フィギアスケートと皆川選手のコメント

 今日でトリノオリンピックが閉幕しました。

 日本で唯一のメダルは、荒川静香選手の金メダル。

 日本フィギア初、アジア初等など、いろんな形容詞がついていますが、運動能力と美しさを競うフィギアスケートで、体格に劣る日本人が世界一になるということは、偉業だと思います。

 フィギアスケートは開会前から期待が大きかったので、メダル争いをする選手の情報が自然と伝わってきます。

 日本からは4回転ジャンプの安藤美姫と表現力の増した村主章枝。

 アメリカからは、過去のオリンピックで、あと一歩金メダルに届かず

 ”シルバーコレクター”とも呼ばれるサーシャ・コーエン。日本の最大のライバルと目されているロシアのイリーナ・スルツカヤ。そして世界選手権王者でありながら、新採点法に悩む荒川静香・・・・・・

 前半のショートプログラムでは、アメリカのコーエンがトップ。

 2位が、ロシアのスルツカヤで、荒川は3位につけます。

 3人が僅差で並ぶという展開。村主は続いての4位。

 後半フリー演技での荒川選手の逆転劇を改めて伝える必要もないと思いますが、”シルバーコレクター”を実践してしまったコーエン、ジャンプで転倒してしまったスルツカヤを横目に、冷静に
自分を表現しきった荒川選手は神々しくさえありました。

 その後、メディアからは様々な情報が伝えられましたが、心に残った話があります。念願の金メダルを目指すスルツカヤはフリー演技の際に今シーズンの試合で初めて転倒したのだそうです。

 世界のトップにいる選手が万全の準備をし、最高の舞台だからこそ、起こりえる失敗。

 史上最大のスポーツの祭典オリンピック。4年という時間とその空間はそれほどまでに、重たいものなのでしょう。しかし私たちは、その舞台で懸命に戦う選手たちの、超人的なパフォーマンスと、同じ人としてのサイドストーリーに惹きつけられ、感動するのです。

 他の競技では、昨日のアルペンスキー回転は大躍進でした。

 大学時代にアルペンスキーに打ち込んだ私は、手に汗握って応援しました。

 期待の佐々木明選手は残念ながらコースアウトしましたが、メダルまで0.07秒差の4位にはいった、皆川賢太郎選手と39番スタートから7位に入った湯浅直樹選手には、拍手を送りたい気持ちです。入賞に限っても50年振りという快挙。深夜3時頃まで「もしや、メダル!?」とドキドキさせてもらいました。

 以下は皆川選手の試合後のコメントです。

 メダルを取って一番したかったことは、僕らの競技を知ってもらいたいということです。今回のフィギュアスケートのように、みんながルールを理解して、見方を勉強して、そして楽しんでもらう。そういう競技に僕らもなれるようにしたいなと思いますね。

 今回のオリンピックで「メダルが少なかった」という意見をきくと、なんとなく違和感を感じます。

 もし「メダルが少なかった」のなら、私たちは、それぞれの競技について、普段から「競技の楽しさ」と「選手のパーソナリティー」を知ろうとするる努力をする必要があると思うのです。

 選手を知れば、サイドストーリーを知り、思い入れもでき、応援したくなります。応援する人が多ければメディアへの露出も増え、しいては競技人口の底辺を増やし、強い選手を輩出します。

 競技を主催する側も、楽しさを知ってもらうために、今以上に尽力する必要があると思います。

 普段は知らぬ存ぜぬで、オリンピックのときだけ「金メダル1個かア」では、虫が良すぎると思いません?フィギアスケートの盛り上がりと、皆川選手のコメントを聞いてそんなことを思いました。

 オリンピックが終われば次は6月のサッカーのワールドカップ、ドイツ大会です。変わり身が早すぎますが、一流の選手の最高のパフォーマンスはそれほどまでに美しく、見るものを魅了します。そういえば今晩はボクシング、徳山選手の防衛線があったはず。

「城陽の家」→「Tさんのお宅」

一昨日、2月21日発売の『月刊ニューハウス 4月号』(ニューハウス出版)「城陽の家」が「Tさんのお宅」として紹介されました。(P34~38)

 

 

 

 

 

 

