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フィンランドの旅③ <人、街、番外編 >‐1303‐ 

 8月も最後の月曜日になりました。

 少し時間が空きましたが、フィンランドで出会った人のことも少し書いておきたいと思います。

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 フィンランドの首都ヘルシンキは、港町であり、観光都市でもあります。人も優しく、旅行者には大変過ごしやすい街でした。

 8月25日にフィンランド政府は「ベーシック・インカム(最低所得保障)」制度を導入すると発表しました。560ユーロ(約6万円)を一律に支給するという制度です。

 北欧は社会福祉が充実していますが、それらは28%という高い税率によって支えられています。よって、物価は日本よりやや高め。

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 国鉄は、全て人と物が集まるヘルシンキの中央駅と結ばれています。

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 2日目には電車で3時間半、北東300kmにあるユバスキュラへ行きました。

 アルヴァ・アアルト設計のタウンホールを見に行きましたが、ここは彼の出身地でもあります。

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 バックパックを背負ってウロウロしていると、日本人の青年が声を掛けてくれました。

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 ここには、アアルト本人が泊まる為に設計した部屋があるそうで「泊まっているので見て行きますか」と。

 東京で大手組織事務所に勤める26歳の青年でした。

 好感の持てる若者で、ラッキーだったなと思いながら、バス停で待っていると、80歳くらいのお婆さんが話しかけてきました。

 「若い頃イギリスに留学していた。アアルトは街の誇りだ。フィンランドは戦争が多かった。日本は伝統のある興味深い国だ」などと言っているようです。

 私は建築家でアアルトを尊敬していると言うと「バスが来るまで時間があるから、家に来てお茶を飲まないか」と言います。

 バスの時刻を正確に把握しておらず、気長に待つつもりだったので迷いましたが、行ってみることにしました。

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 どうも、家ではなく知り合いの画家が個展を開いているので、お茶もあるから観に行かないか、と言っていたようです。

 彼女は漢字がデザインされたスカーフをしていました。

 旅行者の相手をしてくれるのは、お年寄りか子供だけ。こういったふれあいが旅に何かを付け加えてくれるのです。

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 何故か、多くのフィンランド人のお年寄りに見送られながらバスに乗り、次の目的地「夏の家」に到着しました。

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 20人くらいのツアーで、ガイドが説明をしてくれます。

 イタリアで建築出版をしているという、黒いサングラスをしている女性も「アンドウ、クマ、イトオは素晴らしい」と言って、話しかけてくれました。

 日本人も4名程おり、愛媛で設計をしているという女性と、現場監督を20年しているという女性2人組が参加していました。

 私がここにくるまで25年掛かっているので、立派だなあと感心していたのです。

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 その日はタンペレという内陸の街に泊まり、翌朝ポリという西端にある街まで電車で1時間半。

 「マイレア邸」を見る為です。

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 ポリで会ったおじさんの傘がなかなかお洒落。

 前日、ユバスキュラで会った26歳の青年も同じガイドツアーに予約しており、大分から来たという女性2人組も電車で一緒になりました。

 雨がひどいので、4人でタクシーをシェアすることにしたのです。

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 1時間のガイドツアーが終わり、バスでポリ駅に戻ったのも私達4人だけでした。

 さあヘルシンキに帰ろうと切符売り場へ行くとクローズ。

 前日、自動券売機で購入していた私は「こんな時はこの券売機で買えば……」と張り切って説明していると、何故かこちらもクローズ。

 電車の出発が近付いてきたので、とにかく乗り込み、車掌からチケットを買うことになりました。

 すると行きのチケットの倍以上の値段で、しかも席代は別と言います。それならと、食堂車で帰ることにしたのです。

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 この時、おそらく4人の中で一番英語力のある青年が、車掌といろいろ交渉をしてくれました。

