2023年 暮れは元気にご挨拶‐2073‐

本日から、1月4日までの冬季休暇に入りました。

昨日まで打合せがびっしり入っていたので、先程年賀状を書き終え、投函してきました。

「今年も目一杯働いた」という充実感に少し浸りながら、2023年を振り返ってみたいと思います。

1月 飛び石に見る、クライアントの本気 IN「あの森のOHANA」‐1977‐

2022年の1月に、オープンした「あの森のOhana」

クライアントの本気を、1年点検で確認してきました。

2月 姫路の黄そば‐1983‐

8月1日にオープンした「ささき整形外科デイケアセンター」

定例打合せに何度も現地へ足を運びました。

その際の、ささやかな楽しみだったのが、姫路のえきそばでした。

えきそばだけでなく、「姫路の黄そば」は現地のソウルフードでもあったのです。

3月 祝・合格 盆と正月が一緒にやってきた‐1987‐

18歳の誕生日を迎えた長男が、無事第一志望の大学に合格してくれました。

誕生日に合格が分かり、我が家は盆と正月がやってきた以上の歓びに沸き返っていました。

そう言えば、すでに帰省して、高校時代の友人と我が家で忘年会を開いているはず。

東京での4年間を、実りのあるものにして欲しいと思います。

4月 真実はそこにあった?‐1998‐

 『かんさい情報ネットten.』に出演しました。

浅越ゴエさんの「お役に立ちます」というコーナーでしたが、テレビの現場は本当にマンパワーで持っていることが良く分かります。

5月 『住まいの設計』と「建築家」の関係‐2010‐

これまでに7軒の住宅を掲載して貰った『住まいの設計』が、63年の歴史に幕を下ろしました。

元編集長・鈴木さんのfacebookで知りましたが、本当に残念です。

「地元建築家がガイドする名建築」で、ナビゲーターに選んで貰ったことは本当に光栄でした。

休刊となってしまいましたが、私は紙の力を信じています。

6月 イメージのど真ん中を射抜けるよう‐2021‐

半地下の音楽室のある「没頭できる家」

完成は3月だったので、3ヵ月点検がありました。

音楽室に加えて、キャンプ場もあるこのお家。

竣工写真も上がっているので、はやくWebサイトを完成させなければ……

7月 テレビの中は歳をとらない‐2023‐

『大改造!!劇的ビフォーアフター』に出演したのは11年前ですが、時々BS等で放送されているようです。

それを観た人が連絡をくれ、知ることが多いのです。

工事関係者の人たちにも、作品集と共にテレビ番組のDVDを渡すことが多いですが、その映像を観て「若いですね~」と言われました。

もちろんテレビの中の私は歳をとりません。

8月 8月24日(木)朝5時、あの事件を目撃す‐2038‐

メジャーリーグにおいて、ウィンターシーズンの話題を全てさらったと言ってよい、大谷翔平選手のドジャース入団でした。

結果的に2度目の満票でのMVPも獲得するのですが、投手としての最終試合となった試合は衝撃的でした。

しかし、その後の試合でホームランを打つのです。

野球少年だった私も含め、全ての野球ファンに元気を与えてくれます。

来年、打者に専念した大谷劇場もまた楽しみです。

9月 ドローンの国家資格を取得して、3ヵ月内のバージョンアップを目指す‐2043‐

「3ヵ月内のバージョンアップがなければ、経営者として失格」とは、始道塾塾長の恩田さんの言葉です。

ドローンの国家資格を取得すべく動き出したのが9月でした。

釣り仲間の知人に紹介してもらったNCN DRONEの皆さんには本当にお世話になりました。

10月 還暦から3年勝負!のち、葛城の古民家で、十割そばと絶品天ぷら‐2056‐

1年前、偶然橿原市の信号で止まった所にあった「蕎麦屋 玉竹流」

入ってみると、とても美味しかったのです。

南阪奈道路の葛城IC近くに移転オープンした「十割そば 玉竹」は、料理、空間ともグレードアップしていました。

絶賛してお勧めいたします。

11月 変わる天王寺、西成。ただ、オールのっぺり反対派‐2057‐

仕事柄もあって、街歩きは大好きです。

創業の地ということもあり、愛着もひとしおな天王寺エリア。

西成も合わせて歩いてきましたが、良くなったところ、悪くなったところと、愛憎半ばといったところです。

ランドマークだった建物には是非敬意を払って改修してもらいたいものです。

12月 これは本物のロックだ!‐2071‐

ネットニュースをきっかけに初めて聴いてみた「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT(ミッシェルガンエレファント)」。

