メタボリズム

 日曜、月曜の出張を終え、大阪へ帰る前。有楽町の東京国際フォーラムに寄りました。

 1996年完成で国際コンペによってラファエル・ヴィニオリが選ばれています。

 有楽町は東京駅から南に一駅。現在「UIA(国際建築家連合)2011東京大会」が開催されているのです。

 26日(月)の開会式には天皇、皇后のも出席され、各国から建築家が集まる、世界最大級のイベントです。日本のブースも沢山ありますが、中国関係のブースが多かったのも、時代を反映しています。

 これだけの人種の同業を見る事は、なかなか無いと思います。若干の愛おしさを覚えながら会場を出ました。

 有楽町から2駅程南の新橋駅へ移動。この辺りは銀座のはずれとも言えるのでしょうか。

 何度か来ましたしたが、エポックメーキング的な建物をまだ見ていませんでした。「中銀カプセルタワービル」(1972年)。2007年に亡くなった黒川紀章の設計です。

 1960年代に未来の都市像を思い描き、思想を生み出した建築家たちがいました。

 丹下健三に影響を受けた、黒川紀章、菊竹清訓、槇文彦といった建築家を中心として展開された運動が「メタボリズム」です。

 生物用語で「新陳代謝」をさし、中年男性が気になる「メタボリックシンドローム」とは残念ながら関係ありません。

 彼らは、環境に対応する生物のように、姿を変えながら増殖していく建築や都市をイメージしました。戦後の荒廃から高度成長へと移っていく時代の事です。

 その中で、全てをユニット化し、部屋ごとの取替を可能にした「中銀カプセルタワービル」は象徴的な建物でした。

 完成から40年近くが経ち、雨漏りをはじめ多くの問題もあると言います。やや汚れ、汐留の高層ビル群に埋もれていましたが、確かな存在感を示していました。

 高速道路を挟んで、南側にはジャン・ヌーベル設計の電通本社ビル(2002年)があります。

 クリア、シャープ、永遠。

 メタボリズムとは反対の解と言えます。それが向かい合っているのは、密集する東京ならではの事かもしれません。

 少し西へ歩くと、メタボリズムに大きな影響を与えた、師・丹下健三設計の作品。

 静岡新聞・静岡放送ビル(1967年)があります。

 これは同じ系譜だと納得できます。

 黒川は晩年、都知事選に出たり、参議院選に出たりと奇行に似た部分もありました。その頃に残した言葉が印象的でした。

 「私はデザイナーとしては優秀ではなかったかもしれない。しかし思想家としては何かを残したと思う」

 これは奥さんが語っていたと思います。

 真相は霧の中ですが、成功者の悲哀とダンディズムを感じるのです。

後楽園

 昨日から「四丁目の家」の現場監理に来ています。

 朝一番に大阪を出て、昼からクライアント家族と現場にて打合せ。楽しみにしていたウンテイが出来上がっており、皆かなり喜んでくれました。詳しくはまた現場日記にて。

 今日は朝から施工会社との打合せで、昼から再び現場です。

 よって昨晩はホテルに泊まりました。

 施工会社のあるお茶の水、後楽園あたりは安いホテルが結構あるのです。

 そもそも、旅行は自然の中へという感じなので、ビジネスホテルの経験がほとんどありません。

 相場が分かっていなかったのですが、探せば都心でも意外に安いんだなというのが正直な印象です。

 ドームの向かいには、丹下健三設計の東京ドームホテル。

 このあたりはそれなりの金額だと思いますが。

 あまり泊まったことがないと言いましたが、昔この付近に泊まった事を思い出しました。

 大学の試験会場がこのあたりで、続けて何校かか受けるため連泊たのです。

 夕方、食事でもと歩いていると「後楽園ホール」という看板が目に入りまいした。

 当時はプロレスが好きで、ここは格闘技の聖地と呼ばれていたのです。

 近くには新日本プロレス直営の闘魂ショップもあります。興味のない人には何のことかさっぱり分からないと思いますが。
 
 その日プロレスの興業はなく、ボクシングの試合でした。

 「ライト級日本タイトルマッチ」とありましたが、折角の機会だからとチケット買って入ったのです。 

 観客は結構入っていて気がします。試合を観戦するというよりは、その空間を体感できたことに満足していました。

 受験に来て一体何をしているのかという感じですが、その結果現役時代の受験は、関東の私学も含めて全て失敗。思い出に残っているのは後楽園ホールだけです。

 何故かもう一つ記憶に残っているのが、その時ウォークマンで聴いた、松任谷由美の「Nobody Else」といいう曲。普段ユーミンを聴いていた訳ではないのですが、何故かこの時、一人ホテルで聴いていた情景を時々思い出します。

