それは自らの手で

 昨日は、子供達が妻の実家へ行っていました。

 それもあって、朝一番から3つ現場を回ってきました。

「東田辺の家」は掘方が始まりました。

 日曜の朝は道も空いており、車で移動。

 街路樹も色づいてきました。

 「あちこちでお茶できる家」は、屋根、金物関係の中間検査を間もなく迎えます。

 「サンルームと吹抜のある家」は引越しが済んだにも関わらず、少し工事が残っています。

 クライアントには迷惑を掛けていますが、これには良い結果で報いる他ありません。

 現場には発破をかけてきました。

 夕方には投票へも行ってきました。

 昨日の大阪はW選挙と言われ、市長選は60%を超える高い投票率。結果は市長が橋下徹氏、府知事が松井一郎氏でした。

 誰に投票したかは差し控えますが、2人には身を粉にして頑張って頂きたいと思います。はっきり言えば、政治家というのは、市民、府民の下僕だと思える人の事だと思っています。

 以前作家の五木寛之氏の話に、大変共感できたので、政治に対するスタンスを書いてみます。

 5年程前だったでしょうか、イタリアを題材に多くの作品を多く書いている、塩野七生さんと対談がテレビで流れていたました。

 五木氏が「塩野さん、新聞って読んでます?」と。「読んでますよ」と塩野氏。

 「僕は読むのをやめたんでよ。ニュースを読んでも暗くなる話ばかりだし。で、どう出来る訳でもないでしょう。読む必要ってあるんですかね」
 と言うような会話でした。

 新聞を読んでいる私が言うのも何ですが、この意見を聞いたとき「そうだな」と思ったのです。

 社会の流れや、風潮を知るのは大切な事です。例えば、株価の上昇、下降などが分かっていなかったりすると、経営者の集まりの中で、トンチンカンな事を言ってしまったりします。

 海外からの輸入や輸出に関わる人や、株を持っている人にとっては、最重要事項だと思います。

 しかし私にとって、知ったところで、円高を止める事も出来ないし、それらによる損失を補う事もできない。目を背けたくなるような悲しいニュースを、真正面から読んでみても、私には何も出来ないのです。