 仕事をしていて、若者を見た時に「立派だなあ」と思う機会は正直なかなかありません。

 キャリアが違うので、当たり前なのですが、旅先で出会った私より若い世代の人は、積極的に英語で話しかけていました。

 こういった姿を見ると、日本の若者も頼もしいなと感じるのです。

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 大分から来た女性は、1人が建築設計、1人は美容室の経営者。

 あとはヘルシンキに帰るだけでしたが、初対面の人も居るのでコーヒーを頼むと、美容師の女性はビールを。

 日本人の女性はいつも逞しいのですが、大分の女性は更に逞しいのでした。

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 最終日は、ヘルシンキ郊外にあるアアルトの仕事場、自邸を回りました。

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 ヘルシンキ郊外と言う事もあり、日本人の参加者が8人程いました。

 私と同年代の男性が流暢な英語で質問しているので少し聞いてみると、大学で英語を教えているとのこと。

 厚かましく、いくつかガイドに質問して貰ったのですが「専門家に解説して貰えて光栄だ」と喜んでくれたのです。

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 京都でデザインの仕事をしているという女性も参加していました。25、6歳でしょうか。

 「北欧って、ホントお洒落ですよね。でもこれを日本に持ち帰っても浮いてしまうし、ビビッドなカラーでも、北欧の空気なら映えるんですよね」

 彼女だけではなく、そんな話しは何度か聞きました。

 日本の若者が逞しいと思う反面、日本に自信を持っていないことも少し気になります。

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 例えば建築においても、大阪府の人口にも満たないフィンランドの建築は、とても平均点が高いのです。

 一般的な共同住宅も、しっかりとデザインされているものが殆どでした。

 しかし、北欧が良くて、日本が駄目という訳ではありません。反対も同じです。

 風土、民族性、経済状況、また法律などまで合わせて、文化は構築されていくものです。

 一朝一夕に出来上がるものではないから、それを見に旅に出るのだと思うのです。

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 先週末、大分の女性から、お礼にとカボスのジュースが送られて来ました。

 コーヒーの後、2杯程ビールをご馳走しただけなのに、申し訳ない気もしますが、有り難く受け取ることにしました。

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  24歳で初めて海外へでて、30歳の頃東南アジアを渡り歩いた時も、バックパック一つが私の旅のスタイルでした。

 バックパッカーのバイブル、沢木耕太郎の「深夜特急」を20代前半に読んでからですが、それが私に合っていると思っていたのです。

 良いホテルに泊まるより、美味しい食べ物を食べるより、少しでも色々な街を渡り歩きたい私にとって、バックパック1つの旅が性に合っていました。

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 しかし私も46歳。まだまだ元気なつもりですが、そろそろ、バックパックの重さが堪えるようになってきました。

 一番の理由は体力的な問題ですが、50歳になった時、その姿が見れないかなと思うようにもなりました。

 私のフィンランド行きを誰かに聞いて、大学時代の後輩から連絡がありました。

 2日目に泊まった、タンペレで働いているそうです。

 分かっていれば現地で会えたかもしれず残念ですが、仕事の舞台は世界なんだと意識させてくれます。

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 ヘルシンキは港町で、街中でもカモメがいます。

 ウィーン、メキシコシティ、オスロ、アムステルダム……

 行きたい街は沢山ありますが、ひとまずバックパックでの巨匠巡礼は今回で一区切りです。

 新しい旅のスタイルを模索します。

フィンランドの旅② <アアルトと近代・現代建築編>‐1300‐ 

 前回は8月12日(木)の夜、フィンランド第2の街、タンペレに着いたところまで書きました。

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 8月13日(金)の朝、タンペレを発ったのですが、駅前通りには前衛的な建築物がありました。

 用途は分かりませんが、フィンランドにはこのような自由な空気があります。

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 髪の毛を、ピンク、グリーン、オレンジに染めている女性を沢山みました。

