長男が5歳、長女が2歳。数えで3歳ということで、七五三参りへ。
こういう行事は、行くまで気が重いものですが、行ってしまえばなかなか良いもの。
実家で義妹に着付けをしてもらい、地元の神社へ。
長女が嫌がるかなと思ったのですが、上機嫌でした。まさに晴れ姿。
着物は妻が着たものなのでもう30年もの。月末の日曜日に、Ohanaで撮影して貰うことになっているのです。
長男もなかなか立派な感じ、で本人も誇らしげでした。
ただ2人とも、砂利敷きというのもあり、草履が駄目で拝殿へいっこうに進まないのです。
痺れをきらして「すり足の感じで」とか「昔の子供はこれで走ってたんやで」と急かすと「ほんま?」と聞き返されました。
確かに本当かどうかは、分からないので「ん~多分そうやったと思う」と答えたのです。
普段使いの草履はもっとしなやかだったにせよ、靴の機能性と比べると雲泥の差です。今と同じ感覚では歩いたり、走ったりしていなかったのかもしれません。
全ては必然。そこには、本当のスローライフがあったのかもと思うのです。
カテゴリー別アーカイブ: 09 家族・私
秋の最後の運動会
昨日は保育園の運動会の予定でしたが、雨で順延に。
今日は快晴になりました。長男にとっては、保育園最後の運動会。
「今年のかけっこ勝ってくれよ!」と思っていると、年長組はリレーのみ。
若干拍子抜けしました。
来年からは小学生。
もう立派にと言うか、親の立ち入れない、子供の社会があります。
恒例の風船もこれで5回目。
さあ始まるという気分になるものです。
親のヒートアップ振りもなかなかのもの。
とは言え、最後は自分も子供の正面を求めて移動するのですが。
長女は「おどるポンポコリン」に乗ってのダンス。
どうしてか、下の子を見る目は甘くなってしまいます。
運動会のメインイベントは年長組のパレード。
練習はハードらしく、家に帰っても疲れ過ぎで、とても機嫌が悪いと妻がぼやいていました。
20分に渡る演技で、なかなか見応えがあったのです。
運動会最後に、長男は挨拶がありました。
3組から一人ずつが、各パートを担当します。長男は一番最後。
風呂のシャワーをマイクにみたてて、練習を重ねていました。
私も保育園、小学校と何度か挨拶をしましたが、練習しすぎて、ただの音になっているというか、1度とちったことがあるのです。
上手くいっても経験、失敗しても経験。「元気にな」とだけリクエストしました。
とはいえ、いざその時になると、やはり出来が気になります。私の心配をよそに、上手にスピーチできました。
後で聞くと大して気にしている風もなく「前の子が終わったら、あっ僕の番やって思ってビックリした」とのん気なことを言っていました。
何はともあれ、今は無事終えてほっとしています。こんな経験が意外と自信になったりするものです。
40歳
なるものはなる、準備は出来ている、と一応は思っていました。
昨日の7月28日。40歳になりました。
スタッフの女性が、チーズケーキを焼いて、プレゼントしてくれました。
仕事で時間の無い中、本当に嬉しい限りです。とても美味しかったです。
自分自身としては、前日と目に見えて違うくらい、成長していれば嬉しいのですが、当然の事ながらほぼ同じ。
しかし、この歳を迎えるにあたり、意識していた言葉もあります。
一つは、孔子の言う不惑。
われ、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従えども矩をこえず。
論語を習うのは、中学校の古文でしょうか。しかし実際に「不惑」を意識したのは1988年、私が18歳の時です。
門田博光は、ソフトバンクホークスの前身、南海ホークスのスラッガーでした。当時、門田は40歳。数年前、アキレス腱断絶の大怪我を克服しカムバックしていました。南海ホークスが無くなるこの年、ホームラン王、そしてMVPに輝くのです。
当時は、今ほど息の長い選手は少なく、全打席ホームランしか狙わないずんぐりむっくりのおじさんが、44本のホームランを打ちに打ちまくる姿に、感激というか、驚きました。彼をを見に大阪球場へ足を運んだのです。
その頃、紙面に踊っていた文字が「不惑の大砲」。あんな歳で、一番になれるなんて……と思っていたのです。
もう一つは「男は40歳になったら、自分の顔に責任を持て」
奴隷解放宣言で有名な第16代アメリカ大統領リンカーンの言葉です。
もし、惑わず、自分の顔に責任を持てるようになったか、と問われれば、はい、と答えます。今から別の人生を歩むこともありませんし、アンパンのように顔は付け替えられませんから。
