美しくあるべきもの、それは大人‐1260‐

 今日で三月も終わり。

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 花冷えが続きましたが、近所の桜もようやく三分咲き。

 毎年UPしますが、桜の蕾程美しい色はそうありません。

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 ユキヤナギはすでに満開。

 愛らしい花が弾けたように咲く様はまさに春。

 先日、小学校の卒業式がありました。長男が5年生で、卒業生へ向けての合唱があったそうです。

 その場面を妻が動画で見せてくれました。その一生懸命さには、ちょっと感激しました。長男は恥ずかしがりましたが、誇らしくもありました。

 聞けば「後ろに立ってる友達が、オマエ体揺れ過ぎ、って言うねん」と。確かに、体が揺れるくらい、精一杯歌っていました。

 勉強もようやくやる気が出てきたのか、塾のクラスが1つ上に上がりました。お祝いをしようよ言うと「びっくりドンキー」のハンバーグが良いと。

 とてもリーズナブルな子供です。

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 少し前なら、こんなませた顔もしなかったのですが。

 勝ったり、負けたり、恥じたり、誇ったり……

 色々な経験をしながら成長していくはずですが、一生懸命だけは恥じない人になって欲しいと思っています。

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 現在春休み中で、娘が事務所に遊びにきました。

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 なかなスタッフが入ってくれず、娘の成長を心待ちにしているのですが、最近、夢が「建築家」から「獣医さん」に変わりました。

 獣医さんは常に強敵です。

 この春は3名の学生が、オープンデスクに参加しました。1人は20日間を完走、1人は3日で辞め、1人は現在研修中。

 1人目の学生は、感想を送ってくれたので、webサイトにも掲載しました。日付を見ると久々の完走でした。

 オープンデスク3日目に、これから20日間を続ける気持ちがあるかを問います。

 その時に「迷っている」と言う学生には、「それなら辞めた方が良いと思う」と即答します。

 ここは学校ではないし、アルバイトでもないので、どうしてもやりたいという熱意がなければ、お互いが不幸だからです。大人になったなら、自らの発言に責任を持つべきだと思うのです。

 「自然は美しいね。なぜだと思う。自らに責任を持っているからだよ」 

 建築家、前川國男の言葉です。

 美しくあるべきもの。それが大人なのだと思うのです。

朝焼けの中で‐1259‐

 日曜日の日の出は5:52am。

 5:00amに、カメラマンとSEIUNDO のnew offceで待ち合わせていました。竣工写真の撮影だったのです。

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 中央がクリスタルタワー。

 OBPのビル群から朝日が昇ってきました。

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 セブンドリーマーズの3店舗に続き、カメラマンは、ナカサ&パートナーズの安田さん

 今回も東京からの来阪です。

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 土曜日の日中は東京での撮影で、飛行機、レンタカーと乗り継ぎ、8:00pmに現場到着。

 そのまま深夜0:00amまで夜景の撮影をしました。

 大阪は折からの観光ブーム。ホテルが取れずネットカフェで2時間仮眠をしただけでの早朝出勤でした。

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 建築写真は、明るい外部と、暗い内部を一緒に撮る為、光の入り方が大きく影響を与えます。

 薄暮や、明け方しか撮れない写真があるのです。

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 太陽が昇りだすと、朝日独特の黄色い光が、室内に入り始めます。

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 そうなると撮影は一旦待機。

太陽が昇り切る8:00am頃まで待たなければなりません。

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 これだけ片付いた状態で撮影が出来るのは、このタイミングだけ。

 よって失敗は許されません。

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 私達も、全ての撮影に立ち会いましたが、本当に大変な仕事です。

 しかし、それ故プロの仕事。

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 8:00amには、SEIUNDOの社員さんにも入って貰い、人物ありカットの撮影がスタート。

 立ち位置にもこまやかな指示が出ます。

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 10:00amまで5時間撮影しました。2日間に渡り、14時間中9時間一緒に仕事をしました。

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 3月27日(日)はSEIUNDOの引っ越しの日。それを10:00amまで待って貰い、ぎりぎりの撮影でした。

 撮影が終わると同時に、引っ越しが開始されました。

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 私も家に帰ると、そのまま泥のように眠りました。そして、夜はささやかな焼肉パーティー。