 落ち込む程勉強していなかったのですが、それなりに軽い敗北感を味わっていたのだと思います。

 今朝は思い出の、後楽園のホテルより。

『住まいの設計』 に「イタウバハウス」掲載

 昨日発売の『住まいの設計』11月・12月号に「イタウバハウス」が掲載されました。

 まず雑誌掲載は、クライアントの協力のたまもの。出来上がった誌面は、こらから家を建てるという人へのメッセージ。この場が有る事は、とても有難いことだと思えます。

6ページの紙面を創るためには、多くの人が関わっています。

 まずは作品を選び誌面の構成を考える編集部の人達。そして記事を書くライター、写真を撮るカメラマン。

 撮影は6月初めで、皆東京からの来阪でした。

 今回は-身の丈予算で「自分らしい家」-という特集内です。

 クライアントへの取材、私達が出した資料をもとにライターが記事を構成して行きます。

 素材は提供し、調理して貰う感じ。よって料理の仕方によって全く違うものになります。まさに腕の問われる仕事なのです。
 
 ライターの萩原さんとは、サロンのある家と近現代建築紹介に続いて3回目。取材のあとはいつも「もう一つ上手く説明できなかったな」と反省するのですが、出来上がってきた項を見ると、そんな事もなかったのかなと思います。

 これぞプロの仕事というところでしょうか。

 今回のメッセージは本文にもある通り。

 「何とかなりますか」と問われれば「何とかします」というのが建築家の仕事。

 出来ると分かっている事をするだけなら、私達の仕事など不要だと思っています。

 詳しくは、是非本屋さんで手に取ってみて下さい。

 

彼岸前

 昨日から、岡山、香川に来ています。

 彼岸前ですが、祖父母の墓参りに来ました。

 折角なので、皆で泊まろうという事になったのですが、寸前に探したのでどこも一杯。

 空きを見つけたのが、バンガロー。香川県まんのう町にある大川山キャンプ場は標高1,000mを超える山頂付近にあります。

 総勢11名。子供たちは修学旅行みたいなもので、テンションは上がりっぱなしです。

 誰かが頭打ったとか、口を切ったとか。何やかにや起こりますが……

 讃岐平野を一望に見下ろす景色は絶景です。

 気温も5度は低いでしょうか。気持ちの良いところでした。

 現在も元気な祖母は今年で87歳になりました。

 小学生の頃怒られていた元気はもうありませんが、愛おしく思います。

 いつまでも元気で……という言葉に、寂しさを覚えるのです。

知識は勇気を

 「営業マンは断ることを覚えなさい」という本が、ベストセラーになりました。

 発売は2003年となっているので、もう7、8年前のこと。その作者、石原明氏はこうも言っています。

 『知識は勇気を補完する』

 人はだれしも弱いもの。しかし知らないという事は、更に心を迷わせます。不安な状態で良い決断が出来ないのは当然です。

 鋼のような精神力を持っている人は別ですが、そうで無い人はどうすれば良いか。その答えが、前述したものだと思うのです。

 昨年、日本建築家協会に入会したのですが、住宅部会というワーキンググループにも入りました。

 部会員の2人が世話人となり、月に一回、例会を主催します。

 その世話人会は本町の綿業会館で開かれます。

 綿業会館は渡辺節の設計で、当時所員であった村野藤吾が担当していました。

 重要文化財に指定されている近代建築も、見ると使うでは全く愛着が変わってきます。

 先週土曜日の例会は、住宅の見学会でした。石井修設計の目神山の家1-回帰草庵-を見ることができたのです。

 4年前に85歳で亡くなられた、巨匠の自宅は西宮市の山手にあります。

 現在もご親族が住まれ、写真の掲載は控えますが、何度も住宅雑誌で見たその居間に入った光景は、やはり鮮烈でした。

 急な斜面にある敷地を友人と分け、ほぼ同時期に目神山の家1と2が建ったそうです。1の回帰草庵は低い方の敷地にあり、エントランスから、更に急な階段を下りていくと、まずRC造の棟があります。

 屋根に草が生えており、森の中に隠されるように建っているのですが、そこから内部に入ると、中庭を挟んで木造棟へ続く階段があり、下りて行くとそのリビングがあるのです。

 多くの開口がありますが、この時期の木々は鬱蒼としています。まず初めの印象は「暗い」でした。

 目が慣れくると、好んで使ったというキシラデコールのパリサンダで塗られた壁の赤みが、だんだんと浮かび上がってきます。正面には暖炉、天井からは直径2mはある、和紙の照明が吊り下げられています。

