カテゴリー別アーカイブ: 01 旅・街

SAGA佐賀‐1204‐

昨日の夕方、泉大津港をでました。

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今朝6時に新門司に到着。この連休は、佐賀、長崎をまわります。

最近は、船旅の人気が高まっていると聞きました。

泉大津から乗る阪九(はんきゅう)フェリーは今回が初めてですが、造船したばかりの新艇です。

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いろんな点が改善されていました。

4人部屋の2段ベッドが、はしごから階段に変わったのは大きな改善点です。

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フェリーの旅の醍醐味は、ゆっくり流れる時間ですが、揺れは本当に小さくなりました。

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波が小さかったにしろ、揺れを意識することはほぼありませんでした。新しい技術が投入されているのでしょう。

新門司から佐賀へ行く途中、久留米へ寄りました。久留米と言えば、チェッカーズ、松田聖子も出身地。

久留米市役所は菊竹清訓の設計で、1994年の完成です。

建築は、写真が良いものと、実物が良いものがありますが、完全に後者でした。

昼までに、佐賀県の吉野ヶ里遺跡まで移動しました。

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弥生時代後期の環濠集落が復元されていますが、日本最大級のもの。

物見やぐらが付随した竪穴式住居が十数棟あり「魏志倭人伝」に記された国の一つではと考えられています。

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入口にある吉野ヶ里歴史公園センターは2000年の完成。菊竹清訓の設計です。

菊竹清訓については、何度か触れました。

関西なら、2003年に解体されましたが、万博公園のエキスポタワーが分り易いでしょうか。

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実は、久留米から吉野ヶ里あたりまで、菊竹家の土地だったそうです。

それが、戦後の農地解放によって、殆どを失うことになります。

2000年完成のこの建物は、コンペだったのですが、そんな因縁もあり、何とか勝ちたいと思っていたそうです。

そこで勝つあたり流石ですが、さらに面白いのはこの建築の構造です。

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このキール式ドームは、あの新国立競技場のコンペで、ザハ・ハディドが提案した構造に似ています。

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見下ろした姿が、どことなく似ている感じもしますが、彼はアンビルドの王様とは言われていません。

自邸は空に浮かせ、建物全体が雨どいの建築を実現させているのです。

常に新しいものを提案し、現実のものとしてきました。それだけに、非難を浴びた建築もあるのですが。

1800年前の集落をみて、15年前のキール式ドームをみて、実際に、同じような感激があるのです。

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先程、長崎に着きました。

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金沢と共に、私が最も美しいと思う街ですが、前回訪れたのは4半世紀前。

今日はグラバー邸だけで、明日はゆっくり回ります。

最後は、あの歌で。

『佐賀県』 歌・作詞・作曲:はなわ

SAGA さが 松雪泰子も佐賀~ でも公表してねえ~

江頭2:50も佐賀~ でも公表するな~

佐賀県民には申し訳ないのですが、これはこれで凄い曲です。

<目指せ、家族で47都道府県制覇>

42/47 【】は済み
【北海道】
青森  岩手 宮城 秋田 【山形】【福島】
【茨城】 【栃木】 【群馬】 【埼玉】 【千葉】 【東京】 【神奈川】
【新潟県】 【富山】 【石川】 【福井】 【山梨】 【長野】 【岐阜】 【静岡】 【愛知】
【三重】 【滋賀】 【京都】 【大阪】 【兵庫】 【奈良】 【和歌山】
【鳥取】 【島根】 【岡山】 【広島】 【山口】
【徳島】 【香川】 【愛媛】 【高知】
【福岡】 【佐賀】 【長崎】 【熊本】 【大分】 【宮崎】 【鹿児島】
沖縄

市長はひとりで行くのか、みんなで行くのか‐1197‐

 午前中、橋下市長、松井府知事が、維新の党を離党するという発表がありました。

 一昨日、市長選出馬の意思を固めたと報道があったのは柳本顕大阪市議。

 知っているという程ではないのですが、弟の同級生で、一度事務所へ行ったことがあります。

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 彼は西成区選出。

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 天王寺から少し西に歩き、大阪市大病院を越えると、西成区山王町です。

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 彼の事務所はこの近くにあり、凄いところにあるもんだと、驚いたことを覚えています。

 何が凄いのかは後ほど。

 親族に国会議員が居る議員一家で、ここ山王町で育ったそうです。

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 西成区はあいりん地区に代表されるよう、日雇い労働者も多く住み、大阪の問題を凝縮したエリアとも言えます。

 未だ闇市の名残を残す商店街。

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 路地をのぞくと、大衆劇場が見えました。

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 これらが、娯楽の王様だった時代が、確実に50年前にはあったのです。

