タグ別アーカイブ: 真田幸村

ゲツアサ初心忘るべからず日記‐1850‐

間もなく、アトリエmのWebサイトがリニューアルオープンです。

この後、一旦全ての更新ができなくなるので、今日は朝一番のUPです。

昨日は所用があり、谷町六丁目界隈へ。

からほり商店街あたりには、おしゃれな店が沢山あります。

街歩きをしている人もちらほら見かけ、多すぎず、少なすぎずで丁度いい感じ。

大阪城を北の頂点とした半島状に広がる上町台地。

西端あたりに位置するので、坂が多いのです。

谷町六丁目駅のすぐ近くは、観音坂とありました。

北へ歩くと長堀通りですが、ここから大阪城へ向かって、更に一段高くなっています。

楠木正成公お手植えとも言われるこの大樹は「えのきさん」。

榎木大明神として祭られています。

谷町筋を東に渡ったあたりにも、更に色々な店ができていました。

傾いて見えるのは、多分気のせいでしょう。

そこかしこに坂があり、景色の変化が楽しいのです。

大阪ガスの実験集合住宅NEXT21がありました。

存在は知っていたのですが、どこにあるのかは分かっていませんでした。

谷六と玉造の丁度中間くらいの清水谷となっていました。


1993年の完成ですが全く古びておらず、かなりの存在感です。

結局、玉造まで一駅分歩きました。

ここまで来たなら、真田丸があった三光神社に寄りたくなります。

真田丸は出城ですから、勿論小高いもの。

で、ここも坂。

その頂きにある拝殿です。

池波正太郎の「真田太平記」は最も心に残っている小説のひとつです。

真田家が暮らした長野の上田城跡から、幸村最期の地、天王寺の安居神社まで、その足跡をたどってまわりました。


日本一の兵と言われた真田幸村は、歴史上もっとも徳川家康を追い詰めた武将と言えます。

猿飛佐助をはじめとする真田十勇士を従え、徳川家と対決する講談が江戸後期に人気を博しました。

それはある種、時の権力者へのカウンターカルチャーだったとも言われています。

25歳でアトリエmを設立し、5年間全力で働きましたが、矢折れ、槍尽きた私は、1年休んで海外にでることにしました。

その時に読んだ本の中で、最も心に残っているのが 「真田太平記」でした。

六文銭は三途の川の渡し賃。

死をも恐れぬ旗印です。

皆に「独立は早すぎる」言われた中、徒手空拳で立上げたのがアトリエmです。

そもそもが、学歴も大したことがない、コネがある訳でもない。だけどやる気だけは誰にも負けないというところから始めたのです。

それが25年経つと、いっぱしの仕事をしてきたように気持ちになっていました。

是非の初心忘るべからず 
時々の初心忘るべからず 
老後の初心忘るべからず 
命に終わりがあり、能には果てあるべからず 

能の大成者、世阿弥も「花鏡」の中でこう戒めました。

芸術に、仕事に終わりはありません。

Webサイトも新しくなりますし、ゲツアサ初心忘るべからず日記として書きとどめておこうと思います。

■■■ 8月17日『建築家・守谷昌紀TV』を開設しました ■■■

■1月27日 『Best of Houzz 2021』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が受賞

