カテゴリー別アーカイブ: 01 旅・街

アメリカの旅③ <シカゴ・ファンズワース邸編>

 前日の11月4日(金)は、遅くまで友人と飲んでいて、宿に帰ったのが明け方5:00am。

 この日はシカゴ行きの予定で、マンハッタンの西にあるニューアーク空港を7:55amに発つ予定。

 朝が早いので、友人が個人タクシーを予約してくれました。

 6:00amにタクシーが迎えに来た時は寝ていました。下で待って貰い、急いで身支度をして出発。

 何とかフライトに間に合いました。

 気を失うように寝て、アナウンスで起きるともうシカゴの上空。

 すぐにシカゴの超高層ビル群が見えてきました。

 シカゴのミッドウェイ空港には、定刻の9:30amに到着。予約してあったタクシー会社へ電話しました。

 ここから余談が長いのですがひと悶着。

 プリペイドの携帯電話を借りて持って行きました。それがなかなか繋がらず、ようや運転手と会えたのが10:00am。

 目的地はミース・ファン・デル・ローエ設計のファンズワース邸。相当に辺鄙な所にあるようで、先に全条件を伝え、所要時間1時間半で50$で交渉して貰っていました。

 しかしいざ乗ると、行先を聞いていないとか、住所を言えだとか。住所を伝えると、GPSに入れても表示が出ない、だからナビゲートしろだとか。まあ文句しか言わないのです。

 こちらも頭に来ていましたが、地図を渡し、ここに行ってくれと放っておいてのです。

 そんなに複雑でない道程ですが、地図をくるくる回しながら見て、全く分からないと嘆いているのです。無視していると、近くに来ていると判断すると(それも間違っているのですが)、曲がれそうな角を1つずつ曲り始めました。

 これでは着かないと思い、ひたすらに嘆く彼を励まし「ここは地図でココ。次の次を曲がって……」などという始末。

 もう最後の道に入っており、徐々に住所表示も近づいているのですが、シットだのファ○クだのと喚いているのです。

 適当な英語で、問題ない、真っ直ぐ行ってくれと更に励ましていると、ようやく到着しました。すると笑顔で、「グッド トリップ マイフレンド!」と。

 ふざけるな、と言いかけましたが、まあこれが旅の醍醐味です。何故か料金は79$でした。

 長いアプローチを歩いて行きます。

 本当に先にあるのかと思う程。

 ファーストコンタクトは東の側面でした。

 軽やかに持ち上げられた、小さな白とガラスの家が見えてきました。

 ミース・ファン・デル・ローエ設計、ファンズワース邸。1950年の作品です。

 webサイトにもあったのですが、ファンズワース邸は現在改修中。

 真正面に黒いビニールに覆われた工事部分。

 向かって左に伸びたトラバーチンのテラスには工事用の赤いコーン。写真的に、ここは切っておきます。

 ファンズワース邸はミースのアメリカにおける、最初で最後の独立住宅でした。

 建物を外部から支える8本のH鋼で、全てが持ち上げられ、限りなく自由なプランになっています。

 テラスも同様に待ちあげられています。

19 2011_1105_43柱 - コピー
その他で地面に接しているのは配管スペースのみ。

 快晴の林の中で、まずはディティールをつぶさに見て回ります。

 内部に入り、ガイドをしてくれるツアーでしたが、内部撮影は禁止。

 撮って良いツアーもありますが、今回は時間が合いませんでした。

 正面は南向きで、北側にはキッチンがあります。

 キッチンも至ってシンプル。

 しかし、工事としては大変な精度が要求され、費用は膨大なものになりました。

 クライアントとミースとの間では裁判になった程なのです。

 目の前は湖。

 内部からは開口部によって切り取られた景色が、我が物になるのです。心地よい余韻を残しながら、帰りのタクシーに乗りました。

 行きとは反対に、とってもフレンドリーな運転手はマイク。

 少し時間があったので、シカゴ市内にある、同じくミース設計の集合住宅、レイク・ショア・ドライブ・アパートントへ寄って欲しい、チップは出すと言ったのですが、遠いからと難色を示しました。

