カテゴリー別アーカイブ: 01 旅・街

函館2人旅‐1301‐ 

 北海道は昨年のゴールデンウィーク以来です。

 今回は、所用と兼ねて長男と2人旅。

 函館は、北海道の南端、渡島半島(おしまはんとう)の南東に位置する港町です。

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 空港に着陸する直前に、五稜郭が見えてきました。

 前回函館を訪れたのは高校1年生の時で、およそ30年振り。

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 見えたついでに、五稜郭タワーへ行ってきました。

 市内は路面電車で移動します。

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 五稜郭は日本で初めての西洋式城郭で、明治維新最後の激戦地でもあります。

 江戸城への無血開城をよしとしない旧幕府軍は、海軍の副総裁だった榎本武揚をリーダーとし、五稜郭を占領します。

 陸軍は土方歳三が率い、新政府軍と戦ったのが箱館戦争です。

 結局、土方は倒れ、旧幕府軍は降伏するのですが、榎本武揚はその後の明治政府でも要職を務めます。

 政府も能力のある人材が必要とは言え、なかなか理解しにくいものもあります。

 しかし、このような過程を経て、日本の近代化は、諸外国が驚く程のスピードで進んで行ったのです。

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 20日(土)の夜、近くにある湯の川温泉で花火大会があると教えて貰いました。

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 今年は花火に行けていなかったので、長男には良い息抜きになったでしょうか。

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 翌、21日(日)は函館の朝市へ。

 朝から台風の影響で雨が降っており、帰阪できるのか心配しながら天気予報を見守っていました。

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 赤レンガ倉庫群も歩いてきました。

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 最近レンガづいているのですが、これらの倉庫もレンガ造りの壁に、木造の屋根が掛かっています。

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 レンガという原始的な材料を積み上げ、木造の屋根を掛けるという建て方が、大空間を作るに適していたのです。

 倉庫という用途から言えば、防火の意味合いも大きかったでしょう。

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 函館は坂の街ですが、この幅の広さは延焼を防ぐために整備されたものでした。

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 それらの坂を登ると、多くの教会が競うように建っています。

 こちらは函館ハリスト正教会で、日本最古のロシア正教の教会。

 後ろに見える、玉ねぎ型の屋根がロシア正教独特の建築様式です。

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 すぐ近くにはカトリック元町教会。

 祭壇はローマ法王から贈られたものだそうです。こちらはゴシック様式です。

 1853年にペリーが来航し、翌1854年に結ばれた日米和親条約により、箱館(当時)と下田の2港が開港しました。

 横浜・長崎よりも、最も早くに異国の文化が入って来た街なのです。

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 今でも多くの洋館が立ち並び、現役で使われています。

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 ベイエリアにある「カリフォルニアベイビー」はその走りのような店舗だそう。

 函館出身のミュージシャン「GLAYのメンバーもお気に入り」とどこかに書いてありました。

 今回は時間がなくてパス。

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 函館なので、海の幸と行きたいところですが、長男が海鮮嫌いのため、ラーメンとウニが食べれる店を探しました。

 行列が出来る名店、という感じではないですが、十分満足しました。

 日曜日は、3つの台風が日本に迫っていましたが、その間を縫って無事大阪に戻れたのです。

 函館で見ても、開国と共に様々な宗派の宣教師が来日し、布教を始めています。そして、一等地に教会を建てました。

 これらの積極性が、異文化との交流を生み、現実となったのが港町です。

 積極性と融合が、他の街と違う雰囲気を醸し出しているのです。

 路面電車に乗っていると、バックパッカーの女性が英語で訪ねて来ました。宿の場所を教えて欲しいと言います。

 私の適当な英語で、行き方を教えてあげ、運転手には「○○に着いたら、この人に声を掛けて」と伝えました。

 長男が「お父さん、あんなに英語がしゃべれて凄い」と言い出しました。

 これは英語が必要だと知って貰う大チャンス。

” Where are you from? ”

 と聞くと「タイランド」と言います。

 私が「バンコクには長く滞在したことがある」と言うと、「???」という感じになりました。そこで私達の駅に着きました。

” Have a nice trip!”