■12月28日発売『suumoリフォーム(関西版)』にインタビュー記事掲載
■10月23日『homify』の特集記事に「阿倍野の長屋」掲載

メディア掲載情報

◇一級建築士事務所 アトリエ m◇
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

逢坂へ逢いに行く‐1722‐

 週末、天王寺へ行く用事がありました。

 谷町筋から少し東に入った、悲田院にあるマンション。

 1996年にアトリエmを設立した際、初めに借りたワンルームマンションです。

 ハルカスの北側に位置します。

 1999年まで、このマンションをアトリエとしていたのですが、5畳弱のワンルームでとにかく狭かった。

 結局ここで寝泊りして働くことになるのですが、いったい何処で寝ていたのか……

 懐かしいなと思い、エントランスまでのぞいてきました。

 天王寺界隈も、谷町筋を一本入れば静かな街です。

 当時からあった立ち飲み屋さん。

 この日も昼から満員のよう。時期的にどうかと思いますが、そこは天王寺ですので。

 すぐそばにある、老舗料亭はマンションの谷間に沈んでいるかのよう。

 何だか寂しい気もするのです。

 25号線を西に歩くと道は下りだします。

 上町台地の西端にあたり、通天閣を見下ろすここは「逢坂(おうさか)」。

 大津の逢阪の関になぞらえたとも、聖徳太子と物部守屋の二人が信じる方法を比べ合わせた「合法四会」に近いことにより合坂と名付けられたとも言われているとありました。

 最も南にある、天王寺七坂のひとつです。

 逢阪に面して建つ安居神社は、日本一の兵と呼ばれた真田幸村終焉の地でもあります。

 家康をあと一歩のところまで追い詰めましたが、愛馬・月影とともにこの地で果てました。

 最も精神的に辛かった時期に読んだ、池波正太郎の「真田太平記」はどうにも忘れられない作品なのです。

 安居神社も、上町台地に西端に位置し北側は崖と言ってよい高低差です。

 階段を下りきったところにあるのが天神坂。

 安居神社が、菅原道真公を祭ることからこう呼ばれています。

 この坂を上らず、反対に西に下ると、バイクや人形で知られる松屋町筋に出ます。

 天王寺七坂の殆どは、上町台地の頂部を走る谷町筋と、西に下り切った位置にある松屋町筋を結ぶ東西の坂なのです。

 一本北にあるのは清水坂。

 上りきると、清水寺の門がありました。

 京都に似た名前のお寺がありますが。

 清水寺舞台があるところまでそっくりなのです。

 境内の中にある「玉出の滝」は大阪市内唯一の滝だそう。

 パワースポットという言葉を簡単に使いたくはありませんが、なにやら良い空気感なのは間違いありません。

 あたりには井戸も多く、上町台地に降った雨がここから噴出してくるのでしょうか。

 暑い日だったので、しばらく水音を聞いていました。

 北隣には大阪星光学園、さらに北には大江神社。

 その脇にある愛染坂を上ると縁結び、商売繁盛の神様で知られる愛染さんです。

 正確には、勝鬘院(しょうまんいん)で、聖徳太子の建立とありました。

 境内にある多宝塔は、1597年に秀吉によって再建された市内最古の木造建築です。

 正直、一番驚いたのはこの一等地に建つ大阪星光学園の大きさです。

 流石に、市内トップ私学の名は伊達ではありませんでした。

 アトリエmにとって、天王寺は創業の地と言えるのですが、当時は生きるのに精一杯で、ろくに周辺を歩いたこともありませんでした。

 天王寺の路地を歩いていると、25、6歳の頃の記憶が一気に蘇ってきます。

 能力もないので、移動のつなぎはいつも走っていました。

 暑い暑いと言っていても、朝夕はすでに秋の気配です。

 夏季休暇も終わり、現場も一気に4計画程進みだします。企画の提案、実施設計もまだまだ続きます。

 四半世紀前は頑張りたくても、知識も技術もありませんでした。

 今は自分の頑張り次第で、多くのことは解決しますし、質も上がります。

 25年前と考えると夢のようだと言っても間違いないのです。

■■■4月8日『Sumikata』東急リバブル発行
巻頭インタビューが掲載されました

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【News】
■5月16日『homify』(英語)の特集記事に「下町のコンクリートCUBE」掲載
■5月10日『Houzz』の特集記事に「阿倍野の長屋」掲載
■2月13日 『Best of Houzz』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が受賞
■2月3日『Houzz』の特集記事に「阿倍野の長屋」掲載
■12月3日 『Houzzユーザーが選んだ人気写真:キッチン編』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が5位に選出
■9月30日発売『suumoリフォーム 実例&会社が見つかる本 関西版』「回遊できる家」掲載
「トレジャーキッズたかどの保育園」
地域情報サイトに掲載

■2017年11月27日ギャラクシーブックスから出版『建築家と家を建てる、という決断』守谷昌紀がamazon <民家・住宅論>で1位になりました

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日本一の兵‐1317‐ 

 昨日、電車で室生寺へ行こうと思い、近鉄上本町に向かいました。

 着くと、人身事故でいつ復旧するか分からないと。今朝の新聞に、全盲の男性がホームから転落したという記事が載っていました。

 日本の鉄道は、世界で最も安全対策が進んでいると思います。しかし、全ホームに安全柵となるとかなりの時間と、費用が掛かるでしょう。

 鉄道会社、そして利用者も、本当に難しい判断を迫られるのだと思います。

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 目的地を和歌山の九度山に変更し、難波まで移動しました。

 南海高野線の特急こうやで、橋本までは40分程。

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 ここのところ寝不足だったので電車にしたのですが、金剛山地を抜けるあたりから、車窓の景色は飽きません。

 結局昼寝はできず。

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 橋本からは、高野山行きの単線に乗り換えて20分。

 駅に着いたのがすでに16:00でした。

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 大河ドラマでも九度山が登場しているそうで、それなりの人出を覚悟していましたが、さすがにこの時間は人もまばら。

