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梅雨、夏ウェルカム‐1688‐

 4月24日(金)、大阪府は休業要請に協力が得られないパチンコ店名を公表しました。

 第一弾として大阪府内で6店舗、うち大阪市は2店舗。これがいずれも平野区で……

 こんなところで名前を売らなくても良いのにと読んでいくと、どうも聞いた店名。

 会社から歩いて3分、2店舗とも私のジョギングコースに面するパチンコ店でした。

 24日(金)は営業したものの、翌25日(土)からは休業すると大阪府に連絡があったという記事が土曜日の朝に出ました。

 府は「休業しているか現地を確認する」とコメントを出したのです。

 忙しい吉村知事に来てもらうのは申し訳ないので、朝一番で確認してきました。

 まさか知事がくる訳はありませんが、間違いなく休業です。

 私もそこまで暇ではないのですが、パチンコ店の向かいにある小さなイオンが朝7時から開いており、とても助かっているのです。

 出勤前に寄れ、コンビニよりは安いという理想的な店舗。

 要請を断ってでも営業をしていたので、今後も突っぱねるのかなと思っていたら、良い方向に裏切られました。

 まあ、ヤンキーが更生して普通の人になっただけなのですが、それでも良いことには変わり有りません。

 不思議な気分ですが、何故かほっとしたのです。

 遅い時間や、休日会社に出る時は、会社のミニキッチンで自炊します。

 使い勝手のよい野菜や卵くらいは定期的に買いに行くので、男性の中ではスーパーに寄っているほうだと思います。

 若い女の子が不安そうにレジ打ちしているのを見ると、本当に可愛そうですが、食料だけは店が閉まってしまうとどうにもなりません。

 出来る限りの対策をし、何とか頑張って貰いたいと思いますが、医療従事者と共に、働く姿は尊くさえあります。

 3密を避けるようと見かけますが、平時なら「粗」も「密」も大好きです。

 粗は自然の中でひとりきりですが、密はやはり東南アジアでしょう。

 初めてベトナムに着いた時の衝撃は忘れられません。

 空港からホーチミン市内へ移動しようとターミナルを出ると幾重にも空港を取り囲む、人、人、人。

 その群衆の視線が突き刺さる前で両替する時は、かなり緊張しました。そのベトナムドンを手にして空港を出ます。

 すぐに取り囲まれ 熱を帯びた目で「俺のタクシーに乗れ」や「俺のバイクは安くて速くて安全だ」と唾を浴びながら客引きに遭うのです。

 バックパッカーは、知らない街に着けばまず寝床を探さなければなりません。

 ここがゲストハウス街だと降ろされた途端、人の洪水と不安に押し流されそうになりました。

 東南アジアの魅力は、まさに「密」と「熱」なのです。

 米ソ対立のあおりをうけたベトナム戦争は1975年まで続きました。

 ジャングルの中にはいたる所に迷路のようなトンネルが掘られています。

 いまにもランボーが飛び出してきそうです。

 私が訪れた時はすでに四半世紀経っていましたが、他の東南アジアの国に比べるとベトナムはどことなく暗い影を感じました。

 しかし中国やフランスの影響を強く受けるベトナムは、食べ物も美味しく、とても好きな国なのです。

 ようやくアメリカの国立生物兵器分析対策センターから、太陽光がコロナウィルスを不活性にするとみられるという発表がありました。

 湿度も高い方が良いようです。

 賛否はあるようですが、全くの嘘でないなら明るいニュースはウェルカムです。

 ベトナムの感染者が非常に少なかったので、もしかすると、とは思っていました。

 今は随分変わったでしょうが、あれだけ汚い街で(失礼!)、人、人、人の街で、感染が爆発していないのには理由があるはずだと勘ぐっていました。

 蒸し暑いところが、にっくきウィルスは苦手なよう。是非とも、梅雨、夏でやっつけてしまいたいものです。

 今年は、ジメジメした梅雨も、酷暑の夏もとびきりウェルカムなのです。

A photograph is wonderful.

2002年2月 ベトナム/ホーチミン

■■■4月8日『Sumikata』東急リバブル発行
巻頭インタビューが掲載されました

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【News】
■5月10日『Houzz』の特集記事に「阿倍野の長屋」掲載
■2月13日 『Best of Houzz』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が受賞
■2月3日『Houzz』の特集記事に「阿倍野の長屋」掲載
■12月3日 『Houzzユーザーが選んだ人気写真:キッチン編』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が5位に選出
■9月30日発売『suumoリフォーム 実例&会社が見つかる本 関西版』「回遊できる家」掲載
■7月21日BS朝日『大改造!!劇的ビフォーアフター』「住之江の元長屋」再放送
「トレジャーキッズたかどの保育園」
地域情報サイトに掲載