 滅多に来ることがないので、食い下がったのですが、私の英語力ではそこまで。ちょっと残念でした。

 6:30pm頃シカゴを発ち、9:30pm頃マンハッタンの西、ラ・ガーディア空港着。

 ニューヨークとシカゴには1時間の時差があり、しかもこの日を境に夏時間から冬時間へ移行したようです。

 何が何だかわからず、何時間掛かったのかもよくわかりません。

 まあ無事に戻れればそれでいいかと。バスに乗り宿に戻ったのが11:00pm頃でした。

 明日はレンタカーでペンシルバニヤまで車で500kmの旅。急いでベットに入ったのです。

アメリカの旅② <タイムズ・スクエア、グッゲンハイム美術館編>

 この日も快晴でした。

 2日目は、唯一1日中ニューヨークにいる日。朝から気合を入れてゲストハウスを出ました。

 チェルシーというエリアを出て4ブロック北に上がり34th Stへ。

 ここを東に歩くとエンパイヤー・ステート・ビルが見えて来ます。

 キングコングに愛されたビルは、1931年完成で高さ381m。

 クライスラー・ビルを抜いて、ワールド・トレード・センターに抜かれるまで、40年の間、世界で最も高いビルだったのです。

 ニューヨーク・シティーパスは79$で、多くの美術館、観光地のチケットが綴られています。

 86階から、北東方向にあるクライスラー・ビルを見ます。

 南の摩天楼群までは5kmほど。

 最も高いのが建設中のフリーダムタワー。以前のWTCの410mを超え、541mになる予定です。

07 2011_1104_60モーガンライブラリー - コピー

  2ブロック南東へ移動するとモーガン・ライブラリー・ミュージアム。2006年。イタリア人建築家、レンゾ・ピアノの設計です。

 こちらは時間の都合で、外観を見ただけ。

 北へ7ブロックほど移動します。

 クライスラー・ビルは42th St沿いに建っています。 

 42nd Stとパーク・アベニューの交点にグランド・セントラル・ターミナルがあり、クライスラー・ビルはそのすぐ東。ここがマンハッタンの中心と言って良いようです。

 中心街を歩いていると、常にクライスラー・ビルの尖塔部が見えるので、迷う事はありません。まさにランドマークと言えます。

 1930年に完成したこのビルは、ニューヨーク・アール・デコの最高峰で、頭部のアールと三角窓を組み合わせた部分は、ステンレスで作られています。

 42nd Stを西に6ブロック程行くと、タイムズ・スクエア。

 馬に乗った警官が、旅情を盛り上げてくれます。

 「世界の交差点」とはよく言ったもの。

 最高のキャッチフレーズです。

 ただ、規模は思いのほか小さく、渋谷109をワンサイズ小さくした感といえば、ちょっと怒られるでしょうか。

 本日のメインと考えているのが、シーグラム。今度は地下鉄で北に移動します。

 ミッドタウン・イーストというエリアの5番街と53rd Stでおりて、まずはセント・パトリック教会へ。

 ドイツのケルン大聖堂を模した、美しいゴシック建築で1888年の完成。


 そしていよいよシーグラム・ビルへ。

 ミース・ファン・デル・ローエのニューヨークにおける唯一の作品で、内装はフィリップ・ジョンソンが担当。1958年の完成です。

 今回のニューヨーク行を決めたとき、初めに浮かんだのがこの建築でした。

 I型のマリオンと言われる、外壁を構成する部材はブロンズ製。ガラスも特注のブロンズ色。

 写真で見ると、もしかするとその差異は伝わらないかもしれませんが、私にとっては最も感激した瞬間でした。「愛しの人にやっと会えた」という感じなのです。

 “ Less is more ”の美学を持つミースは、装飾的なものを一切排除し、金属やガラス、コンクリートといった無機質な素材で、限りなくストイックで、しかし自由な空間の創造を目指していました。