 それらが他人事と思っている訳ではありません。全ての情報において、ネガティブな想像をする事に、全く意味がないのではと思ったのです。

 建築家ル・コルビュジエは、ヒューマンスケールを提唱しました。身長を基準とし、黄金比で割って行く、普遍的な尺度「モジュロール」という考えを発表したのです。

 また、宮崎駿は「半径3m以内に大切なものはぜんぶある」というメッセージを発しています。 

 政治に期待をし、興味を持つことは重要な事です。しかし、それぞれが目の前にある事に精一杯打ち込む事のほうが、何十倍も大切に決まっています。

 大阪を、日本を、世界を良くするのは、自らの手に掛かっているのです。

勤労と安楽と充実

 11月も下旬に入り、徐々に寒さも増して来ました。

 しかし今日は気持ち良い秋晴れです。

 築37年を迎える我が家には、縁側があり雪見障子で仕切られています。

 ここにいつの間にか小さな穴が開き、知らぬ間にのぞけるようになっているのです。

 経緯を聞いても、遊んでいたらなっていたとか、誰々が当たってしまったとか。真相は闇の中。

 すぐに貼り替えようか、とはならない理由もあり、そのままにしていると、妻が補修していました。

 寒さがちょっとはましになるだろうと。貼り替えへ至らない理由は、またの機会に書こうと思います。

 すっかり忘れていましたが、11月は文化祭の季節。

 長男が帽子を作ってきました。この感覚を大人になって持っていたら、ピカソかガウディーだな等と思うのです。

 昨日は勤労感謝の日。この時期になったのは、農業の収穫期というものもあるようです。

 「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」為の祝日とあります。

 依然全国的に失業率も高く、生活保護受給者は過去最高とも。特に大阪市は深刻です。今この理念を、眺めるだけの額にしてはならないと感じます。

 教育、勤労、納税は国民の義務ですが、勤労を義務と考えると、人生は一気に息苦しいものになってしまいます。

 今までで、一番充実していた時間はと問われると、多くの人は、最も苦しかった時期を上げるそうです。安楽は充実を生まないのです。

 そもそも仕事と言うのは大変なものです。だからこそ、仕事となりえ、それをやり遂げた人には感謝と報酬が与えられるのですから。

 生きるとは呼吸することではない。行動することだ。
 -ジャン=ジャック・ルソー- 哲学者

 人生は恐れを知らぬ冒険か、無のどちらかである。
 -ヘレン・ケラー -

 それをやりにおれが生まれてきた。 そのことだけを考えればよい。
 -アーネスト・ヘミングウェー- 作家

 行動あるのみです。

 勤労という言葉には、労働+真面目さを感じます。さらに、その先の成果は問わないというニュアンスも含まれていると言えば言い過ぎでしょうか。

 勤労を尊ぶ。この考えは、もっと声高らかに謳われるべきだと思うのです。

和の心

 先週の土曜日は、見学会に行っていました。
 
 あいにくの雨だったのですが、個人ではなかなか見れない住宅を見学させて貰ったのです。

 私は社団法人日本建築家協会(JIA)という団体に所属しています。

 その中に、住宅部会という会があり11月勉強会の世話人となっていました。

 何を企画しようか考えた結果、普段はアプローチするのが難しい作品を見てみたいと思ったです。

 お願いしたのが、木原千利先生。

 関西に事務所を構えられて約40年。コンテストの審査員等も務められる建築家で、和の心を追求する作風は、唯一無二の存在なのです。

 快くOK頂いたのは、双葉の家。1992年に竣工した作品です。

 住宅につき、見学の募集人数を30人と限定。部会員の皆さんへ案内を送ると、2日で定員に達しました。

 雨ではありましたが、しっとりとした趣もまた良く、内部も大変良い状態が保たれています。住まい手の愛情も伝わってくる、素晴らしい住宅でした。

 木原先生には、この建物の設計意図、ディティールから建築家としての心構え、また現場の職人との関係まで、2時間以上の時間をかけて丁寧に説明して頂きました。

 参加者は設計を生業とするものばかり。皆が輪になって、その一言一言を聞き漏らすまいと、尊敬の念を持って聞き入る姿は、非常に清々情景でした。
 高台寺の傘亭から、双葉の家の屋根を浮かせるというモチーフのインスピレーションを受けた話。
 
 細く、軽やかに見せたいというのは設計者として永遠のテーマだが、それを実現するには、良い材料で、良い仕事をしないといけない。

 また、何とか一緒に実現したいという職人の仲間をつくらないといけない等々、内容は多岐に渡りました。

 初めて電話した時、非常に柔和な話しにホッとしました。その際に「勉強熱心だね」と言われ「なかなか、本物の和の建築を見る機会がないので、是非お願いしたいです」と応えました。

