カテゴリー別アーカイブ: 01 旅・街

白川郷でみた「結」の本質‐1362‐

 昨日は、岐阜の荘川高原スキー場に行っていました。

 東海北陸道の高鷲インターを過ぎ、ひるがの高原サービスエリアの次のインターチェンジが荘川。

 かなりローカルな感じのスキー場ですが、ここにしたのには理由があります。

 ひとつは、久し振りにスノーボードをするためです。

 長男に水をあけられたボードですが、私の練習のため、広く、すいているところがよかったのです。

 まだ時々こけますが、娘のボーゲンにはついていけるようになりました。

 ようやく長男と同じくらいまできたでしょうか。

 なんとも昭和の匂いがするレストハウス。

 このほうが落ち着くのは昭和45年生まれなので当り前か。

 席の確保に苦心する必要もなしで、気楽に午後2時まで滑りました。

 ただ「シニア券(50歳以上)」の表記にたじろいでしまいました。

 もう数年で、ついにシニアなるというのが現実なのです。

 荘川まで北上してきたもうひとつの理由は、白川郷に寄るためです。

 前回白川郷に来たのは2008年の秋。娘が生まれて半年くらいでした。

 家族で47都道府県制覇を掲げていますが、いずれも4人で回るのが前提です。

 今年の夏休みには達成できそうですが、その次は日本の世界遺産制覇にしようと思っています。

 私は満足しているけれど、子供には記憶がない。

 これでは目的を果たしていないので、記憶にないところは、再訪しなければと思っているのです。

 夕方3時半に着きましたが、この時間でも続々と観光客が訪れます。

 私達もそのひとりですが。

 2008年にも訪れた、明善寺の庫裡に入ってきました。

 1階には囲炉裏があります。

 電気やガスなど無い時代、寒い冬は炉を中心とした暮らしがありました。

 内部は5層構造になっており、中央はすのこ状の床になっています。

 囲炉裏の暖気が登ってきて、茅葺屋根の内部を燻します。

 それらは、虫を駆除する役目もはたしているのです。

 また、茅葺屋根なので、窓は妻面(屋根のかかっていない側面)にしかありません。

 光はより貴重なものだったでしょう。

 2~4階はカイコを養殖する空間です。

 長い冬、大きな屋根裏を養蚕工場として活用されていたのです。

 1階にあるこの囲炉裏は暖をとるだけのものではなく、全ての中心でした。

 茅の葺き替えは、片面だけで1千万円以上かかるそうです。

 また、100人から200人の人手も必要になってきます。

 その膨大な人出は、「結(ゆい)」という労働交換によってまかなわれます。

 豪雪地帯である白川村は、長く他の地域と隔離されるため、それぞれの家庭だけで生きていくことは不可能でした。

 互いが助けあうことが、どうしても必要だったのです。

 「結」は日本各地にありました。沖縄では「ゆいま~る」です。

 「結」という思想は、農業国であった日本の原風景といえるのです。

 彼岸をむかえ、茅葺きの屋根からは雪解け水が茅の1本1本からしみ出し、滴となってしたたり落ちます。

 村内に張り巡らされた水路の流れは、春の訪れをしめすよう。

 本格的な春を迎える彼岸は、現代とは比べられない程、待ち遠しいものだったのではと思います。

 現代社会が失ったものを、簡単に断ずることはできません。

 しかし、若者の「まずは自分の権利があってこそ」という姿をみて、果たしてそれでよいのだろうかと思います。

 その時間そこにいれば、今度の葺き替えの時に手伝って貰える訳ではありません。

 役にたってこそ、屋根を葺いてこそなのです。

 もし手伝って貰えなければ、その先にあるものはたったひとつなのですから。

古希‐1358‐

週末は、母の古希祝いで天橋立へ行っていました。

両親、弟家族との旅行は久し振りです。

日本三景と言えば、宮島、松島、そして天橋立です。

南にある天橋立ビューランドからの景色は「飛龍観」とよばれます。

特に「股のぞき」をすれば、天に龍が舞い上がるようにみえるとのこと。

娘と姪っ子にさっそくトライしてもらいました。

娘なので失礼して。

天に舞う龍にみえるでしょうか。

父がカニが食べたいというので、夕食はカニ尽くしのコース予約していました。

そして子供には、丹波牛のしゃぶしゃぶ。

いずれも、バチがあたりそうなくらい美味しかったのですが、私はカニの刺身が一番でした。

そして、女の子チームから花をプレゼントしてもらったのです。

