神宮式年遷宮、お伊勢参り

 友人がエクシブをとってくれました。

 宣伝の写真みたいになっていますが。

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 朝、海沿いをジョギングしていると、あちこちから煙が上がっていました。

 流石漁師の街ですが、煙をみるのも久しぶりです。煙が上がらないの見て、民の貧困を嘆いた詩がありました。

 火が生きる証なのだと、理解できます。

 昨日はまず、みえ子供の城へ。

 私としては、海の博物館へ行きたい気持ちもありますが、子供の要望にも応えなければと。

 丁度イベントがあったようで、屋台も出ていました。

 わたがしが100円。

 一応満足してくれたので、伊勢神宮へ。鎮座2000年、日本最高位の神社です。

 この秋には、20年に一度の神宮式年遷宮を迎えることもあり、凄い人出でした。

 急がば回れの法則で、2km地点までたどり着きました。しかしここまで。車を妻に託し、子供と徒歩で目指すことに。

 秋に備え、着々と準備が進んでいるのが解ります。

 木造建築の粋を集めた美しさは、巨匠ブルーノ・タウトも絶賛しました。

 彼は、桂離宮、飛騨高山の建築も称賛しており、日本人以上に日本の建築を愛した建築家です。

 時代が時代なら、一生に一度のお伊勢参り。

 社殿は撮影不可で、現在もその神秘性は保たれています。

 木々の隙間から見える屋根が光を受け、黄金のように輝いていました。刺激の多すぎる時代が果たして幸せなのかどうか。

マルモッタンの思い出

 「美の巨人たち」という番組を、毎週録画しています。

 今月初め、クロード・モネが取り上げられていました。「サン・ラザール駅」や「睡蓮」の連作へ至るまでがクローズアップされていましたが、私にとってはやはり「印象・日の出」です。

