タグ別アーカイブ: カミングアウト

精神科病棟‐2000‐

日曜日の朝、車で郊外へと出かけました。

田畑の畝には、野花が咲いています。

この辺りを歩いたのは31歳の頃……

2004年3月30日この日記をスタートして、今日で2000回目となりました。

1年は52週なので、「月」と「木」にUPすれば1年でおよそ100回。

ほぼ20年書いてきたことになります。

2013年10月10日の1000回目は「カミングアウト ‐1000‐」としました。

節目は普段書かないことをかこうと思い、28歳から31歳にかけての約3年、重い鬱に苦しんでいたことを書きました。

実はその期間中に、精神科病棟に入院したことがあります。

その病院を約20年振りに訪ねてみたのです。

名称は変わっていますが、場所は合っているはず。

こんな病院だったかなと考えていると、一緒に行った妻が「確か渡り廊下があったはず」と。

周辺を歩いてみると……ありました。

何度か見舞いに来てくれた妻が言うには「渡り廊下でタバコを吸いながら、楽しそうにおしゃべりしてた」と。

当時はタバコを吸っていたのですが、入院患者と仲良くなり、ここでおしゃべりしていたようです。

解体され、無くなってしまった病棟は、「閉鎖病棟」と言われるもので、夜になると鍵が掛かるので自由に出入りはできません。

自殺、自傷の行為の恐れがあったり、アルコール依存症であったりと、そういった治療が必要な人達が入院する施設なのです。

25歳の時、先輩のご両親から大きな仕事を頂きました。

その後も、知人、友人から続けてオファーを貰いました。

信じられないくらい恵まれていたのですが、実力がそれに追いついておらずで、鬱になってしまいました。

引き受けていた仕事は何とか全て終わらせ、一旦アトリエmを閉めたのが2001年の春でした。

当時は考え事をし始めると「死んだら楽になるのだろうな」という結論に至ってしまいます。

明日生きている自信がなく、その時に診察をして貰っていた先生に「入院させて貰える施設はないですか」と相談したのです。

その病院には、本当に色々な人がいました。

病室は6人くらいの相部屋で、隣のベッドは中肉中背でゴルフ焼けをした40歳代の男性。

大手アパレル会社の総務を取り仕切っている方で、「僕は年に1度、ここにピットインすることにしているんだ」と言っていました。

精神的に弱いところがあることを自分で理解し、そのメンテナンスを毎年ここでしているのです。

多弁な方ではありませんでしたが、本当に色々な話をしました。

女性の入院患者も多くいました。

病室を自由に出入りはできませんが、談話室のようなところへ行けば誰とでも話ができます。

入院した私が言うのも何ですが、見るからに病んでいるという人はあまり居らず、普通に見える人ばかりでした。

女性陣のリーダー格に、40歳くらいの姉御肌の方がいました。

色白で背が高く、大変美人でしたが、飲食関係の仕事をしているとのことでした。

談話室で話しをしていた時、「そう言えばあんたの彼女、メッチャ美人やなあ!」と、褒めてくれたりしたのです。

細身の方でしたが、ストレスが溜まると拒食症気味になるそうで、繊細なところはあったと思います。

同い年くらいの専業主婦の方と話をしていると、何の問題を抱えているのか全く分かりませんでした。

しかし、あるきっかけで自傷行為を繰り返してしまうそうで、子供達に申し訳ないと泣いて話していました。

消灯時間ギリギリまで話していた翌日、「あの2人デキてるで」と噂を立てられてこともありました。

社会人になってすぐの25歳、体育会出身のがっしりした男性や、ややぽっちゃりした飲食店を経営する眼鏡のママもいました。

建物のない敷地を見て、皆どうしているんだろうと、当時を思い出していました。

植え込みのツツジは花が開き始めていました。

藤も紫の花を咲かせ始めていました。

4月に入院したので、藤が盛りの頃に退院したのだと思います。

吹けば飛んで無くなってしまいそうな私でしたが、今も元気に生き、働いています。

妻が言うには「僕の居るところではない」と退院してきたそうです。

丁度、鬱になった時期から付き合い始め、結婚し、今事務所を手伝ってくれているのは彼女だけ。喧嘩もよくしますが、心から感謝しています。