翌朝は、反対にある笠松公園からも股のぞきをしてきました。

こちらは昇り龍のように見えるので「昇龍観」とよぶそう。

正直、その違いは分かりませんが、股のぞき発祥の地はこちらだそうです。

集合写真には興味がないのですが、11名全員が揃う機会もなくなってきたので、昇龍の前で失礼しました。

伊根の舟屋なども回ってきましたが、天気に恵まれ、良い古希祝いになったのではと思っています。

平均寿命が80歳を超えたとはいえ、70歳まで元気でいることは当たり前のことではありません。

更に、まだ介護の仕事をしているので、感謝しなければなりません。

あまり言いたくないのですが、最近小さなに文字が見難くなってきました。

ずっと視力は2.0だったので、「早くに老眼がくる」と言われていましたが、まさか自分に限って、と思っていました。

何事も経験しなければ分からないものです。

自分が70歳になったとき、どんな視力で、どんな体力で、もしくは生きているかも定かではありません。

それでも、死ぬまで仕事は現役でいたと思っています。

昔なら、稀なことだったので「古希」。

祝い事なので「希」の字があてられているのでしょう。

どれだか体がおんぼろになっても、希望の灯だけはいつも燃やしていたいと思うのです。

戦争と沖縄‐1357‐

終戦から72年。

戦争を、20代、30代で体験した祖父母は、すでに4人とも亡くなってしまいました。

終戦時に8歳だった人が現在80歳。戦争体験を聞く機会は、この10年でほぼ無くなってしまいます。

2月11日、12日と初めて沖縄を訪れましたが、戦争についてはやはり素通りできないと思っていました。

那覇の目貫通りは国際通り。

夕方だけなのか、歩行者天国になっていました。

ある交差点では、ストリートパフォーマンスをしている若者がいます。

平和な日曜午後の風景です。

後ろに見えるのは安売りのドン・キホーテ。

この建物は安藤忠雄の設計で、もとの名は「フェスティバル」だったと思います。

今はベージュのペンキが塗られ、打ち放しの見る影もありません。しかしそれも時代の流れです。

ここに書くのはあくまで私の歴史観、戦争観です。

2ヶ所だけですが、沖縄戦の痕跡を訪ねてきました。

旧海軍司令部豪は那覇市街を見下ろす、小高い山にあります。

アメリカ軍の砲撃に耐えるため、山をくり抜いて作られた地下陣地でした。

450mあったうちの300mが公開されていました。

ここは司令官室。

漆喰が施されています。

ここは下士官兵員室。

スリット状に影が見える部分に、元は木の支柱がありました。

下士官は、立錐の余地なく立ったまま眠ったそうです。

ツルハシの跡が生々しく残るこの空間で、立ったまま眠り、戦に勝てる訳などありません。

そして幕僚室。

壁に残るのは幕僚が手榴弾で自決した際、飛び散った破片の跡です。

生々しく残るその跡を、正直、真正面から見ることは出来ませんでした。

責任は自決してとる。

その場にいればそれが正しいと私も思ったかもしれませんが、どんなことがあっても生きてこそです。

それを分からなくするのが戦争でしょうか。

もう1ヶ所は糸数アブチラガマ。

那覇から南東へ10km程いった小高い丘の中腹にあります。

先の戦争で、沖縄への上陸は本島中部、読谷村(よみたんそん)あたりから開始されました。

アメリカ軍は徐々に南下してきたため、本島南部は最終の激戦地となりました。

「ガマ」とは沖縄方言で、洞窟やくぼみを指します。

「アブ」は深い、「チラ」は崖をさします。深い、深い、とても暗い洞窟でした。

以前は撮影を許可していたそうですが、現在はガマの手前まで。やはりネット社会は難しとのことでした。

内部には照明はなく、懐中電灯を手に1時間程かけて案内をしてくれます。

この糸数アブチラガマは、もとは集落の非難指定豪だったのが、陣地豪となり、病院の分室となりました。

病院分室となってからは、ひめゆり学徒もこの地に配備され、負傷兵の治療にあたります。

トイレなどないので、糞尿を一斗缶に入れ、夜の間にガマの外へ捨てに行くのも彼女達の仕事だったそうです。

衛生状態が悪いので、負傷兵の手や足が切断されたものも、彼女たちが外部へ捨てにいきました。

人はそんな悲惨な日常にも慣れてしまうそうで、高校生くらいのひめゆり学徒も「これ○○さんの足だから、重くてかなわないね」とような会話を交わすようになっていったのです。

