104歳の最終講義‐1409‐

 最近の小学校は、8月下旬からから学校が始まります。

 エアコンが導入されたことが理由だそうです。

 私達が小学校の頃は土曜日も学校がありましたが、夏休みはとびきり長かったわけです。

 8月31日は、1年で最も憂鬱な日だったかもしれません。

 永住したい打ち放しのマンション「R GREY」ですが、明日から入居開始です。

 外構工事が若干残っており、工事も追い込み。

 最終日ギリギリですが、何とか間に合った感じです。

 完成前に2部屋が契約にいたりました。まだ4室空きがあるので、完成後、多くの人に見て貰いたいところです。

 『ニーマイヤー 104歳の最終講義』という本を読みました。

 オスカー・ニーマイヤーは2012年の12月に104歳で亡くなります。

 この本は、その年の1月から2月にかけてのインタビューで構成されています。

 彼は1956年から、新たな首都となるブラジリアの主要な建築物の多くを設計します。

 そのブラジリアは、1987年、近代都市ではじめて世界遺産に登録されました。

 その建築群の中から、ブラジル国立美術館が作品集の表紙になっていました。

 1988年に建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞も受賞しています。

 「私は『建築は重要ではない』と生涯繰り返し言い続けてきた。建築はきっかけである。重要なのは人々の日常の暮らしであり、人間である。建築は政治的な機能を持ち得るものだ。なぜならそれは、人と人の暮らし方に、大きく関わるものだから」