 と私達は下車したのです。

 「タイランド」と聞こえてのですが、もしかすると「タイワン」と言ったのかもしれません。

 それでも良いのです。旅の恥はかきすてですから。

フィンランドの旅② <アアルトと近代・現代建築編>‐1300‐ 

 前回は8月12日(木)の夜、フィンランド第2の街、タンペレに着いたところまで書きました。

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 8月13日(金)の朝、タンペレを発ったのですが、駅前通りには前衛的な建築物がありました。

 用途は分かりませんが、フィンランドにはこのような自由な空気があります。

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 髪の毛を、ピンク、グリーン、オレンジに染めている女性を沢山みました。

 良いか悪いかは別にして、タトゥーや全身にピアスを付けている若者が、とても多いのです。

 1時間半ほど電車に乗り、9時半頃ポリという街に到着しました。目的はアアルトの代表作、「マイレア邸」に行くため。

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 この日は残念ながらかなりの雨でした。

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 前日、セイナッツァロのタウンホールで会った、26歳の青年とも電車で再会しました。

 また、大分から来たという女性2人も同じ電車で、タクシーをシェアすることにしたのです。

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 「夏の家」は名作に多い、「小さいな」という印象でした。「マイレア邸」は全く逆。豪邸でした。

 1939年の完成なのでアアルト初期の代表作と言えます。

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 ガイドツアーを予約していたので、1時間程時間がありました。

 本降りになってきたので、この有機的なフォルムをしたポーチで、旅や建築の話をしていたのです。

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 玄関の小窓は繊細なデザインです。

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 いよいよガイドツアー開始で、ドアが開きました。

 玄関すぐにあったトップライトを撮りましたが、内部の撮影は不可とのこと。

 マイレア邸は、現在も実際に暮らしており、人が居ない時だけ公開されているようです。

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 正直、とても残念でしたが、絵画も、カンディンスキー、ブラック、ミロと本物が飾られ、見せて貰えるだけで有り難いと思わなければなりません。

 しかしやっぱり残念。

 この日は、ヘルシンキまで3時間半掛けて電車で戻ったのです。

 8月14日(土)も朝から雨で、昼からヘルシンキ市内を回りました。

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 市内西部にある、テンペリアウオキ教会は、岩をくりぬいて建てられて教会で「ロックチャーチ」と呼ばれます。

 スオマライネン兄弟の設計によって、1969年に完成しました。

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 内部は圧巻です。

 特別なしつらえなど無くても、岩の壁に囲まれ、全周から光が差し込めば、荘厳意外の言葉が見当たりません。

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 お椀のような屋根の周りが、360度トップライトになっているのです。

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 それを支えるのは、よく見ると薄い鉄筋コンクリートでした。

 あまりの薄さに目を疑いましたが、近代建築の粋を集めた空間と言えるでしょう。

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 市内中心部にも、現代建築の教会があります。

 カンピ礼拝堂は、設計事務所K2Sの設計で2012年に完成しました。

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 内壁、外壁とも木でできており、ロック・チャーチとは対極の素材です。

 しかし、コンセプトは非常に似ています。

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 何かを付け加える訳でなく、徹底的に削ぎ落としたデザインです。

 例えば、ミラノのドゥーモの装飾をみて、凄いと言わない人は居ません。反対にシンプライズされた建築には、様々な解釈が可能です。

 日本でも国立競技場の騒動があったように、多くの批判も起り得ます。

 2つの教会も、おそらく賛否両論があったでしょう。

 その中で、こうして実現に至っていることに、この国のデザインに対するキャパシテーを感じるのです。

 現在でも誕生100年という若い国で、北欧デザインの先駆者として活躍したのが、アルヴァ・アアルトに他ならないのです。

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 そのアアルトを巡る旅もいよいよ最終日になりました。

 残すはアトリエと自邸だけ。郊外の高級住宅街まで、トラムで20分程でした。

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 1956年完成のアトリエが見えてきました。

 私の心をもてあそぶように、曇ったり、晴れたりの一日でしたが、何とか日が差してくれました。

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 私にとっては一生に一回かもしれないアアルト巡礼なのです。

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 現在でも、アアルト基金の人達がこの製図室で働いていました。

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 当時はT定規。私にとっても懐かしい製図道具です。

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 そして、庭に対して湾曲した壁をもつアトリエは、羨みたくなるような空間でした。

 「ここで働いたら、いい仕事ができるだろうな」と。

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 誇らしげにアアルトデザインの照明が。

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 木製の模型もありましたが、この大きなプロジェクトになると、アトリエ一杯の模型が作られたようです。

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 ペンキ補修をしているお姉さんはご愛敬として、円形の庭へ目線が誘われます。

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 所員と家庭的な付き合いを望んだアアルトは、この中庭を屋外劇場として様々な用途に使ったそうです。

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 そして最後は、1935年完成の自邸です。アトリエから歩いて15分程。