人が人でなくなる。それが戦争なのではないでしょうか、とガイドの方が言っていました。

最終的に軍からの撤退命令がでると、歩けない負傷兵と地元の人だけがここに残りました。

アメリカ軍は入り口からガソリンを流し込み、火を放ちましたが、湿気が多い為全体へは広がらなかったそうです。

それでも、ガマ内の天井は黒く焦げ、爆発したドラム缶の一部が、濡れた紙のように天井にへばりついていました。

それはこの出口からすぐそこで起こったこと。地元の方の何人かが、そこで命を落としたのです。

本土決戦に備える時間稼ぎのために「沖縄は捨て石にされた」と糸数アブチラガマのwebサイトにはあります。

更にこうあります。

 沖縄戦で、日本兵6万6千人、沖縄出身兵2万8千人、米兵1万2干人、一般住民9万4千人が亡くなりました。

 当時の沖縄県の人口は約50万人でしたから、沖縄県民の4人に1人が亡くなったことになります。

日本で唯一、地上戦を経験した沖縄。

アメリカ軍、日本軍、沖縄県民が入り乱れた、終戦間際は地獄絵図だったといいます。

スパイを疑われ、殺された県民もいたとのことでした。

沖縄戦で亡くなった日本軍の中で、沖縄の次に多かった出身地は、北海道だそうです。

ガイドの方が「内地という言葉があるとおり、やはり沖縄、北海道など、地方の貧しい人達の多くが命を落としたのかもしれません」と言っておられました。

大阪に住んでいて、「内地」という言葉を使うことはありません。

その音には、ある種の不公平感が含まれていることを、私達は認識しなければなりません。

サトウキビ畑の中にぽっかりと空いた、糸数アブチラガマ。

案内の途中で「いちど全て懐中電灯を消してみましょうか」と言う場面がありました。

多くの負傷兵が見捨てられ、出入口をアメリカ軍に塞がれ、火を放たれ、真っ暗闇のなかで沢山の人が亡くなっていきました。

日本の終戦は8月15日ですが、このガマでの終戦は8月22日。それまでここに立てこもっていたのですが、アメリカ軍に収容され、負傷兵も数名が命をとりとめました。

身動きできない真っ暗闇の中で聞こえるのは、わずかに残る負傷兵のうめき声と、自らの傷口をウジが食う音だけだそうです。

そんな断末魔の世界を、なぜ多くの市民が経験しなければならなかったのか。

作家・司馬遼太郎は青年期にこの戦争を経験しました。

18歳で学徒動員されますが、栃木県の地で終戦を迎えます。

召集を受け、一旦は死さえ覚悟した若き日の司馬遼太郎は、戦争が劣勢になってくると理不尽な場面にでくわします。

本土決戦を前にした日本の軍部は、命をかけて国民を守るどころか、最終的に自らの保身を優先するような命令を下すのです。

そのとき彼は「日本人というのは、こんな国民だったのか。いやそうではかったはずだ。戦国時代は、江戸時代は、せめて明治時代以前はそうではなかった・・・・・・」と憤ります。

