8月28日(木)夕方の大阪駅です。
18時10分発のサンダーバードに乗車しました。
湖西線を抜けて、1時間半程で敦賀に到着。
北陸新幹線に乗り換えて更に1時間。
金沢までやってきました。
そのままホテルで一泊し、翌朝レンタカーでのと里山海道を北上します。
能登半島地震発生から1年9ヵ月経ちますが、北に向かうにつれて、道路はいたるところで復旧工事が行われています。
かなり余裕を見て6時半に出発したのですが、途中渋滞があったり、下道では片側通行があったりで、能登町まで3時間近く掛かりました。
能登町役場があるのは宇出津という街です。
「うしつ」と読みますが、見ての通り天然の良港で、北前船の寄港地として栄えました。
現在でも内浦地区の経済の中心となっています。
本当に美しい港だなと思って海沿いまで行くと、その水面の高さに驚かされます。
湾に注ぐ川べりを見ると、水面の高さが分かるでしょうか。
災害復興まちづくり支援のボランティア団体から、建築士の参加を広く募っていると知り、参加させて貰いました。
前回の熊本地震と違う点は、弁護士と建築士がチームになって回ることです。
弁護士がコーディネーターとしての役割と、支援金制度などについてもアドバイスしてくれるのは、素晴らしい試みだと思います。
能登町も大きな被害を受けていますが、徐々に復興は進んでいるように感じました。
ただ、地震後1年9ヵ月経ってからの相談依頼なので、大きな問題を抱えている方が大半でした。
2日で5件回ったのですが、同じ班になった建築士の方の意識も高く、非常に遣り甲斐がありました。
能登半島の先端部は、北側の外洋に面する輪島市や珠洲の北側周辺を外浦と呼びます。
南側の、能登町、穴水市、七尾市周辺を内浦と呼びます。
外浦周辺は最大4m隆起した場所があり、内浦は30cmから50cm下がったとの言われた方もいました。
能登半島の先端は、北側が大きく隆起し、反対に南側は沈下したのです。
相談内容はここでは書きませんが、2日間の相談・調査の後、能登の先端をぐるりと回ってきました。
宇出津から少し北の白丸地区は津波の被害を受けています。
海沿いにある白丸郵便局は、震災遺構となると弁護士から聞きました。
シートの中は、津波の被害がそのまま残っています。
少し北上すると、珠洲市に入ります。
見附島は軍艦島とも呼ばれていましたが、地震で大きく崩れ、その形状が変ってしまいました。
「えんむすびーち」とありますが、復興と共に観光客も取り戻したいところです。
ただ、見附島から北のエリアの被害は甚大でした。
右に左に倒れる電柱や、ぐにゃぐにゃと曲がる鉄製の柵が、凄まじい揺れを物語っています。
手つかずの建物も多く残っていました。
そして珠洲市役所までやってきました。
震災発生の際に、リアルタイムでその様子を映していたのは屋上のカメラでしょうか。
一番驚いたのは、内浦では特にですが、震災後も多くの家は黒瓦で葺き直しています。
揺れに対しては軽い屋根が強いので、金属板で葺き直す方が有利なのですが、ほとんどそういった家は見かけませんでした。
その黒瓦が艶やかで、日本の原風景とも言ってよい、甍の続く街並みを残しているのです。
そのあたりは、住んでいる人たちの覚悟のようなものをヒシヒシと感じたのです。
そのまま能登半島を横切り、輪島へ向かいます。
内陸部の道路は大きな被害を受けた跡が、まだまだ残っていました。
輪島の朝市通り周辺は、火災の被害が最も大きかった場所です。
能登町の方が「輪島、珠洲の方が揺れは酷かった」と言っていたことも理解できます。
火災が起こったエリアはほぼ手つかずで、焦げ跡だけが残っていました。
ポツンと残った黒焦げの木が、夕日を浴びてなんとも物悲しい風景だったのです。
輪島から南下し、何とか陽のあるうちに、黒島地区までたどり着きました。
宇出津と同じく、北前船で栄えた黒島は江戸時代に幕府の直轄地となっています。
黒瓦と下見板が張られた街並みが、当時の繁栄を感じさせますが、倒壊した建物も多くあります。
被害は甚大だったようです。
すぐ目の前にある海が繁栄をもたらしました。
しかし、最大4m隆起したと言われる外浦地域では、多くの港が干あがり、港としての機能を失っています。
堤防の下半分が白っぽくなっていますが、そこまで海に浸かっていたのです。
海が隆起したことで海岸線が後退しますが、その景色は、今まで日本では見たことのないものでした。
何とも言えない、虚しさを感じたのです。
そろそろ沖に漁火が見えだしたので、黒島を後にしました。
ある相談者の女性は、地震発生時に、近くにあったテレビ台にしがみついたそうです。
激しい横揺れで、テレビ台ごと1.5m程海岸側にずり動かされました。
その横揺れの後、最後に「ドーンと地面が落ちたと」語っておられました。
内浦地区のことなので下がった方向は南側です。前の道路とは、50cm程の段差ができていました。
全てが地震の動きと合致します。
そのテレビ台は小さく2ヵ所、塗装がはがれている箇所がありました。
揺れに耐える際、女性の爪が食い込んだ跡だったのです。
なぜ、大地震はこれ程美しい場所にばかり起こるのでしょう。
全ての相談を終え、そんなことを感じていたのです。
今回の、弁護士と共に活動する復興支援は、とても良い試みだと感じました。
コーディネーターの弁護士さんに「なぜこの活動をしているのですか?」と聞くと、「天災は重大な人権侵害がおこります。基本的人権を奪いかねないからです」と。
それを聞いて納得できました。確かに、人としての尊厳を保てないような生活を強いられている人を多く生んでいるのです。
震災後、1年9ヵ月が経過しているにも関わらず……
その状況が過酷な人もおり、少しでも職能を活かせるなら、積極的に参加したいと思いました。
そして、その現状を伝えると共に、是非現地への観光も促したいと思っています。
次回は、能登、金沢の魅力を、たっぷりお伝えしたいと思います。
ある公民館の、小便器の前にあった貼り紙です。
どんな状況でも、ユーモアは忘れないようにしたいものです。
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