カテゴリー別アーカイブ: 09 家族・私

A型

 私の血液型はA型。父も母も同じです。一般的にですが、以下の傾向があると言われます。

A型-几帳面、神経質
B型-自己中心的、お山の大将
AB型-AとBの2面性あり
O型-大らか、のんびり

 日本人はA型が一番多くて約40%。O型、B型と続き、最も少ないAB型は10%程。最近知ったのですが、4つのタイプが10~40%にばらけているほうが、世界では珍しいそうです。

 アメリカ人、フランス人の白人は、A型とO型が9割を占めます。

 アメリカの先住民族に至っては、ほぼ全員がO型。それで、血液型による性格判断など誰もせず、自分の血液型すら知らない人も多いようなのです。
 
 日本では、血液型による性格の研究が以前から盛んでした。現在では学術的根拠は無いと結論付けられています。

 人間をを4種類で分けられるとは思いません。学術的根拠もありません。それでも、経験的に傾向はあるような気がするのです。

 友人は比較的B型が多い気がします。特に末っ子が。ちなみに妻はB型の長女で、長男はA型です。

7回忌

 先週の土曜日、久し振りに母の郷里に帰りました。祖父の7回忌だったのです。香川県満濃町は、瀬戸大橋を渡れば車で30分ほど。

 祖父母4人はみな本当に元気でした。6年前に初めて祖父を亡くします。87歳でした。

 祖父は、7人兄弟の次男に生まれます。比較的大きな農家でしたが、14、5歳の頃、弁護士を目指して東京へ。書生しながら勉強し、東京の大学に進みます。

 これからは何をするにも学が必要と考えていました。昭和5年頃の事、日本は戦争への道をひた走っていました。

 在学中に第二次世界大戦が勃発。中国大陸に出兵されますが、なんとか生還。戦後は通産省で働き、マッカーサー率いるGHQと、政府の橋渡しの仕事をしました。しかし過労もあり、結核を患います。療養の為、故郷に戻る事になったのが、昭和30年。祖父37歳、、長女の母が5歳、叔父3歳の事でした。

 結核の為、最終的に肺を一つ切除することになります。その前後10年間は、働く事が出来ませんでした。祖母は子供2人を育てるのに懸命に働らき、随分苦労をしたようです。

 やっと体調が戻りはじめた祖父は、電気屋を始めます。都会で使った便利な家電を、重労働に苦しむ農村の女性へと考えたのです。

 その理想を実現する為、起こした会社は”生活改善社”。金毘羅さんに通じる参道に今もあります。

 祖父の生い立ちについては、何となく知っていました。

 しかし、10年も働けなかった事、肺を失った理由が結核だった事、それによって、祖母、母、叔父は働きづめだった事は、初めて知りました。90歳になる亡き祖父の妹が、教えてくれたのです。

  祖父は今、讃岐富士を望む墓地に眠ります。孝行したい時に親はなし。祖父母も同じでしょう。十分孝行できたかと聞かれれば、やはり首をかしげざるえません。

 しかし祖父なら”そんな事を悔やむより、り、一生懸命働き、真面目に生きなさい”と声を掛けてくれると思います。

 そんなことを想う、秋晴れの7回忌でした。

秋の小さな運動会’07

 日曜日の天気は、なんとか持ちました。2歳の長男が通う保育園の運動会だったのです。

 初めての昨年は散々で、練習していたお遊戯も全く出来ず、徒競走も泣いてしまい、手を引かれてゴール。

 ”なんでも初めが肝心。負け癖が付かないよう、初の勝負事は一番で……”という願いはかないませんでした。

 さて、今年も開会です。

 何が熱心って親です。並ぶビデオの数はこの通り。そういう私も同じようなものですが。

 今年の徒競走は……昨年と同じく先生に手を引かれて、でした。

 やる気満々で走る練習を繰り返していたのですが、またダメでした。初勝利は来年にお預けです。

 お遊戯のほうはなんとか無事演技終了。

 約300人の園児一人につき2~4人の保護者が来場している感じです。観客はざっと見ても1000人以上。場内は妙な熱気に包まれています。

 この雰囲気からは、どうして無気力な子供が増えていくのか分かりません。親の熱と子のやるきは反比例するのでしょうか。しかし、少なくともネガティブな印象は持ちませんでした。

 これからも地域のイベントには出来る限り参加して、わが子と共に街の雰囲気も見守っていくつもりです。

健康診断

 やっぱり体が資本。と言う事で、人間ドックに行って来ました。午後からの半日のコースでしたが、朝7時から夕方4時までの絶飲食は少々応えます。

 何が一番辛いかと言えば、バリウムを飲んで台の上でグルグル回るあの検査。偶然かもしれませんが、検査技師の人も怖めの人が多い気がするのです。

 ”は~い。ゲップはしな~い” ”そのままの姿勢でちょっと我慢してエ” ”じっとして動かな~い”と隣室からマイク越しの指示が次々に飛んで来ます。おまけに、例の機械からゴム球みたいなのが付いているアームが伸びて来て、お腹を押さえ始めるのです。