それから日本が少しでも良くなればと、戦国時代、江戸、幕末の志士を描くことになるのです。

戦争に導いた人達をリーダーとよんで良いのか分かりません。

それでも、国にしろ、組織にしろ、リーダーの判断は、多くの人達に良くも悪くも影響を与えます。

アブチラガマでは、指令室になる予定だったところは、ガマの奥深くで、敵の侵入を防ぐため様々な工夫がされていました。

一方、地元住民があてがわれたスペースは、出口からすぐのところ。

一番奥が駄目、入り口側が良い、というような単純な問題ではありませんが、覚悟と愛情のないリーダーは組織を不幸にします。

ガイドの方の言葉にトゲや恨みは感じませんでした。

しかし、現実に捨て石にされたという事実と記憶が変わることはありません。

美しく、やはり痛い、はじめての沖縄だったのです。

沖縄の旅<後編>‐1353‐

 2月12日(日)沖縄2日目です。

 予報は曇りでしたが、概ね晴れてくれました。

 恩納村のホテルをあとにし、海岸沿いの国道58号線を北上します。

 1時間弱で名護市役所に到着。

 1981年、象設計集団の作品で、日本建築学会作品賞を受賞しています。

 建物まわりには整列されたグリッド状の回廊がめぐらされ、樹々が建物を覆います。

 象設計集団はバナキュラー(土着的)な建築設計で知られ、この名護市庁舎も、沖縄の民家を手本としました。

 その木漏れ日は、極めて優しいのです。

 背面に回ると全く違った表情を見せてくれます。

 強い日差しと相まってか、イスラム圏の建築を思わせます。

 各柱、梁の交点にシーサーが鎮座しています。

 その全てのシーサーは、ひとつとして同じものがありません。

 建築を覆う樹々のなかから、小鳥のさえずりが聞こえてきます。

 建築と自然。相反するものが、廃墟でなく融合している。

 日本の市庁舎の中で、最も美しいものかもしれません。

 名護をあとにし、今度は東海岸を目指します。

 平安座島(へんざじま)の海中道路。

 子供達は海の中を走ると期待していましたが、もちろんそれは無理。

 しかし、海と道が近く運転していても爽快です。

 さらに橋を渡り、浜比嘉島にも立ち寄ってきました。

 近くの港をのぞくと本物の海人に初遭遇。

 昔ながらの民家ばかりではありませんが、それでも沖縄の風土を受け継いだ民家が数多く残っています。

 石敢當(いしがんどう)と読むそうですが、交差点などにおく魔除けだそうです。

 街中でもかなりの頻度で見ました。

 空家問題は、全国的なものですが、沖縄の空家は深く樹々に覆われたものが沢山ありました。

 北海道にも沢山の空家がありましたが、ここまでになるには、かなりの時間がかかるでしょう。

 駐車場に停まっていた車のホイールがちょっと変な感じでした。

 近くでみてみると、錆びきっているものにカバーが付けられていました。

 沖縄は太陽も、潮風も、全てが強く、それらは人工物にダメージを与えるでしょう。

 日本の自然は、欧米の自然に比べると「強い」と言えます。

 高温多湿で、放っておけば空き地は草木が生えてきますが、これはどこでも起こることではありません。

 その日本の中で、沖縄は最も自然の強い地域です。

 沖縄での台風を体験したことはありませんが、その厳しく美しい自然が、建築の形態を受け継がせるのではないかと思うのです。

 一番心に残ったのは、やはり自然の美しさでした。

 人は自然を消費する罪深い生き物です。さらに私の仕事は、人工物を創ることです。

 沖縄の建築にみた、畏敬であったり、敬意を込めた物創りをしたいと思います。

 青い空、澄んだ海、濃い緑のガジュマル、深紅のハイビスカス、赤瓦に白い漆喰。

 初めての沖縄は、思った以上に刺激の多いものでした。

 今度は泳げる季節に来てみたいと思います。

<目指せ、家族で47都道府県制覇>
43/47 【】はまだ

北海道

【青森】 【岩手】 【宮城】 【秋田】  山形 福島

茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川

新潟県 富山 石川 福井 山梨 長野 岐阜 静岡 愛知

三重 滋賀 京都 大阪 兵庫 奈良 和歌山

鳥取 島根 岡山 広島 山口

徳島 香川 愛媛 高知

福岡 佐賀 長崎 熊本 大分 宮崎 鹿児島

沖縄

沖縄の旅<前編>‐1352‐

 「家族で47都道府県制覇の旅」は昨秋の佐賀、長崎以来です。

 家族揃って日本をめぐるのが目的ですが、私が行ったことのない県が1つだけ残っていました。

 それが沖縄です。

 青い空に、赤瓦の屋根。

 そこに鎮座するシーサー。

 全てが初めて目にするものです。

 2月10日(土)10:00amに初めて沖縄に足を踏み入れました。

 私にとって最後の日本です。

 車を借り、那覇市内に向かいました。

 まずは昼食ということで、住宅街にある「す~まぬめ」という沖縄そばの店へ。

 この日の那覇は最高気温が14℃。

 地元の人は寒い寒いといいますが、大阪の朝は3℃。私にとっては十分南国です。

 強い日差しに対して、深い軒がかかっていました。

 もう少し天気が良ければ外で食べたかったところですが、娘が風邪気味で、残念ながら屋内の席に。

 ソーキそば700円、沖縄そば600円、じゅうしい150円(沖縄のかやくごはん)。

 日本で最も古い肉食文化を持つ沖縄ですから、豚、牛とも本当に美味しかったのですが、麺類がこれほど美味しいとは驚きました。

 かつおと豚骨の合わせ出汁とのこと。

子供は正直なもの。

付け合わせのヨモギは無理でしたが、あっと言う間に平らげてしまいました。

 土地の物を食べると、多くのことが分かります。

 その足で、世界遺産の首里城へ。

 首里城は戦争で全て消失しており、初めに再建されたのがこの守礼門です。

 全ての再建が終わり、2000年に世界遺産に登録されました。

