タグ別アーカイブ: 建築家

ほめちぎる伊勢‐2315‐

昨日は、始発の近鉄特急、賢島行きに乗りました。

三重県の盆地帯を抜ける際の風景は、何とも穏か。

アーバンライナーの2階席、北側からの風景でした。

伊勢神宮の外宮近くにある宇治山田駅に到着したのが8時前。

駅前でレンタカーの手続きを済ませ、計画地へ向かいました。

計画地は海のすぐ近くにあります。

最高のロケーションですが、青空の写真とはいきませんでした。

ただ、晴れ間の日差しは強烈で、海沿いの緑は力強さを感じます。

クライアント企業の担当者の方に案内して頂き、敷地をくまなく歩いて回りました。

十分把握してから関連行政へ事前相談に向ったのです。

まずは三重県の伊勢庁舎。

建築関連法規は、県が判断権限を持っている分野と、市が権限を持っている分野があります。

国定公園法などは国が判断権限を持っており、関係省庁は多岐に渡ります。

県で都市計画法の打ち合わせをした後は伊勢市役所に移動しました。

こちらでもみっちり打ち合わせ。終わった時は3時を回っていました。

上下水道関係の調査をするためにすぐ移動し、調査が終わったとろで、閉庁時間となりました。

伊勢庁舎の食堂に、伊勢うどんがあったのでさっと昼食にしました。

特徴は、甘辛、太麺、柔らかい。

これが唯一、「伊勢」を体感した場面でしたが、500円は有難い限りです。

宇治山田駅に戻ってくると、すでにライトアップが始まっています。

この駅舎は有形登録文化財に指定されており、NHKの『ブラタモリ』でもフォーカスされていました。

昭和6年の完成で、設計者は久野節(くの みさお)。
高島屋大阪店も彼の作品です。

一日駆けずり回って働き、帰路につく駅舎が美しいと、心が温かくなるのです。

帰りは、伊勢志摩ライナーでした。

車両が格好良いと気分も上がります。
ただ、4時起きだったので、座った瞬間に寝落ちでした。

実は2022年に、同じく伊勢市でかなり大きなプロジェクトの相談がありました。

敷地面積も過去最大なら、建物の面積、棟数も過去最大。

難易度の高い計画でしたが、各所へ事前相談に奔走した結果、「何とか要望通りに建てられそう」というところまでこぎつけました。

しかし、計画自体が先方の事情で頓挫してしまいます。

残念ではありましたが、その時の経験が、昨日もかなり活きたと思います。

移動中「ほめちぎる教習所 伊勢」という看板が見えました。

思わず笑ってしまいましたが、伊勢市役所の人も、三重県庁の人も、もしかすると私をほめちぎってくれるかもしれません。

それが叶わないなら、私がほめちぎってさしあげます。

クライアント企業の皆さんに、完成したあとにほめちぎってもらえることをイメージしながら、今はやるべきことをひとつ地道に進めていきたいと思います。

ほめちぎる伊勢

とってもいい響きなので、このプロジェクトのテーマにしていきたいと思います。

次回の伊勢行きを今から楽しみにしています。

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■9月28日(日)地域のために、リハビリ棟を増築「ささき整形外科クリニック」内覧会開催

