昨日、電車で室生寺へ行こうと思い、近鉄上本町に向かいました。
着くと、人身事故でいつ復旧するか分からないと。今朝の新聞に、全盲の男性がホームから転落したという記事が載っていました。
日本の鉄道は、世界で最も安全対策が進んでいると思います。しかし、全ホームに安全柵となるとかなりの時間と、費用が掛かるでしょう。
鉄道会社、そして利用者も、本当に難しい判断を迫られるのだと思います。
目的地を和歌山の九度山に変更し、難波まで移動しました。
南海高野線の特急こうやで、橋本までは40分程。
ここのところ寝不足だったので電車にしたのですが、金剛山地を抜けるあたりから、車窓の景色は飽きません。
結局昼寝はできず。
橋本からは、高野山行きの単線に乗り換えて20分。
駅に着いたのがすでに16:00でした。
大河ドラマでも九度山が登場しているそうで、それなりの人出を覚悟していましたが、さすがにこの時間は人もまばら。
ミュージアムも16:30に閉まるとのことでした。
真田の抜け穴伝説はここにもあり。
関ケ原の合戦では豊臣方に参加。少数で徳川方を苦しめた真田家はその名を全国に轟かせます。
にも拘わらず、敗戦後は九度山への配流ですんだのは、幸村の兄、信之が徳川方についていたからです。
兄弟で袂をわかってまで、真田家の存続を願っての策でした。
父・昌幸と幸村が隠遁生活を送っていた真田庵。
ここでの生活は非常に苦しかったようで、兄・信之にお金だけでなく、酒の無心までしているのです。
真田紐という甲冑などを結ぶ紐を制作、販売するなどして、生活の助けにしていました。
戦の天才、昌幸は無念にも、ここで65年の生涯を終えます。
ドラマ放映が決まってから出来上がった真田ミュージアム。閉館ぎりぎり、滑り込みセーフでした。
幸村はその生涯の中で、この地で暮らした時間が最も長かったとありました。
1614年、大坂冬の陣で秀吉の子、秀頼に請われ豊臣方として参戦。続く1615年の大坂夏の陣でも、無類の強さを発揮します。
しかし最後は、天王寺の安居神社あたりで討ち取られます。、相手方に「わしの首級をあげ、手柄にされよ」と自らの首を差し出したとも言います。
その時の戦いぶりを、「薩摩藩旧記雑録」で島津家久(忠恒)は以下のよう記してします。
5月7日に家康公の本陣へ真田左衛門佐(幸村)が攻撃を仕掛け、旗本衆を追い散らし、討ち取ってしまった。
旗本衆の中で三里もの距離を逃げた兵だけは、みな生き残ることができた。三度目の攻防で真田(幸村)も討死した。
真田(幸村)は日本一の兵であり、古今の物語にもこれほどの武将はいない。概ね言いたいことはこれだけである。
34歳から48歳という壮年期。戦国の世、戦上手の真田として知られ、ただ隠遁生活を求められた彼の気持ちはいかばかりだったのか……
事後とはいえ「日本一の兵(つわもの)」と言われる程の能力があったのですから。
当時の九度山は、高野山への入り口としての役割はあったものの、本当に辺鄙なところだったそうです。
ここで過ごした13年の不遇の時期があったからこそ、彼は日本一の兵へと醸成したのではないか。
帰りの電車でそんなことを考えていました。
故秀吉への義を貫いたこと、世の絶対的権力者をもう一歩のところまで追い詰めたこと等が、幸村人気の基礎となっていると思います。
あの島津家の当主に、歴史上も含めて日本一と言わせたその兵。
冬が来れば春がくる。
止まない雨はない。
明けない夜もない。
どんな時も腐らず、諦めず。そして男なら日本一を目指す。そんな気持ちにさせてくれます。