 大変だけが充実を生むというこの真理。またささやかな幸せがあれば満たされるというのもまた事実。

 このハードスケジュールにも関わらず、日曜日6:00pmに安田さんから仮画像が送られてきました。

 素晴らしい内容で全カット購入。納品が楽しみです。

 自分が一番頑張っていると思いたいのもまた真理。しかし、頑張っている人は、本当に沢山居るものです。

曲がったことが大嫌い‐1258‐

 昨日、フジテレビの『みんなのニュース』「灘の高台の家」が紹介されました。

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 今回も、放送後の報告ですが、こちらの住宅は、神戸の高台にある一戸建て。

 築24年の中古物件をフルリノベーションしました。

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 ディレクターから、「高断熱」「お得感のあるリノベーション」の情報が欲しいと連絡がありました。

 そしてピックアップしたのがこの住宅。

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 こちらのクライアントは、共に30代前半。

 22日(火)の夕方「工事費用も出るのですが、写真をテレビに出しても大丈夫ですか」と問うと、その日の内に快くOKの返事を貰いました。

 残念ながら関東ローカル枠での放送で、関西圏では見ることが出来ません。

 しかし、丁度一ヵ月前に2月23日「松虫の長屋」を紹介して貰ったので、2ケ月連続です。

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 また、3月22日発売の『関西ウォーカー別冊付録<大阪ライフウォーカー>』に「住之江の元長屋」が紹介されました。
 
 大阪の暮らしを再発見!とある通り、大阪をアピールする別冊です。その中の「仕事・住まい」のページで取り上げて貰いました。 

 こちらは、写真1枚のみですが、2013年、大阪住まいのリフォーム・リノベーションコンクールで戸建て部門、最優秀賞を貰った縁で、大阪府庁の方から連絡を貰いました。

 テレビや雑誌というメディアも、結局判断するのは人なのです。

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 初めて作品をテレビで紹介して貰ったのは、2004年の「平野西の家」です。

 また、初めてテレビに出演させて貰ったのは2008年。フジテレビの夕方の帯番組、安藤優子がメインキャスターを務める「スーパーニュース」内の特集でした。

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 「境内の中の家」を建てる過程を200日に渡って、密着取材して貰ったのです。

 そのディレクターが、現在「みんなのニュース」のディレククターをしており、その縁でのオファーなのです。

 作品を発表し、メディアに取り上げて貰うのは、1つの目標ですが、それには大きな理由があります。
 
 2013年の年末、2年程登録していた建築家プロデュース会社から脱退しました。

 「建築家との家づくりは、こんなに楽しい」ということを、色々な会場で説明するのが私達の役割です。

 家を建てたいという人と出会い、お互いが求め合えば計画は進んで行きます。

 しかし、その会場は準備して貰ったもの。この世にただはないので、その対価を支払う必要があります。それは、互いが納得すれば問題ありません。

 所属していた期間は、オファーがあれば何とか都合をつけて出来る限り参加し、全力を尽くしたつもりです。

 色々な地域で、そのような催しに参加させて貰い、また、他の建築家と話す機会もあり、とても勉強になりました。

 しかし、中には「仕事を与えてやっている」感が前面に出ている人もいて、違和感を感じ始めていた頃でした。
 
 そんな中、どうしても納得できないことがあり、辞めることにしたのですが、その経緯はここでは書きません。

 後日、その会社の営業が当社にやってきました。

 あまりにも上からものを言うので「ここは神聖な仕事場だ。これ以上好き勝手な事を言うなら、出て行って貰う」と言いました。

 すると「人を汚い物みたいに。一個人事業主に、そんな事は言われたくない」と彼は私に言いました。

 2週間くらい頭に来ていました。この時ほど、早く法人化しておくべきだったと悔やんだことはありません。

 未だに、そんな扱いをされるステージに居る自分が悪いと言い聞かせ、その怒りをねじふせたのです。

 それまでも、直接のオファーを貰っ仕事だけでやって来ました。いくらかでも、敬意を持ってくれる人とのみ仕事をしてきた私からすれば、あり得ない扱いでした。

 私達の仕事は、安定感の無い仕事です。1年くらい先までの仕事は決まっていますが、ずっとオファーがある保証はありません。それ故、少しでも間口を広げるべきという考えも正です。

 しかし、毎回の仕事を、一期一会の精神で取り組み、そのストーリーを世に伝えることこそが、私の生きる道だと確信しました。

 今、心の中で思っている事を、そのまま発言できないような生き方は辞めようと思ったのです。

 この高度情報化社会では、機会(情報)を多く持っている人が勝ちという側面があります。更に、額に汗して働いている人より、マージン商売をしている人のほうが、優秀という風潮さえあります。