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高島野十郎が描く、やるせないほどの美しさ‐2314‐

日曜日は、3月初め以来の完全オフ。

のんびりと、大阪中之島美術館の『没後50年 髙島野十郎展』へ行ってきました。

天気はもうひとつでしたが、暑くもなく寒くもなく。

髙島野十郎は、昨年の夏放送されたNHKの『日曜美術館』で知りました。

絵画はやはりブランド力が大きくものを言います。
誰も知らない絵を観る機会はほぼ無いからです。

しかし、テレビを通してでも感じ入るものがありました。
存命中は無名だったと知り、とても気になっていたのです。

「絡子をかけたる自画像」 大正9(1920)年

高島野十郎は、明治23(1890)年に福岡県久留米市の裕福な酒造家の5男として生まれます。

そして中学生の頃、絵に目覚めます。
東京帝国大学農学部水産学科を主席卒業するという秀才ですが、皆が驚くなか、画家の道を選ぶのです。

独学、独身、美術団体にも属さない、孤高の人でした。

「壺とりんご」 大正12(1923)年

「世の画壇とまったく無縁になることが小生の研究と精進です」と知人への手紙に書き残しています。

明治末期には様々な西洋絵画の情報が日本に入ってきました。

雑誌『白樺』が盛んに紹介したこともあって、多くの若い画家がフィンセント・ファン・ゴッホの影響を受けます。
野十郎もそのひとりでした。

「イーストリバーとウィリアムズブリッジ」 昭和5(1930)年

昭和5(1930)年にヨーロッパ視察の旅に出ています。

その前に立ち寄ったニューヨークで描いた1枚ですが、印象派の影響も色濃く受けていることを感じさせます。

「ひまわりとりんご」 大正時代(1912~1926)頃

ゴッホの象徴とも言えるひまわりに、りんごを加えているところも何だか愛らしいのですが。

「からすうり」 昭和10(1935)年

しかしその筆致はここまで進化します。

遺構ノートが見つかったことで、彼の考えを言葉で知ることができます。

「からすうり」はやるせないほどの美しさでした。

学生時代は魚類の感覚に関する研究を行っていました。

その時のスケッチが公開されていました。

食材としても高級魚のオニカサゴ。もう美味しそうでさえあるのです。

左:「雨 法隆寺塔」  昭和40(1965)年  右:「法隆寺塔」  昭和33(1958)年

詩人だった兄の影響からか、仏教に深く傾倒していました。

写実的な描写が慈悲の実践と考えていたので、絵を描くこと自体が仏の教えに迫ることだったのです。

「積る」 昭和23(1948)年以降

一方、その画風は多彩を極めます。

点描画のような表現が、雪の軽さと、豪雪地帯の雪の過酷さを同時に表現しているようです。

解説には、好んで通った山形である可能性が高いとありました。

最後の展示エリアは、凄い演出でした。

野十郎が生涯に渡って書き続けた、「蠟燭」と「月」が、ほぼ真っ暗な中で展示されています。

「蝋燭」 昭和23(1948)年以降

「蝋燭」 はかなりの点数が展示されていましたが、個展で発表されることもなく、親しい友人や知人に感謝の気持ちとともに手渡された贈り物でした。

「満月」 昭和38(1963)年頃

光を描くという意味では同じ主題ともいえる「月」。

最初は月夜の風景を描いていたのが、晩年はただ闇夜に輝く満月だけを描くようになっていきます。

主役は闇でした。

存命中はほぼ無名だった野十郎ですが、没後5年経った昭和55(1980)年の「近代洋画と福岡県」という展覧会で評価がはじまります。

そして没後50年の、この展覧会に至るのです

独学、独身、孤高ということばで語られますが、不思議と悲壮感は全く感じません。
そこは育ちの良さと、頭の良さからくるのでしょうか。

展示作品は約150点にも関わらず、ほぼ全ての作品に解説があり、全く飽きることはありませんでした。
この展覧会を主催した人達の熱意も伝わってきます。

撮影可能な作品をいくつか紹介しましたが、実物はこの比ではありません。

6月21日(日)まで会期があるので、まだの方に絶賛お勧めしておきます。

孤独ではない孤高の人。

何だかヒントを貰ったような気持ちになりました。

「月」 昭和37(1962)年

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ディープ大阪「天下茶屋」編‐2313‐

昨日の雨に反して、今朝はカラッと晴れました。

水たまりが日を受けてキラキラと美しい朝でした。

雨の昨日ですが、敷地調査に向うため、天下茶屋で地下鉄から南海高野線に乗り換えました。

ラピートを駅でみるとやはりテンションが上がります。

地下鉄堺筋線のインバウンド比率の高さに驚きましたが、こちらのラピートはマレーシア観光をアピールするラッピング車両でした。

マレーシアの人は日本人を見て「インバウンド客の多さ」に驚いているのでしょうか。

現地へ向かう電車から「天下茶屋駅前商店街」のアーケードが見えたので、帰りに寄ってみました。

雨の昼過ぎというのもあるでしょうか、アーケードの人通りは多くもなく、少なくもなくといったところ。

ただ、お店は下町感満載です。

店名だけでは何屋さんか分かりませんが、何が好きかは誰にも伝わってきます。

アーケードを抜けると、道をはさんでもうひとつのアーケードが見えてきました。

こちらは「天下茶屋商店会」とあります。