今は無き、その精神科病棟に入院させてくれたのは、私の初めてのクライアントでした。

近所の心療内科医に通い始めたのですが改善の糸口を見つけることができず、立派な国立大学の精神科を出ておられたクライアントを頼ったのです。

アーロン・ベックの「認知療法」を教えて貰ったり、歌人・斎藤茂吉の長男、斎藤茂太の「“うつ”もまた楽し」なども教えて貰って読んだ本です。

「うつもまた楽し」なんてその時は全く思えませんでしたが。

ごく普通の私の人生でさえ、これだけ多くの幸運と助けがあってこそ、成り立っていることが分かります。

私が精神科病棟に入院したのは、現実から逃げ出したかったからです。

もし、精神的に追い詰められている人がいたら、この2つだけは伝えたいのです。

「命より大切なものはない」

そして、

「逃げていい」

ということです。

仕事で命を取られることはありません。元気でさえいれば、必ず挽回のチャンスはやってきます。

もし25歳の私に会えたとしたら、同じことを伝えると思うのです。

『建築家・守谷昌紀TV』 ■

■■■4月6日 『かんさい情報ネットten.』 浅越ゴエさんのコーナー に出演
■■6月9日 『住まいの設計チャンネル』 「おいでよ House」公開
■■5月13日『住まいの設計6月号』「おいでよ House」掲載
■6月16日 『ESSE-online』「おいでよ House」掲載

■ 『ESSE-online』にコラム連載

10月11日「テレワーク時代の間取り」
9月18日「冷蔵庫の位置」
6月18日「シンボルツリー」
6月5日「擁壁のある土地」
4月11日「リビング学習」
2月27日「照明計画」
2月14日「屋根裏部屋」
2月1日「アウトドアリビング」
1月4日「土間収納」

■11月28日『homify』の特集記事に「回遊できる家<リノベーション>」掲載
■11月17日『homify』の特集記事に「下町のコンクリートCUBE」掲載

メディア掲載情報

カミングアウト ‐1000‐

事務所にチルドの宅急便が届きました。

送り状を見ても、何が入っているのか想像できず……

お祝いでした。

この日記も今日で1000回目。

読んでくれる人が居たので、続けることが出来ました。

心から感謝しています。

日記の生い立ちについては、前々回書きました。

今日は、普段書かない事をカミングアウトしてみます。

この夏、長男がこんな質問をしました。

「お父さん、今までで一番大きな病気は何?」

「ん~、やっぱり心の病気かな」

’99年の2月頃から’02年3月までの約3年、酷い鬱に苦しんでいました。28歳から31歳にかけてのことです。

大学を出て設計事務所に勤めました。2年目の冬、幸いにも仕事の依頼を貰います。それを機に独立することにしました。’96年の6月にアトリエmを設立。25歳のことです。

色々な意見もありましたが、すぐに天王寺駅の近くに、ワンルームマンションを借りました。4畳1間で家賃4万5千円でした。

キャリア不足、実力不足は、自分が一番分っているので、懸命に働きました。毎朝、駅から始発のアナウンスが聞こえてきます。「もうこんな時間か、早く寝ないと」という毎日だったのです。

しかし、長く働く事を言い訳にしても、良い結果は生まれません。今は分るのですが、その頃はそれだけがクライアントへの誠意だと思っていたのです。

何とか1件目の仕事を終え、その後も知人から2つ仕事を貰いました。初めての事ばかりでしたが、何とかそれらも完成。

「羽衣の家」 「白馬の山小屋」 「SPOON CAFE」が出来上がったのです。更に続けて、仕事のオファーを貰いました。とても順調だと感じていました。

しかし、28歳の2月頃から、寝つきが悪くなってきます。動悸が収まらず、集中力を欠き……働くことが、ただ苦しい、辛いとしか思えないようになって行きます。

最終的には、息をするのが辛いと思うようにさえなりました。

事務所はマンションの5階にあったのですが、ここから飛び降りれば楽になるんだろうな。死んでしまえば……と考えるようになっていったのです。

心療内科というものがあると知り、診察を受けると「自立神経失調症」という診断でした。いわゆる「鬱」です。それから、切れの悪い頭で、何とか治す方法はないかと模索したのです。