 しかし、そんな世の中で、誰が真面目に努力を続けられるでしょうか。

 自由に生き、正しいと思う道を進みたい。それには、誰にも頼らない生き方をしなければなりません。

 納得できなきことは絶対やりたくない。曲がったことが大嫌いなのです。

テラスにワン友が集まる、帰りたくなる家‐1257‐

 3月19日(土)発売、「住まいの設計05・06月号」に「滋賀の家」が掲載されました。

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 左下にある「イヌと暮らす家&ネコと暮らす家」の特集内です。

 撮影については一度UPしましたが、ここへの掲載を控えていた写真が結構あります。

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 掲載写真と被るのは勿論NG。誌面を構成する為に東京から3人も来るのですから。

 カメラマンも、何度もアングルをチェックします。

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 誌面には、愛犬チロルが地窓から外を見る写真があります。

 目線の先は写っていませんが、種を明かせば、寒い中をご主人が呼んでくれていました。

 良い写真を撮るには、色々苦労があるのです。

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 2階のセカンドバルコニーから見る土塁の景色こそが、この家ならでは写真。

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 そこから見下ろす写真は、誌面にありませんでした。

 よって、ここに掲載します。

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 「テラスにワン友が集まる、ドッグカフェのような家」がこの家のタイトル。初めは「イヌ友」となっていました。

 しかし、奥さんから愛犬家はペットを家族だと思っているので「イヌ友」とは呼ばず「ワン友」というと教えてもらい、こうなったのです。

 その奥さんから「守谷さんって、ペットに興味ないですよね」と言われました。理由を聞くと「チロちゃんが、足元に来てかまって欲しいと言っても、気付いてないもの」と。

 なるほど。

 嫌いでも、興味がない訳でもなく、クライアントの方意識が行っていただけなのですが。言い訳か……

 愛犬家の人ほど、ペットの気持ちが分かることはありません。しかし、どんな暮らしを求めているかを教えて貰えば、答えを見つけることは出来ると思っています。

 建築設計とは、人間学だと思っていましたが、生物学だったのです。

 春には、もう一人のワンちゃんがやってくるよう。

 ペットを飼っている人も、そうでない人も良ければ手にとってみて下さい。

 いくらワン友が集っても、帰りたくない家では意味がありません。仕事において、最も大切なことが、意外に繰り返されないことは良くあることです。

例えるなら‐1256‐

 昨日、生駒山から太陽が頭を出したのは6時22分。

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 歳と共に早起きになると言いますが、今のところ私は6時で目一杯です。

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 生駒つながりで、北浜にある生駒ビルヂングです。

 火曜日、SEIUNDOの現場へ行った際、前を通りました。

 昭和5年、1930年の完成で、北浜界隈に残る、近代建築の一つ。詳しくは生駒時計店のwebサイトを。

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 スクラッチタイルで覆われた鉄筋コンクリート造の建物ですが「生」の字が、遊び心を感じさせます。

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 丸窓や、鷲の彫刻が施されており、多くの手、お金が掛かった建築なのです。

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 南よりにある縦長の開口部は、振り子をイメージしたものだそう。直喩の表現です。

 2月中旬、写真家に撮りなおして貰った「宝塚の家」の写真が上がってきました。

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 生駒ビルヂングを絵画に例えると、王宮絵画の流れを引く、古典主義といった所でしょうか。

 一方、宝塚の家は抽象画。

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 料理で言うなら、日本料理の刺身のイメージ。最小の手数で、素材を引き出したいと思っているのです。