道路を渡ると、入口の2店舗は絶賛営業中。

が、その奥は閉まっている店が大半です。

一番奥のミートショップは営業中でした。

唐揚げが300円、コロッケは80円だったかなと思います。

昼食を済ませていなければ、買い食いしていたのですが……

ウロウロしていると頬に冷たいものを感じました。

見上げると、換気機能付きアーケードでした。

雨の日に、ちょっと雨を感じるのも悪くないものです。

商店街でなく、商店会というのも何だか腑に落ちたのです。

大阪市のWebサイトにはこうあります。

天下茶屋は、秀吉の時代には最先端のカフェがあっただけでなく、カフェ文化を根付かせた街と言っても良さそうです。

時代とともに、街は振り子のように盛衰を繰り返すものですが、雅俗も含めてなのでしょうか。

西成区のど真ん中、天下茶屋でディープ大阪を満喫してきました。

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上町界隈の名店⑥「大阪の味 割烹とんぼ」‐2312‐

実施設計の最終段階にはいったプロジェクトが「どんな日でも遊べる家」です。

クライアントから、CG公開のOKを貰ったのでUPしてみます。

なぜどんな日でも遊べるかを、良ければご覧ください。

昨日の昼食は、近所にある「割烹 とんぼ」へ行っていました。

創業180年の老舗割烹に行ったのは、日曜日の昼食くらいは贅沢しようと決めたので……というのは冗談で、町内会の総会があったからです。

集会場が少し遠く、町内にある「割烹 とんぼ」で昼食を取りながらが恒例だそうです。

こちらに越してきてすぐに買った「あまから手帖」の2025年1月号。

表紙がこの店の料理だったので、とても楽しみにしていました。

豆ごはんセット2420円、かき天丼1760円、うなぎ丼2750円のメニュー札が掛かっていました。

嫌が上でも期待は高まります。

2階の堀ごたつ形式の和室で、18名での会食でした。

ほたるイカからスタート。

お造り。

煮物と続きます。

そして鯛の煮付け。

煮物はどれも甘めで、箸が進みます。

男性陣は飲んでいる人が大半でしたが、戻ってから仕事があるので、ここはグッと我慢です。

両隣りは面識がありましたが、ほぼ皆さん初対面です。

長くこの地に住んでいる方が大半で、上品な方ばかり。

私達でも「若い」部類に入るということで、とても暖かく迎えてもらいました。

店前のメニューにかき天丼がありましたが、かきの天ぷらは味が凝縮した感じで、大変美味しゅうございました。

「包丁一本晒にまいて」で始まる「月の法善寺横丁」のモデルはこの店の先代だという話や、作家・藤本義一がこの店を贔屓にしていたとか、江夏豊など阪神の選手もよく来ていたとか、面白い話を沢山聞かせてもらいました。

女将さんに「何が一番お勧めですか?」と聞くと、「タコの桜煮です」と。

あまから手帖の表紙になるくらいなので、それはそのはずです。

タコの煮ものがあったのは分かっていたのですが、おしゃべりに夢中で、写真を撮り忘れてしまいました。

痛恨の極みですが、来年も参加する理由ができました。

クライアントから新築しするための土地探しから相談を受けることもありますが、「ご近所さんは選べないので、できれば頑張ってコンタクトを取ってみてください」と伝えます。

しかし、自分が購入した時は、言ったことを全く実行していませんでした。

雰囲気を見ただけで、絶対に良い人ばかりに違いないと確信していました。

自分が住む街を好きな人が多ければ多いほど、街の雰囲気はよくなります。それを実感できた町内会の総会でした。

本の中では4ページに渡って、由緒が紹介されています。

現在の大将は5代目で、息子さんである6代目に引き継ぐのもそれ程先ではなさそうです。

大阪の味を繋ぐ「割烹 とんぼ」。

私の手絡では全くありませんが、そんな店が町内にあることを誇らしく思います。

帰り道も、街の説明をしてくださるご近所さん。

私の直感が正しかったことを確信できた日になりました。

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100万円、宇宙の旅‐2311‐

アトリエの周りは高い建物に囲まれていますが、4階の屋上に出ると視界が開けています。

南側が長堀通なので、煩いと言えば煩いですが、空が大きいのはとても気分がよいものです。

長堀通を少し東に行くと清水谷高校があります。

缶詰で仕事をしていたので、外にでるのは3日振りでした。屋上を除いてですが。

気が付けば、正門脇の桜は、満開を少し過ぎていました。

朝、屋上から上弦の月が見えていました。

先日のニュースで、約半世紀振りに月への有人飛行が成功したというニュースがありました。

月の裏側を回る際に通信が途切れること、人類が最も地球から離れたという点において「歴史的」成功だったという内容でした。

後者においては「歴史的」だと分かりますが、半世紀前に「アポロ計画」で人が月に降り立っていることの凄みを、より感じてしまうのは私だけでしょうか。

1969年7月のことなので、私が生まれる1年前。

日本においては、乗用車の保有率が21.3%、エアコンは5.4%、カラーテレビは21.1%という時代に、です。

今回の「アルテミス計画」が、特別な人が、特別な条件で月を訪れるのでなく、普通の人が、普通の条件で月を訪れることができる1歩なら、「歴史的」という点も大いに納得できます。