 「月刊ニューハウス」は毎月テーマが決まっています。4月号は次の通り。

「家がほしいんです!1000万円台でなんとかなりませんか?」

 テーマがテーマなので、建築工事費用、設計料、ローンのことなども全て公開されています。

 快く承諾してくれたTさんご夫妻には感謝しています。ちょっと大げさですが、希望の家を実現するための「私たちの闘い」を振返ることが出来ました。

 今回は自分で書いた文章はありません。取材を元にライターが書いているので、今までと違い、私も気楽に楽しめました。

 「設計者の全身写真も載せる」と編集部から言われていたので、取材の前日に「飲みすぎて顔がむくまないようにしないとナ」などと妻に言っていたことを思い出します。「誰も気にしてないヨ」と言われましたが。

 本屋さんで見かけたら是非ご覧下さい。ちなみに表紙の写真は、真ん中が「城陽の家」で、人影は左から4番目が私です。

司馬遼太郎を訪ねて

 昨日、東大阪市にある司馬遼太郎記念館に行ってきました。

 司馬作品は中学生の頃からよく読んでいました。確か一番初めに読んだのは「国盗り物語」だったと思います。またあんな小説に出会ってみたいと願うのです。

 司馬遼太郎氏は1996年に72歳で逝去されました。記念館は生前暮らした自宅に隣接して建っており、自宅の玄関が記念館の入口を兼ねています。表札は直筆だそうです。

 書斎は亡くなった当時のままにされています。庭に面しており、これ言った趣味の無い司馬さんは執筆以外の時も、庭を眺めながらここで読書をしていたそうです。


 
 書斎の前を通りすぎ記念館へ。安藤忠雄氏の設計ですが、内部は撮影禁止でした。

 司馬遼太郎、本名、福田定一少年は幼少期を奈良県の當麻町で過ごします。ここには大阪と奈良を結ぶため古くから残る、竹内街道が通っていました。

 庭からは、石器時代の矢尻がごろごろと出てくるような所で、収集するのが楽しみだったそうです。そういった体験が福田少年に自然や歴史にたいする憧憬を抱かせるのです。

 青年期には第二次世界大戦が勃発します。18歳で学徒動員されますが、終戦を栃木県の地で迎えます。この戦争での経験が作家としての人生を決定付けるのです。

 召集を受け、一旦は死さえ覚悟した福田青年は、戦争が劣勢になってくると理不尽な場面に出くわします。本土決戦を前にした日本の軍部は、命をかけて国民を守るどころか、最終的に自らの保身を優先するような命令を下すのです。

 その時に彼は「日本人というのは、こんな国民だったのか。いやそうではかったはずだ。戦国時代は、江戸時代は、せめて明治時代以前はそうではなかった・・・・・・」と憤ります。

 それから日本が少しでも良くなればと、戦国時代、江戸、幕末の志士を描くことになるのです。坂本竜馬に思いを込めて・・・・・・

 映像資料の中で、亡くなる9日前のインタビューが流れました。そこでも彼は、日本の未来を憂いています。「このままでは、日本という国はなくなってしまう」と。

 風貌から穏やかな好々爺を想像していましたが、映像の中の姿は全く違いました。日本を代表する叡智は、日本をなんとかしたいと・・・・・・という気持ちで創作を続けていたのです。

 書斎から眺めた雑木林のような庭では、氏の愛した菜の花が満開でした。

目撃してしまいました

 生まれて初めて犯罪の現場に遭遇しました。今週の月曜日、お昼の2時頃、大阪市内での出来事です。

 外出していた私は仕事を終え、地下鉄の駅へと向かいました。出入口の階段を降りようとした瞬間「ドスッ!」という、人と人がぶつかる、独特の鈍く大きな音が。すぐに「誰か~!捕まえて~!」という年配の女性の声。振返ると、スモークを貼ったヘルメットに紺色の作業服の男が、ナンバーの無い原付で、蛇行しながら走りさって行きます。

 倒れていたので「当て逃げかな?」と思い女性に近づくと「ひったくりヤ!!」と。

 すぐに110番をしましたが、出来ることはそれだけ。動転していた当事者は止めてあった車で、すぐ追いかけていきましたが、捕まえられるはずもなく・・・・・・。
 現場は、幹線道路の交差点にある銀行の前です。その女性は目の前に外車を路上駐車し、お金を下ろしました。車に乗ろうと歩道から車道へ出た瞬間、犯人は後ろから原付ごとぶつかり、バックをひったくったのです。