 建築は重要ではないのです。

 リオの裕福な過程に生れた彼は、若者へは以下のようなメッセージを残しました。

 格差社会の底辺に押しやられている、現代の若者たちよ。

 「自分たちで世の中は変えられる」という希望を決して捨ててはならない。

 大阪の片隅で、建築に関わるものとして、104歳の言葉は深く、鋭く突き刺さります。

 世界がいつまでも平和なのか、訝るような事件が次々とおこります。

 それらの首謀者に、ニーマイヤーの言葉は届かないのか。

 空想とはなにか。

 そう問われたら、私はこう答える。

  「空想とは、よりよい社会を探求する力である」と。

物創りにおける偉大な先人の言葉に、若者のように勇気をもらうのです。

水と日影を南国大阪に‐1408‐

 まだまだ厳しい残暑が続きます。

 土曜日の明け方、雨音で目が覚めました。雨が上がったあと外にでてみると肌寒いくらい。

 雨の力は凄いものです。

 天満橋あたりから中之島をみる景色は、大川越しで涼しげです。

 見た目だけでなく、水上を通る風は冷やされ、若干温度を下げています。

 北浜にある「SEIUNDO」。内装のデザインをさせてもらいました。

 2016年3月に完成しましたが、大川沿いの最新のオフィスビルの中にあります。
 
 北に川のある立地を活かし、ビル自体がその涼風を取り込もうというコンセプトで設計されているのです。

 楕円のカウンターを中心にすえ「隔てず、導き、繋ぐ」をコンセプトに設計しました。

 実際に川側窓からの風はかなり涼しいようで、結構な時期までエアコンを使っていないとのことでした。

 日本は南北に3500kmある国ですが、大阪なら北緯34度です。

 日差しが強いイメージのあるバルセロナで北緯43度。函館とほぼ同じ緯度なのです。

 北緯35度前後といえば、ヨーロッパ大陸を南下し、アフリカ大陸北端のモロッコあたり。もう南国の趣きです。

 ニューヨークは北緯40度、ロンドンにいたっては北緯55度。北緯45度の稚内よりはるかに北です。

 世界の大都市の多くは大阪、東京と比べるともっと北にあることが分かります。

 にもかかわらず、何とかこの気温で済んでいるのは、日本が海に囲まれた島国だからです。

 温暖化が進む中、海の気温も上がっていることを考えると、日本の都心部は、本気で夏の気温、日射対策をしなければなりません。
 
 建築にまず出来ることがあるとすれば、日影をつくることでしょうか。近年は特に重要なテーマとして取り組んできたつもりです。

 深すぎず、浅すぎず、価値ある美しい日影をつくりたいと思っているのです。

 「高台の家」は、各居室南に庇を設けました。

 「さかたファミリー歯科クリニック」は建物全体を庇で覆い、外壁にあたる光の量も軽減しました。

 庇と日影が主役の建物です。

 「R Grey」は、9月1日から入居が始まる賃貸住宅ですが、限られた開口部を最大限に活かせるよう考えました。

 緯度が決まると、夏至、冬至の南中高度が分かるため、庇の設計がより正確にできます。

 バルセロナで設計するなら、庇の位置を変えなければなりません。

 庇が開口部前に日影をつくり、その部分の気温を下げます。

 また、内部空間の床を温めないので、室内への熱負荷がかなり小さくすむのです。

 私の初期の仕事で、庇が無い建物があります。

 それが「R Grey」の隣に建つ「平野西の家」です。1階は当社のアトリエです。

 正面の大開口に対して、もっと日射の検討が必要だったと思います。

 この家は弟の家で、申し訳なく思うのですが、なにかしらの対策をしなければと思っています。

 光と風の導き方が、現代建築における要点あるのは間違いありません。

 元建築家協会会長の出江寛は作品の評論をする際「軒のない建築は駄目だ」と一刀両断だったといいます。

 必ずしも軒である必要はないと思いますが、現代建築において、その意味がなお強いものになってきたと実感するのです。

おもしろおかしく‐1407‐

 私のジョギングコースに、細長い公園があります。

 大阪市平野区には、以前チンチン電車が走っていました。

 西成区の今池と平野を結ぶ南海平野線です。

 1980年に開通した地下鉄谷町線が、ほぼ真下を走ることになり、廃線となりました。

 公園は終点の平野停留所跡です。

 平野は中世から綿の貿易で栄えた、環濠都市でした。

 神社仏閣も多く残りますが、今朝は地蔵盆の準備がなされていました。

 地蔵盆は街角にあるお地蔵さんにお供えをするもの。

 主に関西の風習のようですが、子供の安全を祈念します。

 平野も決して上品な街ではありませんが、辻地蔵があり、線香の香りの立つ風景は、やはりよいものです。

 暑い暑いといっているうちに8月24日。

 学生たちの夏休みも間もなく終わりです。

 現在、オープンデスクに3名の学生が参加しています。

 朝のミーティングでは、1日のスケジュール確認、そしてフィロソフィー勉強会にも参加してもらいます。

 勉強会といっても、皆のモチベーションを上げる時間なので、できるだけ分かりやすく、元気のでる話をするようにしているつもりです。

 社是が「おもしろおかしく」の堀場製作所。2015年になくなった創業者・堀場雅夫さんはこういいました。

「成功の道は、おもしろい仕事をするか、おもしろく仕事をするか」

 まさに至言です。

 「おもしろい」は心で感じることなので、多分に本人の意思に影響をうけます。しかしこう続きます。

 「人間は好きな仕事なら2、3日寝なくとも平気だが、イヤな仕事なら1、2時間でダメになる。どちらが効率が上がるかは自明の理。そういう状態に労働者を置くのが経営者の役割」