 すると「私の建築は、和ではないけどね」と少し笑いながら言われたのです。

 伝統的な和の建築を再現するのではなく、自然を慈しむ心、招く心、もてなしの心を具現化しているのだというのが、よくわかりました。

 形式ではなく、追求するのは和の心。とて刺激になり、背筋がピンと伸びた感じです。

日記を書こう

 もう10年程前でしょうか。信州へスキーに行っていました。

 確か白馬乗鞍だったと思います。

 次の日はレースに出る予定で、早く寝るつもりでした。

 ロッジの風呂に入りロビー脇を通ると、住み込みバイトが置いていったのか、沢山の漫画が置いてありました。

 何の気なしに見ていると「パチスロひとり旅」というタイトルに目が止まりました。

 パチンコは学生時代にした事がある程度ですが、何故か気になったのです。手に取って見ると、これが面白い。置いてあった2巻をすぐに読み終えました。

 大阪に帰って調べてみると、ブログのような物があると分かったのです。当時、ブログという言葉があったのかも分かりませんが。

 借金を背負ってしまった原作者はパチスロ(パチンコ店にあるスロット)で稼ぎ、これを返済しようと考えました。しかも旅をしながら。全国のパチンコ店を渡り歩くのです。

 勝った日はホテル、負けた日は車中泊。国取り物語風に、全ての都道府県でプラスにするという副題も掲げられていました。

 勝ち負けの内容と、旅先の風景等をそのサイトで発表していったのです。

 これに目を付けたパチンコ雑誌が、連載を始たのが事の始まりだと思います。

 その頃とサイトを久し振りに見てみました。 

 約600万円あった借金が完済したのかは知りません。

 今でも「何代目○○○」と名乗り、企画は続いているようです。こうなってくると、ビジネスの匂いが強すぎます。

 初期の手作り感のあるページには、何か惹きつけられるものがありました。

 半ばもうどうにでもなれという刹那的な感じと、その自由な生き方にちょっとした憧れがあったのだと思います。

 話の内容はギャンブルメインの旅日記ですが、何かとても身近で正直な感じがしました。いつUPされるか分からないのですが、とても楽しみにしていたのです。

 このサイトが、自分も日記を書いてみたいと思う、直接のきっかけになりました。

 自分の考えを正直に書くのはとても難しいことです。良く思われたくない人など居ないからです。

 さて今日は正直に書けたのか。まあ、自分の考えを書くところが少しだったので大丈夫と思っていますが。

社会見学 in コマツ

 近頃は大人の社会見学が流行っているようです。

 情報誌にも、お菓子、ビール、インスタントラーメンなど、見学可能なところが色々と取り上げられていました。

 大人になってからのほうが感じることが多いかも、コマツの大阪工場「わくわくケンキフェスティバル」というのに行って来ました。

 地下鉄、天満橋で京阪に乗り換えます。

 少し時間があったので、大川の川べりに出ました。

 桜の葉も色づきはじめ。丁度、水陸両用車が通過して行きました。

 コマツ大阪工場は、京阪枚方市駅からバスで15分程の所にあります。

 門をくぐると、初代ブルドーザーが置いてありました。

 重機の運転体験、フリーマーケット、製造ラインの見学などのイベントがあります。

 仮面ライダーショーなどもあり、人出はかなりのもの。

 ピザハット、ケンタッキー、王将などの屋台もあり、特別メニユーで金額は抑え目になっていました。

 一番楽しみにしていたのが、工場見学。

 何か機会がないと来る事がありません。

 ブルドーザー、クレーン車のラインが平行してあり、組み立てて行く順に見て歩けます。

 通常業務の際にも見学できるようで、非常に整理整頓されていました。

 もし見れるなら、通常営業をしている時のほうが面白いかもしれません。

 最後は、クレーンのアームでトンネルが作られていました。

 なかなか粋な演出です。

 お祭りのような屋台が並び、くじ引きがありました。

 そのはずれ商品が、犬の足にコマがついているおもちゃ。

 下の娘が、あれが欲しいと言いだし、昼ごはんは食べず、泣いて泣いて座り込んで抗議するのです。

 そんな事では買わないと突っぱねていたのですが、長男まで買ってやってくれと泣きだし……

 結局はずれ狙いで(滅多に当りなど出ませんが)射止めました。

 この後、梅田に出たのですが、かなり気に入っている様子で、ずっと犬の散歩を満喫していました。おかげで、ほぼ抱っこせずにすんだのです。

 完成一歩手前のクレーンに伝票が貼ってありした。

 納品先がはアメリカ、ロシア、ニュージーランド等々。

 鉄の塊なので、相当な重量があると思います。

 運賃も納期も掛かるでしょうが、ここから輸出されて行くのです。

 物づくりの国、日本の誇りと言っても大げさではないでしょう。

 このイベントには多くの社員が出勤して交通整理、掃除などをしていました。地域の人、取引先、株主に対してのお礼というのが目的ですが、それだけではないと感じました。

 工場の中を歩く大人にしろ、子供にしろ何度も「凄いなあ!」と驚嘆の声を上げます。

 日曜出勤は大変だと思いますが、この声を聞きだけでもこの会社に務めて良かったと思うのではないかと感じたのです。