ダルビッシュ有選手の言葉を借りるなら、控えめに言って最高でした。

「没頭できる家」の音楽室で、高校の時以来でドラムを叩かせてもらいましたが、この歳になって、ロックに心震えることは想像していませんでした。

12月23日の夜に、私のホームレイクである池原ダムすぐ横の国道で、土砂崩れが起こりました。

1人の方の身元がまだ確認されていない状況で、ご家族の気持ちを考えると、本当に心苦しい年末になりました。

これが私だった可能性も十分にあり、尚更です。

2023年は、コロナ後1年目と言って良いと思います。

沢山のオファーを頂き、多くの新規プロジェクトが進行中で、大きく時代が動き出したことを実感します。

いつ、どこで、何が起こるのか分からないのが人生です。

元気に働けていることに心から感謝して、身を粉なにして働く覚悟ですし、私にできることはそれだけです。

今年も残すところ3日となりました。

本年も、「ゲツモク日記」「ゲンバ日記」、また『建築家・守谷昌紀TV』にお付き合い頂きありがとうございました。

2024年も、皆さんにとってより素晴らしい1年となることを確信しております。

■■■8月1日プールのある「ささき整形外科 デイケアセンター」オープン

■■4月6日 『かんさい情報ネットten.』 浅越ゴエさんのコーナー に出演

10月27日『houzz』の特集記事
「滋賀の家」掲載

10月11日『homify』の特集記事
「白馬の山小屋<リノベーション>」掲載

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ひのとりで行く名古屋旅<前編>ひつまぶしを食す‐2072‐

