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野球狂、水島新司‐1874‐

アトリエmのWebサイトには建築家プロフィールのページもあります。

その中に、BIOGRAPHY/おいたちのページもつくり、1970年、0歳から何枚かの写真を掲載しました。


1974年、4歳。

私のスポーツ歴はスキーから始まりました。

1980年、小学5年生。

しかし小学校で熱中していたのは野球です。

3番サードだったので、多少の自信は持っていました。

低めを打つのが得意でしたが、これはファール(笑)

並行してソフトボールもしていましたが、こちらではピッチャー。

春と秋に地域の子供会単位で優勝を競うのですが、区大会にでる時は小学校オールスターです。そこでもエースでした。

平野区は学校が多く、決勝まで6試合くらいあったと思います。準決勝までは完璧に抑えていたのですが、決勝は打ち込まれて結局準優勝。

前列左から二番目が私ですが、泣きはらしていたと思います。メダルを掛けていないのは悔しかったからかもしれません。

1984年、中学2年生。

中学に入っても野球です。後列の真ん中でチームメイトの頭にピースしているのが私です。

身長は一番小さい部類でしたが、2番ショートでした。実は坊主頭にするのが嫌で、高校は野球部に入りませんでした。

野球は大好きだったので、今の世の中なら野球を続けていたと思います。

1989年、予備校生。

今は無き大阪北予備校のクラス対抗ソフトボール大会。

十三に予備校があったので、淀川の河川敷で真っ黒になるまで練習していました。


なぜ予備校にそんな大会があるのか分かりませんが、5回戦くらいあるトーナメントで優勝。

決勝では文系のトップチームをやっつけました。練習量が違いますから。

1992年、大学3回生。

大学に入るとスキーに戻りますが、学生時代の中盤、一番好きなスポーツは野球でした。

先々週逝去された水島新司さんの漫画は沢山読みましたが、心に残っている作品があります。確か「野球狂の詩」の中にあったなと思い探してみると、見つかりました。

劇場版の映画にもなっていたようです。

製作会社のサイトに「ストーリー」がでていました。

北の狼南の虎 [劇場版]

東京メッツのエース・火浦健には、父親の仇討ちをして逮捕され、野球を挫折した過去があった。しかし、甲子園の英雄・王島大介のプレーを見て再起を期す。メッツに入団した健はある日加代という女性と知り合うが、加代は幼い頃いなくなった母親だった。実は、健と大介はまだ赤ん坊だった頃火災に会い、母に捨てられ生き別れとなっていた双子の兄弟だった。真実を知った健は兄弟対決の末優勝し新人王を獲得し、加代を「かあさん」と呼ぶ。TVシリーズの「勇気編」終了後、好評だった前後編のエピソードを編集して映画化。


代表作「ドカベン」も大好きでしがたが、憂いを秘めたキャラクターが多く登場する「野球狂の詩」は、特に心に残っています。

そのひとつが「北の狼南の虎」です。上のストーリーを少し補足してみます。

北の狼こと火浦健。彼は赤ん坊の時、事情あって母に捨てられます。彼を道端で拾ったのは侠客でした。家族を失ったばかりの彼は、男手ひとつで赤ん坊を育てるのですが、その場面が何とも切ないのです。

成長した火浦健は、甲子園にでるため父に組を辞めて欲しいと伝えます。その結果、父は組に盃を返しに行くのですが、リンチにあい命を落としてしまうのです。

事情を知った火浦健は、父が封印していた日本刀をもち、組事務所へ仇討ちに向かいます。刑期を終えた火浦健は東京メッツに入団し、双子の兄弟と新人王を争うというストーリーです。

おそらく読んだのは40年程前だと思いますが、鬼気迫る表情だったり、悲哀に満ちたストーリーが忘れられません。

子供の頃、家業の手伝いで大好きな野球ができなかったことが、水島新司さんをここまでの野球狂にした動機になったそうです。

人、言葉、本、漫画、音楽、映画、スポーツ……

自分という人間が形成されるにあたって、どれだけのことが影響しているのでしょうか。

野球の面白さ、人生の悲哀を教えてくれた野球狂に心から哀悼の意を表します。

■■■ 『ESSEonline』にコラム連載開始■■■
12月6日「キッチン・パントリー」
1月4日「土間収納」

■■ 8月17日『建築家・守谷昌紀TV』を開設しました ■■

■1月6日『Best of Houzz 2022』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が受賞■

■1月8日『homify』の特集記事に「光庭の家」掲載
■1月7日『homify』の特集記事に「白馬の山小屋」掲載
■10月23日『homify』の特集記事に「阿倍野の長屋」掲載

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◇一級建築士事務所 アトリエ m◇
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