 大切なのの安楽でなく充足。そう思うのです。

アメリカの旅⑤ <さよならニューヨーク編>

 前日の夜中から書いていた日記をようやく朝の5時にUP。

 7時にグランド・セントラル・ターミナル付近のレンタカーショップへ。友人に借りていたラップトップを返しに行く為です。

 概ねパッキンは済ませておきましたが、結局寝る時間はありませんでした。

 バックパックを背負って、北へ2km程でしょうか。

初日の初めに訪れた、エンパイヤー・ステート・ビル。あっと言う間の5日間でした。

 ミッドタウンにある、普通のショップ。

 微妙にかかっこいいのは何故でしょう。

 クライスラー・ビルのライトアップはとても上品。

 すぐ西にはグランド・セントラル・ターミナルです。

 最上部の彫刻は、まだ見えません。

 友人が車を返し、手続きを済ませた頃、ようやく日が当たり始めました。

 彼へラップトップを返し、これで一通りの用事は終わりました。

 駅の2ブロック西にあるブライアント・パーク。

 ここにはスケートリンクがあり、しかも無料なのです。それを見ながら朝食でも取ろうという事になりました。

 コーヒーとクロワッサンを食べながら、映画監督の友人と最後の最後まで、色々な話をしました。

 その後彼に礼を言い、マンハッタンからバスでジョン・F・ケネディ国際空港に向かったのです。

 現地時間、11月7日(月)1:30pmにニューヨークを発ちました。

 15時間かけて日本時間11月8日(火)の6:30pmに関西国際空港に帰ってきました。

 一つ目の感想は、思った程英語が通用しなかったな、という事。

 勉強もしていないので当たり前と言えば当たり前なのですが、もう少し話せるイメージでした。

 それを友人に言うと「英語の中で、一番嫌いなところから勉強すればいいよ。そこが、一番欠けてるところだから」と。

 なるほど。これはどんな場面にでも通用する名言です。

 旅の本質が、トラブルと自分との対話にあるなら、独りを最良とします。

 しかし今回のシカゴ行きにしろ、ペンシルバニヤ行きにしろ、現地で暮らす友人のサポートなしではありえませんでした。本当に有難いと思います。

 しかし、トラブルと孤独を求めた旅に、自分がもう出られなくなったこと
も改めて認識しました。

 何故なら、それらは多くの時間を要するからです。帰国した次の日に、予定があるようでは無理なのです。これが2つ目の感想です。

 それはとても寂しいのですが、それでもまた出掛けて行きたいと思います。

 独りで、初めて知らない街に降り立つ時。何とも言えない、昂揚感に包まれるからです。

アメリカの旅④ <ペンシルバニヤ・落水荘編>

 この日は、友人とフランク・ロイド・ライト設計の落水荘へ。

 落水荘(Fallingwater)は1936年の作品で、アメリカで一番有名な住宅と言ってよいでしょう。

 しかし場所はペンシルバニヤの片田舎。ニューヨークからは車で行くしかないようです。

 朝一番、グランド・セントラル・ターミナルの1ブロック北東へ。レンタカーショップで待ち合わせました。

 東には、ライト、ミースと並び近代建築の3大巨匠のひとり、ル・コルビュジエが設計に関わった国連本部ビルが見えます。

 車はホンダ。GPSも含めて134$でした。

 準備が終わると、ニューヨーカーはまずはコーヒーです。セルフで1$でした。

 マンハッタンを出てひたすら西へ向かいます。

 まずはルート78、続いてルート81、ルート76……最後は州道381。ひたすら西へ西へ。

 驚いたのが、はねられたシカの多い事。シカも災難ですが、かなりの大きさなので、こちらが安全である保障はありません。

 12:00pmを過ぎ、昼食にダイナーへ。

 日本で言うファミリーレストランのようなものと言っていました。ステーキが15$くらい。日本と同じ様な値段でしょうか。

 ようやく州道にはいり、ぐっと田舎の風景になってきました。

 この時点ですでに3:30pm。予約してあったツアーは3:00pm。最終のツアーは4:00pm。それでもニューヨーカーは焦りません。

 ようやく着いてたのが4:20pm。ゲートに居るおじさんと交渉すると、外観ならOKだろうと。

 折角来たので、門前払いは辛いので、まずは第一関門突破です。

 ここは完全に森の中。アプローチがまた長い。

 焦る気持ちの中、ついに見えてきました。

 日は落ちつつありましたが、ダイナミックなロケーションの中、その住宅は大きく川へ張り出していました。全く期待に違わない迫力でした。

 下にあるのが母屋、上にはゲストハウスがあります。

 丁度外観写真の左側にあるのですが、母屋の裏を通って行きます。この建物が、自然の岩を基礎としているのが良くわかるのです。

 後で何とか入れて貰うことが出来るのですが、召使いの部屋はこの岩の反対側にあります。

 これがなかなかに素晴らしい空間でした。

 ゲストハウスには、最後らしいガイドツアーの一行がいました。

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 大げさに「彼は日本の建築家で、これを見るために日本からやって来た」とか言って友人が交渉してくれるのです。