 対して、生駒ビルヂングはフレンチのフルコースか。

 例えとは、互いが理解できる共通項を見つけ出し、そのジャンルに置き換えることです。食べない人は居ないので「料理」はとても重宝するのです。

 先日、レンタルDVD店へ行くと、キャッシャーでいきなり「磨きますか?」と尋ねられました。あまりに唐突だったので「何故磨くの?」と聞いてみました。

 25歳くらい若者は、慌てる風もなく、「キズが付いているのが嫌な人も居るので」と言います。私は、「キズが付いていても、観れれば嫌じゃないよ」と答えたのです。

 アルバイト(社員?)の若者に問う必要があったのかは分かりませんが、この応対に何の指導もなく、彼は報酬を得ます。

 日本の未来に、多少の杞憂を感じのは、ある程度の歳になったからでしょうか。

 「何故?」がなければ、全ては暗記するだけになります。そして間違います。ましてや、伝えたいといく気持ちが無ければ、比喩など全く不要です。

 トーマス・エジソンは小さい頃「何故?」を連発し、大人を大変困らせたそうです。立派なプロになるのに、難しいロジックなど要らないと思っているのです。

真田幸村に見る、権力と判官びいき‐1255‐ 

 妻と娘がインフルエンザで、先週はバタバタしていました。

 ようやく回復してきましたが、娘は学級閉鎖で、結局一週間休んだことになります。

 退屈だろうと「出掛けよう」と言っても、大概は「家で居る」と言います。

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 しかし「真田丸」巡りに行こうというとあっさりOK。

 テレビは1日1番組としていますが、お気に入りは「ペットの王国ワンだらんど」「プリキュア」そして「真田丸」です。

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 「真田丸」は戦国時代、随一と言われた武将、真田幸村の人生を描いた大河ドラマ。

 まずは、最後の主君となった、豊臣家の大阪城からスタートします。

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 8階の天守閣まで上がると、かなり足に来ますが、太閤、秀吉だけの眺め。

 しかし、現在の大阪城は三代目で、秀吉の大阪城は更に東、現在のOBPよりにあったことが分かっています。

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 城内の展示も、真田丸より。

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 大坂夏の陣図屏風の中央やや右に、赤備えの幸村隊が見えます。

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 仕事を休んでいた1年間で、一番記憶に残っているのが、池波正太郎の「真田太平記」。文庫本なら12巻の長編小説です。

 よって、勿論私も幸村ファン。

 2015年の正月には、上田城前の館へ寄ってきました。

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 現在も土塁が残り、地元の人に愛されているとありました。

 NHKのwebサイトには「大河ドラマの原作はなく、三谷幸喜オリジナル」とあります。

 真田本といえば「真田太平記」。なんらかの影響は受けているのではと想像しています。

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 「真田丸」は、大坂夏の陣の際に幸村が築いた出城です。

 そこから戦場に現れては消えと、神出鬼没の幸村隊は、徳川軍に大きなダメージを与え続けました。

 大阪城と抜け穴で繋がっているのではと考えたのでしょう。その、抜け穴伝説の残る「三光神社」へ。

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 大阪城の南東端、森ノ宮駅から一駅南の玉造駅。

 そこから90mのところにあります。

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 像の左にあるのがその抜け穴。

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 穴をのぞくと、行きどまりになっているような、いないような。

 こういった話は楽しんだもの勝ち。きっと繋がっているはずです。

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 しかし、科学は非情です。

 最新の研究で「真田丸」は、三光神社の南西、大阪明星学園の敷地に有ったのではと、結論を出しました。

 この坂を登った先に、明星学園があるのですが、この日は時間切れ。またの機会に持ち越しです。

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 最後は、試験終わりの長男を拾って、幸村最後の地へ。

 天王寺の北、一心寺の向かいにある安居神社は夕方だからか、門が閉まっていました。

 外から見るのみになってしまいました。小説では、愛馬・月影と共に、ここで潔く首を差し出し、果てたとなっていたはずです。

 大河ドラマはまだ観ていないので、幸村がどのように描かれているのかは分かりません。しかし、人気の根底にあるのは、判官びいきと言えそうです。

 太平の江戸時代を築き上げた家康の功績は多大ですが、絶対の権力者に対する反発心は世の常です。

 信州上田の地方豪族だった真田家が、何度も徳川家に一泡吹かせる様は、痛快だったに違いありません。

 また、旗印の六文銭は三途の川の通行料。地獄も恐れないという勇猛さ。また、豊臣に忠誠をつくす律義さも相まって、幸村伝説は語り継がれているのだと思います。

 その辺りは、この日記でも、何度か触れました。

 権力は腐敗する、絶対的権力は徹底的に腐敗する

 英国の歴史家ジョン・アクトンの言葉の通り、権力は、常に破滅、腐敗と裏腹です。

 FIFAの会長問題、オリンピック誘致の汚職問題、かの国の独裁政治を例に引くまでもなく、歴史がそれを証明しています。

 では、家康は何故270年に及ぶ江戸時代の基礎を築けたのか。腐敗しなかった理由は、評論家谷沢永一のたとえが巧みです。

 彼は、秀吉は「可愛げ」、家康は「律義」で世を治めたと言いました。

 美しく散るも良し、可愛げにもにた律義も良し。人の生き方は様々です。

 しかし、私を含めた一般大衆は、前者の幸村に憧れるのでしょう。出来もしないので、それはそれで健全だとも思うのです。

あの頃の未来‐1254‐

 工事が進むSEIUNDOの New Office。

 眼下には中之島のばら園を望みます。

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 ハナミズキでしょうか。ようやく白い花をつけ始めました。