 その一つの到達点と言える、記念碑的な建築なのです。

 中に入ろうとすると、エントランスホールに居たセキュリティーに止められました。

 旅行者が簡単に入れる訳もありませんが、僅かに内部空間を体感できたことに、単純喜びを感じていました。

 交差点の対角に建つのが、レバー・ハウス。SOM(スキッドモア、オーウィングス&メリル)の1952年の作品です。

 ブルーブリーンのガラスに覆われたこのビルは、まるで宝石のようです。

 高層棟の下に低層棟がロの
 字方にめぐらされており、中庭があります。

 ハイ&ローの美しさです。例えば、大阪駅前の第1ビルから第4ビルがこの建物のコピーだったことが分かります。

 非難からは何も生まれないが、オリジナリティーというのはこういったものを指すというのが良くわかるのです。

 昼を過ぎたので、シーグラムの前にある屋台で、ハンバーガーを買い、前庭で食べました。

 このお姉さんがとっても陽気な人で、待ってる間にやたらと話しかけてきます。なので「写真をとってもよいか」と聞くと、もちろんと。

 「でもお化粧するから待ってネ(多分)」みたいなことを言ってふざけていました。

 ベーコン・レタス・バーガーとミネラルウォーターで5$くらい。美味しかったです。

 まだまだ移動です。

 ミッドタウンエリアから、アッパー・イースト・サイドまで北へ向かって4km程地下鉄で移動。

 グッゲンハイム美術館へ着きました。1959年フランク・ロイド・ライトの設計。彼の遺作でもあります。

 スパイラル状のフロアはプランがそのまま形態となっているとても有機的でシンボリックな建築です。

 ここから3つ美術館を回りますが、本来ならどれも半日、もしくは1日は掛けて観たいようなところばかり。

 今回は街と建築を見るのが主の目的ですが、気になっている主要な作品だけは見て回りました。

 グッゲンハイムでは、モディリアーニとカンディンスキーが充実していました。ミロ、シャガール、ピカソも揃っています。モンドリアンも見逃せないところ。

 アメリカではどこでもそうなのか、撮影禁止は一切無視して皆写真を撮っていました。

 後ろ髪を引かれる思いで、今度はセントラル・パークを横断します。

 ニューヨーカーの憩いの場所セントラル・パーク。

 先週は雪が降るほど寒かったそうですが、私の滞在中は意外に温かかったです。

 アメリカは華氏48度のような表現なので、実際に何度あったかはよくわかりせんが。

 中央には大きな池。

 これは自然のものなのか、人口のものなのか。ジャクリーン・ケネディ・オナシスがこの周りを良く走っていたという事で、その名前がついています。

 海沿いでは釣りをする人もいましたが、ここでは見かけませんでした。

 セントラル・パークを横断した理由は、ハーレムへ行く地下鉄に乗るため。

 ハーレムは黒人が多く住む街です。前市長のジュリアーノは強硬な姿勢で、ニューヨークの治安改善に努めました。

 その手法には賛否があったものの、治安が良くなったのは事実です。実際に、ハーレムの目貫通り、125th Stにある、ブラックミュージックの殿堂アポロシアターあたりは、全く平穏な感じでした。