 大学生の頃、「ラ ミューズ」という雑誌が発刊されました。

 50回で完結するシリーズ本でした。続いて発売された「グレート・アーティスト」は100週で完結。どちらも全巻買い、今も事務所の本棚にあります。

 美術書と言えば分厚く、高価なものでしたが、これらの本は500円。週刊誌のように読みやすい構成で、発売を楽しみにしていたものです。

 作家の友人が「日本では<印象派>と言う文字が入っていないと、お客さんが来ないと言っていました。

 絵画展では、日本でも圧倒的な人気を誇ります。その始まりとなったのがモネの「印象・日の出」。

 「ラ ミューズ17」マルモッタン美術館 PARIS の6、7ページです。

 初めての海外旅行はパリでした。1年で設計事務所をクビになり、その失業保険が30万円ほどでました。即、フランスへ。

 まずはル・コルビュジエ設計の「ロンシャンの教会」を見るのが目的でした。

 しかし同じくらい、ルーブル、オルセー等の美術館で本物が見たかったのです。「印象・日の出」は最も楽しみにしていました。

 1874年、故郷ル・アーブルの港町を描いたこの絵には「日の出」という名前が付けられていました。

 それではあまりにも素っ気なさ過ぎると言う声に、モネは「じゃあ『印象』と付け加えてくれ」と答えます。彼が34歳の時です。

 この作品が、評価をされはじめたのはおよそ100年後。それまでは、酷評され、買い手が破産し、女性問題を引き起こし、あげくの果てに1985年には盗まれます。

 しかし、あまりにも有名すぎ、買い手がつかず、5年後にこの美術館に戻って来るのです。そんな絵を実際に見てみたい。

 24歳の私が、実際その絵の前に立った時、何を感じたか。全くもって記憶がないのです。印象の印象がない……

 覚えていないというより、舞い上がっていたと言うのが正確かもしれません。思い出のマルモッタン。是非また訪れたいと思います。2回目は落ち着いて見れるはず。 

祝いの言葉は3分で

  昨日、大学時代の後輩が結婚しました。

  昨年の9月にその報告を受け翌10月に奥さんを紹介して貰いました

 可愛い後輩の結婚ですから、いい式に決まっているのですが、それを差し引いても楽しい式でした。

  会場のフォーチューンガーデン京都は、元島津製作所の本社ビルで、武田五一の設計です。建物も良かった。

 9月の段階でスピーチをお願いするかも、と言われていました。妻に聞いても、弟に聞いても、スピーチは3分位がいいと。どう考えても10分は掛かるのです。

  ケーキ入刀、乾杯、と進み私の順番に。

  行きの電車の中で5分までは縮めたつもりでした。

 弟も出席していたので、後で聞くと8分掛かったそうです。

 飽きはしなかったとの事だったので、まあ良かったとしておきます。

 ホッとしたのもつかの間。大学を出て約20年。スキー部は未だに体育会でした。

 先輩らに、ワインまで「一気」で飲まされ、卓上で寝だす後輩も続出。私も式終盤の記憶がほとんどありません。

  気が付いたのは深夜2時、ホテルのベッドの上でした。財布、手帳、携帯電話などが入ったバッグは全て会場に置いたまま。手持ちの荷物は一切なし。

 月曜日は午前中から打合せがあり、朝一番の電車で大阪に戻らなければなりません。さあどうしたものかと。

  スーツのポケットを探ってみると「御車代」と書いた封筒が。お礼を貰っていたようです。

 これを電車代にあて、今朝京都から大阪に戻ったのです。スピーチは「人生ほど素敵なショーはない」という歌もあります……というくだりで結びました。

 その言葉に偽りはありません。人生ほど素晴らしいものはありません。

 結婚おめでとう。2人の幸せを心から願っています。

すぐにモノを大切に出来る方法

 今週月曜日は、滋賀のほうへ打合せへ行っていました。

 桜は散っていましたが、小ぶりな花が満開でした。何の樹かは分からなかったのですが。

 日曜日に居た長野では桜が丁度満開。中央道の高遠ICあたりは、両サイドを桜が埋めつくし、素晴らしい景色でした。
 
 日本は四季折々景気を、街ごとに持っている街だと感じます。

 当事務所の前にはいつも数台自転車が止まっています。これらはスタッフのもの。

 体の為、環境の為、経済の為……自転車は一石三鳥です。
 
 またこの時期の自転車は気持ち良いものです。

 自身の給料から交通費を払ってという選択もあるのですが、自分で事務所の近くまで引っ越して来たのです。

 建築家・安藤忠雄の事務所では、基本備品はないと聞きました。仕事道具は少ない給料の中から(想像ですが)悩んで買い、長く大切に使うもの、という考えなのです。

 私も出来るだけ事務所で準備してあげようという考えはやめました。それは、スタッフを思っているようで、結局自分がどう思われるかや、一般世間ではどうなっているかを気にしているのでは、と思ったからです。

 物を大切にして下さい、と言わずとも、自分のお金で、悩みに悩んで選んだシャーペンなら、大切にするに決まっています。それは、彼らのバイタリティーを育むことにもなります。

 また、大工の棟梁が、弟子に自分のカンナを貸すことはありません。大切にしなさい、と言っている状況に問題があるのでは、と思えてきたのです。

 私も自転車通勤です。17年前事務所設の際に買った無印良品の自転車です。

 大切に、といってもそろそろ新しい、人前に乗って行きたくなる自転車が欲しいのです……

腹はくくれているか

 土曜日の朝方、長野道を走っていると妻からメールが。

 「今強い地震きましたが、大丈夫です。びっくりした……」

 ひとまず普段通りの日常が始まった聞き、ほっとしました。

 朝方の地震はどうしても、阪神淡路大震災の朝を思い出してしまいます。

 私は奥志賀高原へ向う途中でした。昨年に続きiceteeの試合に出場するためです。

 昨年は家族全員で来たのですが、今年は長男と父の3人でした。娘は従妹と体操教室へ行くほうがいいと。

 子供が大きくなるにつて、親の意見は弱くなっていくのだなと。特に父親は。まあ、それも成長なのだと思いますが。

 20代の頃、冬になると毎週のように、試合に、練習に行っていました。

 学生の頃に達成できなかった、国体出場の夢を捨てきれ無かったのです。

 久し振りに試合へでても、すぐに熱いものが蘇ってきます。蘇ってくるのは気持ちだけですが、それもでも言い訳無用のレースは最高に楽しいものなのです。

 今日はスタッフ2人と滋賀へ行っていましたが、帰りの車で、1995年1月17日の朝の話をしました。

 東京の友人から「阪神高速が倒れてるけど、大丈夫か?」という電話が掛かってきました。しかしその時思ったのは「毎日遅いんだから、頼むから寝させてくれ」でした。心配して電話を掛けてきてくれたにも関わらず。

 また、地下鉄が動いていないと聞き「もしかして、仕事が休みになるかも」と思ったのです。本当に恥ずかしい、罰当たりな社会人1年生でした。

 幸せな仕事人生を送りたいなら、好きな事を仕事にするか、仕事を好きになるか、しかありません。好きこそものの上手なれで、好きなら努力しているとさえ思わないものです。

 自戒の念も込めてスタッフに問います。腹はくくれているのかと。

情熱は足りているか

 新年度が始まり、2人の若者が入所試験中です。

 うち一人は敷地模型を制作中。 

 これがなかなか珍しい敷地で、行ったり戻ったりしながら、ようやく形になってきました。

 サッカー選手、本田圭祐はテレビ番組でこう言っていました。
  
 自分を信じるというのは希望そのもの。どんな困難でもポジティブにとらえる。そう考える技術、習慣を身につけたい。そしてうまく行かない時、自分に問う。情熱は足りているか、と。
 