 ミュージアムも16:30に閉まるとのことでした。

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 真田の抜け穴伝説はここにもあり。

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 関ケ原の合戦では豊臣方に参加。少数で徳川方を苦しめた真田家はその名を全国に轟かせます。
 
 にも拘わらず、敗戦後は九度山への配流ですんだのは、幸村の兄、信之が徳川方についていたからです。

 兄弟で袂をわかってまで、真田家の存続を願っての策でした。

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 父・昌幸と幸村が隠遁生活を送っていた真田庵。

 ここでの生活は非常に苦しかったようで、兄・信之にお金だけでなく、酒の無心までしているのです。

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 真田紐という甲冑などを結ぶ紐を制作、販売するなどして、生活の助けにしていました。

 戦の天才、昌幸は無念にも、ここで65年の生涯を終えます。

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 ドラマ放映が決まってから出来上がった真田ミュージアム。閉館ぎりぎり、滑り込みセーフでした。

 幸村はその生涯の中で、この地で暮らした時間が最も長かったとありました。

 1614年、大坂冬の陣で秀吉の子、秀頼に請われ豊臣方として参戦。続く1615年の大坂夏の陣でも、無類の強さを発揮します。

 しかし最後は、天王寺の安居神社あたりで討ち取られます。、相手方に「わしの首級をあげ、手柄にされよ」と自らの首を差し出したとも言います。

 その時の戦いぶりを、「薩摩藩旧記雑録」で島津家久(忠恒)は以下のよう記してします。

 5月7日に家康公の本陣へ真田左衛門佐(幸村)が攻撃を仕掛け、旗本衆を追い散らし、討ち取ってしまった。

 旗本衆の中で三里もの距離を逃げた兵だけは、みな生き残ることができた。三度目の攻防で真田(幸村)も討死した。

 真田(幸村)は日本一の兵であり、古今の物語にもこれほどの武将はいない。概ね言いたいことはこれだけである。

 34歳から48歳という壮年期。戦国の世、戦上手の真田として知られ、ただ隠遁生活を求められた彼の気持ちはいかばかりだったのか……

 事後とはいえ「日本一の兵(つわもの)」と言われる程の能力があったのですから。

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 当時の九度山は、高野山への入り口としての役割はあったものの、本当に辺鄙なところだったそうです。

 ここで過ごした13年の不遇の時期があったからこそ、彼は日本一の兵へと醸成したのではないか。

 帰りの電車でそんなことを考えていました。

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 故秀吉への義を貫いたこと、世の絶対的権力者をもう一歩のところまで追い詰めたこと等が、幸村人気の基礎となっていると思います。

 あの島津家の当主に、歴史上も含めて日本一と言わせたその兵。

 冬が来れば春がくる。

 止まない雨はない。

 明けない夜もない。

 どんな時も腐らず、諦めず。そして男なら日本一を目指す。そんな気持ちにさせてくれます。

子供はなぜスタンプラリーが好きなのか‐1304‐

 今年の大河ドラマは「真田丸」。

 我が家の子供も、日曜の夜を楽しみにしています。

 大阪市交通局は、現在「幸村が駆け抜けた大坂スタンプラリー」というイベントを開催中です。

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 完成には幸村ゆかりの地、大阪市内6か所のスタンプが必要になります。

 真田好きとしては、勿論一通り訪れていますが、最後の1つが全興寺(せんこうじ)とのことでした。

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 平野区にある全興寺は、これまでに何度か紹介しました。

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 6世紀後半、聖徳太子が建立した仏閣で、大阪に初めて出来た集落は、この平野だとも考えられているのです。

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 最後のスタンプを押し、何日かに分けてスタンプラリーを完走しました。