クリスマス前の22日土曜日。

たまには妻孝行をと、近鉄特急で行く名古屋旅です。

上本町を朝7時3分に発つひのとりを予約しました。

レギュラー席なら特急料金プラス200円で乗車できます。

全席にコンセントがついているので2時間の電車旅がより快適です。

9時に名古屋駅に到着。慌ただしく地下鉄を乗り継ぎます。

足早に向かったのは、宮の渡し歩道橋すぐ近くの「あつた蓬莱軒」本店。

9時47分にはこれだけの行列ができていました。

到着すると45番目。

10時10分頃から整理券の配布が始まり、11時30分で予約できました。

南に300m程下ると、歩道橋の名前にあった宮(熱田)の渡しがあります。

東海道では唯一の海上ルートで、桑名の宿まで七里の海路を指して、 七里の渡しと呼ばれることも多いよう。

城下町の玄関口でもあり、多くの旅籠屋も集まって大変栄えました。

常夜灯の先に伸びる堀川を遡っていくと、名古屋城につながっています。

物資の輸送路としての役割も大きかったのです。

昼食までの間に、熱田神宮を参拝してきました。

お店から北に1km程度です。

名古屋城あたりから南に延びる、標高8~15mの熱田台地の南端にあり、以前はすぐ目の前が海でした。

中国では東に蓬莱島があり、不老不死の仙薬があるとされていました。

熱田神宮はその蓬莱だと考えられていたようです。

大阪にも蓬莱はありますが、縁起のよい名前として使われるのでしょう。

大阪と名古屋の蓬莱ではかなり値段が違いますが。

途中にある信長塀。

桶狭間の戦いの前に戦勝を祈願し、見事に今川義元を討ち倒しています。

信長躍進のきっかけと言っても良い戦になりました。そのお礼にこの信長塀を寄進したのです。

創建は113年。

三種の神器の1つ、日本武尊を救ったという草薙神剣が祀られています。

伊勢神宮に次ぐ、重要な神宮とされているそうです。

時間になったので、いそいそと戻ってきました。

いやが上にも期待は高まります。

それ程の待ち時間なくでてきました。

明治6年から継ぎ足されたタレに浸け、備長炭で焼き上げられた「ひつまぶし」です。

食べ方もメニューに記載されていました。

まず、うなぎで一杯のおひつをしゃもじで4等分します。

1膳目は、そのままうなぎの味を堪能。

2膳目は、薬味を加えて。


3膳目はお茶漬けに。

お茶漬けといっても、出汁茶漬けです。

そして最後はお好きなように、と。

もう何も言う事はございません。

カリフワで大変美味しゅうございました。

私的には、薬味全部乗せプラス山椒と、出汁茶漬けが双璧でしょうか。

じゅんさいの入ったお吸い物も、とても美味しかったです。

4600円の価値は十分あると思います。

ちなみに日曜日の方が空いているそうですが、12時頃に来た人も1時間先くらいの予約を確保できていました。

うなぎは匂いで売れと言いますが、大きな排気口から出る匂い付きの煙が、あたりに充満しています。

江戸時代、東海道を旅してきた旅人たちはもう我慢できなかったでしょう。

現在で言えば、いつまで私たちはうなぎを楽しむことができるのでしょうか……

熱田神宮と、鰻だけで随分長くなってしまいました。

次回、もう少し名古屋旅を書いてみたいと思います。

皆さん良きクリスマスを。


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これは本物のロックだ!‐2071‐

昨日、ゲンバ日記を更新しました。

1ヶ月前に撮影があった「没頭できる家」のことを書きました。

テントが張れるキャンプ場があったり、音楽室があったりと、遊ぶには事欠かないお家です。

私も少しだけドラムを叩かせてもらいました。

高校生の時以来で、バスドラがかなりもたついていますがご容赦下さい。

先月、「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT(ミッシェルガンエレファント)」のヴォーカル、チバユウスケさんが55歳で亡くなったというニュースを見ました。

その数日後、奥田民生さんが自身のYoutubeチャンネルで、彼らの曲をUPしたと知り、観てみました。

コード進行だけをギターでかき鳴らす手元だけを撮った動画が、とても良かったのです。

それまで、「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」というバンド名くらいは知っていましたが、曲は聴いたことがありませんでした。

NHKが2003年の『トップランナー』をアンコール放送するというので、それを録画して観ました。

これが本当に素晴らしかった。

4人編成のバンドらしくシンプルな音ですが、ギターのリフがとにかく恰好いい!

20年前なので、チバさんは35歳頃になります。

骨太のロックに、しゃがれた声が最高です。

脂が乗りきっている時期でしょう。

普段から殆どMCは無いそうです。

「しゃべんなくても、音を出せば分かるから」

痺れる~!

これは本物のロックだ!

なんて思いながら食い入るように観ていました。

高校時代はバンドをしていたと書きましたが、日本のロックといえば、「ラウドネス」「アースシェイカー」「レッドウォリアーズ」くらいで止まったままだったことを後悔したのです。

