タグ別アーカイブ: 建築家

あべれいじ‐1359‐

 20代の後半、まだ競技スキーを本気でやっていた頃のことです。

 土曜日の夜、仕事が終わると信州のスキー場へ向かいます。

 昼過ぎに試合が終わり、大阪への帰路は500kmほど。帰りの中央道はFMを聴きながら車を走らせます。

 午後の日差しが眠気を誘うなか、DJは山下達郎、松任谷由実、福山雅治の順だったでしょうか。

 そのあと、ちょっとコミカルなラジオドラマがありました。

 2月のスキーの帰り、未だに続いていると知ったのです。

 「NISSANN あ、安部礼司」というタイトルらしく、サイトをみるとこうありました。

 この物語は、ごくごく普通であくまで平均的な45歳の安部礼司がトレンドの荒波に揉まれる姿と、それでも前向きに生きる姿を描いた勇気と成長のコメディである。

 昭和46年10月10日生45歳

 ご存知!Mr.フツー。仕事も恋も家庭も友情も、大事なことはすべてマンガから学んだと豪語する平成のお気楽サラリーマン代表。iPodには「今さらツボなセレクション」と題された懐かしい楽曲が2万曲近くも入っている。

 冬の黄昏時、ちょっと楽しみにしていたのを覚えています。

 静岡市出身の45歳、身長172cm。安部礼司=Average。作り手が思う、平均的日本人がよく分かります。

 「あ、安部礼司」は ” a   average  “か。面白いタイトルです。

 先日、元商社マンで、現在外資系の会社で働く人がこんなことを言っていました。

 「中国の平均年収は未だ日本より低いが、とびきりの金持ちが沢山いるだろう。インドネシアなんかも同じ構図だよ。平均という言葉がナンセンスだね」

 確かに、と納得したのです。

 北海道と沖縄。

 春と秋。

 夏と冬。

 都心部と農村部。

 平均することに全く意味はありません。

 「偏差値50」「一般的には」「平均寿命」と、それでも人は平均を意識するもの。勿論私も同じです。

 花をみて、どうして人間はこうも比べたがる?と槇原敬之は問いますが、やはり人間だからでしょう。

 そこから解き放たれたいし、張り合いのために基準を持っていたい。とかく人の心は複雑なのです。

古希‐1358‐

週末は、母の古希祝いで天橋立へ行っていました。

両親、弟家族との旅行は久し振りです。

日本三景と言えば、宮島、松島、そして天橋立です。

南にある天橋立ビューランドからの景色は「飛龍観」とよばれます。

特に「股のぞき」をすれば、天に龍が舞い上がるようにみえるとのこと。

娘と姪っ子にさっそくトライしてもらいました。

娘なので失礼して。

天に舞う龍にみえるでしょうか。

父がカニが食べたいというので、夕食はカニ尽くしのコース予約していました。

そして子供には、丹波牛のしゃぶしゃぶ。

いずれも、バチがあたりそうなくらい美味しかったのですが、私はカニの刺身が一番でした。

そして、女の子チームから花をプレゼントしてもらったのです。

翌朝は、反対にある笠松公園からも股のぞきをしてきました。

こちらは昇り龍のように見えるので「昇龍観」とよぶそう。

正直、その違いは分かりませんが、股のぞき発祥の地はこちらだそうです。

集合写真には興味がないのですが、11名全員が揃う機会もなくなってきたので、昇龍の前で失礼しました。

伊根の舟屋なども回ってきましたが、天気に恵まれ、良い古希祝いになったのではと思っています。

平均寿命が80歳を超えたとはいえ、70歳まで元気でいることは当たり前のことではありません。

更に、まだ介護の仕事をしているので、感謝しなければなりません。

あまり言いたくないのですが、最近小さなに文字が見難くなってきました。