本の中に「自殺者の7割は鬱患者」という言葉をみては更に悲観。あのうっそうとした「鬱」という文字を見るだけで滅入ってしまうのです。そんな状態となり、当時付き合っていた彼女は去って行きました。

それでも迷惑を掛ける訳にはいかないと思い、引き受けていた仕事は完成させ、一旦事務所を閉めようと決めたのです。2001年の5月。30歳の時でした。この頃、知人を介し紹介されたのが、今の妻です。

事務所を閉め、急にやることが無くなったのですが、精神的には全く安定しません。

結婚前でしたが、妻が住むマンションへ行き、日がな本を読んだり、ゲームをしたり。昼間は近所の河川敷を走ったり。気ままに過ごしていたのですが、症状のほうはやはり変わらず。

事務所を閉める理由として、海外を見て回りたいと言っていました。鬱のときは決断力が乏しく、なかなか計画も進まないのです。

それでも、休業してから8ヶ月、ようやく旅にでました。2001年の12月、まずはバックパッカーの聖地、バンコクのカオサンストリートへ。

寒い日本から、腐臭ただよう蒸し暑いタイ。

30歳にして、初めて宿も、帰りのチケットもない旅に。街に着いた途端、何とか私から小銭をふんだくろうとするバンコクの人々。これは大変だなと、気を引き締めたのです。

それから3ヶ月。新しい街に着いては宿を探し、食料を確保。東南アジアをあてもなく彷徨いました。

それぞれの街で、決して裕福ではないけれど、人は逞しく生きています。

貧乏旅行とは言え、男性の日本人旅行者は、世界最高のカモです。こちらから話しかけずとも、あの手この手で、コミュニケーションをとってきます。それが面倒でもあり、楽しみでもあり。

旅の途中から、鬱のこと等すっかり忘れていました。

ホーチミンはフランス統治の影響か、安宿もなかなか良いのです。フォーで知られるように食べものも美味しく、屋上にはハンモックまでありました。

それに揺られ、旧正月を祝う花火をみていました。そして「日本に帰ろう。やっぱり建築設計しかない」と思ったのです。

日本に戻り、2002年の4月から仕事を再開しました。

年間3万人近くの自殺者がでてしまう日本。日に100人近くの人が、自ら命を絶つのです。私はその一線を越えていないので、自分が死の淵を見たのかは分かりません。

しかし、どうしようもなく死にたいと思った事があるのは事実です。もし身近に、そんな人がいたら、こう伝えたいと思います。

「あなたは本当に良く頑張った。何もかも投げ出して、一度自分を開放してあげたら。

一度や二度、何かを投げ出したからと言って、神様があなたを叱責するようなことはない。今まで十分に頑張って来たんだから。

仮に誰かがあなたを叱責しても良いじゃない。あなたの事を分ってくれる人は必ず居るから」

私は精神科医でも、セラピストでもありません。しかし、自らを追い込んでしまう人の気持ちは分るつもりです。

同じような悩みを抱えている人の、少しでも役に立てればとずっと思ってきました。何か行動を起こしている訳ではありませんが、そんな意思表示をしたいと思っていたのです。

そんな3年間を、自分なりに結論付けるなら、考え方の限界だったと思っています。当たり前ですが、嘆いても、落ち込んでも、前には進みません。どれ程消したい過去があっても、それも叶いません。全てを受入れ、今を精一杯生きるしかないのです。

人生、仕事は何にも替え難い経験です。全てをかけるに値します。しかし、命だけは別。人は生きる為に生きるのです。

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