 レンガの質感がすけるような白のペンキ仕上げは、アアルトの好んだ表現です。

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 アトリエが出来るまでは、ここが仕事場も兼ねていました。

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 アアルトが実際に、家族4人で暮らしたリビングです。

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 どう表現すれば良いのか、アアルトの優しさが溢れています。

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 建築、家具、照明等、彼の手に掛かれば、優しく、可愛げに、形を変えていきます。

 しかし決して過剰ではないのです。

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 長く、暗い北欧の冬を楽しく過ごすため、家具はカラフルにデザインされました。

 アルネ・ヤコブセンのアンツチェアやセブンチェアに代表されます。

 また光源が目に入らず、食べ物が美味しく見え、かつ部屋が明るくなるようにデザインされがのがPHランプ。

 ポールヘニングセンの作品です。共にデンマーク出身。

 フィンランドはヨーロッパの北東端にあり、現在でも、国民は500万人程です。

 様々な国に支配された歴史もあり、誤解を恐れず書けば、弱小国家と言えます。

 その小国から、ヨーロッパ、アメリカと世界に影響を与えた、国民的デザイナーは皆の希望の星だったはずなのです。

 アアルトは、建築においては世界最高レベルにあるMIT(マサチューセッツ工科大学)で教員を務めたことがあります。

 しかし、最終的にはヘルシンキに戻ってきます。勝手な想像ですが、アメリカの空気、もっと言えばコマーシャリズムに合わなかったのではと思っています。

 優しさ、フィンランド、キャンティを愛したのがアアルト。とにかく空間が暖かいのです。

 この旅で一番感じたのは、目だった産業がある訳ではない、フィンランドのデザインは、日本の本気度をはるかに上回るものだと言う事です。

 もし、日本経済の裏付けがなかったとしたら、日本人建築家がここまで活躍できたのだろうかとも思うのです。

 そして、私がアアルトの空間が本当に好きなのだと確認できました。好きすぎて、最長の日記になってしまいましたが。

フィンランドの旅① <ヘルシンキ、ユバスキュラ編>‐1299‐ 

 8月11日(木)の現地時間の午後6時頃、ヘルシンキに到着しました。

 日本との時差はー6時間です。

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 飛行機からみれば「森と湖の国」は一目瞭然でした。

 山地のない風景は、私たちにとっては新鮮な景色です。

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 夜の長い北欧は夕方とは思えない明るさでした。

 ヴァンター国際空港から電車で30分ほど。ヘルシンキ中央駅に到着しました。

 駅舎は1919年、エリエル・サーリネンの設計です。

 旅行者を初めに迎えてくれるのはいつも中央駅。その街の印象として強く残るものです。

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 ヴォールト屋根のオーソドックスな様式ですが、それゆえ、100年の歳月を感じさせません。

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 チェックインの前に、さっと街中を歩いてみました。

 ヘルシンキの建築は、中世、モダニズム、現代建築が入り乱れています。

 歴史的には、ロシアやスウェーデンに統治され、ナチスの侵攻を受けたこともあります。

 1917年のロシア革命の際に念願の独立を果たした、非常に若い国なのです。

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 また、寺院建築もロシア正教のウスベンスキー教会。

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 ルーテル派のヘルシンキ大聖堂と多様です。このあたりも、歴史の痕跡と言ってよいでしょう。

 しかし、街から混沌とした印象は受けませんでした。

 結論を先に言うと、北欧のデザインに対する考え方が、非常に高いのだと実感しました。

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 アルヴァ・アアルトの作品からも見てとれます。

 中央駅を南に下るとすぐにある、1969年完成のアカデミア書店。隣両隣には、前時代の建築が建ちますが、違和感はありません。

 高さを合わせるだけではなく、美しく、優しいのです。

 西ヨーロッパの街並みが、保存を基本とするなら、共存を求めるのがヘルシンキの街並みだと感じました。

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 アカデミア書店にはトップライトが3つあり、下に向かってガラスが張り出しています。

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 冬が長く暗いため、光を求める工夫がいたるところになされているのです。

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 2階には彼の家具が使われている、カフェ・アアルトがありました。

 この日はここまでにして、ホテルに戻ったのです。

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 8月12日(金)は早朝から電車で、アアルト故郷、ユバスキュラを目指します。

 ユバスキュラはヘルシンキから北に300kmほどで、電車で3時間半。

 この街にはたくさんのアアルト作品が残っています。

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 まずはアアルト美術館。

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 内部は彼のデザインした家具の製作工程などが展示されていました。