 「おもしろおかしく」社員が働いていないなら、それは経営者の責任だということなのです。

 30歳の時なら「そんな殺生な」といったと思いますが、やはりその通りなのだと思います。

 まずは、どんなことでもリーダーが楽しもう、面白がろうとすることだ大切なのだと思います。親が楽しそうに掃除をしていたら、子供は掃除機を奪い合うかもしれません。

 仕事も同じです。

 最後は、ビートたけしも敬愛した、指パッチンで知られたあのひとの言葉で締めたいと思います。

 ドーランの 下に涙の 喜劇人 
 - ポール 牧 - コメディアン

狂気の行くさき‐1406‐

 先日島根をまわった際、出雲大社も訪ねました。

 前回訪れたのが2013年の11月

 拝殿の西に位置する「庁の舎(ちょうのや)」を初めてみました。

 過去に見たことはあったはずですが、初めて菊竹清訓という建築家を意識してみたというほうが正確です。

 神在月に多くの参拝客が訪れる中、夢中でシャッターをきりました。

 子供達にも見せておきたいと思ったのですが、この3月に解体が終わっていました。

 様々な団体から、保存を呼びかける運動があったのですが、叶わなかったようです。

 右奥に拝殿の屋根が見えるので、前回もこの辺りから撮影したことになります。

 今回の島根行きでは、宍道湖湖畔にある県立美術館にも立ち寄ってきました。

 菊竹清訓の設計で、1999年の開館です。

 有機的な平面に大屋根がかかり、展望テラスが穿たれています。

 西に位置する宍道湖に対してガラスの大開口が開き、沈む夕日が見られるのでしょう。

 晴れた日にもう一度訪れてみたいものです。

 屋根の構成は、2014年の夏に訪れた九州国立博物館に似ています。

 上階にいくにしたがって、小さくなる平面を大屋根が一体の空間にまとめているのです。

 初めて菊竹作品を訪ねたのは2009年の3月

 1958年完成の自邸「スカイハウス」。

 軽やかに持ち上げられた上階に、家族の変化にしたがって下階にユニットをつけ加えていくというコンセプトです。

 近代建築におけるエポックメイキングとなりました。

 吉野ヶ里歴史公園センターは2000年の作品。

 2015年の9月に訪れましたがその大屋根の存在感は際立っていました。

 その際に、小倉の北九州メディアドームへも足を運びました。

 1998年の作品です。

 「スカイハウス」、「庁の舎(ちょうのや)」で、菊竹の狂気に魅せられ、菊竹詣でを始めたのです。

 出雲大社では建て替えに至ったの経緯についてのパネルが張りだされていました。

・雨漏りによって銅板で屋根を葺きなおした。
・漏水により地下室は水浸し。
・斜壁に無数の亀裂。
・雨漏りのため柱内に樋をとりつけた。
・斜壁の柱から毎日無数に白い粉が落ちてくる。
・それゆえ、宝物殿を別に建てることになり、多額の経費が必要になった。

 内容は非難一辺倒でした。

 その宝物殿も菊竹の設計です。

 「庁の舎」の雨漏りによるこの惨状は疑いようもありません。

 2013年に訪れた際も、前日に少し降った雨が、まだにじんでいました。

 この建物は第15回日本建築学会賞作品賞を受賞しています。

 建築は人類の幸せの為にあるものなので、クライアントからすればこの建築は失格です。

 この結果に対して、弁解の余地はありません。

 狂気の行く先に、幸せはありませんでした。

 しかし、誤解を恐れずいえば、これを芸術と解釈するなら、違った選択があったかもしれません。

 先日、北大路魯山人を女優・樹木希林が語る番組をみました。

 魯山人は稀代の芸術家でありながら、美に厳しすぎたがゆえ他者との確執も絶えなかったといいます。

 彼女はこんなことをいっています。

 持って生まれたほころびを、修繕しながら生きているという感じがする。

 70歳をすぎ、なおそう思うようになったという彼女は左目を失明し、全身に転移する癌ともたたかっているといいます。彼女にすれば共生しているのかもしれませんが。

 以下は魯山人の言葉です。

 途方もない考えがなくては、途方もない結果はない。

 狂気は諸刃の刃です。しかし、私が菊竹、魯山人に惹かれるところがあるのは事実なのです。

座辺師友、環境こそが師‐1405‐

  京都へ行く際は、阪急電車にかぎります。

 他の電車より、景色とシートが京都気分を盛り上げてくれるのです。

 どのくらいの人が賛同してくれるでしょうか。

 京都現代美術館で、9月24日まで「北大路魯山人展」が開催されています。

 この美術館は何必館(かひつん)といい、館長が「何ぞ必ずしも」と定説を常に疑う自由な精神を持ち続けたいと名付けたそうです。

 ちらと寄ってきました。

 少し東へ行けば八坂神社。

 すぐ南には祇園、花見小路。

 京都の真ん中に、こんな美術館があったとは知りませんでした。

 朝一番に訪れたのですが、京都の夏は暑い。

 しかし、浴衣姿の女性が多いのは目にも涼やかです。

 北大路魯山人は、1983年、京都上賀茂神社の社家に生れました。

 陶芸家、書家、篆刻家、そして美食家。

 漫画「美味しんぼ」に登場する海原雄山のモデルとされています。その批評は極めて鋭いがゆえ、敵も多かったようです。

 以下は、何必館館長のことばです。

 傲慢、不遜、非常識と、生前の魯山人を知る人々は激しく罵る。彼の美における断罪の激しさは、そこに徹底した純粋さを求めるがゆえの、無邪気とさえいえる優しさの表現だった。

