『住まいの設計相談会』

 昨年、日本建築家協会(JIA)と大阪府建築士会に入会しました。

 入会しないと、参加できないコンペがあったからです。

 建築士会の方に「住宅を設計する仲間たち」という部会があります。そこにも参加することにしました。

 具体的な活動としては、毎月1日~7日までハービスOSAKAの4階で、作品展を催しています。

 更に「住まいの設計相談会」として、期間中は1日2交代で無料相談も行われているのです。

 初めてその相談員をすることになりました。

 私の受け持つ時間帯は下記の通り。他の時間帯は、別の相談員が居ます。良ければ遊びに来て下さい。

『住まいの設計相談会』
日時: 2011年 2月 3日 (木) 15:00~18:00
場所: 大阪市北区梅田2-5-25
ハービスPLAZA(大阪)4階リビングギャラリー
(エスカレーター横の円形ギャラリー)

 相談予約は 阪神電鉄ハービスOSAKA 06-6343-7617 まで。(当日でも受付可能です)

 パネル展示も開催中で、今回のテーマは二世帯住宅。当事務所は、年始に大阪ガスの『住まう』で取り上げて貰った「池を望む家」を展示します。

 パネル展示期間: 2/1(火)~2/7(月)11:00~20:00

 なかなか無い機会なので、気軽にご相談下さい。というより、誰も来てくれないと時間を持て余すので、興味のあるかたは是非。

一級建築士事務所 アトリエm
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

-地元建築家がガイドする名建築-大阪編

 扶桑社から隔月で発売される『SUMAInoSEKKEI』。

 昨年は「サロンのある家」が掲載されました。webサイトでは現場日記の「四丁目の家」をコラムとして取り上げて貰っています。

 誌面には「地元建築家がガイドする名建築」というコーナーがあります。発売中の3・4月号は大阪編。私がナビゲーターを務めています。オファーが届いたのは9月下旬でした。

 大阪(市内)の近現代の建築を5件程度を選んで頂きます。写真は1つの建築について3~5点。イラストマップにまとめますので、なるべく中心部にあるもので。

 有名建築はもちろん、知られざる名建築、守谷さんが個人的に好きな建築、 影響を受けた建築などが入っていると望ましいです。ただし、住所とマップを入れますので、住宅は除外です。

 写真は自分で撮影します。迷惑駐車が多かったり、タイミングが合わずに、光がダメだったり。候補を絞るのに7、8回は街へ出ました。どの作品を選んだかは是非雑誌をみてください。

 それ以外の「名建築」をここに掲載してみます。竣工年月日/住所/設計者/施工者/コメントの順です。

 太陽の塔/1970年/吹田市/岡本太郎/大林組・竹中工務店・藤田組

 岡本太郎の傑作。強く元気だった大阪の象徴。塔と私は同い年。

 通天閣/1956年/大阪市浪速区/内藤多仲/奥村組

 現在は2代目。初代は凱旋門とエッフェル塔を重ねた強欲なデザインだった。

 高速道路から通天閣をが見えると、帰ってきたと実感する。

 日本綿業会館/1931年/大阪市中央区/渡辺節(担当:村野藤吾)/清水組(後の清水建設)