中学3年までは野球一筋でした。

それなりに自信もありましたが、坊主頭に抵抗があり、高校は続けませんでした。

テニス部に入ったりもしましたがあまり馴染めず。

野球部だった同級生がバンドをするというので、ドラムで入れて貰いました。

楽器ができる訳ではないので、なり手が無かったドラムを始めたのだったと思います。

そこまでドラムを好きという訳でもなく……当然、上手い方ではありませんでした。

それでもバンドは楽しく、何回かライブにでています。最後の方はヴォーカルをさせて貰い、これは本当に楽しかった。

久しぶりにドラムを触ると、音楽はやっぱり楽しいと感じたのと、今ならもっと楽しめるかも、と思ったのです。

高校時代の思い出は、本当にそれくらいしかありません。

大好きだったスポーツもせず、進学校に居たにもかかわらず勉強もいまいち。なかなか人生の目標も定まらず……

黒歴史という言葉がぴたりときます。

写真も数年前に友達に貰ったこの1枚の他、数枚だけしか残っていません。何となく斜に構えている感じが、自分でも分かります。

ロックにはそんなやるせなさや、切なさを代弁してくれるという側面があります。

その代表格が、当時は尾崎豊だったでしょうか。

私は、日本人アーティストで言えば、「サザン」「レベッカ」「ハウンド・ドッグ」あたりを聴いていました。

徐々にもう少し落ち着いた音楽が好きになり、「マービン・ゲイ」「ドナルド・フェイゲン」「アース・ウィンド&ファイヤー」「ザ・ポリス」等へ好みが変わっていきました。

「ディープ・パープル」「エアロ・スミス」「ナイト・レンジャー」等のロックも聴いていましたが、比率で言えば少なくなっていったと思います。

そんな53歳の私が、20年前の「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」をライブを観て、心震えたのです。

奥田民生さんが、悲しみを込めて弾いた彼らの代表曲は「世界の終わり」でした。

これがデビュー曲だったとはさらに驚きましたが。

この日記を書くまで、ギターのアベフトシさんも亡くなっていることも知りませんでした。

長身で細身。タイトなスーツがザ・ギタリストといった感じが最高だったのに……

亡くなってから知るもどかしさばかりですが、これから聴いていきたいと思います。

早速iTunes Storeで曲を購入しました。

心から哀悼の意を込めて。

ロック、最高!

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紙は最速、最高‐2070‐

クリスマスソングがあちこちから流れ、街ではイルミネーションが華やかです。

週末天王寺に行った際に、書店を回ってきました。

あべのルシアスとアポロビルの2階にまたがってある喜久屋書店。

昔ながらの本屋さんといった雰囲気ですが、かなりの品揃えです。

通路が広いのはとても見やすい。

こちらはあべのハルカスの7階に入っているジュンク堂。

売り場面積も広く、ディスプレイもよく考えられています。

こちらは文庫本の新刊コーナー。

目に付きやすい高さには、縦置きの平積みと言えばよいのでしょうか。

ツタヤのようなディスプレイで、お勧めがとても分かりやすい。

マニアック(失礼!)な出版社もありました。

出版社はあったのですが探していた本は無く、ネットで買うしか仕方がありません。本当は実店舗で買ってあげたいのですが。

本屋が大好きなので、2店舗で1時間半くらいうろうろして、6冊ほど購入しました。

こちらは照明メーカー「コイズミ」のカタログです。

紙質も良く、900ページくらいあります。

照明器具をセレクトする時は、パラパラとめくりながら付箋を貼ったりして、絞り込んでいきます。

右下に2019年を消して2023年と書いてあります。

新刊がでなければ古いものの方が使いやすく、そうしているのです。

こちらは、リクシルのインテリア建材のカタログ。

進行中のプロジェクトごとに色を決めた付箋を貼ってあります。

ページの端に寄るほど重要度が高く、中心によるほど低いというルールも作っています。

建築は凄い数の部材で構成されているので、普段から相当な数のカタログが手元にあります。

このペーパーレス時代に、未だに紙に埋もれて働いているような仕事です。

しかし、高級家具メーカーだったり、一部の照明メーカーは紙のカタログを廃止。Webカタログのみになってしまいました。

ある高級家具メーカーの担当者は、「私たちも残念で、古いカタログをボロボロになっても使っているんです!」と言っていました。

資源保護、経費削減の観点から、ペーパーレス化が進むのはやむを得ないと思います。

しかし、一家具メーカーの担当者がそう嘆いているのですから、膨大な数の部材、建材を捜し、決めていく設計者にとっては死活問題。紙のカタログは必需品なのです。

すでに決まっている部材の情報を探すならWebカタログで十分です。

しかし、色々なページをめくっては、付箋を貼ったり、しおりを挟んだりして、物を絞りこんでいく作業は、正直、Webカタログでは不可能です。

この先、書店が増えていくことは無いでしょう。

もし実店舗がなくなったら、本をザッピングする楽しみも完全に無くなってしまいます。

ある印刷会社の社長が、ヤフーの広告担当者と話したところ「紙ってやっぱり最高に早いよね」と言っていたそうです。

もっともペーパーレス化が進んでいそうな企業の社員がそう言ったのも面白いですが、「やっぱり分かっているよね」という気もします。

大手メーカーの、そして大手書店の経営者の方に、切に訴えたいです。

紙は最速、最高。

大切に大切に使うので、これ以上何も減らさないで下さい、と。

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八尾空港への引込路線でもあった阪和貨物線跡 ③杉本町駅~行基大橋‐2069‐