現在のエアコンの保有率は90%以上。

その数字を見れば、実現しないほうがおかしい気さえしてきます。

宇宙には縁のない、外野席からのヤジでしかありませんが、100万円くらいで行けるなら、考えるかもしれません。

人によっては500万、1千万と様々だと思いますが、「普通の人が」なら、最大で200万円以下かなと思います。

そんな時代がやってくればと、楽しみにしておきます。

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心の庭にまく水は、感謝か称賛か承認か‐2310‐

4月に入り、街ゆく人たちの動きも軽やかに見えます。

最近、アトリエ内には緑が増殖中。

子育てが終了した妻の癒しだそうです。

毎日霧吹きで水をやり、日当たりの良い場所に動かし、甲斐甲斐しく世話をしています。

アトリエで多くの時間を過ごすので、緑はもちろん大歓迎です。

打合せの花瓶に活けてあった桜の枝は、あっという間に満開になりました、

月初からの入社試験を軽くクリアした彼は24歳です。

大学の建築学科を卒業して2年。様々な経験を積み、当社の門を叩いてくれました。

1996年の創業以来仕事も増え、2020年頃まではスタッフも育っていたと思います。

しかし新型コロナあたりを境に入社希望者が減り始め、年々それは顕著になっていきました。

同業者に聞いてみると、多くは同じようですが、仕事とスタッフ育成の、どちらも上手くやり遂げている会社もあります。

2025年の2月に上町に移転し、第3期アトリエmをスタートしましたが、チームの拡充は最優先課題です。

緑は道ゆく人からはどう見えるのでしょうか。

仕事も、見るとするとでは全く違うものになります。

単に甘やかすことはNGですが、やはり「育てる」という心構えが大事なのだと感じています。

京セラ創業者の稲盛和夫さんに盛和塾で教えて貰った、哲学者、ジェームス・アレンの言葉です。

心の庭に種を蒔き、毎日雑草を抜き、手入れをしなければ美しい花が咲くことはないのです。

また、子供に愛情を注がない親はいません。

考えてみれば、同じことを社内でも実践するだけです。

ということは、妻に学ぶべき?