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 無事6つ揃ったので、景品交換所のある地下鉄平野駅へ。

 「六文銭」の入ったハンドタオルを貰いました。

 これまで色々な所へ連れて行きましたが、兄妹が一番喜んだ旅は、境港でのスタンプラリーだったと思います。

 境港の水木しげるロードには沢山の妖怪の像があります。

 それを頼りに、購入した「妖怪ガイドブック」にスタンプを押して回るのですが、100万部を売り上げたとありました。

 子供のスタンプラリー好きには、我が家に限ったことではありませんでした。

 もし、平野駅に6つのスタンプがあったなら、これ程執着することはないでしょう。

 反対に、日本全国を回るなら、こちらが諦めてしまいます。

 更に、ご褒美を貰えることが、子供心をくすぐります。

 しかし、ハンドタオルには貰った瞬間から興味が失せています。また、どんな景品であったとしても、子供が文句を言ったことはありません。

 簡単では駄目。難しすぎても駄目。ある程度の苦労を伴い、ご褒美があり達成感が味わえる(と期待できる)。

 面白いのは、ご褒美にその達成感が比例しないことです。

 いや、分からないというのが、最も価値あるご褒美なのかもしれません。

真田幸村に見る、権力と判官びいき‐1255‐ 

 妻と娘がインフルエンザで、先週はバタバタしていました。

 ようやく回復してきましたが、娘は学級閉鎖で、結局一週間休んだことになります。

 退屈だろうと「出掛けよう」と言っても、大概は「家で居る」と言います。

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 しかし「真田丸」巡りに行こうというとあっさりOK。

 テレビは1日1番組としていますが、お気に入りは「ペットの王国ワンだらんど」「プリキュア」そして「真田丸」です。

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 「真田丸」は戦国時代、随一と言われた武将、真田幸村の人生を描いた大河ドラマ。

 まずは、最後の主君となった、豊臣家の大阪城からスタートします。

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 8階の天守閣まで上がると、かなり足に来ますが、太閤、秀吉だけの眺め。

 しかし、現在の大阪城は三代目で、秀吉の大阪城は更に東、現在のOBPよりにあったことが分かっています。

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 城内の展示も、真田丸より。

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 大坂夏の陣図屏風の中央やや右に、赤備えの幸村隊が見えます。

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 仕事を休んでいた1年間で、一番記憶に残っているのが、池波正太郎の「真田太平記」。文庫本なら12巻の長編小説です。

 よって、勿論私も幸村ファン。

 2015年の正月には、上田城前の館へ寄ってきました。

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 現在も土塁が残り、地元の人に愛されているとありました。

 NHKのwebサイトには「大河ドラマの原作はなく、三谷幸喜オリジナル」とあります。

 真田本といえば「真田太平記」。なんらかの影響は受けているのではと想像しています。

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 「真田丸」は、大坂夏の陣の際に幸村が築いた出城です。

 そこから戦場に現れては消えと、神出鬼没の幸村隊は、徳川軍に大きなダメージを与え続けました。

 大阪城と抜け穴で繋がっているのではと考えたのでしょう。その、抜け穴伝説の残る「三光神社」へ。

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 大阪城の南東端、森ノ宮駅から一駅南の玉造駅。

 そこから90mのところにあります。

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 像の左にあるのがその抜け穴。

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 穴をのぞくと、行きどまりになっているような、いないような。

 こういった話は楽しんだもの勝ち。きっと繋がっているはずです。

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 しかし、科学は非情です。

 最新の研究で「真田丸」は、三光神社の南西、大阪明星学園の敷地に有ったのではと、結論を出しました。

 この坂を登った先に、明星学園があるのですが、この日は時間切れ。またの機会に持ち越しです。

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 最後は、試験終わりの長男を拾って、幸村最後の地へ。

 天王寺の北、一心寺の向かいにある安居神社は夕方だからか、門が閉まっていました。

 外から見るのみになってしまいました。小説では、愛馬・月影と共に、ここで潔く首を差し出し、果てたとなっていたはずです。

 大河ドラマはまだ観ていないので、幸村がどのように描かれているのかは分かりません。しかし、人気の根底にあるのは、判官びいきと言えそうです。

 太平の江戸時代を築き上げた家康の功績は多大ですが、絶対の権力者に対する反発心は世の常です。

 信州上田の地方豪族だった真田家が、何度も徳川家に一泡吹かせる様は、痛快だったに違いありません。

 また、旗印の六文銭は三途の川の通行料。地獄も恐れないという勇猛さ。また、豊臣に忠誠をつくす律義さも相まって、幸村伝説は語り継がれているのだと思います。

 その辺りは、この日記でも、何度か触れました。

 権力は腐敗する、絶対的権力は徹底的に腐敗する

 英国の歴史家ジョン・アクトンの言葉の通り、権力は、常に破滅、腐敗と裏腹です。

 FIFAの会長問題、オリンピック誘致の汚職問題、かの国の独裁政治を例に引くまでもなく、歴史がそれを証明しています。

 では、家康は何故270年に及ぶ江戸時代の基礎を築けたのか。腐敗しなかった理由は、評論家谷沢永一のたとえが巧みです。

 彼は、秀吉は「可愛げ」、家康は「律義」で世を治めたと言いました。

 美しく散るも良し、可愛げにもにた律義も良し。人の生き方は様々です。

 しかし、私を含めた一般大衆は、前者の幸村に憧れるのでしょう。出来もしないので、それはそれで健全だとも思うのです。