 何とも、むずむずとした居心地の悪さもありましたが、交渉成功。一緒にゲストハウスの内部に入る事が出来たのです。

 ここも内部撮影は禁止。8:30amにツアーに申し込んでおけば大丈夫なのですが、これは物理的に無理でした。

 石積みのディティール。

 ゲストハウスと母屋を繋ぐ通路の屋根。

 まるで折り紙のように、限りなく繊細です。

 外部照明もライトにより設計されたもの。

 友人がツアーガイドに、出来れば母屋の中も見せてくれないかと更に交渉。

 自分の権限では、改築したキッチンだけで精一杯だと。キッチンに入れて貰うと隣はもうリビングとダイニング。

 結局、リビング・ダイニングにも通して貰い、ほぼ全てを見せてくれたのです。

 最後は個人ガイドのように案内してくれ、とっても気のいいお兄さんでした。

 優しい照明。

 柔らかにつながる内部と外部。

 この家の為に、完全にデザインされた家具。

 面積は大きいのですが、豪邸と言った趣でなく、スケール感がコンパクトで、とても優しいのです。

 何度も補修されたという、大きく張り出したテラスは、流石の迫力でした。

 中央には川へ降りる階段が貫かれており、夏は足を浸しそうです。

 この水平線の強い住宅は、美しく夕焼けに映し出されていました。

 また来る日があるのかないのか。それは分かりませんが、2度3度と振り返りつつここを後にしたのです。

 考えてみれが行きは8時間掛かりました。500km程との予想でしたが、どうも600kmはあったようです。

 帰路は道も分かっているので、6時頃に出て夜中の1時頃着きました。

 友人も帰りは眠そうだったので、私もアメリカでの初ドライブ。国際際免許も取得して行きました。

 マンハッタンに帰り食事をとなったのですが、なかなか開いている店がなく。

 リトルイタリーのはずれの店で遅い夜食。

 パリーニとかいう、生ハムの入ったイタリア風サンドウィッチがとても美味しかったのです。

 この後、友人にラップトップを借りて日本時間11月7日(月)の日記をUPしたのですが、慣れないMacに手こずってしまい、短い文章を書くのに3時間もかかってしまいました。

 翌朝、返却に行くレンタカーショップで落ち合い、ラップトップを返す約束をし、その日は別れたのです。

アメリカの旅③ <シカゴ・ファンズワース邸編>

 前日の11月4日(金)は、遅くまで友人と飲んでいて、宿に帰ったのが明け方5:00am。

 この日はシカゴ行きの予定で、マンハッタンの西にあるニューアーク空港を7:55amに発つ予定。

 朝が早いので、友人が個人タクシーを予約してくれました。

 6:00amにタクシーが迎えに来た時は寝ていました。下で待って貰い、急いで身支度をして出発。

 何とかフライトに間に合いました。

 気を失うように寝て、アナウンスで起きるともうシカゴの上空。

 すぐにシカゴの超高層ビル群が見えてきました。

 シカゴのミッドウェイ空港には、定刻の9:30amに到着。予約してあったタクシー会社へ電話しました。

 ここから余談が長いのですがひと悶着。

 プリペイドの携帯電話を借りて持って行きました。それがなかなか繋がらず、ようや運転手と会えたのが10:00am。

 目的地はミース・ファン・デル・ローエ設計のファンズワース邸。相当に辺鄙な所にあるようで、先に全条件を伝え、所要時間1時間半で50$で交渉して貰っていました。

 しかしいざ乗ると、行先を聞いていないとか、住所を言えだとか。住所を伝えると、GPSに入れても表示が出ない、だからナビゲートしろだとか。まあ文句しか言わないのです。

 こちらも頭に来ていましたが、地図を渡し、ここに行ってくれと放っておいてのです。

 そんなに複雑でない道程ですが、地図をくるくる回しながら見て、全く分からないと嘆いているのです。無視していると、近くに来ていると判断すると(それも間違っているのですが)、曲がれそうな角を1つずつ曲り始めました。

 これでは着かないと思い、ひたすらに嘆く彼を励まし「ここは地図でココ。次の次を曲がって……」などという始末。

 もう最後の道に入っており、徐々に住所表示も近づいているのですが、シットだのファ○クだのと喚いているのです。

 適当な英語で、問題ない、真っ直ぐ行ってくれと更に励ましていると、ようやく到着しました。すると笑顔で、「グッド トリップ マイフレンド!」と。

 ふざけるな、と言いかけましたが、まあこれが旅の醍醐味です。何故か料金は79$でした。

 長いアプローチを歩いて行きます。

 本当に先にあるのかと思う程。

 ファーストコンタクトは東の側面でした。

 軽やかに持ち上げられた、小さな白とガラスの家が見えてきました。

 ミース・ファン・デル・ローエ設計、ファンズワース邸。1950年の作品です。

 webサイトにもあったのですが、ファンズワース邸は現在改修中。

 真正面に黒いビニールに覆われた工事部分。

 向かって左に伸びたトラバーチンのテラスには工事用の赤いコーン。写真的に、ここは切っておきます。

 ファンズワース邸はミースのアメリカにおける、最初で最後の独立住宅でした。

 建物を外部から支える8本のH鋼で、全てが持ち上げられ、限りなく自由なプランになっています。

 テラスも同様に待ちあげられています。

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その他で地面に接しているのは配管スペースのみ。

 快晴の林の中で、まずはディティールをつぶさに見て回ります。

 内部に入り、ガイドをしてくれるツアーでしたが、内部撮影は禁止。

 撮って良いツアーもありますが、今回は時間が合いませんでした。

 正面は南向きで、北側にはキッチンがあります。

 キッチンも至ってシンプル。

 しかし、工事としては大変な精度が要求され、費用は膨大なものになりました。

 クライアントとミースとの間では裁判になった程なのです。

 目の前は湖。

 内部からは開口部によって切り取られた景色が、我が物になるのです。心地よい余韻を残しながら、帰りのタクシーに乗りました。

 行きとは反対に、とってもフレンドリーな運転手はマイク。

 少し時間があったので、シカゴ市内にある、同じくミース設計の集合住宅、レイク・ショア・ドライブ・アパートントへ寄って欲しい、チップは出すと言ったのですが、遠いからと難色を示しました。

