真田幸村に見る、権力と判官びいき‐1255‐ 

 妻と娘がインフルエンザで、先週はバタバタしていました。

 ようやく回復してきましたが、娘は学級閉鎖で、結局一週間休んだことになります。

 退屈だろうと「出掛けよう」と言っても、大概は「家で居る」と言います。

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 しかし「真田丸」巡りに行こうというとあっさりOK。

 テレビは1日1番組としていますが、お気に入りは「ペットの王国ワンだらんど」「プリキュア」そして「真田丸」です。

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 「真田丸」は戦国時代、随一と言われた武将、真田幸村の人生を描いた大河ドラマ。

 まずは、最後の主君となった、豊臣家の大阪城からスタートします。

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 8階の天守閣まで上がると、かなり足に来ますが、太閤、秀吉だけの眺め。

 しかし、現在の大阪城は三代目で、秀吉の大阪城は更に東、現在のOBPよりにあったことが分かっています。

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 城内の展示も、真田丸より。

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 大坂夏の陣図屏風の中央やや右に、赤備えの幸村隊が見えます。

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 仕事を休んでいた1年間で、一番記憶に残っているのが、池波正太郎の「真田太平記」。文庫本なら12巻の長編小説です。

 よって、勿論私も幸村ファン。

 2015年の正月には、上田城前の館へ寄ってきました。

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 現在も土塁が残り、地元の人に愛されているとありました。

 NHKのwebサイトには「大河ドラマの原作はなく、三谷幸喜オリジナル」とあります。

 真田本といえば「真田太平記」。なんらかの影響は受けているのではと想像しています。

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 「真田丸」は、大坂夏の陣の際に幸村が築いた出城です。

 そこから戦場に現れては消えと、神出鬼没の幸村隊は、徳川軍に大きなダメージを与え続けました。

 大阪城と抜け穴で繋がっているのではと考えたのでしょう。その、抜け穴伝説の残る「三光神社」へ。

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 大阪城の南東端、森ノ宮駅から一駅南の玉造駅。

 そこから90mのところにあります。

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 像の左にあるのがその抜け穴。

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 穴をのぞくと、行きどまりになっているような、いないような。

 こういった話は楽しんだもの勝ち。きっと繋がっているはずです。

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 しかし、科学は非情です。

 最新の研究で「真田丸」は、三光神社の南西、大阪明星学園の敷地に有ったのではと、結論を出しました。

 この坂を登った先に、明星学園があるのですが、この日は時間切れ。またの機会に持ち越しです。

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 最後は、試験終わりの長男を拾って、幸村最後の地へ。

 天王寺の北、一心寺の向かいにある安居神社は夕方だからか、門が閉まっていました。

 外から見るのみになってしまいました。小説では、愛馬・月影と共に、ここで潔く首を差し出し、果てたとなっていたはずです。

 大河ドラマはまだ観ていないので、幸村がどのように描かれているのかは分かりません。しかし、人気の根底にあるのは、判官びいきと言えそうです。

 太平の江戸時代を築き上げた家康の功績は多大ですが、絶対の権力者に対する反発心は世の常です。

 信州上田の地方豪族だった真田家が、何度も徳川家に一泡吹かせる様は、痛快だったに違いありません。

 また、旗印の六文銭は三途の川の通行料。地獄も恐れないという勇猛さ。また、豊臣に忠誠をつくす律義さも相まって、幸村伝説は語り継がれているのだと思います。

 その辺りは、この日記でも、何度か触れました。

 権力は腐敗する、絶対的権力は徹底的に腐敗する

 英国の歴史家ジョン・アクトンの言葉の通り、権力は、常に破滅、腐敗と裏腹です。

 FIFAの会長問題、オリンピック誘致の汚職問題、かの国の独裁政治を例に引くまでもなく、歴史がそれを証明しています。

 では、家康は何故270年に及ぶ江戸時代の基礎を築けたのか。腐敗しなかった理由は、評論家谷沢永一のたとえが巧みです。

 彼は、秀吉は「可愛げ」、家康は「律義」で世を治めたと言いました。

 美しく散るも良し、可愛げにもにた律義も良し。人の生き方は様々です。

 しかし、私を含めた一般大衆は、前者の幸村に憧れるのでしょう。出来もしないので、それはそれで健全だとも思うのです。

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