 私は今まで「ひったくり」というと、注意の足りない人の合う、自分で防げる犯罪だと思っていました。もう少し言うと、体に危害を受けるとは想像していませんでした。しかし現実は違いました。

 相手は犯罪者ですから、被害者の体のことなど心配するはずも無く(当り前!)、猛スピードで、原付ごとぶつかり、跳ね飛ばして盗むのです。「ひったくり」などと言う生やさしい表現は違っていると思います。私の見たそれは、「ひき逃げ強盗」でした。

 その日は気分の晴れない一日になりました。

 働かずして、人を傷つけてでも、お金を得ようとする、野蛮で稚拙な犯罪者に何を言っても無駄でしょうが、犯罪を犯す限り、あなたはこの世にいる価値は無い。捕まるのか分かりませんが、罪を償い改心してほしいものです。

 誰にも起こりえる事なので、対処策を考えてみました。

 おそらく犯人は、銀行を遠巻きに眺め、標的を物色していたはずです。大きなお金を下ろした後は、コソコソッと出て行き、サッサと帰りたいところですが、そんな時こそ、顔を上げて前後左右を確認している事をアピールすべきです。相手は犯罪者ですから、顔を見られるのが一番怖いはずです。コソコソしているはずなのです。あとはどこでも聞く言葉ですが「バックは-必ず-車道の反対側に!」でしょうか。

 折りしも、原付の祖とも言える「本田宗一郎」開発の「スーパーカブ」の発売台数が5000万台を超えました。世界で類を見ない程支持されているという事です。努力と情熱で便利なものが創られ、世に貢献する。しかし稀には悪用もされる。“神様”と“バイクの神様”も2人して「こんなはずでは・・・・・・」と嘆いていることでしょう。

カット 散髪

 日曜日に髪を切りに行きました。

 髪型にはこだわりがあって美容院に・・・・・・と言いたいところですが、理容店に行っています。この近所の駅前にあるお店が結構気に入っているのです。

 男の私にとっても、髪を切ってもらうという行為は、かなりデリケートなものです。言えば赤の他人と、あの距離で接することはほとんど有りません。若い頃は、いろんな美容室に行ってみたり、店をコロコロ変えたりもしましたが、なんと言うか、感覚の合わない人に切ってもらうと苦痛を感じるのです。たまたま、感覚の合う店長がいたのが、そのお店でした。

 このお店は、5店舗ほどあるチェーン店の一店舗らしいのですが、店長のDさんはなかなかの人です。元気過ぎず元気。話を聞かな過ぎず、聞きすぎず。映画と読書が大好きで話題も豊富。言葉遣いも丁寧で、なれなれしい喋り方など一切せず、実に距離感のよい人です。加えて言うならマッサージも上手。もちろん技術も信頼しています。

 よい人間関係は、相手に一目置くところから始まるらしいのですが、私はDさんのコミュニケーション能力と、サービスについての考え方に、一目置いていました。

 ところが数年前、店に行くと「店長が交代しました」とのこと。私は新店長とは気が合わずに、そこに行くのをやめてしまいました。それから、気の合う店、人を探して、いろんな美容院、理容室へ・・・・・・

 何件も回り「もうここにしようかな」と思うところを見つけていたのですが、ある時、駅前の店をのぞくとDさんらしき人が。入ってみるとやはりそうで、話を聞くと、別店舗の店長が急にスタッフを引き連れて辞めてしまったらしく、急遽店長となり一年間その店に赴任していたのでした。

 私も嬉しくなりいろいろな話をしました。他のお店を探して回っていた話をすると「申し訳ありませんでしたネ」と、それからずっと1割引きにしてくれているのです。

 理容店というのは、しゃべるのも商売ですから、いろんな情報が集まってきます。月に1回、この店長に髪を切ってもらい、新しい情報や近所の噂話を聞くことを結構楽しみにしているのです。 

大阪市役所あたり

 

 

 

 

 2月に入ってからも寒さの厳しい日が続きます。しかし、冬の快晴はとっても気持ちがいいのです。
 
 建築確認申請のため、淀屋橋の大阪市役所へ行ってきました。

 市役所の前は土佐堀川。このあたりは、今も水の都の面影が残っています。

 