 簡素な山荘という趣にも関わらず、艶っぽい幽玄の世界が広がっているのです。

 出来上がって35年。ご子息が案内してくれましたが、RC造部より、木造部の方が改修箇所が少ないというのも印象に残りました。
 
 建築史に残る住宅を見たとき、まず浮かんだのが「本物」という言葉。敷地の変更を最小限にとどめ、自然の中で暮らすのを良しとした設計者、石井修の強い意思を感じます。

 深く考えられ、素材の魅力を引出し、洗練されたディティールによって建築、空間は成り立っているのですが、全く手が届かないものではないとも思えました。勿論それには、研鑽に継ぐ研鑽が必要なのですが、未知の次元ではないと感じたのです。

 知る、経験する、頭を打つ。自らの成長に繋がるなら、何にも代えがたい喜び。ちょっと立ち止まってしまった時、知識は勇気を補完すると唱えてみるのです。

あの温泉は今

 昨日は、早朝から日本海へ行っていました。

 カラッと晴れ、最高の天気です。遠くに見えるのは越前半島。

 敦賀半島の先端にある小さな浜で、ここに家を借りている知人がいます。

 毎年会うのを楽しみにしているのですが、この日は不在でした。

 風が強く出船出来ないので、早くに帰ったのかもしれません。

 9月に入ると、更に人も少なってきます。

 子供たちはライフジャケットを着て、一応シュノーケリングもするのです。

 昼が近づくにしたがって、予報通り風が強くなってきました。

 波止で釣りをしましたが、何故かサンバソウ(石鯛の幼魚)しか釣れず。

 空高く旋回するトンビを見て、もう少し先まで足を延ばすことにしたのです。

 敦賀から越前町までは40km程。1時間弱というところでしょうか。

 数年前にこのあたりを通った時「漁火(いさりび)」という、クアハウスのような建物がありました。

 もっとひなびた感じの温泉があったはずと、妻と話したのです。

 折角なのでもう一度確認に行くことにしました。

 行ってみるとやはり「漁火」はここしかなく、大きな施設の中に引越して来たようでした。

 昔のイメージがあるので、ここは辞めようということになり、途中で見えた露天風呂「日本海」へ。

 かれい崎荘という国民宿舎の大浴場です。

 こった造りではありませんが、簡素にして500円。

 景色は素晴らしく、お湯は透明ですがヌルヌルと肌に良さそうです。

 全く過不足ありません。

 建物が良くなる事に問題がある訳ではありませんが、土地には土地の風土があるはずです。

 影、ひび、汚れなんかを、人は何故か覚えているものなのです。

末裔

 朝夕は随分涼しくなって来ました。

 今朝の空を見て、今年初めて秋を意識しました。本当に気持ち良い気候になりました。

 先週末を思うと、自然と言うのはこうも違う顔をもっているのかと、納得もするのです。

 突然ですが、スケートの織田信成選手はあの織田信長の子孫です。教科書で見た絵にそっくりなので、疑う余地もありません。

 天下人、うつけもの、新しいもの好き……

 信長の子孫というのはどんな気分なのでしょうか。

 一昨年、日本建築家協会(JIA)に入会してから、同業者と話す機会が増えました。そこで、徳川家を最も苦しめたと言われる、真田家の末裔と知り合ったのです。

 聞けば戦国武将の雰囲気も。池波正太郎の「真田太平記」全12巻を読んだ私は、ちょっと興奮しました。

 真田家は信州上田市の豪族で、父昌幸と次男幸村は戦上手で知られました。中山道を通り関ヶ原の戦いに向かう家康の嫡男秀忠は、上田城の真田家に降伏を迫ります。

 それには従わず、わずかな手勢で秀忠軍を足止めし、参戦を遅らせた話と、大坂夏の陣で家康を追い詰めた話は有名なところ。

 武士は勇猛果敢。六文銭の旗印は三途の川の通行料。それさえも恐れないという意味なのです。

 真田幸村は、猿飛佐助をはじめ真田十勇士を従え徳川家を苦しめた講談が、江戸時代に大人気となり、戦国武将の英雄として語り継がれてきました。よって誇張されている部分も多いと言われます。