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 すぐ東は、あべのキューズモール等の再開発地域に接します。

 それらが出来るまでは、細い路地で山王町まで繋がっていました。路地裏にあった洋食屋は、羊の脳みそのソテーを2000円で食べさせました。

 怪しい雰囲気も加味され、時々通っていたことを思い出します。

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 今も残る飲食店は、三丁目の夕日のセットのよう。

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 戦後70年が経ち、建物の老朽化、管理者の不在も大きな問題です。

 いわゆる「空家法」が施工させるようで、建築業界のチャンスと捉える向きもあります。

 しかし、私の経験で言えば、リノベーションはそんなに簡単なものではありません。

強制されての行動に、幸せの結末はイメージはできないのです。

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 柳本市議の事務所を訪れたのは15年前。

 弟の車で行ったのですが、付近には、艶かしい照明が当てられた女性が、店先に座る店が連なります。

 飛田新地のはずれにあったのです。

 最後の色街と言われるだけ、今でも、ひと時代前の空気が滞留しているのです。

 時期市長となるのは誰か。

 「早く行くなら一人で行け。遠くへ行くならみんなで行け」

 出所は知らないのですが、アフリカの諺という表記もありました。もしそうなら、狩をしていた頃の箴言だと想像できます。

 現市長は遠くまで来たのか、早く来たのかは、正直分りません。次の市長には、大阪を確実に、遠くまで連れていって欲しいと思うのです。

 それには、それぞれの市民が、手本にある仕事を、精一杯やることが、何より大切です。

 他人任せは駄目。これは商いの街、大阪の鉄則ですから。

福島、山形をめぐる喧嘩の無い旅‐1194‐

 前回は、月曜日の昼に松本に着いた後にアップしました。

 1日目、13日(木)の宿、「御用邸のある街」那須高原を目指します。

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 もっと高級感のある温泉リゾートをイメージしていたのですが、ひなびた感じでした。

 「鹿の湯」という、源泉近くの浴場へ行ったのですが、泉質は白濁しており、とても良かったです。

 草津もそうでしたが、泉質は古さに比例すると言って間違いないでしょう。

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 2日目、14日(金)は、猪苗代湖へ。

 湖畔にある、野口英世記念館へ。生家が保存されているのです。

 野口英世は一番初めに読んだ伝記で、良く覚えています。赤ん坊の時、囲炉裏に落ち、やけどひっついてしまった指を、後に手術によって各指を動くようにして貰います。

 そして医師になることを決意し、成功していくというサクセスストーリー。

 こんな本を読んで、努力し成功して欲しいと思いこの伝記が与えられたのでしょう。

 勿論、子供たちにも買い与えています。

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 会津若松まで移動し、白虎隊の悲劇の舞台となった飯盛山へ移動。

 しかし、目当ては少年志士の墓近くにある「さざえ堂」です。

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 さざえのようにゴツゴツしたフォルムは、スロープなりに伸びた屋根によるものです。

 と言うか、この建物自体がスロープなのです。

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 1796年、寛政年間に出来ており、かなり刺激的な建築でした。

 設計図面があるが故、トライ出来ていないことがあるのではと思わせられる傑作でした。

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 その後、福島と山形の県境にある滑川温泉泊。

 山奥も山奥。熊も出るそうです。

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 ここも白濁したお湯で、岩風呂は長男と貸切。

 連日の雨で川がに濁っているのだけが残念でしたが、秘湯感溢れる宿でした。

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 川のせせらぎを聞きながら朝食。

 山菜、米沢牛も美味しかったのですが、何よりご飯が美味しい。気温は17℃で勿論冷房要らずでした。

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 3日目、15日(土)は、朝一番で、芭蕉の句で有名な山寺(立石寺)へ。

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「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

 今回の旅行は半分くらいが雨でしたが、この時が一番降っていました。

 雨でセミが全く鳴いておらず……

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 しかし、無理をして登った甲斐がありました、上に着くと晴れ間が指してきたのです。

 セミの鳴き声も聞こえ、句の感傷にしたったのです。

 那須高原の殺生岩でも一句詠んでいますが「奥の細道」では、芭蕉は東北を中心に、日本全国を訪れています。

 最期の地は大阪ですが、まさに旅芸人の人生。憧れるところがあるのです。

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 3日目の宿は山形の鶴岡。このあたりの宿がなかなか見つからなかったそうです。

 赤川花火大会があるからだと分り、どうせならと見に行くことにしました。

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 この大会は、全国デザイン花火競技会でもあり、20チーム程の花火師が、その技を競うのです。