 

 

 

 

 建築確認申請を提出する際はいろいろな関係省庁をまわります。

 今回は文化財の関係で担当の教育委員会へ。入り口脇のガラスケースに奈良時代の瓦がおいてありました。

 貴重なものではないんでしょうか。


 

 

 

 

 これは土佐堀川の上に建っている?浮いている?かきの土手鍋で有名な「かき広」。いつか、と思いながら入ったことはありません。

 確かコースで¥8,000-くらいだったと思います。

 

 

 

 

 中之島図書館を挟んで東にある中央公会堂は1918年(大正7年)に竣工。岡田信一郎の設計による名建築です。

 中央公会堂は、岩本栄之助という株式仲買人が莫大な資金を寄付して、建設されました。商人の町大阪には元々”官に頼らず”という風土があったのです。

 

 

 

 

 

 このあたりに来ると、設計事務所に勤めて1年目を思い出します。ある建築家を紹介してもらい、弟子入りしました。

 建築法規もまだ勉強中の頃、確認申請の仕事を任されました。

 役所へ確認申請の相談に行くと担当者には「もっと勉強してこい!」と、事務所にかえれば所長に「そんなことくらい自分で調べろ!!」と。

 誰に相談することも出来ないので、まっすぐ事務所に帰る気になれず、あたりのベンチで缶コーヒーを飲みながらグダグダしていたことを思い出します。コートが必要な寒い季節でした・・・・・・

粉雪

 今週末は、妻の実家に帰っていました。高槻市の高台にあるので、大阪市内より2~3℃は寒く感じます。

 日曜の朝「やっぱりこっちは寒いなあ」とか言いながら起きてみると、薄っすらと雪が積もっていました。

 本当に寒かったので、粒子が小さく吹けば飛ぶような粉雪でした。それを見て、スキー、大学時代の合宿と思い出していました。

 小さい頃から、スキーにはよく行きました。大学時代はクラブで冬の数ヶ月を北海道のスキー場で過ごすようになります。

 そこは昔炭鉱で栄えた歌志内市という街にありました。しかしエネルギー需要の変化と共に当然寂れていきます。その中でスキーは重要な街の観光資源でした。特に大学のスキー部を多く誘致しており、競技スキーにとても理解のあるところでした。またジュニア選手の育成にも力を入れておりオリンピック選手も輩出しています。

 こじんまりとしたアットホームなスキー場で、練習の後、チロル風のセンターハウスで、仲間と過ごしたゆるゆるとした時間を思い出します。

 たまには、合宿の打ち上げなど称してで、街に出かけることもあります。深々と降る雪の中「高倉健」が暖簾をくぐって出てきそうな居酒屋や、昭和の面影を残す、もの寂しい街を見るのが大好きでした。

 北海道では-25℃になることもあります。極端に温度が下がると空気中の水蒸気が凍りキラキラと光るダイヤモンドダストという現象がおこります。人の少ないナイターのゲレンデで、時折目にするその景色はなんとも美しいものでした。

 街中の雪は景色を一変させます。日常が、一晩にして非日常へ。汚れたものを全て白一色の世界へ・・・・・・。自然からの、たまに贈られるご褒美です。

 無性に北海道の、もの寂しい街に出掛けたくなりました。

ハッピー バースデイ  トゥーユー は誰のもの

誕生日に誰もが歌う「ハッピー バースデイ  トゥーユー」というあの歌。

この歌にも著作権があることを知っていますか?

また聞きなのですが、持ち主は先だっても世間を騒がせていたマイケル・ジャクソンなのだそうです。(彼は確か、ビートルズの楽曲の著作権か、ジャケットの肖像権か何かも持っていたと思います)

よって、テレビやドラマなどでこの歌が流れるたびに使用料が発生するのです。所有者がマイケル・ジャクソンかどうかは別にしても「それはちょっとなア~」と思うのは、小市民のひがみでしょうか?

もっと厳密に言うと出版物に「ハッピーバースデイ  トゥーユー」と書くともちろんですが、無料。しかし「ハッピーバースデイ  トゥーユー♪」と書くと使用料が発生するのだそうです。どう思います?