 魯山人の作品を、一度にこれだけ見たのは今回が初めて。

 特に焼き物は、彼の多彩さが一目でみれとれます。

 織部、備前、志野、青磁、楽焼となんでもありに見えますが、いずれも遊び心があり、対象となるものが映えるだろうと思います。

 何と表現すればよいのか、こちらが感情移入する余白を残していると感じます。例えるなら、古典音楽と流行歌の違いのような。

 白洲正子の著書「ものを創る」にはこうありました。

 結局、魯山人の芸術の特徴は、その素人的な所にあったと思います。素人というと、誤解を招くおそれがありますが、技巧におぼれず、物のはじめの姿というものを、大づかみにとらえていた。

 物を見る(うぶ)な眼と、職人の(熟練した)手というものは、中々両立しないものですが、その両方を備えていたといえましょう。

 写真撮影は禁止でしたが、館を出て扉越しに1枚撮ってみました。

 織部と備前の花瓶です。

 織部は鮮やかな緑に大胆な造形、備前は控えめに色つけがなされていました。

 魯山人は、身の回りに優れた美術品を常に置き、自らの眼を鍛え、先人の工夫を必至に学んだといいます。

 身の回りの環境によって人は作られるという考えを、座辺師友(ざへんしゆう)という言葉で表しました。

 魯山人がそうしたように、できれば身の回りの全てのものを自分が納得するものだけに囲まれて暮らしたいものです。

 「城陽の家」のクライアントは、気に入ったテーブルを買えるお金が貯まるまで、地べたの食事もいとわないといいました。

 納得できる机を買ったのは、竣工から2年程経った頃だったでしょうか。

 座辺師友。

 こういった言葉を、特別なことだと思わないようにしたいものです。

 夏の京都。

 路地の影が、人を誘います。

 しかし、館をでるころにはこの人出。

 行くなら朝一番に限ります。

みんな寝ている松江、まずは自分が頑張れ<行ってはいるが島根編>‐1404‐

 今日、8月14日(月)は杜の都・仙台に。

 居るはずでした。

 あるプロジェクトのスケジュールがよめず、夏季休暇の予定は全てキャンセル。
 
 47都道府県を制覇するつもりだったのですが、目標は持ち越しです。

 それもあって、今朝は早起きして全米プロゴルフ選手権を観ました。

 松山英樹25歳。最終日の後半を単独首位で折り返しました。

 観ているだけでも力がはいります。しかし、最終的には3打差の5位でホールアウト。

 メジャータイトルへは僅かに届きませんでした。

 1日位はどこかへ連れていこうと、11日の山の日は島根へ行ってきました。

 通過はしているが、子供の記憶に残っていない県の1つでした。

 宝塚トンネルの渋滞を避けるため、朝の4時半に出発しましたが、この時間でギリギリ。

 米子道からみる大山は「伯耆富士(ほうきふじ)」にふさわしいたたずまい。

 この日は雨予報で、晴れは早朝まででしたが。

 400km弱走って10時頃に石見銀山(いわみぎんざん)に到着。

 2007年に世界遺産に登録された文化遺産で、江戸情緒を残す街並みも一緒に指定されています。

 車の立ち入りが制限されているので、自転車を借りました。

 豊島に行ったときは娘の身長がたらずで、電動自転車が借りられませんでした。

 へそを曲げてしまい大変だったのですが、今回は雪辱戦です。 身長130cmくらいが分岐点になるよう。

 石見銀山は16世紀半ばから17世紀前半の最盛期には、世界中で産出される銀の3分の1を産出しました。

 日本における銀のかなりの割合を占めたのですが、大変質が高く石見銀山の所在する佐摩村(さまむら)にちなんでソーマ銀と呼ばれました。

 龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)は中に入ることができます。

 こちらは精錬所跡。

 世界遺産に子供は大概興味がないもの。

 花より団子です。

 緑の中、茶店の縁側で一服しました。

 このあたりは、淡路瓦、三州瓦とならぶ瓦の産地です。

 石州瓦は赤茶色が特徴で、同じ色の屋根が続く街並みはとても美しいのです。

 石州は石見の石から来ているのかもしれません。

 昼食は名物、出雲(割子)蕎麦になりました。

 石見銀山から出雲大社まで、東に50kmほど移動します。

 雨が本降りになってきました。

 前回来たのが2013年の11月。

 式年遷宮の年で大しめ縄も新調したてでした。

 中でも「菊竹の狂気‐1011‐」として拝殿西にある「庁の舎(ちょうのや)」を取り上げました。

 子供にも、この建物は見せたいと思っていたのですが……ない。

 保存運動をしていたことは知っていましたが、解体が終わっていたとは全く知りませんでした。

 通りがかりの神官に聞いてみると「この状態になったのは今年の3月頃だったでしょうか」と。

 残念。

 この件については回を改めて書こうと思います。

 なにかすっきりしないまま、更に東へ50km移動。

 松江は、宍道湖の東に広がる城下町です。

 水都といわれるだけあり、水のある景色が美しい街でした。

 宍道湖湖畔に建つ島根県立美術館。

 当の菊竹清訓の設計です。

 松江は雨、曇りが多いことでも知られますが、それを逆手にとって、市はこんなアピールをしています。

 松江に降る雨は、縁雫(えにしずく)といって、あなたのもとへ素敵なご縁を運ぶ雨なのです

 縁雫に打たれながら堀川めぐりの船に、と思っていたのですが、私以外の3人は本気睡眠モードで、全く起きる気配なし。

 ここまでやってきて、1人で街をめぐることになりました。

 まあ、朝の4時起きだったので仕方がありませんが。

 子供とは、夜10時までに妻の実家へ送る約束をしていたので、夕食は車の中で済ませることになってしまいました。

 残念ながらコンビニおにぎり。

 「宍道湖七珍」は、鱸(すずき)、モロゲエビ、うなぎ、アマサギ、白魚、鯉、しじみと7種の魚介類のこと。頭文字をとって「スモウアシコシ」というそう。せめて鱸だけでも食したかった……

