1月はあっという間に行ってしまい、今日が最終日です。
地下鉄の天満橋駅から、土佐堀通を東へ5分ほど歩きます。
大川に流れ込む寝屋川を渡ると、南に向かってまた橋が伸びています。
この橋が「京橋」だと今日はじめて知りました。
Googleマップにも「江戸時代の街道の起点だった橋」とあります。
このあたりに所用があったのですが、それを済ませて京橋を南に渡ってみます。
橋の中央から東を見ると、OBPのクリスタルタワーが真正面に。
大阪城の手前に見えるのは、大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)の旧化学分析場です。
「筋鉄門跡」が見えてきました。
大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)の石柱も。
徳川幕府が筋状の鉄筋で補強した門を設けたそう。いかに重要な場所だったかが分かります。
入ってすぐに見えるのは警備員詰所だったそうです。
完全に朽ちています。
南に廻り正面までやってきました。
1919年の完成ですが、周辺は完全に封鎖されていました。
建物からは木が生えています。
傷んではいますが、立派な建物です。
ちなみに、大阪城の天守閣のすぐ南にある「旧陸軍第四師団司令部庁舎」は「MIRAIZA OSAKA-JO(ミライザ大阪城)」として昨年再オープンしています。
すこし東へ行きすぎると、中央に水が溜まった鉄の塊がありました。
ネット上にも色々な書込みがありましたが、どうやら砲兵工廠の溶けた鉄がそのままここに残されているようです。
江戸時代、街道の起点だったこの場所に、なぜこのままの状態で放置しているのか……
また、新兵器の開発や化学実験をした場所ですから、不気味さは一層です。
戦後この周辺は、「アパッチ族」と呼ばれる、不良集団が跋扈しました。
大阪砲兵工廠後地に、警備をかいくぐって侵入。鉄くずを集めてそれを売り、糊口をしのいでいたのです。
その姿を開高健は「日本三文オペラ」で、小松左京は「日本アパッチ族」で描きました。先程の朽ちた詰所には、彼らを取り締まる警備員が居たのでしょうか……
しかしその面影を残す建物が、現存しているとは全く知りませんでした。
あるテレビ番組では「光と風の振付師」。「光のマイスター」と呼ばれたこともあります。
この負の遺産を、明るく風通しの良い建物にできないものかと真剣に思うのです。
■■■ 『ESSE-online』にコラム連載開始■■■
12月6日「キッチン・パントリー」
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