 25、6歳というアスリートとして最高の年代に怪我をし、ジレンマもあるでしょう。また所属クラブとの問題も聞こえてきます。その中でも、あくまで、あくまで前向きに。素晴らしい若者です。

 また、経営コンサルタントの石原明氏がメルマガでこんな事を書いていました。

 人間の成長は、繰返し行うことからしか生まれない。ほとんどの人は、仕事ができるようになると、それが簡単なことに思えるようになり、自然と手を抜き始める。結果、知らないうちに自分のレベルを下げる。

 プロフェッショナルな人は、1回1回がとても大事であることをよく理解している。なぜなら、お客さんにとっては、それが初めてのことだから。

 プロとは、何百回何千回繰り返そうが、飽きることなく全力を傾けてやり続けられる人のこと。

 若いスタッフ達へ、そんな姿をいつも見せれれば良いのですが、現実はそんなに甘くありません。良い結果が出ても、そうでなくても、学び、努力する他ありません。 

 改めて自分に問います。情熱は足りているのか、と。

こっそり見て、さっさと忘れる

 「機動戦士ガンダム」が始まったのは私が小学3年の時。1979年のことです。夕方の放送に急ぎました。

 ♪燃え上がれ~ 燃え上がれ~ 燃え上がれガンダム~♪

 オープニングの音楽は、すぐ耳に蘇ってきます。特別のファンだった訳ではありませんが、子供達はみな敏感に反応していたと思います。

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そのメカデザインをしたのが大河原邦男。「超大河原邦男展」に行ってきました。

 1947年生れ65歳。

 東京造形大卒業後、大手アパレルメーカーを経て1972年タツノコプロ入社。

 「科学忍者隊ガッチャマン」で初めてメカのデザインを担当し、以後メカデザイン専門に。「タイムボカンシリーズ ヤッターマン」(1977年)他。フリーになってからメカデザインを担当したのが「機動戦士ガンダム」です。

 会場は兵庫県立美術館。安藤忠雄の設計です。

 エントランスの打ち放しの壁に、大きく描かれたザク。この2月、新聞でのインタビューにこんな話が載っていました。

 主人公、アムロ・レイが操縦するモビルスーツが「ガンダム」です。これは模型にして発売するため、スポンサーの玩具メーカーの意向に沿ったデザインにする必要があった。

 しかし、敵メカの「ザク」はその予定がなかったので、自由にデザイン出来た。また、そのデザインは、前職のアパレルメーカーの研修中に、背広のデザインばかり描き続けていたからこそ出てきたデザインだった。

 ガンダムなど、地球連邦軍のメカは第二次世界大戦のアメリカ軍を、一方ザクなど敵役のジオン軍はドイツ軍をイメージしてデザインしており、いずれも、監督の富野由悠季の要求に応じながら描いたもの。

 更にメカデザインを追求していった結果生れたのが「装甲騎兵ボトムズ」(1983年)のスコープドッグ。

 こちらは鉄鋼アーティスト・倉田光吾郎が1/1スケールの実物?を制作、展示されています。

 また映画「機動戦士ガンダムⅡ 哀・戦士編」のポスター原画は、感激しました。

 何に感動したかと言うと「本当に人の手で描かれているんだ」という事なのだと思います。

 後にガンダムは伝説的アニメとなるのですが、放送する側の期待通りではなかったようです。

 視聴率の低さゆえ、放送期間は予定より短縮。このあたりの時間的誤差は興味深いものがあります。

 また、当事者(ターゲット)とも言える私達は何を思っていたのか。

 正確には覚えていませんが、それまでに観たアニメとは違うものを感じていました。 子供向けアニメには有り得なかった、狂気のようなものが描かれていたり、戦争によって生まれた孤児や、大人の恋愛感情に至るまでが正確?に描かれていました。

 良い意味でも、悪い意味でも「観る相手が子供だから」という部分は希薄でした。これはのちに、総監督の富野由悠季氏のインタビューを見て瓦解しました。

 「アニメや漫画は、子供が親に隠れてこっそり見るものであり、大人になればアニメはさっさと忘れなさい」

 私が描いていたアニメ監督とは、似ても似つかぬ人物像でした。創った本人はさっさと忘れなさいと言うが、ドム、ズゴック、グフと名前が出てくる私達はどうすれば良いのか。

 受験勉強をしているような顔し、色々な本を読みました。また、家族揃って恋愛映画を観るのはあまり健全とは言えません。

 こっそり見るものが大切なのは間違いなさそうです。

髭文字とオダサク

 急な話ですが、本日1:00pmから3:00pmまで、本町のLIXIL大阪水廻りショールームで「設計相談会」に参加します。良ければ遊びに来て下さい。

 春が訪れ、夜の心斎橋にも活気が感じられます。

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 大丸南館は、ウィリアム・メルレ・ヴォーリズ設計の、優美な近代建築。