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 有名な大会らしく、県外からも多くの人が来るそうですが、駐車場の人が「大阪から車でですか?」と驚いていました。

 これだけの為に来た訳ではありませんが、音楽に合わせてだったり、芝居仕立てだったりと、十分楽しませてくれました。

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 3日目は、花火大会もあり宿が取れずにキャンプになりました。

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 4日目、16日(日)は快晴。奥州の朝は爽快でした。

 鶴岡市に別れを告げ北に35km、酒田市を目指します。

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 酒田は、奥の細道でも「五月雨を集めて早し最上川」と読まれた、最上川河口の街。

 最上川はとても広い川でした。

土門拳記念館は、この地の出身である昭和の写真家、土門拳の作品が寄贈されて出来たものです。

 ニューヨークのMoMA新館を設計した谷口 吉生の作品です。

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 館には、土門拳と親交のあったアーティストの作品も多くあります。

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 イサム・ノグチのオブジェは「土門さん」という名。

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 勅使河原宏による庭。

 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、豊田市美術館、上野の法隆寺宝物堂等と共に、水を建築に取り込んだ素晴らしい建物でした。

 水が池であることを考えれば、最も自然と一体感のある建築です。

 トップランナーでありながら、常に抑えが効いた作風は、まさにプロフェッショナルの仕事と感じます。

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 3日程、山形に居たのですが、田と山の美しい所でした。広い庄内平野を後にして、最後の街、新潟へ。

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 快晴の日本海。海沿いの国道は最高の景色です。

 新潟-山形は高速道路がまだ繋がっていなので、新幹線も大切ですが、車派としては、こちらも急いで欲しいものです。

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 新潟港からフェリーは夕方4時半にでて翌朝5時半に敦賀着。

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 佐渡に沈む夕日を見ながら一息。 今日の8時頃大阪に戻りました。

 家族4人で全国制覇も、残すところ東北4県、九州2県、沖縄になりました。今年は秋の連休があるので、まずは九州を制覇してきます。

 1日目の昼、松本を出たあとです。

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 上信越道で那須高原を目指しますが、眠たくなったこともあり、妻と運転を交代。

 少しすると大きなサイレンが鳴りました。

 「前の車左へ寄りなさい」

 覆面パトカーに連れて行かれる妻を見て、娘は「今から3人で温泉へ行くん?」と。

 「通行帯違反」で罰金6千円。高速道路では、追い越し車線を走り続けてはいけません。

 妻が言うには、左車線の車とスピードが同じくらいになり、戻り損ねているうちにサイレンが鳴ったと。

 おそらくスピードもオーバーしていたと思うので、まあこの程度の罰金で済んでよかったのですが。

 宇宙人が攻めてくれば、戦争は全て無くなるというのはもっともな話。

 今回は警察に捕まったので、勿論喧嘩はなしです。

<目指せ、家族で47都道府県制覇>

40/47 【】は済み
【北海道】
青森  岩手 宮城 秋田 【山形】【福島】
【茨城】 【栃木】 【群馬】 【埼玉】 【千葉】 【東京】 【神奈川】
【新潟県】 【富山】 【石川】 【福井】 【山梨】 【長野】 【岐阜】 【静岡】 【愛知】
【三重】 【滋賀】 【京都】 【大阪】 【兵庫】 【奈良】 【和歌山】
【鳥取】 【島根】 【岡山】 【広島】 【山口】
【徳島】 【香川】 【愛媛】 【高知】
【福岡】 佐賀 長崎 【熊本】 【大分】 【宮崎】 【鹿児島】 沖縄

旅に出ると喧嘩が始まる‐1193‐

 今日13日(木)から4日間の夏季休暇です。早朝に大阪を出発しました。

 夕方には、栃木県那須に到着の予定ですが、途中、長野の松本に寄りました。

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 松本城は、日本で4つしかない国宝です。

 戦国時代は攻防に長けた山城が多く、平城は珍しいそう。その分堀がひろく、美しい建物でした。

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 城下町も、雰囲気を残す取り組みが見え、好感がもてます。

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 また、いたる所に井戸や、湧き水がみられます。

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  そばは、痩せた土地でも育つので、こういった地域の名産品になります。

 とても美味しかったのですが、若干の物悲しさを感じるのです。

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 そば屋には、水は横の井戸で汲んでくださいとの貼り紙。

 水が綺麗な街だからこそできるサービスです。

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 近くにあった、伊東豊雄設計の、まつもと市民芸術館も見に行ってきました。

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 基本は音楽ホールですが、余白のあるプランになっています。

 見せ場は、なんといってもランダムに開けられた開口部です。

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 所どころに、少し大きな透明な開口があり、自由度、遊び心と圧巻でした。