 沖縄の文化は、風土、食、衣服をみてもあきらかに独特のものです。

 中でも建築に大きな影響を与えるのは、台風を含むその厳しい自然環境でしょう。

 首里城南西にある、金城町石畳道。

 戦禍を逃れ、500年前から残るものだそうです。

 現在の沖縄では、住宅の多くが鉄筋コンクリートで作られています。その比率は驚く程でした。

 現代の住宅が、重くて頑丈からかい離して行く中、その厳しい自然が逆方向に建築を導いているのです。

 那覇から浦添市の港川にある「外人住宅街」にも立ち寄ってきました。

 戦後すぐに、米軍用に建てられた住宅ですが、1972年の本土復帰とともに、民間の手に渡っていきました。

 コンクリートブロックで出来た住宅のようですが、軒が極めて薄く、非常に軽快な印象です。

 何よりカラフルが似合う街でした。

 宿泊は西海岸にある恩納村のホテル。

 夕食は近くのライブのある居酒屋へ行きました。

 沖縄の1日目は、オリオンビールとともに更けていったのです。

 この旅の相棒は、黄色のビートル。

 飛行機は鮮やかな黄緑。

 外人住宅街には赤いものも。

 日本最南端ですから、自然が美しいのは分かっていましたが、想像を上回る美しさ、カラフルさでした。

 しかしただ手放しで喜んでもよいのだろうかという気持ちもあります。

 もちろんそれは、沖縄を戦争と切り離して語ることはできないからです。

 それは回をあらためて書こうと思っています。

 南北、東西ともに3000kmあるこの国を、隈なくとまでは言わないまでも、一回りするのに46年掛かりました。

 一足先に私が47都道府県を制覇しましたが、多少感慨深いものもあります。

 今、思うのは本当に美しい国だなということです。

 2日目はまた木曜にUPします。

<目指せ、家族で47都道府県制覇>
43/47 【】はまだ

北海道

【青森】 【岩手】 【宮城】 【秋田】  山形 福島

茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川

新潟県 富山 石川 福井 山梨 長野 岐阜 静岡 愛知

三重 滋賀 京都 大阪 兵庫 奈良 和歌山

鳥取 島根 岡山 広島 山口

徳島 香川 愛媛 高知

福岡 佐賀 長崎 熊本 大分 宮崎 鹿児島

沖縄

キヤノンで観音様を撮ってみたい‐1350‐

 先週、京都に立ち寄ったと書きました。

04 - コピーのコピー

 海外からの旅行者の玄関口となる京都駅。1997年の完成です。

 梅田スカイビル等でも知られる原広司の設計です。

05 - コピーのコピー

 京都の碁盤の目をモチーフに、中央を谷に見立てたプランで国際コンペを制しました。

 景観論争にも発展し、最も高さが低かった原広司案が選ばれたと記憶しています。

 正直、京都にあっているとは思いませんが、そこに一つしか存在できないのが建築なのです。

  京都駅前から東山七条くらいまで行くと、ようやく街並みにも雰囲気がでてきます。

 三十三間堂は、京都国立博物館の南向かい。

09 - コピーのコピー

 一間=約1.8mなので60mかと思いきや、長さは120m。日本で最も長い木造建築だそうです。

 柱間が三十三あるので、通称として三十三間堂と呼ばれるようになったそう。形態が通称となったのです。

 三十三間堂は平清盛が援助し、1155年に後白河上皇の院内に創建されたのがはじまり。

 しかし火災にあい、1266年に再建されました。

 よく知られる「通し矢」は、お堂の西軒下で行われました。

 高さおよそ2.5m、幅も1m強の限られた空間で矢を24時間射続けます。そして、何本の矢を射通せるかを競いました。

 120mを射抜くには強靭な体力と技が必要とされ、京都の名物行事となっていったのです。

 内部はさらに素晴らしい。

 国宝の千手観音坐像は3mはある見事なもの。それを取り巻くように、階段状になった10段ある壇上に1,000体の千手観音像がずらりとならんでいます。

 仏像のある空間をみて、これほど感激したことはありませんでした。まさに圧巻です。

 しかし、残念ながら内部は撮影禁止でした。

 私は何か撮りたいものがあるときは、CanonのEOS 5D Mark Ⅱにシフトレンズ(建築写真用)とズーム付きのレンズを持って行きます。

 海外では写真好きの外国人に、それらをきっかけに声を掛けられたことが何度かありました。Canonは世界中で支持されているのです。

 Canonのロゴについては、公式サイトにこう載っていました。

 1933年に精機光学研究所が設立され、最初の試作機は「KWANON(カンノン)」と名付けられました。

 観音様の御慈悲にあやかり世界で最高のカメラを創る夢を実現したい、との願いを込めたものでしたが、世界に通用するブランドが必要になりました。

 そこで、英語で「聖典」「規範」「標準」を意味する「Canon」となったのです。

 カナカナ表記なら「ヤ」は小さくせず「キヤノン」が正解です。

 当初の「KWANON(カンノン)」の際は、まさに千手観音と燃え上がるロゴがデザインされていたそうです。

 まさに世界標準となった「Canon」。キヤノンで観音様を撮ってみたかった。

 創業者の御手洗毅は元医師でしたが、共同経営者が出征したため、本格的な経営に取り組むことになります。

 世界一を目指し「打倒ライカ」を掲げ実力主義を徹底するのです。

 一方、いち早く週休2日を導入。また、家族あってこそ仕事ができると、早く家に帰ることを奨励したそうです。

 企業においての働き方が問われる時代です。

 キヤノンの御手洗さんのように、医師としても、経営者としたもスマートで、世界的企業に育て上げる人もいます。

 先日、あるゼネコンの社長と話しをしていたら「いまどき週休2日じゃないと、応募がこないんですよ」と言っていました。