 ここから次の目的地まで、路線バスに乗って30分ほど。

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 セイナッツァロのタウンホールに着きました。

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 本当に素晴らしいものでした。

 特に議会場は今まで経験したことのないものでした。

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 レンガのみで構成されて空間が、こうまで美しいものかと。

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 また、「ルーバーとは光源を見せずに柔らかい光を演出するためのものなんだよ」と語りかけてくるようです。

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 久しぶりに、夢中でシャッターを切ったのです。

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 そこから更にバスに乗って10分。湖のほとりを走ると「夏の家(コエタロ)」に到着しました。

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 25年前から、写真集では何度も見てきたこの作品。

 アアルトが夏を過ごす別荘として設計された、実験住宅なのです。

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 その証拠に、レンガ、タイルなど、様々なパターンで壁面が構成されています。

 私が設計したSpoon Cafeで、濃い青のワンポイントを入れたのは、この影響かもしれません。

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 この空間の上部に、中2階のような彼のアトリエが見えます。

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 吊り構造になっているため、柱がないのです。

 この床を持ち上げる軽やかなディティールも、何度も写真で目にしたもの。やっと本物を見ることができました。

 この技術自体は、全く難しいものではありません。しかし、実現するかは全く別の話です。

 松葉のような吊り柱が、床梁を挟み、吊り上げているのですが、僅かに隙間があるのが印象的でした。

 「隙間があってもいいんだ。挑戦することが大事なんだ」と、再び巨匠の声が聞こえてきます。フィンランド語はわかりませんが。

 納得、満足、反省など、複雑な気持ちで再びバスでユバスキュラの駅に戻ったのです。

 翌13日(土)は、「マイレア邸」のあるポリへ向かいます。

 ポリはフィンランド西端の田舎町らしく、中間点にあるタンペレで一泊することにしていました。

 駅のチケット売り場で、「窓際の席はあるか」と聞くと「とんでもない、乗れるかどうかわからない」のような感じなのです。

 「どんな席でもいいから」というと、何か言っているのですが理解できず、「問題ない」と伝えました。

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 どうもペット専用席だと言っていたようです。

 若い女の子のペットの彼と、なぜか2時間半向かい合わせの旅に。別に嫌な訳ではないですが。

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 タンペレはフィンランド第2の都市で、工業都市でした。

 サイナッツァロでもそうでしたが、煙突の多くがレンガで出来ています。

 この高さをレンガだけで作るのは難しいはずなので、おそらく鉄筋コンクリートの上に貼っているのだと思います。

 それでもレンガか、そうでないかでは全く印象が変わります。

 デザインといえば、実用的ではなく、コストがかかるものという印象が、日本にはまだ強く残っている気がします。

 しかし北欧では、テキスタイル(織物)であれ、家具であれ、建築であれ、美しくあるべきだという思想が、かなり強いのではないかと思います。

 その大きな理由がやはり、風土気候にありそうです。

 今回はここまでにして、続きは木曜日に。

最後の巨匠に触れる‐1298‐ 

今日から夏季休暇で、10:35の飛行機でフィンランドへ行って来ます。

フィンエアは国旗と同じ白と青の機体。青は湖や池、白は雪を表します。

フライトは約10時間。日本から一番近いヨーロッパとありました。

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フィンランドは北緯60度以北にあり、気温は最高気温が20℃くらいのようです。

日本で言えば3月くらいの感じでしょうか。このあたりは行ってみないと正直ピンと来ません。

フィンランド人は自分達のことを「スオミ」と呼ぶそうです。フィンランド共和国の別名はスオミ共和国。

スオミは湖や池を指します。国土の68%が森林、10%が湖沼や河川、8%が耕地。その名の通り森と湖の国なのです。

アイスランドに次いでの世界最北の国、消費税は概ね24%、ユーロが使えること位は調べましたが、それ以外は正直全く分かっていません。

私にとって、残された最後の巨匠、アルヴァ・アアルトの建築に触れるのが目的です。

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フィンランドの国民的建築家、アアルトの建築がどれだけ私に影響を与えたかは以前書きました。