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 ベンチの下、カーペットには形状に合わせて、グラディエーションが掛かっているという、芸の細かさ。

 プリツカー賞受賞者の実力が如何なく発揮された力作でした。

 夏の旅行は、今からスタートですが、2、3日前、FMからこんな話が聞こえてきました。

 「子供の頃、夏休みの旅行をとても楽しみにしていました。

 父も張り切っているのが分るし、普段は行かないような遠いところまで出掛けるので、皆のテンションはマックス

 しかし、大概の場合、両親が喧嘩を始めるのです。

 妻は仕事場に来るので、比較的会っている方だと思いますが、それでも全員が24時間揃うのは旅行中だけ。

 勿論、我が家も例外ではありません。

 まず休みを決め、行く場所を決め、どこを回るかを考えます。何を見て、何をして遊ぶかイメージをめぐらし、準備に入ります。

 早起きし、コツコツと準備を開始。パーフェクトと思っていたら「あれを忘れた、これを忘れた」と。「だからメモをしておくよう……」

 大方こんな流れです。

 社会が裕福になり、子供時代から個室を持ちます。自分だけのテレビ、ゲーム、パソコン、携帯電話も持ち、それでも他人への思いやりは江戸時代以上。

 そんなことは有り得ません。現代人は、例外なく我がままなのです。
 
 バブル華やかし頃、成田離婚という言葉がありました。海外へ新婚旅行に出掛ける空港で、意見が合わず離婚するという。

 何せ、トラベルの語源はトラブルと言うくらいですから、その人の性がでるのです。
 
 入社試験で、皆で料理を作るという試験があるそうですが、合う、合わないを知りたければ、旅に出るのが一番です。

 しかし今更、合う合わないを言っていても仕方ないので、今回の目標は「喧嘩をしない」です。

 栃木、福島、山形と修行の旅は続きます。

 <目指せ、家族で47都道府県制覇>

38/47 【】は済み
【北海道】
青森  岩手 宮城 秋田  山形  福島
【茨城】 【栃木】 【群馬】 【埼玉】 【千葉】 【東京】 【神奈川】
【新潟県】 【富山】 【石川】 【福井】 【山梨】 【長野】 【岐阜】 【静岡】 【愛知】
【三重】 【滋賀】 【京都】 【大阪】 【兵庫】 【奈良】 【和歌山】
【鳥取】 【島根】 【岡山】 【広島】 【山口】
【徳島】 【香川】 【愛媛】 【高知】
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人は空ばかり見てる‐1188‐