 良いか悪いかは別にして、タトゥーや全身にピアスを付けている若者が、とても多いのです。

 1時間半ほど電車に乗り、9時半頃ポリという街に到着しました。目的はアアルトの代表作、「マイレア邸」に行くため。

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 この日は残念ながらかなりの雨でした。

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 前日、セイナッツァロのタウンホールで会った、26歳の青年とも電車で再会しました。

 また、大分から来たという女性2人も同じ電車で、タクシーをシェアすることにしたのです。

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 「夏の家」は名作に多い、「小さいな」という印象でした。「マイレア邸」は全く逆。豪邸でした。

 1939年の完成なのでアアルト初期の代表作と言えます。

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 ガイドツアーを予約していたので、1時間程時間がありました。

 本降りになってきたので、この有機的なフォルムをしたポーチで、旅や建築の話をしていたのです。

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 玄関の小窓は繊細なデザインです。

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 いよいよガイドツアー開始で、ドアが開きました。

 玄関すぐにあったトップライトを撮りましたが、内部の撮影は不可とのこと。

 マイレア邸は、現在も実際に暮らしており、人が居ない時だけ公開されているようです。

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 正直、とても残念でしたが、絵画も、カンディンスキー、ブラック、ミロと本物が飾られ、見せて貰えるだけで有り難いと思わなければなりません。

 しかしやっぱり残念。

 この日は、ヘルシンキまで3時間半掛けて電車で戻ったのです。

 8月14日(土)も朝から雨で、昼からヘルシンキ市内を回りました。

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 市内西部にある、テンペリアウオキ教会は、岩をくりぬいて建てられて教会で「ロックチャーチ」と呼ばれます。

 スオマライネン兄弟の設計によって、1969年に完成しました。

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 内部は圧巻です。

 特別なしつらえなど無くても、岩の壁に囲まれ、全周から光が差し込めば、荘厳意外の言葉が見当たりません。

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 お椀のような屋根の周りが、360度トップライトになっているのです。

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 それを支えるのは、よく見ると薄い鉄筋コンクリートでした。

 あまりの薄さに目を疑いましたが、近代建築の粋を集めた空間と言えるでしょう。

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 市内中心部にも、現代建築の教会があります。

 カンピ礼拝堂は、設計事務所K2Sの設計で2012年に完成しました。

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 内壁、外壁とも木でできており、ロック・チャーチとは対極の素材です。

 しかし、コンセプトは非常に似ています。

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 何かを付け加える訳でなく、徹底的に削ぎ落としたデザインです。

 例えば、ミラノのドゥーモの装飾をみて、凄いと言わない人は居ません。反対にシンプライズされた建築には、様々な解釈が可能です。

 日本でも国立競技場の騒動があったように、多くの批判も起り得ます。

 2つの教会も、おそらく賛否両論があったでしょう。

 その中で、こうして実現に至っていることに、この国のデザインに対するキャパシテーを感じるのです。

 現在でも誕生100年という若い国で、北欧デザインの先駆者として活躍したのが、アルヴァ・アアルトに他ならないのです。

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 そのアアルトを巡る旅もいよいよ最終日になりました。

 残すはアトリエと自邸だけ。郊外の高級住宅街まで、トラムで20分程でした。

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 1956年完成のアトリエが見えてきました。

 私の心をもてあそぶように、曇ったり、晴れたりの一日でしたが、何とか日が差してくれました。

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 私にとっては一生に一回かもしれないアアルト巡礼なのです。

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 現在でも、アアルト基金の人達がこの製図室で働いていました。

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 当時はT定規。私にとっても懐かしい製図道具です。

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 そして、庭に対して湾曲した壁をもつアトリエは、羨みたくなるような空間でした。

 「ここで働いたら、いい仕事ができるだろうな」と。

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 誇らしげにアアルトデザインの照明が。

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 木製の模型もありましたが、この大きなプロジェクトになると、アトリエ一杯の模型が作られたようです。

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 ペンキ補修をしているお姉さんはご愛敬として、円形の庭へ目線が誘われます。