 廃墟も僅かに残るだけ。


 ハーレムには、大小の教会が多くあります。

 このようなところで歌われるゴズベルは、ソウルミュージックに大きな影響を与えています。

 少し散策し、東へ移動します。

 125th Stと5th Aveの交差点より東の地区はスパニッシュ・ハーレムと呼ばれます。

 メキシコ、ドミニカなど中南米の人が多く住むようです。

 一本裏通りまで歩いてみましたが、少し廃墟が増えて来たので、ここで引き返しました。

 どれ程の治安状態か分かりませんが、貧しいということはより原始的な生活が営まれていることになります。

 そこに暮らす人の目は、ギラギラしているか、無気力になっているか、概ね2つに分かれます。

 そのにはむき出しの生があります。友人のアドバイス通り、危険かどうかは自分で感じれる、は本来人には備わっている感覚だと思うのです。

 自分の歩いた場所がどんなところだったのか分かりませんが、本来私は、とても慎重な人間なので、おそらく全く問題のないエリアだったと思いますが。

 夕暮れが迫るなか、アッパー・イースト・サイドに戻り、メガ美術館、メトロポリタンへ。

 ここも残念ながら、絞った作品のみ。フェルメール、レンブラント、ラ・トゥールといった光りと影を描く作家と、ドガ、ロートレック、ピカソ、ゴッホまで。

 ここをしっかりみようと思えば、1日半は欲しいところです。

 ニューヨーカーはMET(メット)と呼んでいるようです。メットを後に南へ下ると、ホイットニー美術館。

 ここは残念ながら外観を見るだけ。設計はバウハウス出身のマルセル・ブロイヤーの設計。1966年の作品です。

 ブロイヤーは家具のデザインでも知られ、ワシリーチェアは傑作と言って良いでしょう。

47 2011_1104_23MoMA - コピー

 ほぼ日の暮れた6時頃、ようやく最終目的地、ニューヨーク近代美術館へつきました。別名MoMA。

 設計は谷口吉生。2004年の作品です。谷口は日本における美術館でもその力量をいかんなく発揮しています。

 丸亀市現代美術館、豊田市美術館は傑作と言え、その先にあるのがこのMoMAです。

 中央に設けられた吹抜けには自然光が注ぐはずなのですが、夜になってしまいそれは体験できず。

 ウォーホール、リキテンシュタイイン、ジョーンズ、ピカソ、マティスそしてゴッホ。もう十分に堪能したのです。

 その後この日ニューヨークに到着した、友人と合流。朝方まで飲むことになるのです。

 翌日はもう大変で……

アメリカの旅① <マンハッタン・下町編>

 一昨日まで出掛けていたアメリカ旅行。ちょっと変則になりますが、今日から5日連続でUPしたいと思います。

 11月3日(祝・木)に1:30pmに関空を発ち、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港まではおよそ13時間。

 日本との時差は、夏時間で-13時間。NY時間の1:00pm頃、初めてのマンハッタンを見下ろします。

 初めて見る印象は、そんなに大きくないな、という感じ。初めに全体像が見れるのは、とても助かります。

 左が北で、セントラルパークが見えます。摩天楼はそのすぐ南のミッドタウンとワールド・トレードセンターのあった南端部、ロウアー・マンハッタンの2ヵ所に集中しているのが良くわかります。


 島の南を飛ぶので、ぽっかりと空いたグランドゼロも見てとれます。


 海外へ出るのは9年振り。

 空港に着くとまずは入国審査です。あの感じを好きな人はいないと思いますが、何とも落ち着かない時間です。

 2、3の質問ですんなりとパス。

 公衆電話からまずはゲストハウスへ確認の電話。バスで行くつもりでしたが、宿の近くにあるペンシルバニヤ・ステーション(通称ペンステーション)行きはないとのこと。

 よって公共の交通機関、エアトレインとロングアイランド・レールロードを乗り継いで行く事に。後で調べると、はやりバスはあったのですが。

 エアトレインに乗っていると、いきなり横を通過しました。

 1962年ジョン・F・ケネディ国際空港、TWAターミナルはエーロ・サーリネンの設計です。

 エアトレイン、ロングアイランド・レールロードはそれぞれ5$と6.25$で1時間弱でペンステーションにつきました。

 ここから私の宿までは歩いて5分程。現地スタッフが来てくれて、チェックインを済ませました。

 公衆電話を探し、ニューヨークに住む友人に電話すると、ウエスト4thという駅の上で待ち合わせる事に。

 緊張感を持ちながら、悪名高かった地下鉄へ。乗ってしまえば、東京の地下鉄よりは単純な路線で、すぐに目的地に着いたのです。

 そこで落ち合い、ノリータというエリアを案内してくれました。

 比較的新しいショップが立ち並ぶ、おしゃれな街でそのまま南へ歩き、今度はチャイナタウンへ。
11 2011_1103_17チャイナタウン - コピー

 しかし、中国人のバイタリティーには恐れ入るしかありません。

 どんな国へ行っても、と言っても良いくらいチャイナタウンはあり、しかも活気があるのですから。

 このエリアから更に南に歩くと、ロウアー・マンハッタン。

 ユナイテッド・ステイツ・コートハウス、連邦裁判所がその入口あたりでしょうか。グランドゼロまで歩き、反ウォール・街運動をしているズコッティー・パークへも行ってきました。