今日の大阪は34℃なるそう。朝から完璧な夏空です。

春先の新聞に、関西電力が「黒部ルート」の見学会を募集しているとでていました。

2.7倍の倍率でしたが、無事当選。先週木曜日に長男と行って来ました。

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先週は、残念ながら木曜日だけが雨。

黒部ダムは日本一高いダムで186mあります。その価値をまとめてみます。

ダムのある黒部川は急流の暴れ川で知られます。距離に対して高低差が大きく、大正時代から電源開発の資源として注目されていました。

水力発電は、水の位置エネルギーを、運動エネルギーに変える事で発電するからで、豊富な積雪も、安定した貯水に貢献します。

戦後、日本経済の復興と共に、深刻な電力不足が起こります。

それらを補うため、昭和31年から7年をかけ、関西電力が社運をかけて完成させたのが黒部ダムなです。

地形と共に見ると分り易いと思います。

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中央下にある赤のマークが黒部ダムです。

西は立山連邦、東は北アルプスと、急峻な山岳地帯に挟まれています。

そして青が黒部川第四発電所。

黄色が欅平(けやきだいら)で、下流からここまでは、緑の宇奈月温泉からトロッコ列車で訪れることが出来ます。

黒部川は赤→青→黄と、北に向かって流れているのですが、一般の交通機関はありません。

関西電力の輸送設備のみで、この区間が「黒部ルート」です。

私達は、右下の水色、信濃大町(長野側)ら、トローリーバス(関電トンネル)でアプローチしした。

黒部立山アルペンルートを通ると、黄緑の室堂(富山側)からもアプローチ出来ます。

立山からのトンネルは昭和46年、黒部川からの黒部トンネルの開通は昭和34年。よって、33年の関電トンネルが開通するまで、未開の地だったのです。

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案内人が1グループ30名を率います。

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まずはダム横の黒部トンネルをバスで移動。

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真夏でも気温4℃。

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10kmに渡るトンネルには換気設備はありません。

数箇所ある横坑から、外にでることが出来るのですが、この日は生憎の濃霧。本来なら、北アルプスの裏剣岳が見れるそうです。

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残念ですが、この時期でも雪渓が残っていました。

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黒四発電所のすぐ手前で、バスを降ります。

黒部川は高低差がきついと書きましたが、ここからはインクラインに乗り換えます。

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インクラインとは、運搬用、大型ケーブルカーです。

このインクライン、アニメ「エヴァンゲリオン」でそのまま再現されているそうです。

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34度で一気に456mを下ります。

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そしてここが発電所内。

国立公園の景色を壊さないよう、また雪崩を避け、全てが地下に作られています。

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すぐ横に、予備の水車が置いてありました。

この日は大雨で、残念ながら発電はしていませんでしたが。

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黒四発電所から欅平までは、上部専用鉄道というバッテリーカーで移動します。

「高熱隧道」と言われる難工事部分は120℃になる上、硫黄が常時発生しており、架線が寂びてしまうからとの事でした。

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川べりを走るですが、 関電は、黒部川に4つのダム、11の発電施設を持っています。

同じ川にいくつもダムを持つのは、貯めた水を何度も使えるからで、一度貯めると四度美味しい訳です。高い位置にある、豊富な水こそが、まさに財産なのです。

また、この欅平から下流にある第三発電所まで、多くは戦前に完成しています。

昭和初期にかけての難工事は吉村昭が書いた小説「高熱隧道」に詳しいとのことでした。

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2002年、NHKの紅白歌合戦に中島みゆきが初出場し、生中継で歌ったのが、このトンネル内です。

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最後は梅田オフィスタワーが出来るまで、日本最大だった竪坑エレベーター。

200m降りると、トロッコで電車の欅平駅に到着。見学会は終わりました。


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ここからは、長男とぶらり旅。

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途中にある、水路橋は昭和2年とのアナウンスでした。

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北陸新幹線、サンダーバードと乗り継ぎ、大阪に帰ってきました。

インクラインに乗っている20分間、2002年の紅白の映像が流れました。

中島みゆきが歌った「地上の星」は、「プロジェクトX」オープニング曲だったので、勿論覚えています。

「プロジェクトX」のサブタイトルは~挑戦者たち~。書き下ろした曲と知っていましたが、歌詞の意味は全く頭に入っていませんでした。

真っ暗なインクラインの中で聴いた時、不覚にも熱いものがこみ上げてきました。

街中で頑張っている人を誰も見ず、誰も応援せず、空ばかり見上げている。名の知られたものに、華やかなものばかり追い、氷ばかりつかんでいる。空を飛ぶつばめなら、分っているだろうに。

そういうメッセージだったのです。

この見学会は「電源開発の軌跡と、電気事業への理解を深めて貰うことを目的にして実施している」とあります。

そんな意義をはるかに越えた、本気の手跡がありました。

夏休み分は来年ですが、秋の応募はまだ大丈夫のようです。子供は小学5年以上。是非お勧めします。

ヤンキーの兄ちゃん‐1184‐

 先週、私の住む喜連は環濠都市だったと書きました。

 そこから2kmほど北にある、平野郷はさらに大きな環濠都市で、現在も環濠跡が残っています。

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 信長にも謁見した宣教師ルイス・フロイスもその美しさを書き残しています。当時は竹垣で囲まれていたようです。

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 その北端にあるのが杭全神社。

 大阪は夏祭りの季節に入って行きますが、杭全神社のだんじりは、大阪府下において岸和田に次ぐ規模で知られます。

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 昨晩は、九つの町にあるだんじりが各町内をねり歩き、南港通りで一同に会する九町合同曳行の日でした。

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 九町集るのが夜10時頃。そこまで居るつもりはないので、夕方から境内の夜店へ。

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 スーパーボールすくい。

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 射的と、子供だましと言えばそうですが、楽しめるうちは。

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 何故、体に悪そうなものを子供は好きなのか。

 普段、与えていない分、つい甘やかしてしまいました。

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 嘉門達夫の歌ではありませんが、あまり上品でない若者の比率が急激に増すのが祭り。

 煙草を吸う、ビールを飲む中学生、高校生らしき若者の多いこと。まあ、そんな姿も含めて下町の祭りですが。

 子供達は怖がるかと思っていたら、だんじりに興味深々で、気が付けば9時を過ぎていました。

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 自転車も交通規制に引っ掛かるので、人ごみを掻き分け、遠回りしてなんとか家まで辿り着きました。

 娘は体調があまり良く無かったのですが、本人が行きたいと言い、多少無理をして連れて行ったのです。

 昨晩から肩で息をするうようになりました。以前、肺炎で入院していることもあり、早朝から救急外来へ。

 後悔しましたが、文字通りあとの祭り。

 数値は良くないもの、入院は不要という診断で、多少胸をなでおろしたのです。バタバタとした週初めになりました。

 夏祭りは農耕に従事する人のねぎらいの場で、発散の場であったはずです。

 祭りには人を集める全ての要素が詰まっていると、ディズニーランド誘致に成功した堀貞一朗は言います。

 動き、明かり、音。

 加えて言うなら、人でしょうか。人が人を呼びます。そして、人が集るところにはヤンキーが。(死語?)