阪和貨物線跡をめぐる旅。

初回は大和路線の加美絵駅からスタートしました。


最終回は、終点の杉本町からさかのぼってみたいと思います。

阪和線の杉本町駅は、改札が北側にあります。

東には大阪公立大学の広大な敷地がありますが、その間を、分岐した阪和貨物線は通っていました。

紅葉した木の立っているあたりです。

東西を走る、府道住吉八尾線を横切って北に向います。

そこまで廃棄物が多いところは少なかったですが、ここは結構多いエリアでした。

北東に向かって伸びた線路跡は、緩やかに東向きに進路を変えます。

東へ向きを変えるのに、大阪公立大学から結構離れているのが分かります。

杉本町で降りたのも初めてで、大学構内も少しのぞいてきました。

大阪市立大学と大阪府立大学が統合され、大阪公立大学になったのが2019年。

公立大学はやはり敷地がゆったりした印象で、私学出身者からすると羨ましい限り。

駅前の食堂は、おかわり自由。

このあたりは私学も公立も同じですが。

住宅街、工場街を縫うように東へ進みます。

南北に走るあびこ筋と交差。

徐々に大和川に近づいてきました。

長居公園東筋と交差する行基大橋。

このあたりで完全に土手に沿うようになります。

唯一私鉄と交差するのが、近鉄南大阪線。

東住吉区矢田付近で、現役線路と廃線が交差します。

近鉄南大阪線の下を、阪和貨物線がくぐるトンネルが残っていました。

ごみ焼却場が見えてきたら、前回の終点、高野大橋はもうすぐです。

15時頃に出発しましたが、すっかり夕暮れになってしまいました。

そして、昔遊んだ高野大橋脇の土手に到着。

このあたりから、再び大和川と線路跡の間に、住宅などが立ち並び始めます。

阪和貨物線の前身は、戦時中に八尾空港へ物資を運ぶ引込路線だったようです。

それで、「戦時中は地図に載っていなかった」という記述を見たことがあった気がするのですが、その裏付けはとれずじまいでした。

私はいわゆる「鉄オタ」ではありませんが、他の交通機関と違う魅力があるのは分かる気がします。

土地に密着してできるものなので、安定感があるというか、物語りが濃いというか……

話が長くなってしまったので、省きましたが、杉本町付近の線路跡が、大和川からかなり離れているのには、大和川の生立ちとも関係しています。

もしかすると「鉄オタ」となれる才能があるのかもしれません。

私としてはかなり楽しく、よく運動できたので、また廃線を歩いてみたいと思っています。

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遊び場だった阪和貨物線跡 ②出戸駅~高野大橋‐2068‐