 そもそも小説とはフクションです。史実と重なったり、離れたりしながら展開して行く所こそが歴史小説の醍醐味と言えます。

 史実と史実の隙間を、いかに作家の仮説で繋ぐかが、作品の本質と言えるのです。

 未来は現在の”影”でしかないが、過去は現在を知る宝庫でもある。私は人の過去にふれてみたくなる。はるかに刺激的で魅惑的である”過去”という事件。
-山本隆司-

 過去こそロマンなのです。

運命という縦糸

 動きの遅い台風によって、大きな被害が出た近畿地方。

 十津川村、田辺市など、よく訪れていた場所で、その映像を見ると痛々しいばかり。明日からは晴れ空が戻りそうで、少しでも早い復旧を祈るばかりです。

 現在進行中の計画で、四柱推命に詳しいクライアントが居ます。

 詳しいと言うよりは、鑑定の依頼があったり、今も勉強会にも参加したりと、大変熱心な人で、専業ではありませんが専門家と言えます。

 言葉は聞けど、四柱推命が何を意味するか解っていませんでした。

 生れた、年、月、日、時という4つの柱をもとに、その人の運勢を推察するもので、中国に古来よりある、陰陽五行説が元になっているそうです。

 打合せの合間に、少し教えて貰っただけで、何が分かった訳ではありませんが、聞いていてとても気持ちが良いのです。

 その理由は至って簡単。
 
 時刻までは公開していませんが、生年月日はいたるところに公開しています。それを見て専門家が足を運んでくれたという事は、良い運命と判断してのことなのです。勿論それだけが理由ではないと言っていましたが……

 生年月日(時)は変えれませんから、気にしても仕方がありません。しかし、良いと言われれば嬉しい以外にないのです。

 その先の対策もいたってシンプルです。本来は何でも何真ん中辺りが一番良いそう。良い流れの時は調子に乗り過ぎず、良くない時はぐっと堪えるという考え。これらも体感的に納得できます。

 ある時「守谷さんはとてもいいんですが、この頃にちょっと大変な時期がありましたか」と聞かれました。独立して3年が過ぎ、我武者羅だけでは通用しないと感じていた頃で、自分なりにあがいていた時、ピタリでした。

 だから信じるという訳ではありませんが、自分でコントロール出来ない部分が有っても、人に何らかの傾向があっても、不思議ではないと思います。

 地球は一日一回、規則正しく回転しますし、一年で太陽を一周します。太陽は生命の源ですから、それらが影響を与えていていないほうが不思議かもしれません。

 但し、それが運命であっても、それだけで人生が決まるとも思っていません。

 「人生とは、運命と言う縦糸と、因果応報と言う横糸が紡ぎだすもの」と稲盛和夫氏は説いていました。

 因果応報とは、良い行いは良い結果を生み、悪い行いは悪い結果を生むという考え。30年等というスパンで見ればこれはもう明らかとも合わせて記されていました。

 少し話がそれましたが、こちらのクライアント、当然風水にもこだわっています。近いうちに現場日記にUP出来ると思います。

 どれがこの計画か……分かる人は専門家か、よほど勉強熱心な人のはずです。
 
守谷 昌紀 1970年7月28日 11:58am 生れ

丹後半島 間人近く

 今日から9月。小学校は2学期がスタートしました。

 8月28日(日)は夏休み最後と、丹後半島へ行っていました。

 竹野海水浴場までは、舞鶴若狭道と綾部宮津道路を乗り継いで3時間程。蟹で有名な間人(たいざ)のすぐ東です。随分近くなりました。
 
 この辺りは、東の丹後松島、西の夕日ヶ浦へ来た事がありますが、ここは初めて。知人がとてもいい所だと誘ってくれたのです。

早くについたので、辺りを散策しました。

 海沿いの国道から見下ろすと、小さな浜が僅かに見えます。

 期待はいやが上にも高まります。

 人も少なく、誰に気を遣うことなく遊べるのがこの時期の良いところ。

 子供達は飽きることなく海の中です。
 
 今回は父にも来て貰いました。

 昔、間人へ良く来ていたそうで、道が良くなった事に驚いていました。

 浜から少し歩くと、すぐ脇に磯があります。

 磯は本来危険なところですが、まるでプールのような、入江があるのです。

 図鑑好きの長男に、これがサザエで、あれがウミウシで、これがウニでと教えます。

 美しい海は、百科事典に劣らぬくらいカラフルで美しいものです。

 貝を獲ろうとすれば、張り付く力を感じます。これが生きる力。

 何かを感じるものがあるはずです。

 波で削られた洞窟がありました。

 何かいわくありげで、言い伝えの1つや2つはありそう。

 自然は語らないがゆえに、想像力を刺激するのでしょう。

 沈黙は神の本質、とはマックス・ピカートの言葉。

 昼食はタープを張って、海を見ながら。最高の天気になりました。

 浜を出るころには、更に人も少なくなり。

 青い空、澄み切った海、背後の緑に小さな港。

 この夏、もう1回は海へと思うのです。