 最南端のバッテーリー・パークまで行くとすっかり日が落ちていました。海にうかぶ自由の女神を見て散歩は終わり。

 今度は私の希望で、友人宅を見せて貰いました。

 一般的なアパートメントがどのようなものか、見て見たかったのです。

 現在暮らすのは、パートナーとネコ3匹。

 バスルームはとても良い感じに、ライトアップされています。

 リビングにソファーベッド、中央に玄関とつながるキッチンとダイニング、もう一部屋が書斎。40㎡前後といったところでしょうか。

 決して広くはありませんが、シンプルなライフスタイルがとても良いなと思うのです。

 家賃は1,200$くらい。10年程住んでいるのでこの金額で、現在の相場なら1,600$くらいかなと言っていました。

 この日は、近くのブラジル

 料理の店で、もう一人の友人も来てくれ、一緒に食事をしました。

 12時くらいまで飲んでいたでしょうか。

 NYは南北の通りを7th Ave(アベニュー)、東西の通りを31st St(ストリート)のように表現するので、とても分かり易いのです。

 街中では、ひっきりなしに

 クラクションが鳴っています。

 歩行者も信号を守らないのでこれは必然。関西の人が最もせっかちだと思っていましたが、世界一せわしないニューヨーカーは信号を守らないのです。

 この日は歩いて宿まで帰りました。初日の印象は「映画で見たまま」と「意外と安全」でした。

マンハッタンで暮らすということ

 こちらの時間で、現在は朝の4時。先ほどニューヨークの宿に戻りました。

 11月3日(木)に到着。翌日の4日(金)の2日は、とにかくマンハッタンを回りました。
 
  美術館は、グッゲンハイム、メトロポリタン、ホイットニー、MoMA。現近代建築は、エンパイヤーステートビル、クライスラービル、ニューヨーク市立図書館、シーグラム、レバーハウス、国連ビル。街はチャイナタウン、リトルイタリー、ハーレム、スパニッシュハーレム。

 5日(土)は朝から飛行機に乗ってシカゴへ。そこからタクシーで1時間半の田舎町にある、ミース・ファン・デル・ローエ設計のファンズワース邸へ。完全に一日仕事でした。

 そして今日6日(日)は、早朝からこちらに住む友人と、ペンシルバニアのの落水荘へ。設計者のフランク ロイド ライトは、ミースと同じく、近代建築の3大巨匠の一人です。

 こちらもかなりの田舎にあり、レンタカーをしてもらい、友人と一緒に行ったのですが、これが片道7時間強。それで先ほど帰って来たところです。

 友人の住むアパートメントのすぐ近く、リトルイタリーで、遅い夕食を取りやっと一段落しました。

 まだ旅は終わっていませんが、ニューヨークを中心に行ける可能性のあるところを、考えうるところ全て見て回ったつもりです。

 旅に効率などナンセンスですが、次の機会があるかどうかわからないという気持ちもあり、悔いのないプランにしようと思っていました。

 現在、学生時代からの友人2人がこの街に住んでいます。かれらのサポートなくしては、急に決めたこの計画を実現することは無理だったと思います。

 2人には同じ質問をしました。この街にやりたいことが有ったから来たのか、この街で暮らしたいから来たのか、と。
 
  答えはyesでありnoであり、という同じような答えでした。時差13時間。言えば地球の反対側で暮らす彼らに逞しさと、尊敬の念を抱きます。その上で、失礼を承知で聞いてみたかったのです。

 わずかな滞在期間でしたが、もちろんその一端を感じることが出来た気はします。

 もうすぐ夜明け。最終日も出来る限り色々なものを見て、感じたいと思います。

ニューヨーク

 今日の1:00pm発の便でニューヨークへ行ってきます。

 作家、開口健は「パリはいくつになってからでも良いが、N.Y.は若いうちに行ったほうがいい。そうしなかった事に後悔がある」と書いていまいた。

 あのエネルギーと混沌は若いうちに見る方が良いと。

 決して若くはありませんが、私の人生の中では今日が一番若い日。思い立ったが吉日、です。

 友人に「遊びにくれば」言われたのが12年程前。時間が出来た訳ではないのですが、先月もう1人のN.Yで働く友人が、帰国したのが直接の動機です。

 海外で仕事をしたいという夢があります。それがN.Y.なのか、ミラノなのか分かりませんが、はやり体感するのが一番のはず。5日間ですが、街、人を体感したいと思います。