I love white snow【ゲツモク日記チャンネル】第2弾‐1870‐

ゲツモク日記のYouTube版が【ゲツモク日記チャンネル】です。

前回の池原ダムに続いて、第2弾はスキーです。

正月休みの木曽福島行きは一度書いたので、スキー場へ向かう高揚感を綴ってみました。

朝宿を出発。

雪道を走ります。

リフトに乗り。

山頂を目指します。

そして白銀の世界へ。

従妹同士はスキー。

長男のボードも大分さまになってきました。

30歳くらいまではアルペンスキーの試合にも出ていました。

が、久し振りに自分が滑っているのを見ると、やはり腕が落ちたでしょうか。

板が長いのもありますが、あまりターンが切れておらず……

でもいいのです。

真っ白な雪山が見えてきたら、ワクワクしないスキーヤーはいません。

目一杯は滑ったあと、帰りの車内で家族は爆睡です。

そして、ひとりでラジオを聴きながら、満足感に浸ります。

大阪に車を走らせる時間も含めて “I love white snow “なのです。

■■■ 『ESSEonline』にコラム連載開始■■■
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1月4日「土間収納」

■■ 8月17日『建築家・守谷昌紀TV』を開設しました ■■

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完璧ではないから‐1868‐

今年初めの日記は、1月3日の初詣でを書きました。

その前は、年末から1月2日まで木曽福島へ行っていました。義妹家の山荘を訪れるのも3年振りです。

年末年始は厳しい寒さで、木曽福島でも-16℃まで下がりました。

道もピカピカアイスバーンです。

中山道沿いの盆地地形ということもあり、普段は雪が少ない地域ですが、今年はしっかり積もっていました。

さらに気温が低いので、平地でも樹氷となっています。

キリッと寒い雪原に咲く雪の花。

スキー部の合宿で過ごした北海道中部を思い出します。

今回はスノーボード可の、やぶはら高原スキー場へやってきました。

弟の子供3人と合せて5人は、弾けるように出掛けていきましたが、私は年末の寝不足で……

車の中で午前中は寝ていたので、ほぼ子供達とは滑れず。

ようやく夕方に、ひとりで山頂まで登りました。

ひときわ輝くのはどこの山なんだろうと思いながら、一気に滑りおりてきたら足はガクガク。

無理は禁物と、早めに引き上げたのです。

山荘なので食事は自分達で用意します。

初日は義妹がカレーを、2日目は私達が近所のイオンへ惣菜を買い出しに。

大阪から持参したものと合せて、なかなか楽しそうな食卓になりました。

スキー部の先輩の山荘、白馬の山小屋は私の2つ目作品ですが、旧山小屋へ寄せて貰った時も自炊でした。

皆で食べるのがなによりのご馳走ですが、本当に楽しかった思い出しかありません。

デザートも手作りのフルーチェ。とてもいいことです。

その後はこんな感じ。

さらに女の子チームもこんな感じ。

山荘の魅力は、やはり一切の気兼ねが不要なことでしょう。

山頂に神社があると聞きました。

前日、山を眺めていた所から、さらに雪山を登ります。

木の鳥居の後ろには御岳神社の石碑がみえています。

その名の通り、背後に見えるのは霊峰・御岳山でした。

少し高度が違うだけで、全く違う山に見えるものです。

家族の初詣では北野天満宮ですが、私は先にこちらでお参りしました。

今回は滑っているところも含めて、「ゲツモク日記チャンネル」の第2弾として動画を上げるつもりでした。

動画も撮ったのですが、編集が時間切れになってしまいました。機会を改めてまたUPしてみたいと思います。

北海道の雪原を思い出すと書きましたが、この風景を見ていると「池中玄太80キロ」を思い出しました。

タンチョウヅルではありませんが、載せておきます。ハクセキレイでしょうか。

西田敏行演じる報道カメラマンが、杉田かおるらが演じる連れ子の3姉妹を育てる物語ですが、80年代は切ないドラマが沢山ありました。

「鳥の詩」そして「もしもピアノが弾けたなら」と、主題歌・挿入歌も秀逸でした。

♪私の心が空ならば 必ず真白な鳥がまう♪

シンガーソングライター全盛の時代ですが、俳優が歌う魅力もあります。それは完璧ではないから、人の心が入り込む余地があるのだと思っています。

劇作家、寺山修司はこう言っています。

物語は半分作って、後の半分は観客が補完して一つの世界を作っていく。余白が無いといけない。それが演劇の可能性だ。

私の目指す建築像はまさにこの言葉に集約されていると思っています。

良い仕事ができるよう、アトリエも今日からフル稼働です。

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■10月23日『homify』の特集記事に「阿倍野の長屋」掲載
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私を越えて行け‐1771‐