事務所を設立した25歳から、昨日までの15年間を修行の期間と位置付けます。
これからの15年間は成長の期間とし、55歳からの15年間は収穫の期間としたいと思います。
更にその先があるなら、社会への恩返しの期間にしたいと思っているのです。
いつまで生かされるかは、神様が決めること。人生の折り返し点を通過する今、1日を過ごすでのでなく、生きたいと思うのです。
線香花火
先週末から月曜日にかけて、平野区にある杭全神社の夏祭りでした。
だんじりは、大阪府内で岸和田につぐ規模を誇ります。
先々週にも近所の夏祭りに行ったのですが「もう一回スーパーボールすくいを!」とか「お面が欲しかった!」とかぐずっていました。
文句ばかりなら、もう来ない!!……と言いたいのですが、普段はあまり面倒を見ていない引け目もあり、日曜日の夜、再度杭全神社へ。
楽しみにしていただんじりまでは結構な時間があり、今年は諦めました。
夜は保育園の友達と、公園で花火。
友達の彼は、5歳にして線香花火が一番のお気に入りと言います。
見ていると、火の玉を落さず、小さな松葉の火花がでるまで、辛抱強く待っています。
天気予報を見ると、長かった梅雨も今週末まででしょうか。
連休は夏空が広がるのを期待して。
要る
昨日はバレンタインデー。娘の誕生日でもあります。2歳になりました。
実家でケーキを用意してくれました。近所で評判の、駒川中野にある「ミラベル」。生クリームが軽いというか、大人に人気です。
当たり前ですが、ロウソクは2本。これがせめて20本になるまで、頑張らないとと思います。いつまで一緒に祝ってくれるかは、分かりませんが。
こちらは全国共通のバレンタインデー。妻に「チョコレートは?」と聞くと「要る?」と。
「そら要るワ」と言うと、「そしたら、子供達と一緒に買いにいってきまーす」と日曜の午前中、出掛けて行きました。
大方はそんなものなのかもしれません。
ハレとケ。ハレ(晴れ)は特別な日。ケは日常です。穢れるとは、ケ(気)がれる、気力が衰えるから来たという説もあります。
ハレは、気を充電するため、日常を元気にする為にあると言えます。中国、日本では節目を大切にして来ました。その一つが、月初にあった節分です。
節目、記念日=ハレは大切にするほうが良いのです。チョコレートが欲しいのではないのです……
風邪には柿
事務所としては、今日が仕事納め。
年末へ向けてラストスパートと頑張って来たのですが、つけが来ましました。昨日の昼くらいから悪寒がするのです。
エアコン、デロンギ、電気スリッパ、マフラー、カイロと、思いつく限りの事をしたのですが、それでも寒い。目はかすむし、頭がぼーっとするわで、早めに仕事を切り上げて帰りました。
熱を計ると37.8℃。普段あまり熱が出ないからか、びーびー言いたくなるくらい体がしんどいのです。昨晩は、市販の薬を飲んで9時半に寝ました。
起きると少しましになりましたが、念のため病院へ。年内の診察は今日までで、先生に今年のお礼と、お疲れさまでしたと言うと「バンザーイ!」と言って、両手を挙げたのです。
しんどい時は自分の事だけになりますが、先生だってそうなのです。
妻と子供が里帰り中で、実家にいます。和室には干し柿がありました。
母が言うには干し柿ブームらしく、わざわざ渋柿を買ってきて、干しているのです。風邪には柿がいいそうです。
今年亡くなった岡山の祖母も沢山作っていました。
果樹園の木は大半が渋柿だったので、渋を抜く必要があります。焼酎につけるか、熟しきるのを待つかですが、やはり干し柿が一番です。
もっとシワシワでしたが、あの歯ごたえと優しい甘みを思いだします。
およそ65年
先週の木曜日、大正6年(1917年)生まれ、父方の祖母が亡くなりました。
お通夜には間に合わず、週末の告別式からになりました。岡山県の児島まで、大阪から、車で2時間半です。
祖母は愛媛県岩城島の出身で、この街に働きに出て来ました。そこで、5年前に亡くなった祖父を紹介され、結婚したのです。
2人は戦争前に結婚。その頃、祖父は三井造船で船大工として働いており、戦争には行かずに済みました。次男だった父は戦時中の昭和20年に生まれたのです。
終戦後はこの地で、材木屋を始めました。商売は上手く行ったようで、住居とがつながる店は今も残りますが、結構な大きさです。自分の趣味である、果樹園をするための裏山も持っていました。