 建築現場も、週休2日が標準となる時代へ向かっているようです。

 その社長は「私は24時間、年中無休で、いつでも電話してこいと言っているんですが」と笑っていました。

 観音様の御慈悲は、もちろん皆に注がれています。

 しかしながら、若干の哀愁を感じてしまったのもまた事実です。

近くて遠い街、堺にて‐1337‐

 大阪市のすぐ南にある堺市。

 私にとって近くて遠い街でした。今まで本格的に訪れたことがありませんでした。

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 仁徳天皇陵を訪れるのも初めて。

 横は数えきれないくらい通っているのですが。

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 3重の堀に守られた、長さ約500mの日本一大きな古墳。地元では「御陵さん」と呼ぶそうです。

 世界遺産の暫定リストにも記載されています。

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 その大きさは俯瞰しなければ、ピンときません。

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 北西にある、堺市役所の21階に展望ロビーから見下ろすことができます。

 観光マップあり、各所にボランティアのガイドを配したりと、堺も観光に本腰を入れているのが分かります。

 昨日は快晴で、明石大橋まで見えました。

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 展望ロビーには、鉄砲も展示されていました。

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 堺は水運によって発展した都市です。

 旧堺港の入り口に立つ灯台は、明治10年に建築されたもの。

 所在を変えずに現存する洋式木造灯台としては、最も古いもののひとつだそうです。

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 備前の国の石工が建造したという石積みは、有機的なフォルムで、現代には見れない美しさがありました。

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 旧堺灯台から東に1kmほど内陸にはいると、ザビエル公園があります。

 中央あたりにある段差は、中世における海岸線だったそうです。

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 公園のすぐ海側には環濠が残っています。

 さすがに日本一大きな環濠都市だけあり、濠の規模が違いました。

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 環濠都市の中央付近ある千利休の屋敷跡。

 利休は1522年、堺のこの地に豪商の長男として生まれました。

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 17歳の時から茶の湯を学び、のちに武野紹鷗に師事。わび茶を大成させます。

 現在は、井戸が残るのみでしたが、井戸屋形は大徳寺の山門改修の際にでた古材でつくられたものだそうです。

 大徳寺は秀吉との確執で切腹においこまれた、因縁の寺でもあります。

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 利休は茶人として粋を極めた結果、発言力を持っていきます。

 しかし「利休好み」の言葉もある通り、質素な茶の湯を旨としました。

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 利休が設計したと言われる、現存する唯一の遺構は、大山崎にある「待庵」です。

 わずか二畳の茶室に、一畳の床を設けています。

 壁は藁すさのみえる荒壁で、そこに一輪の野の花を活ければよいと考えました。

 高価な物を飾るのではなく、亭主のもてなす心を表現するために、床に一畳をさいたのです。

 黄金の茶室をつくった秀吉と、精神的な部分で交わることはなかったのだと思います。

 利休は、師である武野紹鴎に「詫びとは慎み深く奢らぬ様」と教えられました。

 読めば読むほど、深く、迷宮に入ってしまいそうな言葉です。

 茶の湯という、伝統ある精神文化を高めた利休が、堺の地に生まれたのは偶然ではないと思います。

 新しい文化が次から次へと入ってくる堺だったからこそ、利休は深く根源をみるようになったのではないかと思うのです。

 「伝統」とは「起源」の忘却のことである
-エドムント・フッサール- オーストリアの数学者・哲学者

 現在の伝統文化も、もとは前衛的だったはず。今に固執せず、より深く精神世界を突き詰めてみたいと思うのです。

 この日記も、今年は残すところ1回となりました

 過去をなどってはいないか、前を向けているか、根源をみようとしているか。自戒、反省の念が次から次へと湧いてきます。
 
 しかし、この1年を良い形で締めくくるため、残る1週間を利休のように精一杯考え、働くのみです。

大阪の宝‐1333‐

 先月下旬に、小学校で学習発表会がありました。

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 2年に一度の開催だそうです。

 長男は小学6年生なので今年で最後。合唱、合奏でした。

 こんな時、一所懸命に歌えるのが彼の良いところでしょうか。

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 下の娘は小学3年で「大阪の宝物」という劇を演じました。