 建国記念日の今日、家族全員が休みと分かったのが先週末。

 「それならスキーに行こう」となりました。

 第2波は収束傾向にあるものの、完全自粛されている方には本当に申し訳ない次第で……済みません。

 なのですが、雪山をみると一気にテンションが上がります。

 もう少し言えば、子供達が喜ぶお出掛けが、スキーかお寿司くらいしかないというのが現実です。

 外食は流石にこの時期なので我慢してもらい、スキーにしました。

 ゴンドラがなく、比較的すいているかなと期待してホワイトピアたかすへ。

 思った以上に人出はありましたが、それでも経営が楽ということはないでしょう。

 スキーと書きましたが、長男だけはボードです。

 私も長男が始めた7年前に一緒に始めました。

 その時にコーチ役を買ってでてくれたのは「滋賀の家」のクライアントでした。

 私が未経験なもので、道具まで全て準備して貰ったのです。

 立ち上がるところからのスタートです。

 しかし一日で、何とか滑れるところまで指導して貰いました。

 それ以来、長男はほぼボード。私は時々ボードです。

 娘もボードをしたいと言っていましたが、今回は大事な試合が控えているのでスキーにしてもらいました。

 板に乗る位置がとても安定してきて、ショートターンがかなり上達しました。

 昼食は密を避けるためにインスタント焼きそばです。

 朝が早かったので、皆が昼寝をしている中、娘は駐車場横で遊んでいました。

 私が思うより雪山が好きなようです。

 妻もスキーは上手いほうですが、ターンの前半にもう少し素早い体重移動が出来ると、もっとターンが切れるはずです。

 まあ楽しく滑れればそれでよいのですが。

 私がボード初心者なので、長男にアドバイスできることは限られるのですが、ターンの原理はそう変わらないはずです。

 「ゲレンデがピカピカの氷だったとイメージして、丁寧に体重移動してみたら」と伝えてみました。

 すると見違えるようにターンが切れてきました。

 本人も「とても良いイメージができた」と。

 自分の行きたい景色を明確にイメージできれば、必ずそこへ到達できるはずです。

 技術が上達したこともそうですが、この原理原則を分かってくれると一番嬉しいのです。 

 2014年のボード初体験の時も論語から「耳順ふ」を引いてみました。再度ここに記してみます。 

子曰はく、 吾十有(ゆう)五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑はず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(したが)ふ。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず

 長男は現在15歳なので、学に志しているはずです。多分。

 しかし、ここからの15年がすっぽり抜けているのは以前から気になっていました。

 学を修めるのに15年掛かるとも解釈できますし、かの孔子でも説明が出来ない期間と言えなくもありません。

 私においてなら、25歳で創業したあと5年でボロボロになりました。30歳の1年は完全に仕事を休み、その間に海外を旅しました。

 やっぱり建築設計しかないと日本に戻り、第二期アトリエmとして再スタートしたのが31歳。

 孔子の言葉をなぞるように生かされていることに驚きますし、人は違うようで、殆ど変わらないのかもと思うのです。

 高校一年生の春休みを境に、長男もある程度大学受験を見据えた動きに入っていくようです。

 ここからの十五年で、何者にもなれますし、何者にもなれないかもしれません。出来れば前者であって欲しいですが、こればかりは親が何を言っても始まりません。 

 子供にしてあげれることは、彼らの選択肢をどこまで増やしてやれるかだけ。よって精一杯働くだけです。

 長男に「大学へ行くまでは全部おごりだから」と言うと、「子供を育てることを、おごりって言う?」と長男に突っ込まれました。

 そういう意味では、あまり親だと思っていないのかもしれません。

 男である以上、全員がライバルです。それは子供でも同じ。私を越えて行けよと思うのです。

 ボードでは完全に越えられてしまいましたが、勿論仕事でね。

■■■1月27日 『Best of Houzz 2021』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が受賞

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

【News】
■12月28日発売『suumoリフォーム(関西版)』にインタビュー記事掲載
■10月23日『homify』の特集記事に「阿倍野の長屋」掲載
■9月11日発売『リフォームデザイン2020』「回遊できる家」掲載
■5月16日『homify』(英語)の特集記事に「下町のコンクリートCUBE」掲載
■5月10日『Houzz』の特集記事に「阿倍野の長屋」掲載
■4月8日『Sumikata』東急リバブル発行に巻頭インタビュー掲載

■2017年11月27日ギャラクシーブックスから出版『建築家と家を建てる、という決断』守谷昌紀がamazon <民家・住宅論>で1位になりました

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建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
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試合は続行中‐1670‐