 次回11月7日(月)の日記は現地から。携帯とPCは持っていかないので、さてどうやってUPしようかと。

芸術の秋、京都編

 日曜日は、娘の運動会でした。かけっこは先週の長男と全く同じ展開。

 最後の最後まで一番だったのが、ゴール前でスピードを緩めて2位。やっぱり兄妹でした。その日は、高槻にある妻の実家へ。

 翌朝、近くの川沿いを散歩していると、コスモスが咲いていました。

 秋。やっぱり京都かなと、朝一番で京都市立美術館へ。

 フェルメール展とゴッホと目玉にした印象派展が同時に開催中です。

 人気は圧倒的にフェルメールのようです。

 10時半ごろでしたが、すでに長蛇の列で50分待ち。

 あわよくば両方と思っていたのですが、すぐに印象派展のチケットを購入。

 広告でもよく見かけた、ゴッホの自画像。

 日本初上陸だそうですが、勿論私もこれが目当てです。

 待ち時間無しで入場できましたが、すでにエントランスもごった返ています。

 全部観るのはとても無理と判断して、ゴッホ、ロートレック、モネを各3点ずつくらいに絞りました。

 ゴッホの自画像は1889年で、命を絶つ1年前に描かれています。

 大病から復帰してすぐらしく、頬はこけ、髪は薄く、しかし目はギョロリと生々しく。40cm×60cmくらいの作品ですが、異様な迫力を放っていました。

 黄色もしくはオレンジを、なでつけるように描かれた髪の毛は、繊細ではありませんが、圧倒的な生命感を感じさせるのは何故でしょうか。

 彼は黄色を最も大切に扱う画家だと私は思っているのです。

 嫌がっていた子供達は、その後動物園にという約束で、納得させました。

 約束通り、東に隣接する動物園へ向かうも、人、人、人。

 一通り回ったあと、食堂に行ったのですが混雑はそれほどでもありませんでした。

 カレーが680円で、抜群に美味しいという訳ではありませんが、なかなか雰囲気があるのです。空間は高級料亭。オペレーションは街の食堂という感じ。

 昼食のあと、1時頃には大阪へ向かったのです。

 まだ紅葉には早いので、そこまでは……とも思っていました。

 しかし名の知れたお店は、昼を過ぎても凄い行列。

 さすが世界に誇る観光都市、という感じです。

 帰り道も、あっちを回り、こっちを回り。結局、御池通りが一番ましでした。

 それでもノロノロ運転で、漬物の名店「西利」本店を撮っておきました。

 設計は若林広幸。当然ながら賛否両論です。

 混むのが嫌なら行かなければ良いのですが、そんな所へ出掛けたくなるのも人の心情。

 やはり秋の京都はいいものです。

後楽園

 昨日から「四丁目の家」の現場監理に来ています。

 朝一番に大阪を出て、昼からクライアント家族と現場にて打合せ。楽しみにしていたウンテイが出来上がっており、皆かなり喜んでくれました。詳しくはまた現場日記にて。

 今日は朝から施工会社との打合せで、昼から再び現場です。

 よって昨晩はホテルに泊まりました。

 施工会社のあるお茶の水、後楽園あたりは安いホテルが結構あるのです。

 そもそも、旅行は自然の中へという感じなので、ビジネスホテルの経験がほとんどありません。

 相場が分かっていなかったのですが、探せば都心でも意外に安いんだなというのが正直な印象です。

 ドームの向かいには、丹下健三設計の東京ドームホテル。

 このあたりはそれなりの金額だと思いますが。

 あまり泊まったことがないと言いましたが、昔この付近に泊まった事を思い出しました。

 大学の試験会場がこのあたりで、続けて何校かか受けるため連泊たのです。

 夕方、食事でもと歩いていると「後楽園ホール」という看板が目に入りまいした。

 当時はプロレスが好きで、ここは格闘技の聖地と呼ばれていたのです。

 近くには新日本プロレス直営の闘魂ショップもあります。興味のない人には何のことかさっぱり分からないと思いますが。
 
 その日プロレスの興業はなく、ボクシングの試合でした。

 「ライト級日本タイトルマッチ」とありましたが、折角の機会だからとチケット買って入ったのです。 

 観客は結構入っていて気がします。試合を観戦するというよりは、その空間を体感できたことに満足していました。

 受験に来て一体何をしているのかという感じですが、その結果現役時代の受験は、関東の私学も含めて全て失敗。思い出に残っているのは後楽園ホールだけです。

 何故かもう一つ記憶に残っているのが、その時ウォークマンで聴いた、松任谷由美の「Nobody Else」といいう曲。普段ユーミンを聴いていた訳ではないのですが、何故かこの時、一人ホテルで聴いていた情景を時々思い出します。