大谷選手のドジャース行きが決定しました。

選手としてのピークを迎えていることを考えると、実際にロサンゼルスへ観戦に行くか、そうでなければ観戦できる方法を考えなければなりません。

先日のサッカー日本代表の中継問題ではありませんが、最高レベルのスポーツが無料で観れる時代は終わったようです。

さて、どこと契約するか……

大谷選手は年に100億円を得る契約で、こちらは年に1、2万円を払う契約問題ですが。

前回、阪和貨物線は大和路線の加美駅と、阪和線の杉本町を結んでいた貨物線と書きました。

2004年に閉鎖されましたが、実際には大和路線の八尾駅が起点だったようです。失礼しました。

前回に続いて、平野川あたりから更に南に下ってみます。

このあたりは住宅街の中を通り、草に覆われているところが大半です。

ただ、中には駐車場などに利用されている所もあります。

購入できるのか、賃貸なのか分かりませんが、これだけの土地なので、JR西日本も何かしら利用したいところでしょう。

長吉出戸公園は、線路跡に対して駅のような位置関係にあります。

何か付帯施設があったのかもしれません。

もう少し南の長吉出戸2丁目あたり。

踏み切り跡のレールは撤去されていますが、10年くらい前まではレールも残っていました。

線路跡は南にまっすぐ伸びていますが、地下鉄の出戸駅上で長居公園通りと交差します。

その線路跡と道路の間にある、わずかな隙間に建てられたマンション。

間口は2mちょっと。

このマンション、以前も紹介してことがありますが本当に逞しい建物です。

南北に交差する長居公園通りが、高架になっているのは阪和貨物線を越すためです。

自転車も越えられるよう、巨大な歩道橋があるのですが、現在は閉鎖されています。

ということは、この高架も現在は無用の長物になってしまいました。

高架を通過した阪和貨物線は、ここから大和川沿いまで、更に真っすぐ南へ進みます。

柵の跡だったり、電気設備を置く基礎のような物も残っていました。

進行方向右手、西側に大阪市内最大の霊園、瓜破霊園が見えてきました。

瓜破霊園の外周に沿うように、緩やかに西に向きを変えて行きます。

そして、生駒山麓から流れてくる大和川に沿うように、土手の北側を大阪湾に向って進んで行くのです。

中高野街道と大和側が交差する、高野大橋までやってきました。

西を見ると少し先に、阪神高速松原線が見えています。

この辺りは、幼少期の遊び場圏内でした。

4つくらい上に近所の悪ガキを束ねるリーダーがいました。

小学6年生から小学1年生まで、10人くらいが集まり、いつも一緒に遊んでいました。

列車の通らない時を狙って、この土手で段ボールの草ソリをしていたことを覚えています。

いま考えると、かなり恐ろしいですが。

この悪ガキリーダー、ちょっと悪いことが大好きです。

阪和貨物のレールの上に釘を置き、ぺちゃんこにして手裏剣のようなものを作っていました。

もう完全に犯罪ですが、子供のころはそういったタイプが人気者なのです。

特に評判が良い訳でも、悪い訳でもない、阪和貨物線跡をめぐる旅の2回目。

ロサンゼルスから、超大阪ローカルの話で失礼しました。

折角めぐって来たので、もう1回だけお付き合いください。

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お召し列車も通った阪和貨物線跡 ①加美駅~加美鞍作‐2067‐