 温暖化が進む中での暖冬で、今年のスキー場はどこも大変だったと思います。

 廃業を決めたというニュースもあり、野外こそが大好きな私としては寂しい限り。

 子供達を、年に一度くらいは雪上へと思い蓼科へ来ています。

 この辺りは標高が高いので、雪はしっかりあります。

 むしろ暖冬時の方が賑わうそう。

 標高2240mで、気温は-9℃。大阪から392km。

 子供が小さい頃から、よく来ていたので概ね勝手は分かっています。

 2歳の長男を初めて雪上に連れてきたのも、ここピラタス蓼科スノーリゾートでした。

 13年前のことです。

 2010年、実家で陸上トレーニング中の娘。

 あっという間に10年が経ちました。

 6年前に、「滋賀の家」のクライアントにスノーボードを教えて貰ってから、長男はどちらかと言えばボード派です。

 娘はほぼショートターンが出来るようになりました。

 一番の変化は、娘までがスマホを持っていることでしょうか。

 家族のもめ事はほぼスマホがらみで、難しい時代に入りました。

 それでも、何かしらの答えを出しながら進んで行くしかありません。

 宿は蓼科高原内のペンションを妻が探してきました。

 針葉樹の森に夕日が沈んでいきます。

 八ヶ岳あたりの夕日はとても美しいのです。

 ロフトのような部屋で、天窓からは星が見えます。

 夕食は薪ストーブの前で。

 手作りのコース料理に、子供たちが喜んでいました。

 長男が生まれるまでは、本気で国体を目指していました。シーズンになると毎週のように信州へ向かいます。

 冬季国体のアルペンスキーは「大回転」という種目で争うので、各地である試合にエントリーするのです。

 公式記録はあるのかなと探してみると、1998年(平成10年)1月の国体予選の成績がUPされていました。

 成年男子Bに、27歳の私が居ました。

 国体の出場枠は2~3人ですから8位では全く駄目。

 15/51とあるのは、51人の出走という意味のはずです。27歳の私の名誉の為に(笑)

 1998年の2月頃に、初めて自律神経失調症と診断されたので、その直前の時期です。3年弱を鬱で苦しむことになるので、よく出場していたなと思います。

 この時期は、写真を撮る気力も無かったので、この数字に当時の自分を見るようでした。

 経営を教えて頂いた、京セラの創業者稲盛和夫さんは、「どんなことでも数字で語りなさい」と言われていました。

 数字だけが公平だし、客観的に語れるからです。

 また、数字=お金というケースも良くあります。

 長男が将来の仕事のことを意識しているのだと思いますが、お金のことに関心をもつようになりました。

 お金を稼ぐという意味においては、IT長者と私とでは雲泥の差があるでしょう。

 億単位のお金を掛けて奥さん探しをしている人のことを、私が「格好いいと思わない」と言うと、長男に「お父さんが言っても説得力がない」と言われました。

 それはその通りだと思います。ただ、お金を稼ぐことを人生最大の目標としていないのも正直なところです。

 どんな生き方をしたいかが前で、その後に、評価はついてくるものだと信じています。

 負け惜しみに聞こえるのかもしれませんが、誰が何と言おうと、そこが揺らぐことはありません。

 作家、開高健はこう言っていました。

 金を儲けようとすると逃げていきよる。結果として手にするんならええんヤ。そんなもんより名だ、名を惜しむんヤ。いいか、いい仕事しなくてはいかんゾ。

 思えば、身近な人に仕事観を理解をして貰ったことは無い気がします。

 だからこそ、立派な人はどんな考えを持っているのだろうと本を読み続けるのでしょう。

 ただ夢想家で終わるのか、現実とできるのか。試合は未だ続行中です。

 目標が国体出場から、関西建築家大賞、建築大賞、プリツカー賞、世界遺産へ変わっただけ。

 多分、根っからの競争好きなのだと思います。

■■■2月13日 『Best of Houzz』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が受賞

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

【News】

■2月3日 『Houzzの特集記事』「阿倍野の長屋」が取り上げられました
■12月3日 『Houzzユーザーが選んだ人気写真:キッチン編』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が5位に選出
■9月30日発売『suumoリフォーム 実例&会社が見つかる本 関西版』「回遊できる家」掲載
■7月21日BS朝日『大改造!!劇的ビフォーアフター』「住之江の元長屋」再放送
■2017年11月27日ギャラクシーブックスから出版『建築家と家を建てる、という決断』守谷昌紀がamazon <民家・住宅論>で1位になりました
■4月1日発売『デンタルクリニックデザイン事典vol.1』「さかたファミリー歯科クリニック」掲載
「トレジャーキッズたかどの保育園」
地域情報サイトに掲載されました