 落ち込む程勉強していなかったのですが、それなりに軽い敗北感を味わっていたのだと思います。

 今朝は思い出の、後楽園のホテルより。

彼岸前

 昨日から、岡山、香川に来ています。

 彼岸前ですが、祖父母の墓参りに来ました。

 折角なので、皆で泊まろうという事になったのですが、寸前に探したのでどこも一杯。

 空きを見つけたのが、バンガロー。香川県まんのう町にある大川山キャンプ場は標高1,000mを超える山頂付近にあります。

 総勢11名。子供たちは修学旅行みたいなもので、テンションは上がりっぱなしです。

 誰かが頭打ったとか、口を切ったとか。何やかにや起こりますが……

 讃岐平野を一望に見下ろす景色は絶景です。

 気温も5度は低いでしょうか。気持ちの良いところでした。

 現在も元気な祖母は今年で87歳になりました。

 小学生の頃怒られていた元気はもうありませんが、愛おしく思います。

 いつまでも元気で……という言葉に、寂しさを覚えるのです。

フェリーで行く鹿児島

 8月12日から15日の夏休みは、鹿児島を巡ることにしていました。

【1日目】 8月12日(金)

 夕方6時に南港をでました。
 15時間の船旅は、沈む夕日を見ながら。

【2日目】 8月13日(土)

 朝デッキへでると快晴の下、南九州が見えてきました。

 9時に志布志港へ到着。そのまま西に向かい、高速道路に乗りました。

 鹿児島湾(錦江湾)を反時計まわりに走り、西側の薩摩半島を目指します。

 

 道中に見えた桜島には、残念ながら雲が。

 この時は、また帰りに見れるだろう等と思っていたのです。

 昼食は一気に薩摩半島南端まで移動して、かつおラーメン。枕崎はかつお節の産地で、量、質とも日本一。

 現地の人にも聞ましたが、あっさりして美味しいとのこと。実際は、期待を大きく上回るものでした。

 かつお出汁をたっぷり使ったスープに、かつおの刺身、てんぷらも乗っています。これが、さっぱりかつ風味があって素晴らしく美味しかったのです。

 鹿籠豚(かごぶた)のトンカツも合わせて、旅行誌にも載っていますが「だいとく」は強力にお勧めします。

 この日泊まるのは、丸木浜キャンプ場。枕崎の西にあります。妻がwebで見つけてきました。

 人も少なく緑と海が美しく、南国ムード満点の浜でした。

 枕崎で購入した、食材で料理の準備を始めます。テントを張り、食事を始めたのが6時頃。

 子供達は海で遊び、疲れ、夕食を終えるとすぐに寝てしまいました。波の音を聞きながらビールを飲み、横になったのが10時頃。

 気持ち良く寝ていると、ポタポタと水滴が……時計を見ると深夜1時。

 休みを取るのにバタバタしており、天気予報のチェックが出来ていませんでした。鹿児島地方はこの日の夜から、ずっと雨だったのです。しかも結構な。

 風も強く、テント、タープを張り直し、雨対策をし終わったのが午前3時。ようやく一段落と思っていたら、こんな時間から浜で花火を始め出す若者が。

 浜には3組しかキャンパーは居らず、子供も起きないので放っていました。小一時間程して帰って行った時、チラと見えた感じでは20歳くらいの男女4人。

 どうやら近くから、花火だけをしにやって来たようです。

 言いたい事が無いでは無いですが、自分たちの事しか考えられない若者を、悲哀の目で見てしまう自分も居ます。

 タイミング良くというか、花火が終わるとまた雨が降りだしました。夜が明け、子供たちに朝食を取らせ、カッパを着てキャンプ道具を片づける私。

 端から見ればそれこそ悲哀の目で見られそうですが、やりだしてしまえばいかに効率よく、片付けるかに燃え出すのです。

 トラブルこそ旅の本質。とても良い浜でした。

【3日目】 8月14日(日)