 滅多に来ることがないので、食い下がったのですが、私の英語力ではそこまで。ちょっと残念でした。

 6:30pm頃シカゴを発ち、9:30pm頃マンハッタンの西、ラ・ガーディア空港着。

 ニューヨークとシカゴには1時間の時差があり、しかもこの日を境に夏時間から冬時間へ移行したようです。

 何が何だかわからず、何時間掛かったのかもよくわかりません。

 まあ無事に戻れればそれでいいかと。バスに乗り宿に戻ったのが11:00pm頃でした。

 明日はレンタカーでペンシルバニヤまで車で500kmの旅。急いでベットに入ったのです。

アメリカの旅② <タイムズ・スクエア、グッゲンハイム美術館編>

 この日も快晴でした。

 2日目は、唯一1日中ニューヨークにいる日。朝から気合を入れてゲストハウスを出ました。

 チェルシーというエリアを出て4ブロック北に上がり34th Stへ。

 ここを東に歩くとエンパイヤー・ステート・ビルが見えて来ます。

 キングコングに愛されたビルは、1931年完成で高さ381m。

 クライスラー・ビルを抜いて、ワールド・トレード・センターに抜かれるまで、40年の間、世界で最も高いビルだったのです。

 ニューヨーク・シティーパスは79$で、多くの美術館、観光地のチケットが綴られています。

 86階から、北東方向にあるクライスラー・ビルを見ます。

 南の摩天楼群までは5kmほど。

 最も高いのが建設中のフリーダムタワー。以前のWTCの410mを超え、541mになる予定です。

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  2ブロック南東へ移動するとモーガン・ライブラリー・ミュージアム。2006年。イタリア人建築家、レンゾ・ピアノの設計です。

 こちらは時間の都合で、外観を見ただけ。

 北へ7ブロックほど移動します。

 クライスラー・ビルは42th St沿いに建っています。 

 42nd Stとパーク・アベニューの交点にグランド・セントラル・ターミナルがあり、クライスラー・ビルはそのすぐ東。ここがマンハッタンの中心と言って良いようです。

 中心街を歩いていると、常にクライスラー・ビルの尖塔部が見えるので、迷う事はありません。まさにランドマークと言えます。

 1930年に完成したこのビルは、ニューヨーク・アール・デコの最高峰で、頭部のアールと三角窓を組み合わせた部分は、ステンレスで作られています。

 42nd Stを西に6ブロック程行くと、タイムズ・スクエア。

 馬に乗った警官が、旅情を盛り上げてくれます。

 「世界の交差点」とはよく言ったもの。

 最高のキャッチフレーズです。

 ただ、規模は思いのほか小さく、渋谷109をワンサイズ小さくした感といえば、ちょっと怒られるでしょうか。

 本日のメインと考えているのが、シーグラム。今度は地下鉄で北に移動します。

 ミッドタウン・イーストというエリアの5番街と53rd Stでおりて、まずはセント・パトリック教会へ。

 ドイツのケルン大聖堂を模した、美しいゴシック建築で1888年の完成。


 そしていよいよシーグラム・ビルへ。

 ミース・ファン・デル・ローエのニューヨークにおける唯一の作品で、内装はフィリップ・ジョンソンが担当。1958年の完成です。

 今回のニューヨーク行を決めたとき、初めに浮かんだのがこの建築でした。

 I型のマリオンと言われる、外壁を構成する部材はブロンズ製。ガラスも特注のブロンズ色。

 写真で見ると、もしかするとその差異は伝わらないかもしれませんが、私にとっては最も感激した瞬間でした。「愛しの人にやっと会えた」という感じなのです。

 “ Less is more ”の美学を持つミースは、装飾的なものを一切排除し、金属やガラス、コンクリートといった無機質な素材で、限りなくストイックで、しかし自由な空間の創造を目指していました。