 阪神タイガース、粉もん、通天閣、大阪のおばちゃん、大阪弁……

 大阪の宝は何かを考察しながら劇は進行して行きます。最後は人だという結論で、とてもよくできた劇でした。

 四季は日本の宝と書きました。果たして大阪の宝とは。

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 この季節は銀杏並木が美しい御堂筋。

 幅44mの道路が、4kmにわたって2つの街を結んでいるのは、都市計画上も大変珍しいものです。

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 八百八橋で表される、水の都。車社会以前は、水運こそが流通の要でした。

 土佐堀川は表川と呼ばれたそう。

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 60周年を迎える通天閣。

 エッフェル塔周りの都市計画を参考にしているので、ここが大阪のシャンゼリゼ通り。

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 久し振りに日本橋を歩いてきたのですが、その変わりように驚きました。

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 中学生のころ、マクセルのUDⅡというカセットテープを少しでも安く買おうと、歩き回った電気屋街。

 当時は閑散としていた裏通りでさえこの人出です。

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 北にあるグランド花月へ抜ける道具屋筋も賑わっていましたが、黒門市場はまるで東南アジアのマーケットのようでした。

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 「夫婦善哉」で知られる無頼派作家、織田作之助。通称織田作(おださく)。

 彼がお金を無心してもらったという波屋書房は、なんば南海通りにあります。

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 彼の愛した洋食屋・重亭。

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 そして「夫婦善哉」に登場する、ライスカレーの自由軒。

 織田作は大阪人をこう表現しました。

 確かに大阪は伝統を守って来た都だ。今日を以って伝統を守るだけなら、骨董屋のおっさんにも出来よう。大阪人を大阪人たらしめるものは、大阪人が永遠の新人という一事だ。

 更にこうも書いています。

 大阪人に共通の特徴、大阪というところは猫も杓子もこういう風ですなという固着観念を、猫も杓子も持っていて、私はそんな定評を見聴きするたびに、ああ大阪は理解されていないと思うのは、実は大阪人というものは一定の紋切型よりも、むしろその型を破って横紙破りの、定跡外れの脱線ぶりを行う時にこそ真髄の尻尾を発揮するのであって、この尻尾をつかまえなくては大阪が判らぬと思うからである。

 そしてその点が大阪の可能性である……

 彼の大阪評は実に鋭いと思います。

 例えば出勤する前、お向かいの奥さんと挨拶を交わします。

 「おはようございます」だけでなく、何か一言加えてくれますし、私もそうします。

 寒いね、晴れたね、お兄ちゃん頑張ってるね、娘さんは愛想がいいね等など。

 娘の劇と同じ結論では芸がありませんが、こうして大阪に旅行者が訪れるようになったのは必然かもしれません。

 悪い側の印象の多くは、やはり人の応対です。

 旅行者の多くが訪れるところはチェーン店ではありません。人が求めるのはやはり人だという証明ではないかと思うのです。

伏見の酒蔵いりませんか‐1331‐

 先週、ある施工会社の社長から電話がありました。

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 「伏見の酒蔵要りませんか?」と。

 写真も送って貰いました。この建物の解体を依頼されたそうですが、ただ潰すのはもったいない。

 「先生はいろんな仕事をされているので、こんな建物なら欲しいと言う方を、誰か知らないなかなと思って」と。

 折角なので見に行ってきました。

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 築後100年くらいは経っているでしょうかか。

 外壁はかなり傷んでおり、トタンで覆われています。

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 安土桃山時代に秀吉が伏見城を築城し、その際に外濠としての水路も整備しました。

 その水路が、建物裏手に流れています。

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 土壁がむき出しになっていましたが、元は焼き杉板だったようです。