 全ての片づけを済ませ、丸木浜を立ったのが8時頃。そのまま内陸に入り知覧を目指します。

 朝一番で特攻平和会館へ行ったのですが、多くの人が訪れていました。

 先の戦争で、300万人の命が失われた事、多くの若者が特攻隊員として犠牲になった事、その事実の上に今があるという事。終戦記念日の前日、ただその冥福を祈るしか出来ません。

 再び海沿いに戻り、開聞岳回りを走ります。

 JR日本最南端の駅、西大山駅で記念写真です。後ろの開聞岳は別名薩摩富士。晴れていれば最高だったのですが、仕方ありません。

 この日もキャンプ場のつもりでしたが、時々降る雨あしも強く諦めました。

 指宿まで移動し、駅前の観光案内で宿を探すと、ウィークリーマンションの一室なら空いていると。何とか屋根付きの寝床を確保できたのです。

 昼からは第27代島津藩主が作ったという温泉、殿様の湯へ。

 180年前から藩主を癒して来た、二月田温泉。現在は銭湯のように使われており270円。人もおらず中も撮ってみました。

 このあたりの温泉は一様に熱いそうですが、ここもとびきりの熱さでした。

 その晩は清潔な布団にありつき、外は雷雨。当たり前の事がどれ程有難いか知ったのです。

【4日目】8月15日(月)

 翌朝、朝一番で指宿名物の砂むしへ。

 娘は嫌がりましたが、長男は喜び勇んで砂の中。彼はあまり汗をかかないのですが、ここでは大汗でした。

 その後、すぐに近くの山川港のフェリー乗り場へ向かいましたが、残念ながらいっぱい。

 それで鹿児島市のすぐ北にある鴨池港まで北上します。

 ここから対岸の垂水まで渡るフェリーは35分。

 桜島のすぐ北を通るのですが、この日も曇天で山頂は見えず。

 アキアカネにしては黄色く。何と言うトンボでしょうか。

 対岸に着くと、最終目的地、佐多岬を目指します。

 およそ80kmを1時間半で走り、ようやく到着したのが2時頃。岬までは更に徒歩20分かかるようです。

 娘を背負い、熱帯雨林の中のような景色をくぐり、ようやく着きました。

 北緯31度。本土最南端の岬です。

 「子供が地球の端を見たいと言ったから」というCMが、昔ありました。

 地球の端でもないし、子供に言われた訳でもないのですが、何故か来たかったのです。

 すごい風でしたが、スカッと晴れてくれました。ここが本土の端なら、今度は沖縄か……などと思ったり。

 再び志布志に戻り、夕方6時に九州を離れたのです。

【5日目】 8月16日(月)

 15日の朝、大阪の南港に戻ってきました。

 WTC、海の博物館が朝日を浴びて、美しいのですが空気、海は比べる由もありません。

 しかしここが私の住む街、仕事をする街です。

 旅は自分との対話、と安藤忠雄は言いました。

 家族旅行が、自分との対話かは別にしても、私にとって、家族にとって何かを考える時間にはなったと思います。

 鹿児島一周の旅。長々と書きましたがこれで終り。

 出来ればもう一度、快晴の桜島と開聞岳を見に行ってみたいものです。

晴れ雨曇り、鹿児島

 ゴールデンウィークは大分へ行きました。

 船旅と自然の中を走る楽しさを改めて感じたのです。

 そのとき夏休みは、鹿児島へ行こうと決めました。

 大阪南港から、志布志までは15時間。

 高知沖の外海を通るので、揺れを少し気にしていましたが、大したことはありませんでした。

 ずっと快晴……であれば良かっのですが日曜の朝方から雨に降られ。

 2日共、雨のテントは辛いと、指宿で急きょ宿を探したのです。

 観光案内所で1ヶ所空いていると確保出来たのがウィークリーマンション。

 青い海、濃い緑、そして澄み切った空気。

 僅か1日でしたが。

 今朝は曇り。佐多岬へ行くつもりです。

 今日の夕方の便で大阪へ戻ります。