彼はワインをこよなく愛したそうで、お気に入りはキャンティー。彼の建築が好きなのですが、それを知り、さらに親近感が湧きました。

私もワインはキャンティが一番好きです。ルビーのように色が美しく、飲みやすいが味わいがある。私が目指す建築もこのようなものかもしれません。

「これと、これと、これが見たい」と妻に伝え、ホテルを予約して貰いました。

その道中にある街をみるのも楽しみですが、行き帰りの飛行機が分かっている程度で、正直どこに行くか、もう一つ分かっていません。

ギリギリまで働き、飛行機の中で旅先の猛勉強。大体いつもそんな感じですが、今までで一番準備ができていないかもしれません。

それでも、知らない街におり立てるだけで良いのですが。

15日が月曜日で、現地からUPする予定です。良ければのぞきに来て下さい。

言葉とは、尽きることのない魔法の源‐1296‐

日曜日は大和郡山と天王寺へ行ったと書きました。

丁度その間は、春日大社あたりを散策していました。

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春日大社は20年に一度の、式年造替(しきねんぞうたい)が行われている真っ最中でした。

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檜皮葺きの屋根は、1300年に渡ってのこの儀式が続けられてきた賜物です。

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その式年造替だからか、奥の社でお参り出来るとのことでした。

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日本の様式美は、連続によって成り立っているものが多々あります。

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社の下にある空間は、真っ暗な中釣り灯篭に明かりが灯り、幻想的な空間になっていました。

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「下の禰宜道(ねぎみち)」は、かつての禰宜(神官)の通勤路です。

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この小路を春日大社から南へ下ること5分。

高畑(たかばたけ)という社家町に出ます。古くは神官の居住地でした。

その高畑は、大正から昭和にかけて、自然豊かで文化人あこがれの街でした。

現在も、白樺派の志賀直哉邸が残っています。「暗夜行路」はここで書き上げた作品です。

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志賀直哉本人が設計し、京都の大工に建てさせたというこの住宅。

20年振りくらいに訪れましたが、本当に良い家です。

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2階にある客間は庭を見下ろし、窓は北と東に向いています。

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茶室は南に開口がありますが、深い軒が庭の景色をくっきりと切り取ります。

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ディティールも、小説家の設計と言われると、本業としては困ってしまうのです。

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特に、北側に面した書斎が素晴らしい。

彼は、「書斎は北に限る」と言っていたそうです。

開口の取り方が的確なのです。

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基本は数寄屋建築ですが、食堂横には洋風のサロンがあります。

ここに多くの文人、画家などが集ったのです。

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この時代にこれだけの天窓は、あまり見たことがありません。

自邸だからこそ出来たのかもしれませんが、娘はその下で熱心にアンケートを書いていました。

この日は、一日娘と行動しました。金魚もゴッホも志賀直哉も、全て私の興味です。

娘の主張は一貫しており、大体いつも「枚方パーク」か「USJ」。

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娘をあれやこれやと誘っていると「鹿」でヒットしました。

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「鹿にせんべいをあげれるなら行く」という話しになったのです。

動機も大体こんな感じで、どこに連れていくのも詐欺みたいなものです。

ハリーポッターの最終回で、アルバス・ダンブルドアがこう言いました。

 ことばとは、言わせて貰うなら、尽きることのない魔法の源じゃ 

魔法を駆使して、あちらこちらへと連れ出すのです。

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野外へ出て、顔を上げよう‐1295‐

 泉佐野市で、金魚を放流するというイベントが物議をかもしていました。

 生態系を乱すという論調でしたが、ネットを張るという対策をした上で開催されたようです。

 川に入って金魚のつかみ取り。子供たちは楽しかったはずです。

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 奈良の大和郡山市は金魚の産地として知られます。

 近くに行く用事があり、金魚資料館なるものをのぞいてきました。

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 この地域は、灌漑用の溜池が利用され、この産業が発展してきたようです。

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 金魚は、中国のフナが突然変異したものが起源で、日本には室町時代に渡ってきたとありました。

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 江戸時代、夏の涼をとるために天井に水槽をつくり、金魚を泳がせた豪商の話しが有名です。

 一般家庭で多く飼われるようになったのは、明治に入ってから。

 現代は夏祭りの主役といったところでしょうか。

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 資料館と言っても、珍しい金魚が水槽にいるだけでした。

 無料なので勿論何も言えないのですが。

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 オランダシシガシラ。

 しかし、まあ不思議な形をしているものです。

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 同じ系統だったか、ポニョみたいなのもいました。

 その後、奈良市を散策したのですが、帰りに大阪市立美術館に寄ってきました。

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 現在はデトロイト美術館展が開催中です。

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 娘が「20分なら付き合う」と言いました。

ゴッホ、ピカソ、モディリアーニ、カンディンスキーと充実していましたが、10点程観てきました。

 中でも、ピカソ、青の時代の少年の絵は、多くの人が立ち止まっていました。

 A4くらいの小さな人物画ですが、影のある少年の表情は、鬼気迫るものがあります。その目に射すくめられそう。

 たかが絵、されど絵。世界最高峰を見るのはやはり楽しいものです。

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 帰りに天王寺公園を歩いていると、なかなか面白いアトラクションができていました。