■2017年11月27日ギャラクシーブックスから出版『建築家と家を建てる、という決断』守谷昌紀がamazon <民家・住宅論>で1位になりました

メディア掲載情報

◇一級建築士事務所 アトリエ m◇
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

カミングアウト ‐1000‐

事務所にチルドの宅急便が届きました。

送り状を見ても、何が入っているのか想像できず……

お祝いでした。

この日記も今日で1000回目。

読んでくれる人が居たので、続けることが出来ました。

心から感謝しています。

日記の生い立ちについては、前々回書きました。

今日は、普段書かない事をカミングアウトしてみます。

この夏、長男がこんな質問をしました。

「お父さん、今までで一番大きな病気は何?」

「ん~、やっぱり心の病気かな」

’99年の2月頃から’02年3月までの約3年、酷い鬱に苦しんでいました。28歳から31歳にかけてのことです。

大学を出て設計事務所に勤めました。2年目の冬、幸いにも仕事の依頼を貰います。それを機に独立することにしました。’96年の6月にアトリエmを設立。25歳のことです。

色々な意見もありましたが、すぐに天王寺駅の近くに、ワンルームマンションを借りました。4畳1間で家賃4万5千円でした。

キャリア不足、実力不足は、自分が一番分っているので、懸命に働きました。毎朝、駅から始発のアナウンスが聞こえてきます。「もうこんな時間か、早く寝ないと」という毎日だったのです。

しかし、長く働く事を言い訳にしても、良い結果は生まれません。今は分るのですが、その頃はそれだけがクライアントへの誠意だと思っていたのです。

何とか1件目の仕事を終え、その後も知人から2つ仕事を貰いました。初めての事ばかりでしたが、何とかそれらも完成。

「羽衣の家」 「白馬の山小屋」 「SPOON CAFE」が出来上がったのです。更に続けて、仕事のオファーを貰いました。とても順調だと感じていました。

しかし、28歳の2月頃から、寝つきが悪くなってきます。動悸が収まらず、集中力を欠き……働くことが、ただ苦しい、辛いとしか思えないようになって行きます。

最終的には、息をするのが辛いと思うようにさえなりました。

事務所はマンションの5階にあったのですが、ここから飛び降りれば楽になるんだろうな。死んでしまえば……と考えるようになっていったのです。

心療内科というものがあると知り、診察を受けると「自立神経失調症」という診断でした。いわゆる「鬱」です。それから、切れの悪い頭で、何とか治す方法はないかと模索したのです。

本の中に「自殺者の7割は鬱患者」という言葉をみては更に悲観。あのうっそうとした「鬱」という文字を見るだけで滅入ってしまうのです。そんな状態となり、当時付き合っていた彼女は去って行きました。

それでも迷惑を掛ける訳にはいかないと思い、引き受けていた仕事は完成させ、一旦事務所を閉めようと決めたのです。2001年の5月。30歳の時でした。この頃、知人を介し紹介されたのが、今の妻です。

事務所を閉め、急にやることが無くなったのですが、精神的には全く安定しません。

結婚前でしたが、妻が住むマンションへ行き、日がな本を読んだり、ゲームをしたり。昼間は近所の河川敷を走ったり。気ままに過ごしていたのですが、症状のほうはやはり変わらず。

事務所を閉める理由として、海外を見て回りたいと言っていました。鬱のときは決断力が乏しく、なかなか計画も進まないのです。

それでも、休業してから8ヶ月、ようやく旅にでました。2001年の12月、まずはバックパッカーの聖地、バンコクのカオサンストリートへ。

寒い日本から、腐臭ただよう蒸し暑いタイ。

30歳にして、初めて宿も、帰りのチケットもない旅に。街に着いた途端、何とか私から小銭をふんだくろうとするバンコクの人々。これは大変だなと、気を引き締めたのです。

それから3ヶ月。新しい街に着いては宿を探し、食料を確保。東南アジアをあてもなく彷徨いました。

それぞれの街で、決して裕福ではないけれど、人は逞しく生きています。

貧乏旅行とは言え、男性の日本人旅行者は、世界最高のカモです。こちらから話しかけずとも、あの手この手で、コミュニケーションをとってきます。それが面倒でもあり、楽しみでもあり。