心の庭にまく水は、感謝か称賛か承認か……

同じ轍を踏まぬよう、成熟したチームとなるよう、何とか前進したいと思います。

何より、この会社を選んでくれたことに報いなければなりません。


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上町界隈の名店⑤「鮨 東野」‐2309‐

アトリエのある上町は、地下鉄の谷町6丁目と玉造の中間くらいに位置します。

「隠れた」と書くと怒られそうですが、周辺には、パン屋、ケーキ屋、ラーメン店などが結構あります。

それらを紹介するのが「上町界隈の名店」シリーズ。

第5弾は「鮨 東野」。

アトリエから歩いて2分くらい。もう目と鼻の先です。

最終発表で合格が決まってすぐ、娘に「何を食べたい?」と聞くと、間髪なく「お寿司!」。

こちらのお店は「鮨」ですが。

20時からカウンター席が取れ、お祝いに行ってきました。

カウンターと半個室が1部屋の店内はまだ新しく、移転してきて2年だそう。

醤油の場合は刷毛で塗ってくれるスタイル。

娘の大好物、シマアジです。

貝好きの私は赤貝。

炙った金目鯛は濃厚な味わい。

生姜が乗ったサヨリも非常に良かったです。

関西ではやはり鯛。

芽ネギが同じレベルで美味しかったのには驚きました。

天ぷらは、鱚とアスパラ。

固すぎないホクホクタイプで、大変おいしゅうございました。

スダチとブリカマは鉄板。

画的にはあまり映えていませんが、一番好きだったのはアナゴ。

甘さ、醤油加減、食感とも素晴らしかったです。

シャリが人肌くらいの温かさで、そこも新鮮でした。

一番驚いたのはお代。あまり飲まなかったとは言え、3人で2万円くらい。

閉店の22時まで、十分に堪能させて貰いました。

1人暮らしを始めたら、なかなか寿司にも行けないだろうと奮発しましたが、父親にも優しい店でした。

子育てが終了した妻は、友人とどんどん食事に出掛けだし、新しい店を開拓中。

そのおこぼれに私が預かるという構図です。

まあ、家族が幸せであればそれで良いのですが。

子供たちが帰省した時、4人で寿司が恒例化したとしたら……

やはりチチハタラクの構図はまだまだ続きます。

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サクラサク×2 突然の子育て終了‐2308‐

大阪城公園の桜は、3分~7分咲きといったところです。

最も個体差がある時期で、ほぼ満開の樹もありました。

我が家では満開のサクラが咲きました。

3月26日(木)の最終発表で、合格の吉報が届いたのです。

長女は夏にあった国公立の推薦試験で不合格になってから、東京の私学を第1希望に決めました。

志望校選びは、娘と妻で、得意不得意、問題の傾向、倍率、就職など、かなりリサーチしていました。

どんな受け方が最も合格しやすいかを調査する力は、妻にはえげつないものがあると思います。

最終的に、東京を2校、関西を2校受けたのですが、1回目の発表では、東京は1学部も通らず、関西のほうは全ての学部に合格していました。

第1希望のほうが偏差値は上ですが、関西は全て通っていたので「追加合格はあると思う」と娘にも家族にも伝えていました。

関西の私学は全て合格するが、東京の私学に全く届かないという微妙な実力になるほうが難しいと思っていたからです。

2月の合格の時に、タイトルを「ツバキサク」にしたのは、もう1回あるという願いを込めてでした。

合格が分かったのがこの時期なので、すでに入学金も授業料も振り込んでいます。

入学前のオリエンテーションにも参加し、気の合う友達ができたと喜んでいました。それで、合格が分かってから、どちらに行くか1日悩んでいました。

しかし東京へ行くことに決め、慌ただしく東京行きの準備を始めたのです。

これは昨夏撮った家族写真のうちの1枚。

長男は4月から4回生なので、東京暮らしも4年目に入ります。

もちろん下宿先も決まっていないので、一旦長男の下宿先に身を寄せることになりました。

下宿探しも長男が一緒に回ってくれることになり、親としては何ともありがたい限りです。

長男の中学受験では合格最低点と同点で合格。長女の時は、普段算数が50点しか取れなかったのに120点取って合格。

図形問題を消しゴムで測って答えを導き出すという、不正ギリギリの技術を駆使していました。

これらも、どの日程が子供に最も向いているかを、妻がかなり調査した上での結果だったと思います。

そして最後の受験は、例年3~4人しか追加がない、最終発表での合格でした。この確率はどんな数字になるのだろうと考えます。

「持っている」という言葉がありますが、大学受検において兄妹は「持っていた」と思います。「持っている」と思えるよう、仕向けてきた部分もあると思いますが。

関西の大学に通う時は、自宅からの通学となっていたので、まだまだ妻を頼る感じでした。

しかしこれからは1人暮らしになるので、我が家の子育ては、突然ここで終了となりました。

長女が妻に「子育て成功やね」と言っていました。

自分で言うな、という感じですが。

中学合格の時に続いて今回のタイトルも「サクラサク」としました。

2003年に2人で始めた暮らしは、2005年に3人になり、2008年には4人となりました。

そして2023年に3人となり、2026年に2人となります。

寂しくもありますが、それが自然の理です。本当に、良い春になりました。

色々なことがあると思いますし、不安もあるでしょう。

しかし、今は希望に満ち溢れているはず。自分の人生を全力で探して欲しいと思います。

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ありたい‐2307‐