 若者が、世を憂い、退廃の雰囲気を漂わせている姿を見るのが、正直、一番嫌いです。

 簡単に目立つ方法は、いくらでもあります。しかし簡単には覆せない時間、努力が、別次元の達成感、幸福感を与えてくれるのです。

 自分もそんな空気を発散していた時期がありました。それで、余計に目につくのでしょう。(勿論ヤンキーではなかった)

 目覚めよヤンキーの兄ちゃん。君達の未来は、道端にはない。

街の清濁‐1182‐

 奈良県香芝市での女児連れ去り事件。

 発見、保護の一報が入り、ひとまずですがほっとします。

 犯罪者に美意識などあろうはずもありませんが、弱者へ向けての許しがたい身勝手な愚行。

 はたして子供を危険から守る方法はあるものなのか。

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 私の住む平野区喜連。中世には環濠都市として発展しました。

 環濠は堺が有名ですが、喜連は小振りなだけあり、密集して江戸、明治期の建物が残ります。

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 私のジョギングコースに、最近案内板をみつけました。

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 庄屋、豪農邸が多く残るのが喜連環濠地区の特徴とありました。

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村への6つ入口には、現在も地蔵尊が祭られています。

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 深さ3mの堀といえばかなりの深さ。そこに橋が架かっていたのです。

 村に入ってからも小さな村が故、来訪者は好奇の目でみられたはずです。安全を、物、人で守ってきたのが環濠都市なのです。

 ペルーで仕事をしていた日本人に聞きましたが、ゲーテッドタウンで暮らしていたそうです。

 フェンスで囲まれた街の入口にはゲートがあります。そこで、チェックがあるのですが、海外では富裕層が暮らす街として普及しています。

 しかし、「街歩き」を私の趣味とするなら、魅力的なもの、興味を引かれるものは、概ねそのようなところにありません。

 日本でも、海外でも、もっと猥雑で、人の欲望が顕在化したところに、魅力ある空間はあるものです。

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 現在小学5年の長男は、塾へ行く際、一つ前の駅で降りて繁華街を歩き回っているようです。

 勿論、そんな所へ行かないほうが危険はないのですが、最高に楽しいのも理解できます。

 清濁合わせて、人は成長するものですから。

 犯罪者など心から、全て消え去った欲しいと思います。しかし、完全に犯罪の元を断つことは不可能なら何か手を打たねばなりません。

 5人組、隣組に戻る必要はありませんが、せめて向う三件両隣に、全ての日本人が毎日挨拶したなら。

 そんな、のんびりした案しか思いつかないのですが、子供を危険に陥れるのも人なら、防ぐのも人以外にないはずです。

 一生をゲーテッドタウンで暮らすのでなけば。

ごて地蔵‐1177‐ 

 連日紙面をにぎわす「大阪駅前地下道」の立ち退き問題。

 村野藤吾デザインの換気塔を横目に、地上の工事は滞りなく進んでいるようです。

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 梅田換気塔は1963年の作品で、有機的なフォルムをステレスで表現しています。

 遊び心漂う作品ですが、同じく紙面を賑わしている新国立競技場とは一線を画します。

 この押さえのきいた表現は、日本人のみに分るものなのか。そのあたりはザハ・ハディドに聞いてみたいものです。

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 あたりから、東の路地に入ると「ごて地蔵通り」という看板が見えます。

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 突き当たりにあるのが「ごて地蔵」。

 昭和の初め頃、梅田界隈で悪病が流行した。不動時の住職が「この地に埋没放置されている地蔵尊がある奉祀せよ」とのこと。発掘し、誰かの庭に奉祀すると災いは収まった。

 しかし、ここは梅田の一等地。街の移り変わりも激しく、地蔵さんの場所が変わるたびに災いが起こった。

   最終的には曽根崎警察が預かることになったが、昭和48年の建替え工事の際、この地に祭られることになった。

 何か起こるたびに「お地蔵さんまたごててはる」からごて地蔵となったとか。

 今回の立ち退き問題は、阪神百貨店建替えにともない発生した話ですが、色々な立場、思惑が見えてきます。

 紙面からの情報によると、地下道拡幅は市の計画としてあったようです。それが、今回工事にともない、民のお金で実行するという機会がやってきました。

 家賃が安すぎる。適正な競争が行われていない。いや、市のほうにも誤解があったなど。二転三転、様々意見が聞こえてきます。

 スナックパークに続いて、愛用の立ち食い蕎麦まで無くなるのは寂しいですが、「ごねてる感」があるのは否めません。

 「ごねる」は御涅槃(ごねはん)から来たもので、本来は死ぬという意味だそう。

 思い通りにしろと文句をつけるが「ごてる」で、混同、誤用されていることが多いのです。(ここでも間違って使っているのですが)