祖母は、3年前に足を骨折するまで、考えられないくらい元気でした。5年前、妻と墓参りに帰った時には、サンダル履きで、花と水を持ち、裏山への坂道では、妻の足元を心配してくれるほどでした。
しかし、苦労も多かったと思います。商売が上手く行った祖父は、遊びのほうも派手だったようで、祖母は50歳の時に、ガンで胃を全摘出しています。
60歳の頃には2、3ヶ月、大阪の私の家に滞在していた事もありました。この時代の女性は、耐えることが多かったのだと思います。
5年前の祖父の出棺の時、祖母は小さなビンを3つ入れていました。後で聞くと、祖父の好きだった、日本酒、養命酒、はちみつでした。
祖父の命日は5年前の10/28。祖母の命日は2日違いの10/30。共に93年の生涯を終えました。
愛とは時間という言葉もあります。連れ添っておよそ65年。35歳で結婚した、私には体験できないであろう時間を共に過ごした事になります。
仏教では、現世を終えるとみな仏です。仏となった2人は、2人の息子。4人の孫。7人のひ孫を、見守ってくれるでしょう。何の揉め事もない世界から。
告別式
今週の月曜日、妻の祖母が亡くなりました。
1920年(大正9年)生まれで、およそ89年の生涯を終えました。27年先に亡くなった妻の祖父は、戦後間もない1947年(昭和22年)、北摂で電気機器関係の会社を興します。
創業当時は物不足の時代で、釘を拾って歩いたこともあったそうです。祖母も油まみれになって働き、ひたむきに夫を支えて来たのです。
女学校時代は、平野区にある教育大に通っていました。3年前に会った時、今は廃線となったチンチン電車のこと、近所の商店街にあった甘味屋さんのことを、懐かしそうに話していました。
私が結婚したのは6年前で、会ったのは10回足らずですが、何とも親しみを覚えていました。何と言うか、本当に苦労して来た人の、優しさのようなものを感じたのです。
現在、妻の叔父が継いだこの会社は、電磁式ポンプの業界をリードする会社になっています。今日の告別式では、仕事人としての敬意を込めて、親族としての感謝を込めて、送ってきました。
人の死は必須です。その死は、それに係わる全ての人に、生とは何かを問います。そんな時、生は鮮やかに、そしてくっきりと浮かび上がってくると思うのです。
今日から休み
今日から事務所は4日間の休暇です。進行中の現場も、この間はひとまずストップ。
早朝から、父、弟と海に行っていました。4歳の長男と甥っ子も一緒です。
天気は予想以上に良かったのですが。
風と波がややあり、長男は完全にグロッキー。
そんな中、甥っ子は不死身の元気ぶりでした。
船酔いは体質によって、強い弱いが結構はっきりでます。
あまり遠出できなかったので、岸和田あたりで、小アジを40匹ほど釣って今回は早めの納竿にしました。
その頃には長男も完全に回復しました。
二色浜は海水浴客もまばらでした。
ラジオから何十キロという渋滞情報が。
私達家族は、明日から2泊で静岡のほうに向かいます。
地震の中、旅行もどうかという気もしますが、キャンセルも迷惑だろうと思います。
現在、東名高速の上りは未だ不通。トラブル大好きですが、目的地にたどり着くのはいつになるのか……。
退院
月曜日に、下の娘が退院しました。
先週の火曜日。私の誕生日の日です。
一旦下がっていた熱が39℃を超え、呼吸が苦しそうなので病院に行くと、妻から連絡がありました。
先生から肺炎の疑いありとの事で、救急病院へ行きレントゲンを撮りました。そのまま入院となったのです。
娘は、良く食べて元気なので、少しのセキくらいと、甘くみていたかもしれません。連れ出し過ぎたとも、反省しています。
今週初めのレントゲンで、影がましになり退院したのです。
病院へは行かないに越したことはありません。しかし今回も、家で安静にしていたらよくなったとは考え難いと思います。
救急外来に行った時、診察室から大きな声が聞こえてきました。
子供を思うあまり、ついというのは分かります。しかし、医師に対して、もう少しリスペクトがあっても良いと思います。感謝の気持ちがあってしかるべきだと思うのです。
モンスターペアレント。モンスターペイシェント。
共通して思うのは、社会がそんな存在を、許容とは言わないまでも、認める事が一番の問題だと思います。理不尽な要求をする事は、人として恥ずかしい、という共通認識が大切だと思うのです。
もともと、赤の他人に子育てをサポートして貰ったり、見ず知らずの専門家に健康を助けて貰うのですから、教師や医師は、もう聖人に近い存在のはずです。
モンスターも何もあったものではないはずなのです。