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 昨日まで、20歳の男子学生がオープンデスクに参加していました。

 現在進行している現場は、全てに同行しました。

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 元高校球児で、非常にフットワークの軽い青年でした。無事20日間を完走。

 最近は、途中リタイアが多かったので、嬉しい限りです。

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 日曜日は、午前が彼、午後が21歳の女子学生。入れ替わりで取材も体験してもらいました。

 実際に見ておけば、メディアが遠いものだと思わないはず。それなりにプログラムも考えています。

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 彼女は今日で4日目。頑張って、完走して欲しいと思っています。

 無給で就業体験に来るのですから、明確に、またはおぼろげながらでも、人生の目的を持っている彼らです。

 行動を起こしたことで、勝者へチケットは手に入れました。

 次は、やる気のあるライバル達から、抜けださなければなりません。頑張って勝ち切って欲しいと思います。

 長らく、スタッフとも食事をしていなかったので、学生2人も連れて、食事に行きました。

 聞き役に徹すれば良いものを、ついつい色々話してしまいます。

 20歳の彼が、私が鬱になった経緯を聞かせて欲しいと言ったので、25歳の夏から30歳の春までを、5分バージョンで話しました。

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 1996年天王寺。独立の際に借りた4畳のマンションです。

 鬱で悩んだ記憶しかありませんが、写真はこの一枚だけ。創業の場所だし、もう少し撮っておけば良かったと、少し悔いが残ります。

 本の入れ方も雑、青焼きも整頓出来ておらず、間違っても「君たちは整理整頓ができていない」とは言えないはずです。しかし言うのですが。

 「思い出はいつも偉い」という法則があります。

 人は、実際に出した結果と、そこに至るまでの苦労をセットで記憶しています。更に、その過程における心の葛藤を知っているのは自分だけ。

 よって、常に自分の方が苦労をし、努力をしているのです。

 学生時代のクラブでも、3回生は必ず言います。

 「俺が一回の頃は……」

 自分が日本一なら別ですが、同じような結果しか出していないなら、そんな違いがある方が不自然です。

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 独立寸前、1996年5月24日の釣り新聞です。

 25歳の頃も、寝る間を惜しんで図面を描いたと言っておきながら、結構楽しそうにやっています。それでも人は言ってしまうので、法則なのです。

 スガシカオは、現在を「あの頃の未来」と言いました。

 20年前の自分が描いた未来は、ここだったのか。自分に問うてみると、居ても立ってもいられない、何とも言えない気持ちになります。

 若いことは素晴らしく、羨ましくもあります。しかし、今手元にある現実は、それらの時間と引き換えにして手にいれたものです。

 若頃は無く、今はあるもの。良く聞く言葉だが、思った事が無かった言葉。

  人は宝 

 少なくはありますが、ようやく、チームとして勝負できる状態になったと思っています。

ワイリー・コヨーテも取材仕様‐1253‐

 虫も這いだす啓蟄も過ぎ。大阪は20℃を超えました。

 昨日は 、朝から「住まいの設計」の取材でした。

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 1月にも取材して貰った、同じチームが東京から来阪してくれました。

 「阿倍野の長屋」と「滋賀の家」は、環境で言えば、対極にあるような家です。まずは、外観から撮影スタート。

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 四軒長屋の中央二軒をフルリノベーションしたこの住宅。

 延べ面積は約113㎡(34坪)。決して小さな家ではありません。

 しかし、ご家族5名、取材チーム3名、当社から3名となると、なかなかの人口密度です。

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 ロフトで、弟に紙芝居をする7歳のお兄ちゃん。

 少し見ない間に、随分大きくなっていました。

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 4歳の次男君。まだまだ甘えたい盛りです。

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 2人とも、一日協力してくれました。

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 家の歴史を、最も知っているのはご主人のお母さんです。

 ライターからのインタビュー中。

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 撮影が終わり、写真をチェックする様子を見ていると、上手くいったのだと想像できます。