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 先週末、子供と釣りに行く際、塾が遅いので、天王寺まで迎えに行きました。

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 塾終りでピックアップし、そのまま出発。私が子供の頃より、圧倒的に長い時間、勉強しています。

 それでも、成績を見て一喜一憂。ダラダラしていると文句の一つも言いたくなりますが、頭が下がる思いです。

 若い時の苦労は買ってでもしろと言うのに、大人になると、ちょっといい条件を取り上げられそうになると、ごねる。

 ずっとチャンスなどあり得ませんし、ピンチが無くて成長できる程、人は強くないと思うのです。

 ごてて、ごねると死に至る。

 そうならずに良かったですが、祠の一つくらいはあっても良いかもしれません。

竹内街道から古都の秘密にせまる‐1175‐ 

 この日記も10年を越え、正確には分かりませんが、200~300名くらいの方に読んで貰っているようです。

 しかし、アクセスの少ない回には傾向があります。

 その一つが歴史の話。前回も普段から比べるとやや少な目でした。

 前回、聖徳太子廟のある街、太子町について書きました。今回も懲りずに、古都・奈良の秘密に迫ってみたいと思います。

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 太子町には多くの古墳が残りますが、少し視野を広げてみれば、竹内街道周辺に多くが集っています

 堺から明日香村に至る竹内街道は、日本初の官道と言われます。

 山川出版の日本史によると、3世紀から4世紀にかけて、瀬戸内海沿岸から畿内にかけて、古墳が発生しました。

 これは、弥生時代の共同墓地とは異なり、権力者が多数現れたことを示します。

 多くの古墳がある大和を中心とし、4世紀中頃、豪族達が連合して大和政権が起こったと考えられています。前回書きましたが、皇室の祖先にあたります。

 魏志倭人伝に邪馬台国の卑弥呼が登場するのは3世紀のことで、その後の時代の話です。

 大和政権は、権力争いが絶えないなか、中央集権化を進めて行きます。

 7世紀初め、混乱の中即位した女帝、推古天皇は甥の聖徳太子を摂政とし、律令国家を目指しました。

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 そんな時代、小野妹子を隋に遣わせます。

 この時代、文化の進んでいた大陸と船で繋がり、シルクロードの終着点となったのが大和の地でした。

 東京オリンピックに際、新幹線の完成を急いだように、隋からの国賓を迎える為、急ピッチで進められた国家プロジェクトがが、竹内街道だったのです。

 では、なぜ都がこれほどまでに、畿内に集中していたのか。その訳は、旧石器時代にまで遡ります。

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 竹内街道のすぐ北にある二上山で、サヌカイトという石がとれました。この、矢じりなどに適した石は、二上山産が広い意地域で見つかっています。

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 更に、古墳時代に移ると、石室などに使う、加工しやすい凝灰岩が必要になります。

 あの2こぶラクダのような形状は、富士山と同じように、噴火によって形成される形です。

 古代、二上山は火山だったので、灰が固まった凝灰岩を多く産出しました。よって、多くの石切り場跡も確認されているのです。 

 7世紀中頃、大化の改新のあと、都は難波の宮、現在の大阪城南に移されます。

 その後、主なところでは、近江宮(大津市)、藤原京(橿原市)、平城京(奈良市)、紫香楽宮(甲賀市)、難波京(大阪市)、長岡京(長岡京市)、平安京(京都市)と、天皇が変わるたびに、都は移ります。

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 緑のエリアが都の跡ですが、大阪の難波宮、奈良の平城京、明日香、橿原の藤原京と、これらを結ぶように、大道が発達していったのです。

 明治を迎えるまで、概ねは日本の都は奈良、京都、大阪、滋賀と、常に畿内にありました。広辞苑には、畿=帝都から500里(200km)四方とあります。

 サヌカイト、凝灰岩が、人をここに集め、後に都へと発展して行ったと考えると、辻褄があいます。

 では、なぜ大阪平野より、奈良盆地、京都盆地に都が多かったのか。当時の地形を想像すると分り易いかもしれません。

 水都大阪というサイトにありました。

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 古代からの大都市は、ローマ、長安、パリ、ロンドンなど、全て内陸の大河沿いにあります。