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 所員と家庭的な付き合いを望んだアアルトは、この中庭を屋外劇場として様々な用途に使ったそうです。

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 そして最後は、1935年完成の自邸です。アトリエから歩いて15分程。

 レンガの質感がすけるような白のペンキ仕上げは、アアルトの好んだ表現です。

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 アトリエが出来るまでは、ここが仕事場も兼ねていました。

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 アアルトが実際に、家族4人で暮らしたリビングです。

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 どう表現すれば良いのか、アアルトの優しさが溢れています。

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 建築、家具、照明等、彼の手に掛かれば、優しく、可愛げに、形を変えていきます。

 しかし決して過剰ではないのです。

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 長く、暗い北欧の冬を楽しく過ごすため、家具はカラフルにデザインされました。

 アルネ・ヤコブセンのアンツチェアやセブンチェアに代表されます。

 また光源が目に入らず、食べ物が美味しく見え、かつ部屋が明るくなるようにデザインされがのがPHランプ

 ポールヘニングセンの作品です。共にデンマーク出身。

 フィンランドはヨーロッパの北東端にあり、現在でも、国民は500万人程です。

 様々な国に支配された歴史もあり、誤解を恐れず書けば、弱小国家と言えます。

 その小国から、ヨーロッパ、アメリカと世界に影響を与えた、国民的デザイナーは皆の希望の星だったはずなのです。

 アアルトは、建築においては世界最高レベルにあるMIT(マサチューセッツ工科大学)で教員を務めたことがあります。

 しかし、最終的にはヘルシンキに戻ってきます。勝手な想像ですが、アメリカの空気、もっと言えばコマーシャリズムに合わなかったのではと思っています。

 優しさ、フィンランド、キャンティを愛したのがアアルト。とにかく空間が暖かいのです。

 この旅で一番感じたのは、目だった産業がある訳ではない、フィンランドのデザインは、日本の本気度をはるかに上回るものだと言う事です。

 もし、日本経済の裏付けがなかったとしたら、日本人建築家がここまで活躍できたのだろうかとも思うのです。

 そして、私がアアルトの空間が本当に好きなのだと確認できました。好きすぎて、最長の日記になってしまいましたが。

フィンランドの旅① <ヘルシンキ、ユバスキュラ編>‐1299‐ 

 8月11日(木)の現地時間の午後6時頃、ヘルシンキに到着しました。

 日本との時差はー6時間です。

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 飛行機からみれば「森と湖の国」は一目瞭然でした。

 山地のない風景は、私たちにとっては新鮮な景色です。

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 夜の長い北欧は夕方とは思えない明るさでした。

 ヴァンター国際空港から電車で30分ほど。ヘルシンキ中央駅に到着しました。

 駅舎は1919年、エリエル・サーリネンの設計です。

 旅行者を初めに迎えてくれるのはいつも中央駅。その街の印象として強く残るものです。

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 ヴォールト屋根のオーソドックスな様式ですが、それゆえ、100年の歳月を感じさせません。

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 チェックインの前に、さっと街中を歩いてみました。

 ヘルシンキの建築は、中世、モダニズム、現代建築が入り乱れています。

 歴史的には、ロシアやスウェーデンに統治され、ナチスの侵攻を受けたこともあります。

 1917年のロシア革命の際に念願の独立を果たした、非常に若い国なのです。

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 また、寺院建築もロシア正教のウスベンスキー教会。

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 ルーテル派のヘルシンキ大聖堂と多様です。このあたりも、歴史の痕跡と言ってよいでしょう。

 しかし、街から混沌とした印象は受けませんでした。

 結論を先に言うと、北欧のデザインに対する考え方が、非常に高いのだと実感しました。

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 アルヴァ・アアルトの作品からも見てとれます。

 中央駅を南に下るとすぐにある、1969年完成のアカデミア書店。隣両隣には、前時代の建築が建ちますが、違和感はありません。

 高さを合わせるだけではなく、美しく、優しいのです。

 西ヨーロッパの街並みが、保存を基本とするなら、共存を求めるのがヘルシンキの街並みだと感じました。

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 アカデミア書店にはトップライトが3つあり、下に向かってガラスが張り出しています。