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憧れのウェーデルン‐1549‐

 新年、明けましておめでとうございます。

 年末年始は、弟家族と木曽福島で過ごしていました。

 白樺、青空。

 歌ではありませんが、天気もよく気分爽快です。

 義妹の親族でもっている山荘に来たのは2年振り。

 元旦の朝、お年玉を家に忘れてきたことが発覚しました。

 子供達にとっては、従兄弟同士5人でいることが何よりのお年玉ですが。

 一番上が中学2年生、一番下が小学3年生。

 子供というものは、いつも遊ぶことにかけては天才です。

 今年は雪が少なめで、少し遠出して開田高原MIAスキー場まできました。

 マイナス13℃まで下がりかなり寒いですが、その分コンディションは良好です。

 上の2人はボード。

 下の3人はスキー。

 特に女の子2人はビュンビュン飛ばしたい派です。

 大人はレストハウスでの休憩が長くなり、子供たちは上達中で積極的。

 ついに、放っておいても子供たちだけで滑るようになりました。

 ソリ遊びも欠かしませんが。

 娘は今回でかなり上達しました。

 ショートターンを完全にマスターするまで、そう時間はかからないでしょう。

 昔はショートターンのことをウェーデルンと言っていたのですが何語だったのでしょう。しかし、憧れのウェーデルンだったのです。

 私は小学校3、4年の頃、志賀高原のジャイアントという急斜面で、ショートターンのきっかけをつかんだことを覚えています。

 急斜面では、谷方向へ体を投げ出すような動きができると、ターン弧の深さもスピードも自在にコントロールできるようになります。

 しかし、この動きが心情的に怖いので、大きなハードルとなるのです。

 上級者を目指すなら、ここが箱根の関所かもしれません。

 娘もきっかけをつかんだのは、急斜面でした。

 努力は必ず報われます。しかし、なにごとにも必ずその前に谷のようなものがあるのは面白いところです。

 初日の出は御嶽山の麓から望みました。

 霊峰といわれる威容には神々しさを感じます。

 麓でみつけた「白川氷柱群」。

 岩から流れ落ちる水が凍ったものですが、ニッと笑っているようにも見えます。

 仕事というものは、面倒で大変だからお代を頂ける訳です。

 「大変を楽しく」はいつも変わらぬモットー。

 今年も無限の可能性を信じ、一年間頑張って行きたいと思います。

■■■毎日放送『住人十色』4月14日5:00pm~5:30pm「回遊できる家」放映

■■■『建築家と家を建てる、という決断』守谷昌紀
ギャラクシーブックスから2017年11月27日出版
amazon <民家・住宅論>で1位になりました

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

【Events】
■4月1日「トレジャーキッズたかどの保育園」開園

【News】
大阪ガス『住まう』11月22日発行に「中庭のある無垢な珪藻土の家」掲載
『住まいの設計05・06月号』3月20日発売「回遊できる家」掲載
『関西の建築家とつくる家 Vol.2』2月1日発売「阿倍野の長家」掲載
『homify』6月29日「回遊できる家」掲載
『homify』6月2日「イタウバハウス」掲載
『houzz』5月28日の特集記事「あちこちでお茶できる家」掲載