 次回は七珍に必ずありつきたいと思います。

 「人を感動させるもの」を芸術の定義とするなら、トッププロの試合はまさにアートです。そして観るものに力を与えます。

 これは建築も同じはず。

 そこを目指して、日々を頑張るしかありません。

 現在の結果は、昨日までの全行動の結果です。

 未来を信じて、また今日を頑張るしかありません。松山頑張れ。でも、まずは自分が頑張れです。

 
<目指せ、家族で47都道府県制覇>
46/47 【】はまだ

北海道

青森 岩手 【宮城】 秋田  山形 福島

茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川

新潟県 富山 石川 福井 山梨 長野 岐阜 静岡 愛知

三重 滋賀 京都 大阪 兵庫 奈良 和歌山

鳥取 島根 岡山 広島 山口

徳島 香川 愛媛 高知

福岡 佐賀 長崎 熊本 大分 宮崎 鹿児島

沖縄

天使の顔、鬼の顔でやってくる‐1403‐

 昨日は、昼から車で京都へ。

 上京区で「山本合同事務所」の打合せでした。

 建方が終わっている予定でこの日に設定したのですが、若干工事は遅れ気味。

 躯体は次回の楽しみにしておきます。

 この計画は、中央に緑をもってくるというテーマがありますが、このハードルは決して低くはありません。

 クライアントとの打合せは、気が付けば3時間が経っていました。

 今日は「R Grey」の完了検査でした。

 現場は当社の隣。

 マンションの設計は久し振りだったのですが、問題なくクリア。

 9月の入居開始を待つのみとなりました。

 不動産会社の担当者も、「閲覧数はかなり多いです」とのこと。

 早く満室になればいうことなしなのですが。

 先週から、2人の学生がオープンデスクに参加しています。

また、このあとも3名を受け入れることになっています。どちらの打合せにも彼らを連れていきました。

実仕事の現場をみることが、何かしらの助けになるはずです。

 奥の彼は、ちょっと変わった機能をもつ住宅の模型を担当。

 こちらの建物は色にもテーマがあります。

 手前の彼は、少し大きなプロジェクトの模型を担当してもらっています。

 2人とも積極的に動けるタイプで、どんどん模型も進んでいるのです。

 このあと3名を受け入れると書きましたが、本当は4名を受け入れる予定でした。

 ある学校からのオープンデスク生は、参加前に電話をかけてきます。

 出勤日や、服装を確認する電話なのですが、1人の男の子は、当社のwebサイトを見ていないといいます。

 「オープンデスク」のページがあり、そこに申込の条件、要項をUPしているのです。

 全く要領をえないので「模型をつくるにもCADが使えなければ、できることがないので、研修前までに習得してきて」というと、まだ習っていませんと。

 設計事務所においてのCADは、鉛筆のようなもの。使えなければ文字が書けないのと同じです。

 「出来るだけ頑張って勉強してきて」と伝え、電話を切ったのです。

 するとその後、学校の先生から「ある学生は受け入れてもらい、ある学生は受け入れてもらえないのはなぜでしょうか」という電話がありました。

 学校では平等であることに価値があるのかもしれませんが、実社会はそうではありません。

 どうしても当社で勉強したいという学生には、出来る限りの機会を設けますが、口をあけてまっているだけの学生はお断りです。

 また、本当に学生の未来を思うなら、私を非難する前に、なぜこうなったかを反省させるべきです。

 悪魔は天使の顔をして近付いてきます。

 天使は鬼の顔をして近付いてくるのです。

 私が天使だとは言いませんが、その場しのぎの大人が多すぎると思うのです。

日本一の境地なり‐1402‐

 台風5号は、今日の夕方にも和歌山に上陸するようです。

 今日と打って変わって、昨日は1日よい天気でした。

 夏休みにはいり、退屈そうにしている娘が海遊館へいきたいと。