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 冬が長く暗いため、光を求める工夫がいたるところになされているのです。

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 2階には彼の家具が使われている、カフェ・アアルトがありました。

 この日はここまでにして、ホテルに戻ったのです。

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 8月12日(金)は早朝から電車で、アアルト故郷、ユバスキュラを目指します。

 ユバスキュラはヘルシンキから北に300kmほどで、電車で3時間半。

 この街にはたくさんのアアルト作品が残っています。

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 まずはアアルト美術館。

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 内部は彼のデザインした家具の製作工程などが展示されていました。

 ここから次の目的地まで、路線バスに乗って30分ほど。

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 セイナッツァロのタウンホールに着きました。

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 本当に素晴らしいものでした。

 特に議会場は今まで経験したことのないものでした。

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 レンガのみで構成されて空間が、こうまで美しいものかと。

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 また、「ルーバーとは光源を見せずに柔らかい光を演出するためのものなんだよ」と語りかけてくるようです。

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 久しぶりに、夢中でシャッターを切ったのです。

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 そこから更にバスに乗って10分。湖のほとりを走ると「夏の家(コエタロ)」に到着しました。

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 25年前から、写真集では何度も見てきたこの作品。

 アアルトが夏を過ごす別荘として設計された、実験住宅なのです。

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 その証拠に、レンガ、タイルなど、様々なパターンで壁面が構成されています。

 私が設計したSpoon Cafeで、濃い青のワンポイントを入れたのは、この影響かもしれません。

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 この空間の上部に、中2階のような彼のアトリエが見えます。

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 吊り構造になっているため、柱がないのです。

 この床を持ち上げる軽やかなディティールも、何度も写真で目にしたもの。やっと本物を見ることができました。

 この技術自体は、全く難しいものではありません。しかし、実現するかは全く別の話です。

 松葉のような吊り柱が、床梁を挟み、吊り上げているのですが、僅かに隙間があるのが印象的でした。

 「隙間があってもいいんだ。挑戦することが大事なんだ」と、再び巨匠の声が聞こえてきます。フィンランド語はわかりませんが。

 納得、満足、反省など、複雑な気持ちで再びバスでユバスキュラの駅に戻ったのです。

 翌13日(土)は、「マイレア邸」のあるポリへ向かいます。

 ポリはフィンランド西端の田舎町らしく、中間点にあるタンペレで一泊することにしていました。

 駅のチケット売り場で、「窓際の席はあるか」と聞くと「とんでもない、乗れるかどうかわからない」のような感じなのです。

 「どんな席でもいいから」というと、何か言っているのですが理解できず、「問題ない」と伝えました。

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 どうもペット専用席だと言っていたようです。

 若い女の子のペットの彼と、なぜか2時間半向かい合わせの旅に。別に嫌な訳ではないですが。

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 タンペレはフィンランド第2の都市で、工業都市でした。

 サイナッツァロでもそうでしたが、煙突の多くがレンガで出来ています。

 この高さをレンガだけで作るのは難しいはずなので、おそらく鉄筋コンクリートの上に貼っているのだと思います。

 それでもレンガか、そうでないかでは全く印象が変わります。

 デザインといえば、実用的ではなく、コストがかかるものという印象が、日本にはまだ強く残っている気がします。

 しかし北欧では、テキスタイル(織物)であれ、家具であれ、建築であれ、美しくあるべきだという思想が、かなり強いのではないかと思います。

 その大きな理由がやはり、風土気候にありそうです。

 今回はここまでにして、続きは木曜日に。

最後の巨匠に触れる‐1298‐ 

今日から夏季休暇で、10:35の飛行機でフィンランドへ行って来ます。

フィンエアは国旗と同じ白と青の機体。青は湖や池、白は雪を表します。

フライトは約10時間。日本から一番近いヨーロッパとありました。

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フィンランドは北緯60度以北にあり、気温は最高気温が20℃くらいのようです。