春分を過ぎ、陽が長くなってきました。

天満橋から見る大川ほとりの樹々も、葉が元気を取り戻してきました。

谷町筋は天満橋で終わり、北側は天満橋筋に変わります。

最近気づいたのですが。

大川の北側を歩いていると、凛とした打ち放しのビルを見つけました。

すぐ南に川と緑がある、絶好のロケーションです。

見たことがあるなと思っていたら「TSビルディング」と表記がありました。

安藤忠雄の設計で1986年の完成です。

作家・堺屋太一のイニシャルをとってTSビル。

2019年にお亡くなりになっていますが、今も研究室のプレートがありました。

1階にはカフェが入っていますが、早朝の時間帯なのでCLOSED。

それで写真が撮りやすかったのは幸いでした。

アール状の軒が、写真で見るより美しかったのです。

最上階の6階は天井が高くなっています。

側面の屋外階段もダイナミックで、内部空間がとても気になります。

昨年の夏に、堺屋太一が織田信長と明智光秀を描いた「鬼と人と」を読みました。

経済企画庁長官まで勤めた、極めて多才な文化人ですが、この場所にアトリエがあったら筆も進むはずです。

本当にいい場所にあるなとジョギングしていたら、またまた見たことがある打ち放しの建物が。

2012年完成の上方落語協会会館。こちらも安藤忠雄の設計です。

この建物は、竣工寸前に日本建築家協会近畿支部だったかの見学会に参加しました。

現場監督が、安藤事務所と仕事をする苦労を繰り返し語っていたことを思い出します。

設計者と現場は利害が反対になることが多々あるので、どちらの言い分も分かります。

その中で、最大のパフォーマンスを出すことこそが仕事の神髄と言えるのですが。

しかし、流石安藤は良い場所に作品を残しています。

実は、1枚目の天満橋から撮った写真にTSビルディングの最上階が写っていました。

阪神百貨店の地下に人気のお惣菜店が集まるように、便利の良い場所には質の高い建築が増えるのが鉄則です。

都心部の風を感じ、自分のレベルを、組織のレベルを上げるために、中央区に越してきました。

1年が経ちましたが、果たして少しでも成長できたのか……

1949年(昭和24年)に日本初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士の言葉です。

氏の言葉の「ありたい」という部分に謙虚さを感じます。

願うことが、全ての始まりにあるということも。


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青は「希望」の色‐2306‐

日曜日は、快晴かつ暖かい朝になりました。

散歩日和で中之島の東洋陶磁美術館へ。

すぐ西にある中央公会堂の存在感がありすぎて、あまり見ていなかったのが正直なところでした。

ただ、この増築部は凄いのひとことでした。

1982年に完成した部分も、2024年に完成したエントランス部分の増築も、日建設計の仕事でした。

元の館の西端を覆うようにガラスの箱が増築されています。

エントランス部は元外部です。

薄い屋根を、鉄筋コンクリートのR状の壁だけで支えています。

接している部分以外は全てガラス。

その解放感は別次元でした。

昨日まで特別展が開催されていましたが、見応え十分でした。

新石器時代・紀元前2600~2300年前、中国西北部の壺です。

4000年前の物がこの状態で保存されていることに、焼き物の凄みを感じます。

こちらは後漢時代・1~2世紀の焼き物です。

古代中国では、建物の焼き物がかなり多く作られたとありました。

豊作、富の象徴だったのでしょう。

北斉~髄時代・6世紀前半の色鮮やかな椀です。

西アジアのガラス椀を模したものだそうです。

確かにあまり見ないほどの色鮮やかさでした。

明時代・宣徳(1426年-1435年)景徳鎮窯の皿。

重要文化財とありました。

日本の物で言えば、黒樂も1つありました。

江戸時代・17世紀、樂道入(ドウニュウ)(1599-1650年)の黒樂です。

樂吉左衛門家の三代目・道入は「ノンコウ」とも呼ばれる名人。

彼の黒樂は、京都の樂美術館まで見にいきましたが、中之島でも見れるのは嬉しい限りです。

重要文化財数点と国宝も2点展示がありました。

南宋時代・12-13世紀の天目茶碗です。

かつては関白・豊臣秀次が所有していたとありました。

そこまで焼き物が分かる訳ではありませんが、流石にレベルが違うのは十分伝わってきます。

宋代の喫茶文化では、最高級の茶が白色とされたことから、黒い茶碗が歓迎されたと説明がありました。

この妖しい輝きが、時の権力者を魅了したのでしょう。

すこしフワッとした展示コーナーがあり、「鼻煙壺」が並んでいました。

「鼻煙」はたばこの葉を粉末状にして香料を加え、鼻から吸引する喫煙法です。

中国では18世紀に流行しました。

それらを保管する小さな壺が沢山展示されていたのですが、主に「青」と「緑」でした。

現代では「青」と言えば「ブルー」を思い浮かべますが、古代中国では植物の色も「青」と表現したため、ブルーとグリーンの両方を含んでいました。

「青信号」や「青野菜」はこの名残だそうです。

なるほどと、腑に落ちたのです。

ブルーはラブスラズリやトルコ石で、グリーンは翡翠や玉で表現されました。

ただ、やはり「青」は特別な色だと思います。

昭和初期の建築家、白井晟一はエッセイで「青」への思いを書き綴り、こう結んでいました。

やはり、希望の色でした。

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