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ともよ‐1455‐

 福井県が大雪となっているようです。

 スキージャム勝山だったり、今庄365だったり、福井には結構スキー場があります。

 雪が降らなければ話にならないし、降りすぎては国道が麻痺。連休の書きいれ時を前に、気をもむところでしょう。

 前に一度、友人論を書いたことがあります。

・友達は、別に帰る場所がある。

・家族ではないので責任は負わない。

・双方向の関係である。

 この時は、私にとって初めての友人のことを書きました。

 月曜日、スキーのことを書きながら、ある友人のことを考えていました。

 2、3歳の頃からスキーをしていたので、自分よりスキーが上手だと思う子供と会ったことがありませんでした。

 70年代の大阪の下町。スキーをしたことがない子供が大多数で、当たり前と言えば当たり前です。

 雪国へ行けばいくらでもいるのですが、そこは別ものと勝手に区分けしていました。子供のことなのでひとまずご容赦下さい。

 小学6年生の時、ある公立中学の修学旅行に同行させて貰うことになりました。

 当時、大阪の公立中学は、スキー修学旅行が多かったのです。

 父が「どうせスキーをするのなら、しっかりした人から教えて貰った方がいい」と思ったのだと思います。

 道具を買っていたスキーショップの専務に相談すると、ある中学校の体育の先生に話が行ったようです。

 全く縁のない中学の修学旅行に参加するという、不思議なことになりました。

 アルペンスキーをしている人でも、先生は結構多いのです。

 それで、SAJ(全日本スキー連盟)の検定試験(バッジテスト)の指導員も多くおられ、修学旅行自体がそのバッジテストの練習を含んでいました。

 それに参加してみたらという話になったのでしょう。私と弟、近所の友人兄弟の4人での参加でしたが、言ってみればスキー武者修行です。

 引率する先生のお子さんも数名参加していて、その中に5年生の男の子がいました。

 ちょっと勝気で長身の彼は、そのバッジテストで確か2級に合格しました。

 私は3級を取得したのですが、その違いはショートターンのあるなしだったと思います。

 自分ではショートターンも出来ると思っていたのですが、2級以上を受けさせて貰えず、明らかな差がでました。

 年下の長身君の方が上手いと認識せざるをえなかったのです。

 大学に入り、2回生からアルペンスキーをはじめたのですが、その5月だったかに、この長身君と再会しました。

 彼もある大学のスキー部に入部していたのです。

 小学生以来でしたが、顔を見ればお互いすぐに思い出しました。同じような年代なので、国体予選でも一緒になります。

 彼が大学3回、私が4回の時、彼は大阪予選を勝ち抜き、国体へ行きました。この時も完敗だったのです。

 時々顔を会わすと「先輩、先輩」と本当に人なつっこい、可愛げのある男だったのです。

 大学をでて、彼は警察官になりました。

 私が精神的にまいっている頃、誰に聞いたのか、事務所を訪ねてきました。

 彼も仕事をはじめ、肉体的にも、精神的にも大変なようでしたが、昔話をし、私を励まして帰って行ったのです。それが最後の機会になったのです。

 15年程前、彼が急逝したという連絡がありました。死因はよく分からず、突然死と聞きました。

 私は3年弱の鬱からようやく抜け出し、さあ第2期アトリエmのスタートだと燃えていた時期です。会う機会が多かった訳ではありませんが、同志のような後輩でした。

 今度は、先輩として私が彼の話を聞いてあげなければならなかったのに……

 「双方向」というのは一方的でないということです。

 与え与えられ、それが互いに好ましく、持続するということは、簡単なことではありません。

 人は2度死ぬといいます。
 
 体が滅びる時と、人の記憶から消える時です。

 向かいに住んでいた彼も、長身の彼も、いまこの世にはいませんが、私の心の中では生き続けています。

 もし自分が反対の立場なら、誰かの心の中で生き続けるのだろうか……

 そんなことを考えるのは、精一杯生きて、命絶えてからにしようと思います。

 昨年、ようやく彼のお墓の場所を人づてに聞きました。

 ともよ、今年は墓参りに行くから。

ちびっこ暴走族‐1454‐

 歴史的寒波到来で、2018年は寒い冬になっています。

 ポジティブに考えるなら、関西のスキー場でも雪質が良いということ。

 ということで奥神鍋スキー場へ行って来ました。約20年振りでしょうか。

 大阪から2時間程で到着。

 高速が伸び、随分近くなりました。

 昨年まではスノーボード一辺倒だった長男ですが、今年はどちらかと言えばスキー寄り。

 スキーならキャリア45年です。

 この機会にできる限りのことを教えておきたいところ。

 雪予報だったのが、昼過ぎまでずっと青空。

 気温は低いままなので雪は適度に硬く、最高のコンディションでした。

 娘はスピードをだす楽しみを知り、こちらは気が気ではありません。

 緩斜面は常にクラウチング姿勢です。

 この日は、ゲレンデにあるジャンプ台を見つけ、兄妹で遊びはじめました。

 私が「ターンっていうのは……」と話そうとすると、ビューンと滑っていってしまうのです。

 娘は特に気に入ったらしく、 朝の8時半から、夕方の4時半まで、昼以外はずっと滑っていました。

 親は寒すぎて、途中休憩しています。

 2人で延々とジャンプ。

 滑空感はスキーの醍醐味のひとつです。

 飛距離は妻に一日の長ありです。

 奥神鍋スキー場は、大阪府スキー選手権の会場でした。

 長らく出場していませんが、現在もここが会場なのでしょうか。

 大学から始めたアルペンスキーですが、30歳くらいまでは国体出場を目標に、毎週のように信州まで出掛けていました。

 大阪から出場するには、ジャイアントスラロームの国体予選で1位か2位、悪くても3位には入らなければなりません。

 私のベストリザルトは4位だったと思います。結局、国体へは行けずでした。