 夕方から出掛けたのですが、それなりの込み具合でした。

 おきまりのスタンプラリーも完成です。

 天保山界隈にも「大阪港開港150年」のフラッグがあちこちに上がっています。

 そのスタンプラリーもあるようで、回ってきました。

 まずは天保山・築港エリアで3ヵ所。

 うちの1つは築港赤レンガ倉庫です。

 新聞でクラッシックカーミュージアムが人気という記事を読みました。

 各地に赤レンガ倉庫は沢山あります。

 大阪も150年の歴史を誇る港町。当然このような場所もある訳です。

 すぐ近くには名門、井桁マークのついた赤レンガ倉庫。

 この古びた感が、何とも歴史を感じさせるのです。

 天保山エリアをクリアしたら、今度は川口エリア。

 こちらも3ヵ所あり、地下鉄阿波座駅周辺です。

 開港と同時に、外国人居留地として発展したのが川口です。

 大阪の近代化はここから始まりました。

 函館、横浜、神戸、長崎の居留地は訪れましたがここは初めて。意外に知らないものです。

 川口基督教会は1920年の建築。

 居留地時代の面影を残しています。

 最後のポイントは中之島漁港

 大阪中央卸売市場の南にあり、「港と街を直接つなぐ鮮魚取引所」とあります。

 魚介類を買ったり、その場で食べることができる、新しい漁港を目指す民間企業のよう。

 スタンプラリーの最後としては、ややしまらない感もありますが、食事処としては面白そうな施設でした。

 地名としては、 室町時代に石山本願寺を建てた蓮如上人の文章に「大坂」とでてくるのが初めと大阪市のwebサイトにあります。

 当時の文献には「大坂」とも「小坂」ともあり、いずれも「オサカ」と発音されていました。

 現在の大阪城が建つ位置にあった、石山本願寺をどうしても欲しかったのが信長です。

 本願寺法主、顕如と激しく戦いを繰り広げたのですが、あの信長が退けられ続けました。それほどまでに、石山本願寺の立地が素晴らしかったのです。

 信長はこういっています。

 大坂は凡そ日本一の境地なり

 最終的に、秀吉によって大坂城は築かれました。そして、安土桃山時代から、昭和初期までの大大阪へと繁栄は続くのです。

 八百八橋を誇るとおり、水運によって栄えた街なので、海、川とは切っても切り離せません。

 自動車、飛行機の発展で、水運への依存度も変わってきました。それでも、港町ということばに、ある種のノスタルジーを感じます。

 港街大阪。街にも色々な側面があるものです。

 反対に言えば、人にしろ街にしろ、1つのイメージで片付けようとしていないのだろうかとも思うのです。

縁のあるなし‐1401‐

 8月にはいりました。英語ならAugust。

 カレンダーの真ん中にアウグスティヌス帝が割りこんで来た話は以前書きました。

 先月のことですが、阪神電車の淀川駅へ。

 この駅は、その名前の通り淀川のすぐ南にあります。

 梅田へ向かって、大きくカーブしはじめるところに駅があり、ホームがかなり傾いているのです。

 写真ではもうひとつ伝わりませんが、びっくりするくらい傾いています。

 設計のオファーをもらったのですが、ある事情で建物が建てられないことが分かりました。

 それを報告に行ったのです。残念ながらご縁がなかったということでしょうか。

 何年前だったか、homifyという会社から国際電話がありました。

 「建築や、インテリアの作品を集めたwebサイトなのですが、御社のページをつくってもらえませんか」とのこと。

 メールも電話も丁寧だったので、早速アトリエmのページをつくりました。

 ドイツが本社のようですが、時々特集記事を書いてくれ、とても良い扱いをしてくれるのです。

 先日は、19年前に竣工した「白馬の山小屋」まで特集記事で取り上げてくれました。

 その他、「松虫の長屋」「長田の家」「紫竹の家」「イタウバハウス」「高台の家」UPした作品は概ね記事にしてもらっています。