 単管で組まれた塔から、反対の塔まで、高さ10m程を滑空するのです。

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 子供2人が、凄いスピードで滑り下りて行きました。

 これはかなり楽しそう。高い所が苦手な私は遠慮しておきます。

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 公園内は、かなりの暑さにも関わらず、沢山の人が座っていました。

 話題の「ポケモンGO」をしているようです。でなければ、沢山の人が炎天下にいることは無いと思います。

 私はこういったゲームをあまり良く思っていませんが、これだけの人を外に連れ出す力があることに驚愕します。

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 地下街に降りると、縁日イベントを開催しており、本場、大和郡山で叶わなかった、金魚すくいも出来ました。

 娘はかなり満足して家に帰ったのです。

 ヒトラーがユダヤ人を迫害したのは、自身もその系譜にあるからという説があります。

 このような繊細な問題と比べるのは間違っているかもしれませんが、私がゲームやテレビをあまり好きでないのは、小さい頃に多くの時間を費やしたからだと思います。

 小学校からゲームウォッチを持っており、中学1年でファミコンを買って貰いました。テレビも大好きで、ビデオで予約録画をして、好きな番組は欠かさず見ていました。

 今でも気になる番組はいくつか観ますが、当時はその時間が長いほど、幸せだと思っていたのです。

 しかし、その膨大な時間を、もっと違った体験に使うべきだったと、今は後悔しかありません。

 週末の30分と決めていても、子供がゲームをしている姿を見るのが、やはり嬉しくないのです。

 できたらそれを忘れさせてるくらい、夢中になれる提案をしたいのです。

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 この縁日イベントでは、サイコロくじもあり、ゾロ目の2で娘が2等賞を当てました。

 これはラッキー。フラフープを貰いました。

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 子供は、こんな単純な遊びで、30分くらいは夢中になれるもの。

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 野外にでれば花も咲いています。そして空は無限に変化します。

 何があるんだろうと、いつも顔を上げていて欲しいのです。

 子供との真剣勝負の時間も、残り少なくなってきたことを実感しています。

自分事と他人事‐1290‐

 昨日から横浜に来ています。

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 ずっと雨模様でしたが、今日は晴れそうです。

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 水の美しさは望めませんが、潮が香り、やはり海はいいものです。

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 クイーンズスクエアーには、横山剣の大きなポスターが掲げられていました。

 彼の出身地、横須賀はまだ訪れたことがなく、一度行ってみたい街なのです。

 先週から、隣家が建て替えのため、解体工事が始まりました。

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 境界を越えて足場を建てるとか、足場をこちらの敷地の中に張り出させて欲しいとか、説明がなく工事がスタートしました。

 隣の住人も良く知っていますし、お互い様なので構いません。しかし、他人敷地に入るのだから、説明くらいはするべきだと、施工会社に伝えました。

 こんな話を聞いている時の態度が、信用か、不信感かの分水嶺になるのが良くわかります。

 早く立ち去りたいと思っている、ただ相手の話が終わるのを待っている。そう感じた時、不信感へメーターの針は振れるのです。

 立場が変われば、感じ方が全く違うこともよく分かりました。普段は工事を監理する側の立場にいます。

 監督から近隣の話しを聞くと「お互い様ですよね」と感じることが殆どでした。

 ところが立場が変わると、子供に危険はないか。知らない職人に連れ去られはしないか……疑いの目でみれば、際限なく不安は広がるのです。

 当事者にとっては、工事をするのが大前提になっています。しかし、隣地の工事によって、全くメリットがあるわけではない、もしくはデメリットしかない、立場で考えたことがなかったことになります。

 人の気持ちになって考えると言いますが、どこまで出来たのだろうかと、考えてしまいました。

 完全に人の気持ちになる等、所詮無理なことなのかもしれません。しかし、だからこそ大事なことなのだとも言えます。

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 横浜に来た理由は、京セラ名誉会長の稲盛和夫さんの話を聞くためです。