 清楚で美しい。日本建築家協会の近畿支部がはいる。

 芝川ビル/1927年/大阪市中央区/渋谷五郎、本間乙彦/竹中工務店

 無国籍な感じが、唯一無二のファサード。屋上がオープンテラスとして使われる。

 大江ビルヂング/1921年/大阪市北区/葛野壮一郎/直営

 作家の友人が個展を開いたことで知った。

 映画「ブラック・レイン」ではエントランスが警察署として使われる。建物中央に光庭がある。

 大阪マルビル/1976年/大阪市北区/フジタ工業/同左

 キタは通学路だったので、多くのニュースをこの電光掲示板で見た。

 現在はその部分が随分小さくなったのが残念。キタの高層ビルの先駆け的存在。

 ナビオ阪急(現在はHEP NAVIO)/1980年/大阪市北区/竹中工務店/同左

 建築の造形は自由なんだと感じた。

 現在はシネコンが入っているが、以前の雰囲気が好きだった。ナビオは「船」の意味。

 大阪弁護士会館/2006年/大阪市北区/日建設計/大林組

 中之島の北に建つ。

 単純なデザインの繰り返しが、美へと昇華している。

 懸魚のある製図工場/1984年/大阪市北区/出江寛/堀田工務店

 出江寛建築事務所。竹中工務店出身の大阪の重鎮。

 主な素材はスレート。安価な素材で高い精神性を表現する。

 出来れば取り上げたいと思っていたのが、安藤忠雄建築研究所。

 ライターの方に相談すると「広報に交渉してからになるので、ちょっと時間が掛かるかも」といったニュアンス。結局オファー出来ずでした。

 下見に行った日はすっかり夜でしたが、せわしなくスタッフが出入りしていました。ここから海外へも発信しているのだなと、思いながら。

 大阪の建築を一言ではくくれませんが、キーワードは自由と責任でしょうか。

 その気風はもちろん私の中にも流れていると思います。

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ついに『24 -TWENTY FOUR-』ファイナル・シーズン

 初めて「24」を観たのは2005年の9月。日本でのレンタル開始は2003年でした。

 今回のファイナルシーズンを含めて、24話完結を8シーズン全て観終えました。

 合計192時間に、外伝が数時間あるので、約200時間を費やしたことになります。映画化もされるようですが、ひとまずこのドラマは終わり。一抹の寂しさを感じます。

 CTU(テロ対策ユニット)に協力するジャック・バウワー。

 今回もならず者、卑怯者、そして大統領までを敵に回し、超人的な働きを見せます。

 国と大統領に忠誠をつくしてきた彼が、大統領のテーラーと意見をたがえる場面があります。

 世界各国を迎えて平和条約締結を目指すテーラーは、その目標を達する為、重要な事実を隠ぺいしたまま、調印を進めようとします。勿論架空の話。
大統領は「私が目指すのは平和」と。条約締結の為には、事実隠ぺいもやむなしという主張です。

 対するジャック・バウワーは「私が目指すのは正義です」と反論。
自身の利優先の為、行動を起こさない人が多い中、そんなセリフに観る者は痺れるのです。

 最終章の最終話を見終えた今の感想。「終わる気はないな」です。誰も納得できないはずです。

 今後の軸が映画になるのか、それとも違う展開を考えているのか。ジャック役のキーファ・サザーランドはプロデューサーも兼務しています。

 プロデューサーとしての手腕に注目です。

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センター試験にまつわるエトセトラ

 今朝の新聞で、センター試験の平均点が発表されていました。

 共通一次、センター試験、合わせて3回受けた私としては、少々心がざわつく時期です。

 私が通っていた高校は6年一貫の私立で、進学校でした。しかし大して勉強もしておらず、270人中267番とかそんな調子。高校3年の時は一校も受からず、勿論浪人です。

 予備校時代は精一杯頑張りましたが、何とか受かったのが近畿大学の建築学科だけ。私は相当にしつこい性格で、もう一年仮面浪人することにしました。バブル景気が終焉に向かう1990年のことです。

 大学の友人に協力してもらい、最低限の単位を取り、近くの下宿に帰っては一生懸命受験勉強しました。回りの飲み会にも目をくれず。明けて1991年の1月、3回目の受験が始まりました。

 まずセンター試験で8割以上の点数をとり、2次試験の比率が低い大学を抑える計画を立てました。2次試験の比率が2割だった、広島大学建築学科の前期日程を保険にして、後期日程で目
指す大学にチャレンジしようと考えたのです。

 2次試験の日程が、近大の学末試験と重なり、受験する事は留年する事だったからです。

 20歳で迎えた3度目のセンター試験。会場は大阪府大だったと思います。配点は、英語、数学、国語が200点満点。世界史、物理が100点満点のトータル800点満点。8割の640点が広島大
学の合格ラインです。出だしは順調でした。

 苦手だった英語を137点で乗り切り、国語は上出来の161点。物理は狙い通りの100点満点、世界史は71点だったと思います。この4教科の合計は469点。数学で8割5分の171点とれば、640点に届きます。20年前のことですが、たぶん点数もあっているはずです。