 ローコストの家20選!では、「細工谷の家」「城陽の家」「イタウバハウス」「柏の家」の4つが選ばれていました。

 あまりローコスト、ローコストと言われると、クライアントも私も微妙な感じですが。

 また「houzz」はアメリカ発のサイトで、こちらも数年前にリクエストがきたので、ページを作成しました。

 先日みてみると「遠里小野の家」のクライアントが、コメントを書き込んでくれています。

 床や壁の色はこだわった所ですが、一つ一つに納得のいく方向性で進んだので、数年たった今でも気に入っています。
 両親や兄弟などを時々招いて食事をしたり、楽しい時間を過ごすこともできました。
 表札のデザイン、階段の手すりの位置や手触り、四角い可愛いライト、洗濯室の天窓から見える空、細かいところで改めて「いいな」と思えるのは選ばれたデザインだからこそのものと思います。

 それもあってか、このサイトも扱いが結構上になっていました。

 私は本当にクライアントに恵まれていると思います。

 少しでも多くの人に、私達の物語を知ってもらいたいと思い、何人かのクライアントに「もしよければコメントを」とお願いしてみました。

 「柏の家」のクライアントも書き込みをしれくれたのです。

「柏の家」の設計をしていただきました。
「家を建てよう!」と思い立った時、一生に一度、世紀の買い物だったので色々情報を集めました。
何人ものハウスメーカーの方、建築家の方とお話をさせてもらいましたが予算が少ないこともあり皆さんから「妥協が必要」ということをダイレクトに、遠回しに言われました。
そんな時偶然守谷さんを紹介するサイトを見つけそこには
「夢を叶えましょう」
と書かれていて…
「この建築家さんにお願いしてみたい」
衝動にかられ早速電話をかけ、大阪まで会いに行きました。
とはいえ半信半疑です。
守谷さんは大阪、こちらは千葉。
まともに話を聞いてもらえるのだろうかという不安を抱えての出発です。
実際にお会いして家を建てるにあたっての条件、希望を伝えました。
(受けてもらえるのだろうか?)
不安をよそにあっけないくらい我が家家づくりの仕事を引き受けていただけることになりました。

ここからが本番です。
限られた予算であることは重々承知しているのでメリハリをつけた家づくりを進めていこうと決心はしていたものの所々で
「やっぱりここはこうしたい」
という欲がでてきます。
その都度守谷さんが持たれている引き出しの中から
「じゃあこうしましょうか」
というアイディアを引っ張り出して提案をしていただきました。
家の正面をサッカークラブ、リヴァプールのホームスタジアムの外観を模したものにしたいという希望を叶えていただきバルコニーの床をグレーチングにすることで一階にも光が当たるようにもなっています。
最終的にロフトもバルコニーにに続くお風呂も実現し全てのドアを引き戸にすることで限られたスペースを有効活用することもできました。

二階に寝転がりこの家に住めて本当に幸せだなあと思いながら高い天井を眺めています。

「柏の家」のクライアントは、初来阪の際は千葉から車でみえました。

 随分盛り上がった打合せのあと、再び車で帰っていかれたのですが、6時間前後はかかるでしょうか。

 名神、東名と乗り継ぎ、間もなく東京というあたりで、エンジンの様子がおかしいことに気付いたそうです。

 ちょうど整備に出したあとで、整備士がエンジンオイルのキャップをし忘れていたそうです。

 異変を感じ、サービスエリアに寄ったことで何とか大事故にならずに済みました。

 それらを含めて、全てが家創りの物語なのです。

 一生に一度、世紀の大事業に立ち会わせて貰う。

 まさに「縁」としか言いようのない大きな後押しが無ければ、計画が前に進むことはありません。

 しかし、存在を示していなければ、知って貰えなければ、良縁がやってくることありません。小さな存在ですが、声をあげ続けたいと思うのです。

 8月が来たということはひとつ歳を重ねたということで、47歳になりました。

 何があっても絶対シナない、くじけない47歳を目指します。