 その一つの到達点と言える、記念碑的な建築なのです。

 中に入ろうとすると、エントランスホールに居たセキュリティーに止められました。

 旅行者が簡単に入れる訳もありませんが、僅かに内部空間を体感できたことに、単純喜びを感じていました。

 交差点の対角に建つのが、レバー・ハウス。SOM(スキッドモア、オーウィングス&メリル)の1952年の作品です。

 ブルーブリーンのガラスに覆われたこのビルは、まるで宝石のようです。

 高層棟の下に低層棟がロの
 字方にめぐらされており、中庭があります。

 ハイ&ローの美しさです。例えば、大阪駅前の第1ビルから第4ビルがこの建物のコピーだったことが分かります。

 非難からは何も生まれないが、オリジナリティーというのはこういったものを指すというのが良くわかるのです。

 昼を過ぎたので、シーグラムの前にある屋台で、ハンバーガーを買い、前庭で食べました。

 このお姉さんがとっても陽気な人で、待ってる間にやたらと話しかけてきます。なので「写真をとってもよいか」と聞くと、もちろんと。

 「でもお化粧するから待ってネ(多分)」みたいなことを言ってふざけていました。

 ベーコン・レタス・バーガーとミネラルウォーターで5$くらい。美味しかったです。

 まだまだ移動です。

 ミッドタウンエリアから、アッパー・イースト・サイドまで北へ向かって4km程地下鉄で移動。

 グッゲンハイム美術館へ着きました。1959年フランク・ロイド・ライトの設計。彼の遺作でもあります。

 スパイラル状のフロアはプランがそのまま形態となっているとても有機的でシンボリックな建築です。

 ここから3つ美術館を回りますが、本来ならどれも半日、もしくは1日は掛けて観たいようなところばかり。

 今回は街と建築を見るのが主の目的ですが、気になっている主要な作品だけは見て回りました。

 グッゲンハイムでは、モディリアーニとカンディンスキーが充実していました。ミロ、シャガール、ピカソも揃っています。モンドリアンも見逃せないところ。

 アメリカではどこでもそうなのか、撮影禁止は一切無視して皆写真を撮っていました。

 後ろ髪を引かれる思いで、今度はセントラル・パークを横断します。

 ニューヨーカーの憩いの場所セントラル・パーク。

 先週は雪が降るほど寒かったそうですが、私の滞在中は意外に温かかったです。

 アメリカは華氏48度のような表現なので、実際に何度あったかはよくわかりせんが。

 中央には大きな池。

 これは自然のものなのか、人口のものなのか。ジャクリーン・ケネディ・オナシスがこの周りを良く走っていたという事で、その名前がついています。

 海沿いでは釣りをする人もいましたが、ここでは見かけませんでした。

 セントラル・パークを横断した理由は、ハーレムへ行く地下鉄に乗るため。

 ハーレムは黒人が多く住む街です。前市長のジュリアーノは強硬な姿勢で、ニューヨークの治安改善に努めました。

 その手法には賛否があったものの、治安が良くなったのは事実です。実際に、ハーレムの目貫通り、125th Stにある、ブラックミュージックの殿堂アポロシアターあたりは、全く平穏な感じでした。

 廃墟も僅かに残るだけ。


 ハーレムには、大小の教会が多くあります。

 このようなところで歌われるゴズベルは、ソウルミュージックに大きな影響を与えています。

 少し散策し、東へ移動します。

 125th Stと5th Aveの交差点より東の地区はスパニッシュ・ハーレムと呼ばれます。

 メキシコ、ドミニカなど中南米の人が多く住むようです。

 一本裏通りまで歩いてみましたが、少し廃墟が増えて来たので、ここで引き返しました。

 どれ程の治安状態か分かりませんが、貧しいということはより原始的な生活が営まれていることになります。

 そこに暮らす人の目は、ギラギラしているか、無気力になっているか、概ね2つに分かれます。

 そのにはむき出しの生があります。友人のアドバイス通り、危険かどうかは自分で感じれる、は本来人には備わっている感覚だと思うのです。

 自分の歩いた場所がどんなところだったのか分かりませんが、本来私は、とても慎重な人間なので、おそらく全く問題のないエリアだったと思いますが。

 夕暮れが迫るなか、アッパー・イースト・サイドに戻り、メガ美術館、メトロポリタンへ。

 ここも残念ながら、絞った作品のみ。フェルメール、レンブラント、ラ・トゥールといった光りと影を描く作家と、ドガ、ロートレック、ピカソ、ゴッホまで。

 ここをしっかりみようと思えば、1日半は欲しいところです。

 ニューヨーカーはMET(メット)と呼んでいるようです。メットを後に南へ下ると、ホイットニー美術館。

 ここは残念ながら外観を見るだけ。設計はバウハウス出身のマルセル・ブロイヤーの設計。1966年の作品です。

 ブロイヤーは家具のデザインでも知られ、ワシリーチェアは傑作と言って良いでしょう。

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 ほぼ日の暮れた6時頃、ようやく最終目的地、ニューヨーク近代美術館へつきました。別名MoMA。