 ゲップを我慢しているのに、機械に容赦なく押さえつけられ……まあ自分の為にやっているのですが。

 結果は後日郵送されて来ますが、その場で分かる事もあります。こだわっているのが視力。今回も何とか両目とも1.5の牙城を守りました。しかし、あのCの文字がどんどん小さくなってくると心の中で ”ん~、多分上”とか”次は右で勝負!”とか言ってます。

 以前、アフリカの人の視力が4.0とか言うのは、例えば草原でシマウマを見つける時、その洞察力も含めてと聞きました。なので雰囲気でも何でも合えばそれが視力と思っているのです。

初泳ぎへ

ついに7月。気分的に梅雨は終わりました。

この日曜日は”嫁の日”となり、一日子供を見ることに。理由は最近ほとんど子守をしなかったからですが。

丸一日となると……、考えた末、近くの長居プールへ行く事に。

7/1がプール開きでした。朝の10時に行くと、小学生中心ですが結構な賑わい。

うちの子供も、キャッキャとはしゃいでいたので、喜ぶままに泳がせていると唇が紫色に。慌てて服を着せると、子供もなんだかバツが悪そう。

そのまま近くにある植物園へ。ハスが満開でした。

池一面に花が咲く光景を見ると、仏教がハスを神聖なものとするのも、分かる気がします。何故か”誕生”という言葉を連想しました。

最後は自分の趣味で、併設する自然史博物館へ。正面にあるナガスクジラの骨格標本は、いつも凄い迫力です。

館内は、夏休みを意識してか、子供向けの展示が増えていました。タヌキ目線の展示映像は覗き窓が秀逸。タヌキの目なのです

長居公園内で、プール、植物園、博物館と一日遊びました。ここは本当に使い勝手の良い公園です。

自転車で行っていましたが、帰りは子供もすっかり熟睡でした。妻は良く言います。”寝てる時が一番かわいい”分かる気もします。

好き嫌い

 勝手にですが、これは許されるんじゃないかと思う自慢が2つあります。

 一つは食べ物の好き嫌いが無い事。自分では”味オンチじゃない”つもりですが、料理と言われれば何でも食べます。食べたくないモノに出会った事はありませんし、どんな物でも何処か美味しい所を探します。

 もう一つは、小、中、高の12年間で、全て皆勤賞を貰った事。特に中学、高校は大して勉強もしないのに、1時間半掛けて通っていました。行くのが特別楽しみとか、風邪をひかなかったのでもないのですが”学校を休む”という発想が、我が家に無かったのです。親は「学校に行く=勉強している」と思っているので、毎朝確実に起こしてくれました。

 両親とも”好き嫌い”を言いませんし、実家は1階が仕事場なので休業しているのも見た事がありません。加えて父がとても怖かったので、子供がそんな我がままを言う雰囲気も皆無でした。しかし、今は感謝しています。なんでも美味しく食べる事が健康の源だと思いますし。

 ところが今頃になって、父は豚肉が嫌いだったとか、母は鳥のレバーが食べられない事が分かりました。そう言えば、実家の食卓にそれらが出てきた事はありません。要するに”嫌い”を言っている、姿を見なかっただけなのです。

 健康が取り得の私も、最近はあちらこちらが痛かったり、風邪の治りが遅くなって来ました。なので7月の初めに、生れて2回目の人間ドックに行ってきます。前回は家族も驚く全項目A評価。

 今回も自慢でlきる結果になるかどうか。自慢は何でも嫌われますが……

父の流儀

 ウチの子供が引きずっているのは、手製のバットです。

 2週間ほど前に実家へ寄った時の事。”これでボール打って見る?”と父が取り出して来ました。手頃な廃材があったで削りだしてみたそうです。1本目は今のより長かったので、これで2本目。孫の為だったらなんだって出来るのです。

 ちょっとグリップが太い感はありますが、前作よりフォルムがそれらしくなっています。妻も痛く感動していました。

 父は岡山の高校を出ると大阪で就職します。二十才をいくつか過ぎた頃、ガラス屋を始めました。大阪は万博景気に湧いていたとはいえ、いきなり繁盛する程甘くは無かったようです。時間が

 ある時は、店の棚、テレビを置く台等など、大概のものは自分で作っていました。

 トラックの荷台にガラスを載せる専用の台を”ウマ”と言いますが、これも大工だった祖父の手作りでした。そんな中に育ったので”要るものは作る”という考え方は私のベースにもあると思います。