朝のジョギングコースは、気分次第でコースを変えます。

平野川を通るコースもお気に入りですが、上に線路が通っていることに初めて気づきました。

単線で柵もないので、あまり存在感が無く、気づいていなかったようです。

何より、電車が通っていないのが一番の理由でしょうが。

阪和貨物線跡でした。

平野川から500m程北上してきました。

大和路線とおおさか東線が交わるあたりに、加美駅と新加美駅があります。

阪和貨物線は大和路線の加美と、阪和線の杉本町を結ぶ貨物線です。

緑の電車が通過している方が大和路線で、高架がおおさか東線。

白いビルの手前に踏み切り跡がありました。

まだ信号が残っています。

2004年頃に廃止となったようですが、私が小さい頃は結構電車が走っていました。

それから20年経つので、線路が残っているところはかなり珍しいのです。

加美駅から西に進み、緩やかに進行方向を南に変えます。

南に進むにしたがって、少しずつ高さを稼いでいきますが、このあたりはまだ2.2m。

国道25号線と交差するため、3.8mまでの高さを上げます。

それもあって、かなり廃墟感が強いのです。

ただ緑豊かで、市街地において、一服の清涼剤ともなっています。

線路横のマンションは、結構お得かもしれません。

古びた鉄橋。

くすんだコンクリートの柱脚を、愛おしく感じるのはなぜでしょう。

それ程ゴミが多くないのは、JR西日本が管理、清掃しているからかもしれません。

加美鞍作あたりまで南下してきました。

ここで国道25線を越えるのですが、橋梁部は撤去されています。

更に30m程下れば、冒頭に紹介した所に戻ります。

この辺りは、平野区の中に八尾市が切れ込んでいるエリア。

何か理由があるのだと思いますが、それはまた今度調べてみます。

見上げると枕木に何か番号が振られていました。

25号線の北あたりで、人の良さそうな女性に「この辺りが開けているのは、駅か何かあったんですか?」と聞いてみました。

「昔は賑やかやったけどねエ。駅は無かったよ。

ただ、天皇陛下さんのお召し列車が通ったこともあるのよ」

と、ちょっと誇らしげに教えてくれました。

近所なので、阪和線の存在は勿論知っていました。

いつかここで、しっかり書こうと思っていたのですが、いざ写真を撮りだすと何度も足を運んでしまいました。

今回の写真は、3日分を集めたものです。

折角なので、何回かに分けてレポートしてみたいと思います。

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ゆるかわも描く、変幻自在の天才絵師‐2066‐

地下鉄四つ橋線の肥後橋駅から土佐堀川沿いを西に歩いて3分。

筑前橋からは公共建築が連続して見えます。

大阪市立科学館、国立国際美術館、そして大阪中之島美術館です。

日曜日は、朝こそ冷え込みましたが、日中はすかっと晴れました。

2022年2月の開館で、設計者は遠藤克彦さん。

長きに渡るコンペで勝ち取ったのですが、私は初めて訪れました。

中央にあるエントランスホールからとにかく大きい。

4階、5階にある展示室まで、巨大な吹き抜けの中に2本のエスカレーターがあります。

ここまで贅沢に吹き抜けを使っている美術館はあまり見たことがありません。

4階で開催されている長沢芦雪の特別展示を観にやってきたのです。

入口横にはヤノベケンジさんの作品。

アートには、良いとか悪いとかそういったものとは違う次元の価値がある。

そんな感じでしょうか。

朝一番に行ったのですが、最終日ということもあり館内はすぐに一杯になりました。

残念ながら会場内で撮影可能なのはここだけ。

芦雪は様々な動物を描いていますが、群れているものが多くあります。

江戸時代中期、1754年に丹波篠山の下級武士の家に生まれたのですが、幼い頃に淀へ養子に出されています。

その寂しさが、こういった群れる動物たちを描かせたと考えられているそうです。

それまでになかった写実主義によって、日本の絵画を変えたと言われる円山応挙に若くして弟子入りします。

早くにその技術も習得し、奇想の絵師と言われるようになりますが、その転機は応挙の名代として串本にある寺に赴いてからでした。

南紀の温暖な気候がそうさせたのか、無量寺の襖に描かれた虎図と龍図は最高傑作とも言われます。

こちらは前期のみの展示だったようで、是非無量寺まで行ってみたいと思います。

私は長い掛け軸に描かれた、タコの絵がとても気に入りました。

牛の絵にあるように、大胆な構図がとても刺激的ですが、こういった「ゆるかわ」な動物も沢山描かれています。

この絵は、濃い色の背景に、明るく描かれた子犬が2匹。

スポットライトを浴びているような効果があると解説にはありました。

猿や子犬の柔らかそうな毛、きりっと描かれた虎や龍の髭、そしてぬめっとした光沢を墨の濃淡で描き切った蛸。

変幻自在の天才絵師の名に相応しいと、大満足の特別展でした。

1799年、大坂で客死し、45年の人生を終えるのですが、もっともっと彼の絵を見てみたかった気がします。

帰りに北側へ回ってみると、ここにもヤノベケンジワールドが。

「アートには、良いとか悪いとかそういったものとは違う次元の価値がある」と書きました。

このネコちゃんの前で、多くの人たちが記念撮影していました。

楽しくなければアートじゃない。

そう思っているのですが、残念ながら我が家の子供達にはあまり伝わらなかったのが、少し心残りではありますが。

点青三昧

点青=絵を描くこと。三昧=それに打ち込むと。

芦雪はよくこの言葉を好んで使ったそうです。

彼の絵を観て、やはり私はアートが大好きなんだと認識しました。

やる気十分でアトリエに帰って、私も点線三昧です。

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