 「大阪でアルペンスキー」というかなり限られた世界ですが、どんなカテゴリーでも、1番になるのはなかなか難しいものです。

 小さな自慢ですが、1度だけ草大会で優勝したことがあります。

 たった1つだけの金メダルなので家の冷蔵庫の上に置いてあるのです。

 見ると、2004年、氷ノ山国際スキー場となっていました。33歳の時です。

 旗門で制限されたコースを滑り、タイムを競うアルペンスキーでは、試合前に一度下見ができます。

 インスペクションと言いますが、ゆっくり横滑りをしながら、どんなコース取りをするかのイメージを作ります。

 当時、一緒に試合に出ていたスキー仲間が、「このセット、守谷君向きやな」と言いました。

 コースは終盤に急斜面があり、1箇所深いターンがあるものの、かなり直線的なセットでした。

 深いターンは、私が苦手としている左谷足ターン。

 しかし、急斜面の入口にあるため、ポジティブに考えればそこからでも十分挽回できるとも言えます。

 反対に、緩斜面は一度失速すると挽回が難しいのです。

 小さい頃から、急斜面をぶっ飛ばすのが大好きだったので、急斜面は得意中の得意。

 1番になれるというイメージはなかったと思いますが、結果は彼の言葉通りになりました。

 彼の一言がなければ、たった1回も無かったかもしれません。

 誰かが認めてくれたことで、落ち着いて自分の試合イメージを作ることができ、実践できたのだと思います。

 野球でも、スキーでも結局1番にはなれませんでした。

 しかし、多くの失敗経験と、小さな成功体験を与えてくれました。

 考えに考え、時間も使い、トレーニングもし、しかし、誰かに称賛される訳でもない。それでも続けたのは、そのスポーツが好きだったからです。

 また、スポーツを通して得た友人は同じ根を持っており、互いのリスペクトもあり、より深い付き合いができたと思います。

 私に関していえば、初めの3作品は全てアルペンスキーの関係からで、スキーをしていなければ25歳で独立することは無かったかもしれません。

 子供達には、何でも良いので、一生の友となるスポーツを持って欲しいと思うのです。

 もしスキーが好きなら、せめてパラレルターンくらいまでは出来るようにしてあげたいと思うのが親心。

 私が声を掛けようとしても、子供達はビュンビュン飛ばして行ってしまいます。

 子供の頃、「ちびっこ暴走族」こそが最高の褒め言葉だと思っていました。

 考えてみれば、それこそがスキーの醍醐味だったのです。

雪道で思う、マナーや道徳観では弱すぎる ‐1447‐

 今日は1月11日で111のゾロ目。

 何となく縁起の良い、そしてとても寒い朝ですが、少し苦言を呈してみたいと思います。

 最近ウィンカーを出さずに車線変更をする車が増えたと感じるのは、私だけでしょうか。

 スマホの影響もあると思いますが(運転中の操作はもちろん違反です)、ウィンカーは他の車に自分の意思を伝えるためのもの。

 周りもそれを察知し、スピードを緩めたりすることで、より安全な車の移動がかないます。言わば安全の相互扶助。

 車同士の距離が離れているからと、ウィンカーを出さずにいきなり車線変更をするのは身勝手な行動で、完全に間違いです。

 年末年始の東北行きで、かなり怖い場面がありました。

 1月2日(火)の深夜2時頃、娘が体調を崩して救急病院へ連れて行きました。

 蔵王温泉スキー場から山形市内の病院まで山を下り、ホテルに戻ったのが明け方の4時。娘が容体が落ち着いたのが何よりでした。

 この日は雪が降り続き、気温は-10℃。

 山形市内の路面はアイスバーン化してしました。

 学生時代から車は4WD一筋ですが、ディスカバリーはやはり悪路に対しての性能は高いと感じます。

 しかし、滑る時はやはり滑ります。

 今思えば、このとき予行演習をしておいてよかったのかもしれません。

 翌1月3日(水)は蔵王温泉から、フェリーのでる仙台まで100km程の移動です。

 夜が明けても雪は降り続き、宿を発つ際に再度雪かきをしました。気温は-9℃。

 鼻水を垂らしたようになっていますが、人が立っているのも難しいなかを、車は走るのです。

 大半の宿泊客はスキーをしてから帰るので、朝に宿をでる車は多くありません。

 山形自動車道へ通じる山道はおよそ20kmの下り。

 ナビで下見をすると、後半は九十九折のカーブが続いています。

 また、反対車線はスキー場を目指して気が急くのか、かなり飛ばしてくるのです。

 センターラインを割ってくる車両もあり、これは気を付けないと、と思っていました。

 終盤、更に雪が激しくなってきました。

 最後の峠を越える前、車を一旦脇に停めて一部凍っていたワイパーの氷を取り除きました。

 学生時代、冬の北海道での合宿中に初代サーフを電柱にぶつけた経験があります。

 雪道をどれだけ飛ばして来たかを自慢する人は結構います。

 しかし私の限られた経験でいえば、凍った道の上で制動を失った車を操る方法はありません。

 自衛したければ、ゆっくり走るしかないのです。

 また、曇ったゴーグルでは判断力が落ちるように、フロントガラスは、常に先回りをしてケアをすべきだと身をもって知りました。

 山道もこの峠を下れば終わり。

 ギアをセカンドにして、エンジンブレーキでこの坂を下り、2度程カーブを切ったその先に、下りの直線が見えました。

 反対車線を除雪車が登ってくるのが見えました。その距離およそ100m。

 その後ろに、乗用車が3台続いています。

 見えたと同時に、一番前の車両が何と除雪車に追い越しをかけてきたのです。

 ローまでギアを落として更に減速しますが、どう考えてもこのままでは正面衝突するしかありません。

 対向車は後ろの車を気にしてか、自分の車線に戻る気配はなし。

 ブレーキを踏みますが、車のABSが働くまでもない軽いグリップのみ。

 完全に滑りだしました。

 車が滑った場面を経験したことがある人なら想像してもらえると思いますが、まるでスローモーションの映像を見るようです。

 これはぶつかるかも思った瞬間、偶然左にパーキングエリアのような空間が現れました。左にハンドルをきり、何とかそこにねじ込んだのです。