 今年も、世界5カ国から4千7百名の人達が集まりました。

 また、6名の経営者の経営とその人生を聞かせてもらいました。職種が違うから、年齢が違うから、国が違うから……違う理由を探せばいくらでもあります。

 46億年の地球の歴史の中で同じ数十年を生き、70億人の人類の中の5千人として同じ時間をすごし。重なるところを探せば、いくらでもあります。

 他人事を、どれだけ自分事として考えられるか。それが、退屈な人生を送らない要諦なのではと思うのです。

 横山剣の代名詞といえば「い~ね」。

 齢四十五にして、常に前向きで、かつ素直でありたいと思うのです。

積年の澱‐1289‐ 

前回は、熊本に到着したところまで書きました。

私が担当したのは熊本市の東隣、嘉島町です。災害時の支援活動は以下の流れです。

① 応急危険度判定

② 被害状況調査(1次調査)-外部からの簡易なもの

③ 被害状況調査(2次調査)-内部、外部とも測定等が伴うもの

災害対策本部のある、町民会館。宿泊もここでさせて貰いました。

立派な建物で、山下設計の仕事とのこと。

各班は7名ずつくらいで、嘉島町役場の人をリーダーに、熊本県庁、広島や静岡の町役場の人も参加していました。

市町村はこういった時、互いに助け合うシステムが構築されているようです。

熊本県庁から来ている女性が「普段はデスクワークなので、毎日足がパンパンです」と言っていました。

一日で、大きな会社を2つと住宅の調査をしましたが、暑い中、なかなかの重労働です。

それぞれの班に、日本建築家協会(以下JIA)から参加している私達2人が入ります。

そして、基礎、外壁、屋根、柱などの被害の程度をチームで判定していくのです。

嘉島町から東に益城町や橋が落ちた南阿蘇村があります。

やはり断層が直下に通っている線上に、大きな被害は集中しているとのことでした。

同じ町内でも、被害の集中度が全く違います。

これらの判定で、半壊、全壊と判断された場合、助成金が出るという側面もあり、当然のことながら、責任のある仕事です。

この判断を、役場の方がしているケースが多いのです。

役場の中にも建築士の資格を持っている人がいるのかもしれませんが、やはり専門家が判断するほうが、精度が高いのは間違いありません。

JIAや建築士事務所協会などから、組織的にスピーディーに調査員を派遣するシステムが間違いなく必要だと感じました。

これはJIA九州の人から聞いたのですが、JIAとしては仮に費用が一切でなくても、判定員を派遣すると、早々に結論を出したそうです。

非常時に無報酬でも支援活動をするというのは賛成です。

しかし、それらの詰めがされていないという事実は問題です。

嘉島町に限らないのですが、本当にこのあたりは水が豊かです。

水田の水でさえ、澄み切っています。

川の中でもいたるところから湧き水があります。

そこで泳ぐ人も沢山見かけました。

帰りは、JIA九州の方が、福岡まで帰るので車で送りますよと言ってくれました。

JR博多駅前にあるのは、西日本シティー銀行で1971年、磯崎新の設計です。

博多は2年前の夏に来ましたが、本当に雰囲気のある街です。

まもなく山笠祭りが始まるとのことで、街中に山笠を見かけました。

博多駅前にはかなり大きなものも。

夜の8時過ぎに博多を新幹線で出発しました。

すると8時半頃に熊本で震度3の余震が。またその翌日にも震度4の地震がありました。

私が一人で出来ること等たかがしれています。また、仕事がなければ、ボランティアも不可能です。

その関係に正しい比率などありません。

地震国日本において、建築の専門家でありながら、公には何の貢献も出来ていないという、積年の澱は少しだけ流すことが出来ました。

しかし、地震に終わりなどありません。

豊かな水田、祭りに活気づく若者、そして震度7の地震。いずれもこの日本です。自分に出来る貢献とは……そんな事を考えながら大阪まで帰ってきました。

要請があればすぐに駆けつけられるよう、日々の仕事を頑張るだけだと思っています。

熊本へ‐1288‐ 

昨晩、熊本入りしました。

夕方の便で伊丹を発ち、熊本空港からバスを乗り継いで2時間。夜の8時頃に災害対策本部のある嘉島町民会館に到着しました。

熊本市街を上空から見ると、キラキラと輝き、「水の国」熊本が視覚的に理解できます。

市内にある水前寺江津湖公園 は、阿蘇山系に降った雨水が、豊富な湧水となって出来たものだそう。

市の水道の多くが地下水で供給されているというから驚きます。

地震から3カ月経ちましたが、ブルーシートで屋根を覆っている家が、まだまだ残っています。

目的のバス停に着きましたが場所が分からず、通りがかりの人にたずねました。

上品な感じの女性で「遠いから乗せていってあげる」と。キャリーバックを引いているから、支援活動の人かなと思ったと仰っていました。これまでに沢山の人がボランティアに来ていたのです。