 今は何でも買うほうが安い時代です。子供にも”自分で作るなんて面倒くさいしかっこ悪い”と思う時が来るでしょう。私がそうだったように。それでも自分がお祖父ちゃんになった時、バットを削っているような気がします。

年末の決め事

 今年も、残すところ3日。いよいよ大詰めを迎えました。

 月曜日に、6年前京都に完成した紫竹の家へ行ってきました。

 自分で言うのも何ですが、庭木が育ち、土地と結びついた良い家になっていました。

 クライアントのお母さんも訪問を喜んでくれ、小一時間ほど他愛も無い話をしていました。

 年末年始にかけて、三軒のお家に招待頂いています。当たり前ですが、家は完成するとすぐに引き渡しです。出来上がった空間を見れる時間はごく僅か。なのでそんな機会が、何より幸せな時間なのです・・・・・・

 何年か前、年末だけは何があったとしても自分を労う事にしました。”まあ、いろんな事があったけど、精一杯頑張ったじゃないか”と。

 そして年が明ければ、また気を引き締め直して、頑張りたいと思います。

 今読んで下さっている皆様。一年間素人の雑文に付き合って頂き、本当に有難うございました。来年も素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈りしております。

 2006年 12月28日 守谷 昌紀

機関車とおもちゃ

 子供の頃、大きな乗り物が好きでしたか?列車、バス、ダンプカー、飛行機等など。これは男の子特有のものなのでしょう。

 現在ウチの子供は、機関車のおもちゃがお気に入りです。

 朝起きるやいなや”シュポッポッ~”です。

 大げさでなく、電池が一日一本消費されているのです。

 私が子守をする時は、近くの実家に連れて行きます。

 おもちゃの線路が有るのです。

 レールは組合わせ自由で、踏切、トンネル、車線切り替えユニットまであり、バリエーションはまさに無限。

 作り始めた日は、半日掛かりでした。

 外側の環状線と、内回り線が立体交差し、2ヶ所で乗り換え可能な”私の力作!”です。

 ”いい大人が”と笑う事なかれ。大方の男は熱中してしまうはずです。

 自由に組み替えられるという事が、頭の何処かを刺激します。父と弟も子守りがてら、よりスムースな運行を目指して、発着順の改善を続けるのです。

 実はこの列車キット一式、母の友人からの貰い物です。

 孫へのプレゼントだったのですが、全部揃えるに、いくら掛かったのでしょう。

 同じ金額のものを大人と子供にプレゼントしたとして、子供の喜びようは次元が違います。

 そう考えると、お爺ちゃん、お婆ちゃんの財布の紐が緩むのは当たり前なのかもしれません。

 もうひとつ、私達の世代でフィギア等を集る人の気持ちが少し分かりました。

 子供の頃、喉から手が出るほど欲しかったおもちゃも、今なら何回かの付き合いのを我慢すれば、手が届くかもしれません。

 ガンダムのフィギアなのか、ダースベーダーの実物大マスクなのかは、それぞれの”付き合い”にはよりますが。

岡山→香川でお墓参り

 8/7(月)の続きです。

 

 

 

 

 夕食の後は、心地よい疲れもあってすぐに就寝。翌朝は5時に目が覚めました。

 早めの朝食の後は、前の砂浜で海水浴です。ウチの子供は、とにかく”水好き”なのです。

 

 

 

 

 父が浮き輪に乗せて引っ張っるとキャッキャ、キャッキャと声を上げて喜びます。

 見ていると、自ら顔を浸けて海水を飲んでいるよう。

 それくらいの”水好き”なのです。


 

 

 

 

 10時頃、岡山のホテルを後に、母の郷里、香川へと向いました。

 お昼は讃岐うどんの有名店”やまうち”へ。

 私と妻で、いなり寿司も付けて1000円ほど。

 (詳しくは2004/10/4)繁盛店だけあって今回も納得のお味でした。


 

 

 

 

 その後、満濃町にある祖父のお墓へ。

 祖父は戦争の前、東京で働いていました。

 戦後、郷里であるこの地に戻ると電気屋を始めます。

 都会で使った便利な家電を、重労働に苦しむ農村の女性へと考えたのです。

 孫の私が言うのも何ですが、本当に真っ直ぐで正直な人でした。


 

 

 

 

 その理想を実現する為、起こした会社は”生活改善社”。

 今ではその理念を母の弟、私の叔父が継いでいます。

 祖父、叔父とも自らが扱う日立の製品を愛していました。

 生活改善社から貰う日立製品の中で育った私にも、やはり愛着があります。

 シャッターには、60年代の終わりから、カラーテレビ普及のため活躍したキャラクターが残ります。ポンと押せば、パッとつくから”ポンパ”。

 剥げたポンパを見ると、祖父とここで過ごした夏休みを思い出すのです。