 真っ白なパーキングエリアの中でも滑り続け、180度回転して運転席側のボディーを雪の壁にぶつけて、ようやく車が止まったのです。

 幸い、雪の壁に当たる時には、かなり減速していたのと、深い新雪だったので、車体には何のダメージも残りませでしたが、怒りだけが残りました。

 雪で見えない側溝に、前輪が落ちていましたが、目一杯ハンドルを切り、バックで脱出すると、心配そうに一部始終を見ていた除雪車の作業員も、車を発進させていきました。

 つまらない自慢をしたい訳ではないのですが、峠の入口で十分に減速していなければ、確実に正面衝突したと思います。

 偶然左手にスペースが現れたから良かったものの、かわす寸前の対向車との距離は1mは無かったと思います。

 しかし、その車は止まる訳でなく、そのまま蔵王へ向かって走り去っていきました。

 これを機に、ドライブレコーダーを付けることにしようと思います。

 車は2tonもある鉄の塊で、これが高速で移動するのですから完全に凶器です。

 その車を操っているという自覚を持たない、ドライバーがあまりにも多すぎると思うのです。

 ある外科の名医が、こんなことを言っていました。

 「本当のプロは、目の前に水が入ったコップがあったなら、その後ろにあるものを、無理な体勢で取ろうとはしない。

 まずは、手前にある水の入ったコップを除け、危険な要素を排除してから、その後ろにあるものを取る」

 昨年、危険運転で捕まった不届きもののドライバーは、足で運転するのを自慢していたそうです。こういった輩は、プロの対極にいる人達。

 守られた鉄の箱の中でだけ、強気になれるタイプなのです。

 また、強引な運転で割り込んでくるドライバーが、普段の仕事の中で、1分1秒を大切に生きているとは想像できません。

 普段ダラダラしている者に限って、ギリギリに家を出て、焦って危険な運転をするのです。

 最後のくだりは私の勝手な想像ですが、大きくは外していないと思います。

 「杞憂」は、昔、中国の杞の国に、天が落ちてきたらどうしよう、地面が崩れたらどこに逃げたらいいだろうと心配して、夜も眠れず、食事も喉を通らなくなった人がいたという故事によるものです。

 概ねは、取り越し苦労の意味で用いられるもの。

 しかし、ハンドルを手で握らない者や、車線の中央から追い越しをしてくる者が居るなら、杞憂では終わらせられない時代に入っていると感じるのです。

 車はとても便利なものだし、大好きですが、あの簡単な試験で、免許を与えてよい時代は終わったのかもしれません。

 不適格者には免許を与えない、勇気をもった、厳しい審査と試験が必要なのではないかと思います。

 飲酒運転やひき逃げの厳罰化は当然だと思いますが、残念ながら、マナーや道徳観に頼る時代はもう終わっているのではと思うのです。

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すきすき大スキー‐1354‐

 すきすき大スキー

 わたしはスキーがすきだ

 だから今年もお父さんに行きたいとたのんだ

 だけどお父さんは

 今年はお兄ちゃんのべんきょうがあるからむりや

 わたしはがっかりした

 娘が書いた4連からなる詩のでだしです。

 先生から褒められたとノートをみせれくれました。

 それほどスキーが好きだとは私が分かっておらず……

 久し振りに行ってきました。

 昨年の正月、御岳山のふもとにある開田高原へ行って以来です。

 高鷲スノーパークはトリコロールカラーのゴンドラがトレードマーク。

 良い天気に恵まれました。

 向かいには昨年は滑っていた、霊峰・御嶽山が見えます。

 中級コースまでなら、家族4人で滑れるようになりました。

 娘がこけたのは、2回くらいか。

 だいぶ安定感がでてきました。

 長男は2014年の3月からずっとスノーボードでしたが、この日は久し振りにスキーをしたいと。

 急斜面を滑っているとき、パラレルターンのきっかけをつかんだようです。

 急斜面ではハの字に開くボーゲンでは滑りにくく、スキー板を平行にしてターンするきっかけを掴みやすいのです。

 「それっ!」みたいな感じで伝えました。

 スキーは私が教えられる数少ないものなので、何とかここまで滑れるようにしてやりたいと思っていました。

 この日が「楽しい」の分水嶺になれば良いのですが。

 「白馬の山小屋」のクライアントの長男さん(ややこしい表現ですが)は私の6つ先輩です。

 クライアントが亡くなられてからは、白馬まで頻繁に足を運び、山小屋を守って下さっています。

 関西で競技スキーをしていて、この方を知らない人は居ないのですが、今年はお子さん2人が大阪府代表の国体選手に選ばれました。

 長男さんは国立大学へ通い、中学3年生の娘さんも希望の高校に合格したようです。

 親子3人での国体行きを目指してしたのですが、お父さんは100分の3秒だったか届かずだったそうです。

 2005年に、四天王寺にあった「欧風カレー工房 チロル」のファサード改修計画を手伝いました。

 店主は、若い頃から一緒にスキーをしてきた仲間でした。

 その後、そのお店は飛騨高山へ移転したのですが、メディア等でも取り上げられる人気店です。

 飛騨高山の自然に惚れて、越していきましたが、もうひとつの理由がスキーです。冬の間は店を閉め、競技スキーに打ち込むのです。

 昨年だったか、全国クラスの大会で、優勝していたと思います。

 高校野球の指導者に、「どんな選手が伸びますか」と聞くと、多くは「野球が好きな子」と答えるそうです。

 30歳近くまで、私も本気でスキーに取り組んできたつもりですが、この2人を見ていると、その「好き」には及ばないなとはっきり分かります。

 特に、6つ上の先輩の長男さんは、関西の国立大に通っています。まさに文武両道。

 お子さん2人がこの結果を出す程、お父さんの好きが凄いのだと想像するのです。

 娘がもし、本気でスキーをしたいと言ったら、はたして応えてやれるだろうか……

 自然の中でのスポーツは本当にいいものです。

 すきすき大スキー。

 なかなかいい題です。