ずっと視力は2.0だったので、「早くに老眼がくる」と言われていましたが、まさか自分に限って、と思っていました。

何事も経験しなければ分からないものです。

自分が70歳になったとき、どんな視力で、どんな体力で、もしくは生きているかも定かではありません。

それでも、死ぬまで仕事は現役でいたと思っています。

昔なら、稀なことだったので「古希」。

祝い事なので「希」の字があてられているのでしょう。

どれだか体がおんぼろになっても、希望の灯だけはいつも燃やしていたいと思うのです。

戦争と沖縄‐1357‐

終戦から72年。

戦争を、20代、30代で体験した祖父母は、すでに4人とも亡くなってしまいました。

終戦時に8歳だった人が現在80歳。戦争体験を聞く機会は、この10年でほぼ無くなってしまいます。

2月11日12日と初めて沖縄を訪れましたが、戦争についてはやはり素通りできないと思っていました。

那覇の目貫通りは国際通り。

夕方だけなのか、歩行者天国になっていました。

ある交差点では、ストリートパフォーマンスをしている若者がいます。

平和な日曜午後の風景です。

後ろに見えるのは安売りのドン・キホーテ。

この建物は安藤忠雄の設計で、もとの名は「フェスティバル」だったと思います。

今はベージュのペンキが塗られ、打ち放しの見る影もありません。しかしそれも時代の流れです。

ここに書くのはあくまで私の歴史観、戦争観です。

2ヶ所だけですが、沖縄戦の痕跡を訪ねてきました。

旧海軍司令部豪は那覇市街を見下ろす、小高い山にあります。

アメリカ軍の砲撃に耐えるため、山をくり抜いて作られた地下陣地でした。

450mあったうちの300mが公開されていました。

ここは司令官室。

漆喰が施されています。

ここは下士官兵員室。

スリット状に影が見える部分に、元は木の支柱がありました。

下士官は、立錐の余地なく立ったまま眠ったそうです。

ツルハシの跡が生々しく残るこの空間で、立ったまま眠り、戦に勝てる訳などありません。

そして幕僚室。

壁に残るのは幕僚が手榴弾で自決した際、飛び散った破片の跡です。

生々しく残るその跡を、正直、真正面から見ることは出来ませんでした。

責任は自決してとる。

その場にいればそれが正しいと私も思ったかもしれませんが、どんなことがあっても生きてこそです。

それを分からなくするのが戦争でしょうか。

もう1ヶ所は糸数アブチラガマ

那覇から南東へ10km程いった小高い丘の中腹にあります。

先の戦争で、沖縄への上陸は本島中部、読谷村(よみたんそん)あたりから開始されました。

アメリカ軍は徐々に南下してきたため、本島南部は最終の激戦地となりました。

「ガマ」とは沖縄方言で、洞窟やくぼみを指します。

「アブ」は深い、「チラ」は崖をさします。深い、深い、とても暗い洞窟でした。

以前は撮影を許可していたそうですが、現在はガマの手前まで。やはりネット社会は難しとのことでした。

内部には照明はなく、懐中電灯を手に1時間程かけて案内をしてくれます。

この糸数アブチラガマは、もとは集落の非難指定豪だったのが、陣地豪となり、病院の分室となりました。

病院分室となってからは、ひめゆり学徒もこの地に配備され、負傷兵の治療にあたります。

トイレなどないので、糞尿を一斗缶に入れ、夜の間にガマの外へ捨てに行くのも彼女達の仕事だったそうです。

衛生状態が悪いので、負傷兵の手や足が切断されたものも、彼女たちが外部へ捨てにいきました。

人はそんな悲惨な日常にも慣れてしまうそうで、高校生くらいのひめゆり学徒も「これ○○さんの足だから、重くてかなわないね」とような会話を交わすようになっていったのです。