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 リビングの飾り棚にあるワイリーコヨーテは、ご主人お気に入りのフィギアです。

 設計段階から寸法をとり、ここに収まると決まっていました。この日は、ハンマーを持つ取材バージョンです。

 奥さんに内緒で購入し、撮影が始まる前、こっそり右手に持たせたそうです。

 撮影が終わってから、それを明かすご主人。結構な値段と聞き、怒り、笑う奥さん。

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 帰り際、自転車の練習を始めた次男君。

 この日、初めて補助なしで、町内を一周出来ました。

 取材や撮影が、家族の時別な一コマになってくれたら、尚嬉しいと思っています。
 
 明石家さんまも、ワイリーコヨーテの収集家だそうです。

 内弟子時代、師の笑福亭松之助から「どや、さんま。掃除はオモロイか」と問われ「面白くないです」と答えました。

 すると「そやろ。それをどうやったらオモロク出来るか、考えるのがお前の仕事や」と言われたそうです。

 明石家さんまは、この事を18歳の時に教えて貰えて良かったと語っていました。

 ありふれた日常を、特別なものにするのは、やはり楽しむ姿勢以外にありません。

1970年のこんにちは‐1252‐

梅が終わり、桃が咲き始めたら春の足音は更に大きく。

3月3日、今日は桃の節句です。

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日曜日は、万博公園にも寄りました。

過去、現在、未来を貫き、吹き上げるエネルギーを表現したのが太陽の塔。上部の顔が「未来」、中央が「現代」を表します。

この「現代」の顔は、セブンドリーマーズのグループ会社、スーパーレジン工業が、岡本太郎と共同で制作したものです。

岡本太郎はコンクリートで作ることを希望しましたが、技術的に難しいことが分かりました。

スーパーレジン工業が協力し、樹脂で作られることになったのです。レジンとは樹脂という意味。

太陽の塔は、アートと技術の結晶でした。

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開催時、丹下健三設計の大屋根の中に塔はありました。

しかし、その記憶の無い私には今の姿がしっくりきます。

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公園内に唯一現存するパビリオンは「鉄鋼館」。「EXPO’70パビリオン」として2010年にリニューアルオープンしています。

設計は、京都文化会館などで知られる前川國男。

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エントランス前には、エキスポタワーのパーツが展示されていました。

こちらは、メタボリズムの体現者、菊竹清訓の設計です。

1990年まで、登ることが出来たようで、行っていないことに悔いが残ります。

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「EXPO’70パビリオン」のホワイエは、前川らしい広い階段と、レンガで構成されています。

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当時、館内のスペースシアターでは、音楽と照明によるスペクタクルショーが繰り広げられていたそう。

この日は、小澤征爾の楽曲が流れていました。

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1970年頃と言えば、サイケ(サイケデリック)ブーム。

これが当時の最先端ファッションでした。

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館内のデザインも、当時の気分を反映するようリニューアルしたのでしょうか。

これは前川のデザインではないのは明らかですが。

万博は、芸術家、技術者、建築家、音楽家、そして来場者にとっても、華やかな表現の場だったのです。

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初めての著書を年末に出版するため、執筆も進めています。

自らの生い立ちに触れる際、1970年に生まれた事は、自分の人生に様々な影響を与えていると感じます。

70年代の高度経済成長期に幼少時代を過ごし、80年代後半のバブル経済とその破たんを体感。そして90年代に創業と、様々な時代の気分を見てきました。

1970年と言えば、戦後25年。この歳になり、ようやくその時間軸が理解できるようになりました。

敗戦後、1964年東京オリンピック、1970年万博と、先人の頑張りのお陰で、豊かな時代を過ごさせて貰っていたのです。

自分の意思や能力を片輪とするなら、もう片輪は環境、言い換えれば時代の気分です。この両輪がかみ合った時、初めて前に進めます。

いくらカーレーサーになりたくても、車がなければなれないからです。

万博のテーマ曲にある「1970年のこんにちは」という歌詞。作詞は島田陽子さんでした。

自分の為に時代があるはずもなく、「こんにちは」と私達がお邪魔している。人も時代の産物なのだと思います。

時代の気分を凍らせたものが建築なら、更に、遣り甲斐と責任を感じるのです。