 水は人が生きる為に必須で、水運の重要さは、現代の比ではなかったはずです。

 しかし、大阪平野なら、繰り返し水害をもたらした大和川を、秀吉が付け替えたように、水害の被害も、現代の比でなかったと考えられます。

 堺は急深の良港だったのが、この付け替え工事により土砂が堆積。港としての価値を急速に失って行ったのは皮肉なところ。

 利休を自害に追い込んだのも秀吉で、堺と秀吉は相性が悪かったのでは、というのが歴史のサイドストーリーです。

 京都の鴨川も、暴れ川だったとの記述もあるように、枯れることのない水量と、氾濫の頻度のバランス、そして外敵からの防御。

 それらの総合点が最も良かったのが、奈良盆地だったのではと想像しています。

 奈良はリニアモーターカーの駅で京都と綱引きをしています。

 勿論、駅が出来るに越したことはありませんが、何千年も日本の中心だった理由を探求し、もっと伝えていけば、世界一の観光都市、京都を凌ぐ可能性も十分にあるのでは。

 奈良の秘密に迫る。いかがだったでしょうか。 

太子が眠る王陵の谷‐1174‐ 

 久し振りに友人の墓参りに行って来ました。

 墓石を見ると亡くなったのは17年前。私の記憶は3年ずれていました。なかなか友達が出来ない訳です。

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 霊園は羽曳野の山手にありますが、園内には古墳があります。

 古代からこの地域は、墓地として最高の場所だったようです。

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 カーナビを見ると、少し南に推古天皇陵、小野妹子の墓がありました。

 推古天皇は、聖徳太子の母だったか。このあたりは太子町になるようです。

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 行ってみると、推古天皇陵は宮内庁管轄とありました。

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 小野妹子廟は科長神社の中に。

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 質素と言えばよいのか、巨大と言えば良いのか。

 木々と共に墓となるのが、日本の民族性でしょう。

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 近くに、竹内街道歴史資料館があると知り、寄ってみました。

 元、社会の教師だったという副館長が、このあたりの歴史をレクチャーしてくれました。これがなかなか面白かった。

 この時代の基礎知識としては、以下の3つ。

・603年 初の女性天皇、推古天皇は初の官位制を取り入れた。
・604年 甥の聖徳太子を摂政とし、初の憲法をつくった。
・607年、小野妹子が遣隋使として派遣された。

 更にその前後、また、国の起こりにまで話を広げてくれました。

・8世紀に編纂された古事記、日本書紀には、初代神武天皇(前660–前585)から9代までの記述があるが、10代崇神天皇(前97–前29)からは、史実の裏づけもある。

 知識として知っているつもりでしたが、皇室が2700年も紡がれていたことが、もうひとつ分って居なかったのです。

 聖徳太子が皇族であるということも。

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 近くの叡福寺に聖徳太子廟があると聞き、日が暮れる前にと寄ってきました。

 明治には石室にまで入れたらしく、富岡鉄斎のスケッチもあるそうです。

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 冠位十二制度は、確か色で区分けされていたはずです。

 紫が最上位だったでしょうか。菖蒲の姿がそのきっかけになったのかもしれません。

 推古天皇によって整備された大道(のちの竹内街道)が置かれました。

 遣隋使として知られる小野妹子はこの道を通って遠く大陸をめざし、また大陸からはるばるやって来た使者たちは逆にこの道を通って都のあった飛鳥へ向かったのでしょう。

 この頃、大和の飛鳥が“遠つ飛鳥”と呼ばれたのに対し、太子町周辺は“近つ飛鳥”と呼ばれ、町内には数多くの天皇・皇族クラスの古墳が築造されました。

 太子町一帯が「王陵の谷」と呼ばれる由縁です。

 大阪府南河内郡太子町のwebサイトより

 政治は斑鳩の里で行われたのですが、廟はここにと、生前から太子が決めていたそうです。

 何より、太子町の太子は聖徳太子を指すことがまったく分っていませんでしした。

 もう少し言えば、太子の墓があるが故、太子町なのです。改めてその偉大さを知りました。

 全てが事実かは別にしても、フェアを日本に持ち込んだ、推古天皇と聖徳太子。国際化の扉を開いた小野妹子。

 彼らが居なければ、また違った日本になっていたかもしれません。

 石器時代から、古墳時代まで、なぜこの地が日本の中心だったのか。この話がとても面白かったのですが、また回を改めます。