 数学の点数は……100点程。200点満点の半分でした。

 理系の私にとって、数学は点を取りやすい科目です。ところが、序盤の数一で単純なミスを連発し、慌て、無残な結果に終わったのです。ここで私の大学受験は終わりました。

 クライアントのお子さんが受験と聞き、つい思い出しました。

 今思うと、大学生と受験生の2足のわらじでは、たかがしれていたと思います。受けるならスパッと大学を辞めるべきだったのです。

 それからこの失敗を教訓にしました。中途半端な決断は、悔いばかり残る。今後、そんなことだけは辞めようと。

 未だに、新聞にセンター試験の問題が載っていると、ちょっと解いてみたりするのです。

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ホテル・ カルフォルニア

 ビートルズが世界を席巻していた60年代後半から70年代にかけて。もちろんトータルセールスも全米ナンバー1でした。

 その座を初めて奪い取ったのがイーグルスだった、とテレビで解説がありました。イーグルスは1976年にビートルズの牙城を初めて崩したバンドなのです。

 1971年ロサンジェルスで、Vo&Guのグレン・フライ、Vo&Dsのドン・ヘンリーが中心となり結成されます。

 グレン・フライは、スタイルに縛られず、曲によってヴォーカルが変わるビートルズを見て、ぞれぞれがリードヴォーカルを取れるメンバーを集めたと語っていました。

 ’72年「テイク・イット・イージー」でデビュー、’73「ディスペラード」とヒットを重ね、「ベスト・オブ・マイラブ」で全米1位に。

 そして’76年、全米で1000万枚を売り上げた、「ホテル・カルフォルニア」で文字通り頂点を極めるのです。

 ベトナム反戦運動を中心に、若者達がムーブメントを起こした60年代後半から、70年代に入ったアメリカは、’76年に建国200年を迎えていました。

 隆盛を極める国家とは対照的に、物質主義、熱を失っていく若者、社会を批判した歌詞になっているのです。

 曲は、物悲しげなギターサウンドで分厚く作りこまれた、アメリカン・ロックの最高傑作と言われます。アルバムジャケットも、曲の将来を知っていたかように、美しく寂しげな夕景となっているのです。

 その後は、多くのバンドが経験したように、大ヒットが過密なスケジュールと、過剰な期待を生み、メンバー同志のいさかいがおこります。そして’82に解散。

 この後、’85年にソロ活動を始めた、ドン・ヘンリーの「ボーイズ・オブ・サマー」は、最も好きな曲です。このあたりから私にとってリアルタイムで、反対にイーグルを遡って行きました。

 皆がボーカルを取れるというメンバーが奏でるハーモニーは「ワン・ワン・オブ・ディーズナイト」で最高点を極めていると言えます。汽笛のような物悲しいコーラスが時々耳に蘇るのです。

 94年にあるテレビ番組をきっかけに、イーグルスは復活。現在ワールドツアー中で、3月に日本でも公演があります。

 一昨年のマイケル・ジャクソンの事もあったので、何とか見に行きたいと思っているのです。

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奥飛騨

昨年末、新聞に竜鉄也さんが74歳で亡くなったとありました。

「奥飛騨慕情」がヒットしたのは1980年(昭和55年)。私は小学5年生でした。

歌詞もメロディーも思い出せないのですが、その頃読んだ、彼の半生を描いた本は覚えています。

彼は病気の後遺症で盲目になりました。

マッサージ師を経て、流しの歌手となり「奥飛騨慕情」がヒットしたのが40歳半ば。

スナックで流しをしていた頃、見えないのを良いことに、パートナーがギャラをピンハネしていたり、酔った客だかその筋の人だかトラブルになった時、ビール瓶の底を叩き割り、彼が凄んでいる場面もありました。

鋭利な刃物より、割れた瓶のほうが始末に悪いと知っていたのです、というくだりがあったと思います。もう30年以上前で、子供だった私はゾッとしたのを覚えています。壮絶な人生描かれていました。

70年代、80年代は歌番組が多く、演歌も根強い人気がありました。普段は聞かないのですが、銭湯などで流れてくると「演歌もいいよな」と思います。当時は、暮らしの中に演歌があったのです。そいえば未だ現役続行、サッカーのカズはトレーニング時に聞くのは「都はるみがいいよね」と言っていました。