 しかし夜撮ると、ロゴの存在が際だっています。

 大丸のサイトにはこうあります。

 「大という字は、一と人を合わせたもので、丸は宇宙・天下を示す」ことから、天下第一の商人であれという業祖・下村彦右門衛門正啓の志と決意が込められたものと伝えられています。大丸マークは、1913年(大正2年)に、縁起のよい七五三の髭文字を商標登録しました。

 大の文字に、七五三の髭が生えていたのは分かっていませんでしたが、天下第一の商人を目指す意思表示だったのです。

 梅田周辺に比べると話題に乏しい感もあるミナミ。

しかし「大阪まち歩き」栗本智代著は、大阪大学教授の橋爪節也氏の「アートなミナミを回遊する」から始まる通り、主役はミナミです。

 8人のカリスマ案内人が大阪を紹介してくれるのですが、何らかの関わりのある場所が3カ所でてきました。

1. 仕事をしたことのある神社
2. クライアントの親族が経営する書店
3. 後輩が管理するビル

 これを見ると、長く大阪で暮らしてきたんだなあ、と感じるところもあります。

 この本の中に「オダサクの大阪発見」という章があります。オダサクとは勿論「夫婦善哉」の織田作之助です。

 大阪人に共通の特徴、大阪というところは猫も杓子もこういう風ですなという固着観念を、猫も杓子も持っていて、私はそんな定評を見聴きするたびに、ああ大阪は理解されていないと思うのは、実は大阪人というものは一定の紋切型よりも、むしろその型を破って横紙破りの、定跡外れの脱線ぶりを行う時にこそ真髄の尻尾を発揮するのであって、この尻尾をつかまえなくては大阪が判らぬと思うからである。
そしてその点が大阪の可能性である……

 先月書いた大阪の気質と合せると「紋切型をきらう、永遠の新人」それが大阪人という事になります。確かの自分の中にもあるような気がします。

 先日復帰を果たしたタレントのやしきたかじん。東京に放送が有る番組は出ないそうです。地域に拘り過ぎることは賛同しかねますが、そこまで言える自信はかっこいいのです。

国宝・姫路城

 今日から新年度がスタート。清々しい青空になりました。

 先々週ですが、姫路城へ見学に行きました。JIA(日本建築家協会)の例会で、改修工事の現場がみられるとの事。すぐに応募していました。

 行きは山陽電車で。

 時間は掛かりますが、明石あたりは海がすぐそこ。安藤忠雄設計のこの住宅も見れます。

 鉄筋コンクリート造と木造で左右対称に建っているのです。船から見るとこんな感じ

 姫路城、別名白鷺城は、その名の通り漆喰が美しい城です。

 ちなみに国宝の城は「松本城」「犬山城」「彦根城」の全四城。

 今回は、一般の見学コースでなく専門家用のルートでの見学です。国宝、世界遺産に指定されている建物の改修現場を、真近で見られる機会はそうありません。

 以前、石井修設計の目神山の家1を見学した時と同じくらい、JIAに入っていてよかったと思っていました。

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 まずは、工事の概要、瓦の変遷などを説明してくれます。

 とりわけ、大きなしゃちほこを焼くのに苦労をしたようです。

 しかし本音を言えば、早く城郭が見たい……

 いよいよ立入り禁止エリアへ。

 まだ左官職人が働く中、担当者の説明も熱を帯びてきました。工事費の6割以上が、全体を覆う足場工事に掛かっています。

 この足場が無ければ改修も出来ないし、こうして真近に見れる事もない訳です。

 受け継がれて来た城郭建築の技。またそれを復元、進化させる現代の技術に感嘆の声を上げるだけでした。テンションは上がる一方。

 「済みませんが、このエリアで撮った写真を、ブログなどに上げるのは遠慮ください」の声を聞くまでは……

 おそらく創建当初から使われている瓦。

 通常なら見る事が出来ないアングルでの写真をUPしたかった。

 それが正直なろころです。

 仕方がないので、姫路駅名物「えきそば」を上げておきます。簡単に言えば、和風だしにラーメンの麺が入っていると言えば良いでしょうか。

 阪神百貨店のスナックパークでも食べる事ができますが、なかなか美味しかったのです。

 日記を書くために出掛けているのではありませんが、伝えたい、という気持ちが無ければ、その動機は半減することを改めて実感しました。

 今回の記事で計945回目。秋には1000回になります。普段はなかなか伝えられない事を書いてみようと思っています。