 設計は谷口吉生。2004年の作品です。谷口は日本における美術館でもその力量をいかんなく発揮しています。

 丸亀市現代美術館、豊田市美術館は傑作と言え、その先にあるのがこのMoMAです。

 中央に設けられた吹抜けには自然光が注ぐはずなのですが、夜になってしまいそれは体験できず。

 ウォーホール、リキテンシュタイイン、ジョーンズ、ピカソ、マティスそしてゴッホ。もう十分に堪能したのです。

 その後この日ニューヨークに到着した、友人と合流。朝方まで飲むことになるのです。

 翌日はもう大変で……

アメリカの旅① <マンハッタン・下町編>

 一昨日まで出掛けていたアメリカ旅行。ちょっと変則になりますが、今日から5日連続でUPしたいと思います。

 11月3日(祝・木)に1:30pmに関空を発ち、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港まではおよそ13時間。

 日本との時差は、夏時間で-13時間。NY時間の1:00pm頃、初めてのマンハッタンを見下ろします。

 初めて見る印象は、そんなに大きくないな、という感じ。初めに全体像が見れるのは、とても助かります。

 左が北で、セントラルパークが見えます。摩天楼はそのすぐ南のミッドタウンとワールド・トレードセンターのあった南端部、ロウアー・マンハッタンの2ヵ所に集中しているのが良くわかります。


 島の南を飛ぶので、ぽっかりと空いたグランドゼロも見てとれます。


 海外へ出るのは9年振り。

 空港に着くとまずは入国審査です。あの感じを好きな人はいないと思いますが、何とも落ち着かない時間です。

 2、3の質問ですんなりとパス。

 公衆電話からまずはゲストハウスへ確認の電話。バスで行くつもりでしたが、宿の近くにあるペンシルバニヤ・ステーション(通称ペンステーション)行きはないとのこと。

 よって公共の交通機関、エアトレインとロングアイランド・レールロードを乗り継いで行く事に。後で調べると、はやりバスはあったのですが。

 エアトレインに乗っていると、いきなり横を通過しました。

 1962年ジョン・F・ケネディ国際空港、TWAターミナルはエーロ・サーリネンの設計です。

 エアトレイン、ロングアイランド・レールロードはそれぞれ5$と6.25$で1時間弱でペンステーションにつきました。

 ここから私の宿までは歩いて5分程。現地スタッフが来てくれて、チェックインを済ませました。

 公衆電話を探し、ニューヨークに住む友人に電話すると、ウエスト4thという駅の上で待ち合わせる事に。

 緊張感を持ちながら、悪名高かった地下鉄へ。乗ってしまえば、東京の地下鉄よりは単純な路線で、すぐに目的地に着いたのです。

 そこで落ち合い、ノリータというエリアを案内してくれました。

 比較的新しいショップが立ち並ぶ、おしゃれな街でそのまま南へ歩き、今度はチャイナタウンへ。
11 2011_1103_17チャイナタウン - コピー

 しかし、中国人のバイタリティーには恐れ入るしかありません。

 どんな国へ行っても、と言っても良いくらいチャイナタウンはあり、しかも活気があるのですから。

 このエリアから更に南に歩くと、ロウアー・マンハッタン。

 ユナイテッド・ステイツ・コートハウス、連邦裁判所がその入口あたりでしょうか。グランドゼロまで歩き、反ウォール・街運動をしているズコッティー・パークへも行ってきました。

 最南端のバッテーリー・パークまで行くとすっかり日が落ちていました。海にうかぶ自由の女神を見て散歩は終わり。

 今度は私の希望で、友人宅を見せて貰いました。

 一般的なアパートメントがどのようなものか、見て見たかったのです。

 現在暮らすのは、パートナーとネコ3匹。

 バスルームはとても良い感じに、ライトアップされています。

 リビングにソファーベッド、中央に玄関とつながるキッチンとダイニング、もう一部屋が書斎。40㎡前後といったところでしょうか。

 決して広くはありませんが、シンプルなライフスタイルがとても良いなと思うのです。

 家賃は1,200$くらい。10年程住んでいるのでこの金額で、現在の相場なら1,600$くらいかなと言っていました。

 この日は、近くのブラジル

 料理の店で、もう一人の友人も来てくれ、一緒に食事をしました。

 12時くらいまで飲んでいたでしょうか。

 NYは南北の通りを7th Ave(アベニュー)、東西の通りを31st St(ストリート)のように表現するので、とても分かり易いのです。

 街中では、ひっきりなしに

 クラクションが鳴っています。

 歩行者も信号を守らないのでこれは必然。関西の人が最もせっかちだと思っていましたが、世界一せわしないニューヨーカーは信号を守らないのです。

 この日は歩いて宿まで帰りました。初日の印象は「映画で見たまま」と「意外と安全」でした。