日本で言えば3月くらいの感じでしょうか。このあたりは行ってみないと正直ピンと来ません。

フィンランド人は自分達のことを「スオミ」と呼ぶそうです。フィンランド共和国の別名はスオミ共和国。

スオミは湖や池を指します。国土の68%が森林、10%が湖沼や河川、8%が耕地。その名の通り森と湖の国なのです。

アイスランドに次いでの世界最北の国、消費税は概ね24%、ユーロが使えること位は調べましたが、それ以外は正直全く分かっていません。

私にとって、残された最後の巨匠、アルヴァ・アアルトの建築に触れるのが目的です。

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フィンランドの国民的建築家、アアルトの建築がどれだけ私に影響を与えたかは以前書きました。

彼はワインをこよなく愛したそうで、お気に入りはキャンティー。彼の建築が好きなのですが、それを知り、さらに親近感が湧きました。

私もワインはキャンティが一番好きです。ルビーのように色が美しく、飲みやすいが味わいがある。私が目指す建築もこのようなものかもしれません。

「これと、これと、これが見たい」と妻に伝え、ホテルを予約して貰いました。

その道中にある街をみるのも楽しみですが、行き帰りの飛行機が分かっている程度で、正直どこに行くか、もう一つ分かっていません。

ギリギリまで働き、飛行機の中で旅先の猛勉強。大体いつもそんな感じですが、今までで一番準備ができていないかもしれません。

それでも、知らない街におり立てるだけで良いのですが。

15日が月曜日で、現地からUPする予定です。良ければのぞきに来て下さい。

ヘルシンキの夏‐1284‐

 今年の夏至は、6月21日(火)でした。

 大阪の日の出が4:45で、日没は19:14。14時間半太陽がでていたことになります。

 これがフィンランドのヘルシンキなら、日の出が3:52で日没は22:51。19時間太陽が出ています。

 今年の夏季休暇は、フィンランドへアルヴァ・アアルトの建築を訪ねる予定です。

 近代建築の三大巨匠と呼ばれるのはル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ。

 まずは、この3人を見てみたいと、24歳から建築行脚を始めました。

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 1995年4月、まずはフランスへ。

 先日世界遺産に指定された、コルビュジエのロンシャンの教会を訪ねました。

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 独立してからは、なかなか日本を出られず。

 2011年の11月、アメリカのペンシルバニアにある、ライトの落水荘へ。

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 そしてイリノイにあるミースのファンズワース邸

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 2012年の8月、イタリアでは、建築の詩人、カルロ・スカルパ設計のブリオン・ベガを訪れました。

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 そして、スペインのバルセロナに渡りガウディに触れたのです。

 三大巨匠に加え、ガウディ、スカルパそしてアアルトが私にとって最も興味のある建築家でした。

 アアルトは、プロフィールの中に名前を挙げているくらい好きな建築家でしたが、なかなか訪れる機会がありませんでした。

 どの位好きだったかと言えば、私にとっての3作目、1998年に完成した、spoon cafeはアルヴァ・アアルトへのオマージュです。

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 外部の木の使い方。

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 木とレンガの相性など、全てアアルトを手本にしました。

 そのアアルトとようやく会う事が出来ます。1976年に亡くなっているので、勿論彼の作品にですが。

 548万人という北欧の小さな農業国において、世界に影響を与えるような建築を創り続けたアルヴァ・アアルト。

 真の建築は、その小さな人間が中心に立った所にだけ存在する。

 彼の言葉を体感し、休み明けには、その気持ちを綴ってみたいと思います。

 アルヴァ・アアルト。その音を聞くだけだけでも心躍る存在なのです。