 日本酒はあまり知識がないので、伏見酒造組合のwebサイトをみると、なかなか興味深いものでした。

 一升の酒をつくるのに、八升の水がいるので、酒づくりには良質で豊富な水が必要。

 桃山丘陵をくぐった地下水が、山麓近くで湧き出すのがここ伏見で、かつては「伏水」と書かれていたそうです。

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 酒蔵の名前も、聞いたところがずらりという感じです。

 河童でおなじみの黄桜も。

 400mほど南に下ると、坂本龍馬が難を逃れた寺田屋があります。

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 幕末には、維新の志士がこの地を度々訪れました。

 そのことからも、この地が京都と大阪を繋ぐ要衝であったことがよく分かります。

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 寺田屋前の水路を下れば、宇治川、大川とつながっていきます。

 先週木曜日は、大川沿いのホテルニューオータニで、稲盛和夫さんの講演を聴く機会がありました。

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 稲盛さんはこんな話をしてくれました。

 インドの聖典「ヴェーダ」には次のような言葉があるそうです。

 偉大な人物の行動の成功は、その行動の手段によるよりも、その人の心の純粋さによる。

 没後150年の歳月が経っても、龍馬が日本人の心をつかまえて離さないのは、この言葉の証明かもしれません。

 伏見の酒蔵。もし興味があるかたをご存じなら一報ください。

 これも、作り手の「もったいない」からきた、純粋な気持ちなのです。

偉そうな人は嫌いだけど、偉い人は好き‐1329‐

 11月25日(金)、「大改造!!劇的ビフォーアフター」のレギュラー放送終了という記事がでていました。

 出演した私が言うのも何ですが、終わるかもなと思っていました。

 記事には、東日本大震災や東京オリンピックの影響で、工期が遅れ気味になり、レギュラー放送が難しくなったとありました。

 それが一番なのでしょうが、番組製作費がどんどん削られる中、あれだけの人と時間を投入して、番組をつくるのは大変だろうな、と思っていたのです。

 民放に勤めている知人が、民放とNHKとの違いについてこう言っていました。

 「あの会社(NHK)は、お金とか時間のことは考えていない」

 これは羨望半分、敬意半分だと思います。

 となれば、あのような番組はNHKが製作するしかないのかもしれません。冗談半分、本気半分ですが。

 昨日は、奈良の学園前に行く用事がありました。 ついでに、駅の南にある大和文華館に寄ってきました。

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 学園前の南は歩いたことがなかったのですが、かなり大きな家が建ち並んでいます。

 前庭というか、小山の上に山があるというか。これは、正真正銘の豪邸です。

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 住宅街にある緩やかな丘を登って行くと、大和文華館はみえてきます。

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 写真で伝わりにくいかもしれませんが、東西にかなり長い建物で、40m近くあるでしょうか。

 広角レンズを持って行けばよかったのですが後の祭り。

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 吉田五十八の作品は、上野の日本芸術院会館くらいしか見たことがありません。

 数寄屋建築を自らの解釈で、近代建築に取り入れました。

 誰でも真似ができそうで、誰にも真似ができない。それが吉田五十八だという気がします。

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 展示室は撮影禁止でしたが、エントランスホールもガラスを使いながらも、和を強く意識させます。

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 展示室を抜けると、池に望むテラス。

 ここには出られませんでしたが、池を望むロケーションは素晴らしいもの。

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 裏に回るとテラスの形状が良く分かります。

 建物は持ち上げられ、中央が地面と接しているのですが、この部分に竹林があります。

 展示室の中央が外部となり、全方向からその竹が見えるというダイナミックなプランになっていました。

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 外壁のデザインは、漆喰によるなまこ壁を強調したとでも言えばよいでしょうか。

 これだけ思い切って単純化するのは、デザインを生業とするものとすれば、かなり勇気のいることです。

 エメラルドグリーンを選択しているにも拘わらず、奇をてらった感じは一切なく、逆に薄味な感じさえしてきます。

 昭和初期に活躍した吉田五十八は、その功績が称えられ、彼の名を冠した賞が創設されています。

 近代建築の発展に大きく寄与したことに加え、プロが尊敬できる建築家だったのではと想像しているのです。

 偉そうな人は嫌いですが、本物は大好きなのです。

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 アプローチには、雨に打たれて寒椿が寒そうに咲いていました。

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  現場近くでは、サンゴジュが赤い実を。

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 近所の公園に出るだけで、見事に色づいたイチョウが見れます。

 ある建築家が「これだけ多くの観光客が日本に来てくれるのは、四季があるからだと感謝しなければならない」と言っていました。

 同じ場所でも、四季によって違った景色を持っている。これは、そこに暮らす私達にとっても、大変豊かなことです。

 そう考えれば、日本人が偉い訳ではなく、日本の自然が偉いことになるのです。