達の仕事だったそうです。

衛生状態が悪いので、負傷兵の手や足が切断されたものも、彼女たちが外部へ捨てにいきました。

人はそんな悲惨な日常にも慣れてしまうそうで、高校生くらいのひめゆり学徒も「これ○○さんの足だから、重くてかなわないね」とような会話を交わすようになっていったのです。

人が人でなくなる。それが戦争なのではないでしょうか、とガイドの方が言っていました。

最終的に軍からの撤退命令がでると、歩けない負傷兵と地元の人だけがここに残りました。

アメリカ軍は入り口からガソリンを流し込み、火を放ちましたが、湿気が多い為全体へは広がらなかったそうです。

それでも、ガマ内の天井は黒く焦げ、爆発したドラム缶の一部が、濡れた紙のように天井にへばりついていました。

それはこの出口からすぐそこで起こったこと。地元の方の何人かが、そこで命を落としたのです。

本土決戦に備える時間稼ぎのために「沖縄は捨て石にされた」と糸数アブチラガマのwebサイトにはあります。

更にこうあります。

 沖縄戦で、日本兵6万6千人、沖縄出身兵2万8千人、米兵1万2干人、一般住民9万4千人が亡くなりました。

 当時の沖縄県の人口は約50万人でしたから、沖縄県民の4人に1人が亡くなったことになります

日本で唯一、地上戦を経験した沖縄。

アメリカ軍、日本軍、沖縄県民が入り乱れた、終戦間際は地獄絵図だったといいます。

スパイを疑われ、殺された県民もいたとのことでした。

沖縄戦で亡くなった日本軍の中で、沖縄の次に多かった出身地は、北海道だそうです。

ガイドの方が「内地という言葉があるとおり、やはり沖縄、北海道など、地方の貧しい人達の多くが命を落としたのかもしれません」と言っておられました。

大阪に住んでいて、「内地」という言葉を使うことはありません。

その音には、ある種の不公平感が含まれていることを、私達は認識しなければなりません。

サトウキビ畑の中にぽっかりと空いた、糸数アブチラガマ。

案内の途中で「いちど全て懐中電灯を消してみましょうか」と言う場面がありました。

多くの負傷兵が見捨てられ、出入口をアメリカ軍に塞がれ、火を放たれ、真っ暗闇のなかで沢山の人が亡くなっていきました。

日本の終戦は8月15日ですが、このガマでの終戦は8月22日。それまでここに立てこもっていたのですが、アメリカ軍に収容され、負傷兵も数名が命をとりとめました。

身動きできない真っ暗闇の中で聞こえるのは、わずかに残る負傷兵のうめき声と、自らの傷口をウジが食う音だけだそうです。

そんな断末魔の世界を、なぜ多くの市民が経験しなければならなかったのか。

作家・司馬遼太郎は青年期にこの戦争を経験しました。

18歳で学徒動員されますが、栃木県の地で終戦を迎えます。

召集を受け、一旦は死さえ覚悟した若き日の司馬遼太郎は、戦争が劣勢になってくると理不尽な場面にでくわします。

本土決戦を前にした日本の軍部は、命をかけて国民を守るどころか、最終的に自らの保身を優先するような命令を下すのです。

そのとき彼は「日本人というのは、こんな国民だったのか。いやそうではかったはずだ。戦国時代は、江戸時代は、せめて明治時代以前はそうではなかった・・・・・・」と憤ります。

それから日本が少しでも良くなればと、戦国時代、江戸、幕末の志士を描くことになるのです。

戦争に導いた人達をリーダーとよんで良いのか分かりません。

それでも、国にしろ、組織にしろ、リーダーの判断は、多くの人達に良くも悪くも影響を与えます。

アブチラガマでは、指令室になる予定だったところは、ガマの奥深くで、敵の侵入を防ぐため様々な工夫がされていました。

一方、地元住民があてがわれたスペースは、出口からすぐのところ。

一番奥が駄目、入り口側が良い、というような単純な問題ではありませんが、覚悟と愛情のないリーダーは組織を不幸にします。

ガイドの方の言葉にトゲや恨みは感じませんでした。

しかし、現実に捨て石にされたという事実と記憶が変わることはありません。

美しく、やはり痛い、はじめての沖縄だったのです。