今日は朝8時半から、建物の被害認定調査をします。

今年のゴールデンウィーク前、大阪府建築士協会からの要請で、危険度判定活動に参加する予定でした。

しかし、直前になって「受け入れ態勢が整わず」とのことで中止に。

今回は日本建築家協会(以下JIA)からの要請でした。

色々なプロジェクトが進行するなか、かなりの時間を使い、また、それ相応の出費も必要で、大阪を離れて良いものか迷いましたが、参加することにしました。

この日本に、幸せな建築を求める人が居り、仕事をさせて貰うことで、私は育てて貰いました。もし授業料を払っての勉強なら、これだけの長い期間、一つのことを続けることは不可能です。

1995年24歳の時の阪神淡路大震災から、2011年41歳の東日本大震災まで、実際に行動に移せたことはありませんでした。社員が成長した今なら何とかなるかもと思ったのです。

建築を生業にするなら、日本の風土を受け入れるところから全てが始まります。

まずは調査活動に汗を流します。そして受け入れ、向き合いたいと思うのです。

名こそ惜しけれ‐1286‐

 7月3日(日)に、「羽曳野の家〈リノベーション〉」のオープンハウスを開催します。

 お時間ある方は、是非遊びに来て下さい。

 前回は、海南市訪問を書きました。帰りに、熊野古道の入り口ものぞいてきました。

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 海南ICすぐそばにある藤白神社。

 熊野古道沿いにあり、元は藤白王子社と呼ばれていました。

05 (2)

 「王子」とは熊野古道途中にある神社のこと。

 ここは九十九王子の中でも、五体王子の一つとして特に格式が高かったそうです。

03

 神社の入り口にある鳥居の横には石碑があり、

 「三熊野一の鳥居」

 「これより熊野路のはじめ」

 と書かれています。

 三熊野(みくまの)とは、熊野本宮大社、熊野那智神社、熊野速玉神社(新宮)を指し、ここが熊野古道の入り口だと示しているのです。

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 鳥居を守るように生える楠は樹齢千年。

 長きに渡って、蟻の熊野詣を見守ってきました。

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 和歌山平野を北から見下ろすと、地理が分かり易いかもしれません。

 紀の川を中心とする和歌山平野が終わり、本格的に山岳地帯が始まるのが海南市あたり。

 和歌山城から熊野街道を南下すると、藤白神社付近で熊野古道と合流するのです。

 また、この神社のすぐ近くに「鈴木屋敷」という建物があります。全国二百万と言われる「鈴木姓」のルーツと言われているそうです。

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 平安末期(1150年頃)、上皇や法皇の熊野参詣が盛んになりました。

 その頃、熊野の鈴木氏がこの地に移り住み、熊野三山への案内役をつとめました。

 そして、熊野信仰の普及につとめたと伝えられているのです。

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 特に鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟が有名で、幼少の頃、源義経と遊んだと伝えられます。

 後には義経の家臣となりました。

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 その鈴木の宗家を後世に残そうと、保存活動をしているのです。

 街のスズキのショップにも「全国鈴木姓発祥のまち海南」という大きな看板がかかっていました。

 今回、燃費データ改ざん事件の後でもあり、複雑な気持ちで眺めます。

 司馬遼太郎は、関東一円の坂東武士の「名こそ惜しけれ」という精神が、日本人には受け継がれていると言いました。簡単に言えば、はずかしいことをするな、という意味です。

 その「痛々しいまでの清潔さが」明治の近代化を押し進めたとも言っています。 

 鈴木さんにはなんの恨みも無いのですが、日本のメーカーがそんな不正をするとは……と、憤りを感じます。

 そもそも、メイド・イン・ジャパンはそういったことの無いブランドという安心感が、世界に受け入れられていたはずです。

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 民間企業という言葉がありますが、その集合体が国家を形成しているので、誰もが自国を背負っていると言えるのです。

 開高健は、「名」について、ユーモアたっぷりに書いています。

 金を儲けようとすると逃げていきよる。結果として手にするんならええんヤ。そんなもんより名だ、名を惜しむんヤ。いいか、いい仕事しなくてはいかんゾ。

 法や道徳観には、他者からの視線が常に根底にあります。大切なのは、自らが自らを律する美意識だと思うのです。