旅の途中から、鬱のこと等すっかり忘れていました。

ホーチミンはフランス統治の影響か、安宿もなかなか良いのです。フォーで知られるように食べものも美味しく、屋上にはハンモックまでありました。

それに揺られ、旧正月を祝う花火をみていました。そして「日本に帰ろう。やっぱり建築設計しかない」と思ったのです。

日本に戻り、2002年の4月から仕事を再開しました。

年間3万人近くの自殺者がでてしまう日本。日に100人近くの人が、自ら命を絶つのです。私はその一線を越えていないので、自分が死の淵を見たのかは分かりません。

しかし、どうしようもなく死にたいと思った事があるのは事実です。もし身近に、そんな人がいたら、こう伝えたいと思います。

「あなたは本当に良く頑張った。何もかも投げ出して、一度自分を開放してあげたら。

一度や二度、何かを投げ出したからと言って、神様があなたを叱責するようなことはない。今まで十分に頑張って来たんだから。

仮に誰かがあなたを叱責しても良いじゃない。あなたの事を分ってくれる人は必ず居るから」

私は精神科医でも、セラピストでもありません。しかし、自らを追い込んでしまう人の気持ちは分るつもりです。

同じような悩みを抱えている人の、少しでも役に立てればとずっと思ってきました。何か行動を起こしている訳ではありませんが、そんな意思表示をしたいと思っていたのです。

そんな3年間を、自分なりに結論付けるなら、考え方の限界だったと思っています。当たり前ですが、嘆いても、落ち込んでも、前には進みません。どれ程消したい過去があっても、それも叶いません。全てを受入れ、今を精一杯生きるしかないのです。

人生、仕事は何にも替え難い経験です。全てをかけるに値します。しかし、命だけは別。人は生きる為に生きるのです。

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3月19日(火)■大阪の住まい力アップ:第1回 リフォーム・リノベーションコンクール ■で「住之江の元長屋」が戸建部門、最優秀賞を受賞しました

【News】
■1月6日(日)放送<「匠」が選ぶビフォーアフター大賞2012>
「住之江の元長屋」が空間アイデア部門2位に選ばれました
4月9日(火)リフォーム産業新聞「住之江の元長屋」掲載

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バックパックに詰めて行くもの、置いていくもの

 週始めは雨予報だったのが、全て晴れ予報に。

 江戸時代なら間違いなく飢饉になっているでしょう。これは雨乞いが必要かもしれません。日本の自然崇拝の一端を見た気がします。

 この季節、蒸し暑い中を楽しく過ごす工夫が必要です。伊勢志摩のキャンプ場へ行った際、ハンモックがありました。

 南米の原住民が使っていた寝床ですから、この時期にはうってつけです。

 ハンモックに揺られると、いつも記憶は2002年2月のベトナムへ……

 2001年の4月、30歳だった私は事務所を閉め、無期限の休暇に入りました。

 周囲には「海外を見て回りたいから」と説明していました。事務所を立ち上げて5年が過ぎ、正直に言えば心身ともボロボロでした

 しかし、バックパックだけを背負い世界を旅してみたいという夢も持っていました。

 この年は911のテロがあり、出発はやや遅れたもの、2001年の暮れ、ようやくバンコクに飛び立ったのです。

 帰りのフライトチケットを持たない、宿をもない初めての旅。

 新しい街に着けば、まずはゲストハウスと呼ばれる安宿探しです。
 
 心細かったのは数日で、値交渉も楽しみの1つになりました。

 東南アジアの街々を放浪し、2002年の2月、ベトナムに入りました。

 現在、ホーチミンは経済で注目の的ですが、十数年前も人の多い、埃っぽい、熱を帯びた街でした。

 カンボジアからは飛行機での移動。

 空港に降り立つと、まずその人の数に圧倒されます。

 何故か両替が外にあり、多くの視線の前で、ベトナムの通貨のドンに換金しなければなりません。

 タクシーを捕まえ、ゲストハウス街の住所を告げ、降ろされた時に撮ったのがこの写真。

 見渡す限り、人人人。全員が私の財布を狙っているんじゃないかと、内心気が気ではありませんでした。

 あてにしていたゲストハウスが見つかり、ほっとしたのです。

 ホーチミンはフランスに支配されていた歴史もあります。

 よって、安宿でも練乳入りのコーヒーとパンが美味しいのです。もちろん、パクチーがちりばめられたフォーは最高でした。

 バラック街の中にある、ゲストハウスには屋上がありました。

 そこにハンモックが吊られていたのです。

 ある夜、市街地の中心から花火が上がり始めました。華僑が旧正月を祝う為に上げているとのこと。

 ハンモックに揺られながらそれらを眺め、そろそろ日本に帰って仕事がしたい、と思ったのです。事務所を閉めて、10ヵ月後のことでした。

 人生には色々な事があります。もう仕事を辞めたいと思っている若者が居るとしたら。

 どんな仕事でも同じですが、簡単に辞めてはいけません。しかし、もうこれ以上は無理、なら辞めざる得ません。

 そんな時はバックパックだけの旅を勧めます。

 本当に必要なものは、その小さなバックパックに全て入っているのです。