葬式は彼の出身地、岐阜の高山でとありました。書きながら、曲の最後を思いだしてきました。

♪ ああ……奥飛騨に雨が降る

曲:奥飛騨慕情 作詞・作曲:竜鉄也

なんと憂いを秘めた曲題か。

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建築家と一緒につくる家

 ハッピーマンデーで、なかなか馴染めないのが今日と体育の日でしょうか。

 とは言え、街で晴れ着姿を見ると、ふと頬が緩むものです。

 現在の日本で、最も和服が着られる日かもしれません。

 出来るならこの習慣は守り続けて欲しいと思います。自身が参加していない、少しの後悔も込めて……

 1月7日(金)、大阪ガスの住宅情報誌『住まうvol.44』が手元に届きました。

 「池を望む家」が「建築家と一緒につくる家」という特集の、巻頭9ページで紹介されています。

 昨年の10月、丸一日の撮影、取材を経て出来上がったものです。

 家づくりのきっかっけ、なぜ建築家と家を建てようと思ったか、なぜ私を指名してくれたか。

 要望はどんなものだったか、課題をどうやって乗り越えたかまで、クライアントと私にインタビューする形で構成されています。

 今回の写真は、建築写真家ではなく、情報誌などを専門にするカメラマンが撮影してくれました。

 その写真が、誌面にとても合っています。

 販売はなく、大阪ガスのショールーム「ディリバ」で配布しているそうです。良ければお問い合わせ下さい。

 当事務所にも、多めに届いたので、住所とお名前を教えて頂ければ郵送します。

 メディアに取り上げて貰うのは、本当に有難いことですが、取材スケジュールの調整、校正など骨の折れる部分もあります。しかし、出来上がった誌面を見るとやはり励みになります。クライアントが、これも記念になるからと言ってくれると更に嬉しいものです。

 今月は下旬に、もう一冊雑誌に掲載の予定。またここでお知らせします。

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smail

 仕事始めから3日目。

 出し忘れていた年賀状も送り終え、そろそろ一段落という感じでしょうか。

 今年の年賀状、事務所用は11月に竣工した伊東内科クリニック。家族用は七五三にしました。11月にOhanaで撮ってもらったものです。

 昨日届いた年賀状に「今年一番の笑顔でした」とコメントがあったのです。

 順番は別にして、褒めて貰えると本当に嬉しいものです。

 撮影後、カメラマンの石井さんから「家族写真は、僕がいいのを選んでおきますから」と言われました。

 流石はプロ。とてもいい写真を選んでくれました。

 若いころから、生きていくのに精一杯の生活を続けてきたので、まさか家族で撮影に行くなど、考えたこともありませんでした。

 大して余裕ができた訳ではありませんが、仕事をきっかけに家族で写真を撮って貰う喜びを知ったのです。

 今年の目標の一つに、笑顔をあげました。使えば使うだけ増えるのが、勇気と笑顔。しかし笑顔は難しい。特に仕事中は。

 皆笑っているように見えますが、本当は「笑かされている」のです。

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明けましておめでとうございます

 新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。

 この年末年始は全国的に寒く、私たちのいた木曽福島も朝方は氷点下10℃まで下がっていました。

 その分スキー場のコンディションは最高でした。

 長男に一歩遅れをとっていた甥っ子も、クリスマスプレゼントにスキー道具をお願いして、気合は十分。

 その甲斐あって、中級コースなら皆で滑れるようになりました。

 娘と姪っ子はまだソリ遊びですが、もう3、4年すれば皆で滑れるようになるのかなと思ったり。

 反対に、女の子たちがいつまで一緒に出掛けてくれるのかと思ったり。

 1月2日の朝、私たち家族だけ一足先に山荘を発ちました。

 木曽路には、宿場町の名残を留めた街が多くあります。

 木曽福島宿もそのひとつ。

 全国的に知られるのが馬篭(まごめ)と妻籠(つまご)。今回は妻籠に寄って来ました。

 馬篭のほうが規模も大きく、街の雰囲気はあります。

 妻籠は1968年の全国で初めて町並みの保存運動を始めたとありました。

 1月2日というのもあったのでしょうが、観光客も少なめで、静かな良い街で、大変好感を持てました。

 昼食に蕎麦を食べ、帰ろうかと歩いていると、信州名物「おやき」を売る店に、いろりが見えました。

 火に当たり、店主の話しを聞きながらヨモギ餡の入ったおやきを食べました。寒かったのと、雰囲気もあり、とても美味しかったです。

 昼過ぎに妻籠を出て、4時頃に大阪へ戻ったのです。

 今日で正月休みは終わり。

 明日の朝一番から、完全フル回転で仕事スタートです。

 皆さんにとって、私たちにとって、2011年も素晴らしい一年となりますよう。

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