人が人でなくなる。それが戦争なのではないでしょうか、とガイドの方が言っていました。

最終的に軍からの撤退命令がでると、歩けない負傷兵と地元の人だけがここに残りました。

アメリカ軍は入り口からガソリンを流し込み、火を放ちましたが、湿気が多い為全体へは広がらなかったそうです。

それでも、ガマ内の天井は黒く焦げ、爆発したドラム缶の一部が、濡れた紙のように天井にへばりついていました。

それはこの出口からすぐそこで起こったこと。地元の方の何人かが、そこで命を落としたのです。

本土決戦に備える時間稼ぎのために「沖縄は捨て石にされた」と糸数アブチラガマのwebサイトにはあります。

更にこうあります。

 沖縄戦で、日本兵6万6千人、沖縄出身兵2万8千人、米兵1万2干人、一般住民9万4千人が亡くなりました。

 当時の沖縄県の人口は約50万人でしたから、沖縄県民の4人に1人が亡くなったことになります

日本で唯一、地上戦を経験した沖縄。

アメリカ軍、日本軍、沖縄県民が入り乱れた、終戦間際は地獄絵図だったといいます。

スパイを疑われ、殺された県民もいたとのことでした。

沖縄戦で亡くなった日本軍の中で、沖縄の次に多かった出身地は、北海道だそうです。

ガイドの方が「内地という言葉があるとおり、やはり沖縄、北海道など、地方の貧しい人達の多くが命を落としたのかもしれません」と言っておられました。

大阪に住んでいて、「内地」という言葉を使うことはありません。

その音には、ある種の不公平感が含まれていることを、私達は認識しなければなりません。

サトウキビ畑の中にぽっかりと空いた、糸数アブチラガマ。

案内の途中で「いちど全て懐中電灯を消してみましょうか」と言う場面がありました。

多くの負傷兵が見捨てられ、出入口をアメリカ軍に塞がれ、火を放たれ、真っ暗闇のなかで沢山の人が亡くなっていきました。

日本の終戦は8月15日ですが、このガマでの終戦は8月22日。それまでここに立てこもっていたのですが、アメリカ軍に収容され、負傷兵も数名が命をとりとめました。

身動きできない真っ暗闇の中で聞こえるのは、わずかに残る負傷兵のうめき声と、自らの傷口をウジが食う音だけだそうです。

そんな断末魔の世界を、なぜ多くの市民が経験しなければならなかったのか。

作家・司馬遼太郎は青年期にこの戦争を経験しました。

18歳で学徒動員されますが、栃木県の地で終戦を迎えます。

召集を受け、一旦は死さえ覚悟した若き日の司馬遼太郎は、戦争が劣勢になってくると理不尽な場面にでくわします。

本土決戦を前にした日本の軍部は、命をかけて国民を守るどころか、最終的に自らの保身を優先するような命令を下すのです。

そのとき彼は「日本人というのは、こんな国民だったのか。いやそうではかったはずだ。戦国時代は、江戸時代は、せめて明治時代以前はそうではなかった・・・・・・」と憤ります。

それから日本が少しでも良くなればと、戦国時代、江戸、幕末の志士を描くことになるのです。

戦争に導いた人達をリーダーとよんで良いのか分かりません。

それでも、国にしろ、組織にしろ、リーダーの判断は、多くの人達に良くも悪くも影響を与えます。

アブチラガマでは、指令室になる予定だったところは、ガマの奥深くで、敵の侵入を防ぐため様々な工夫がされていました。

一方、地元住民があてがわれたスペースは、出口からすぐのところ。

一番奥が駄目、入り口側が良い、というような単純な問題ではありませんが、覚悟と愛情のないリーダーは組織を不幸にします。

ガイドの方の言葉にトゲや恨みは感じませんでした。

しかし、現実に捨て石にされたという事実と記憶が変わることはありません。

美しく、やはり痛い、はじめての沖縄だったのです。

あなたは絶対幸せになる‐1356‐

 土曜日はOhanaへ行っていました。

 私が設計させてもらった写真スタジオです。

 2009年の秋に竣工したので、現在8年目に入りました。

 京阪萱島駅から徒歩3分ですが、住宅街の中にあり環境はとても静かです。

 何度も通った京阪萱島駅。

 「近畿の駅百選」に選ばれています。

 この大クスノキは萱島神社の御神木で、神社と御神木ありきの駅なのです。

 元の店舗は、この駅の高架下にありました。

 丁度その向かいに、細い路地があります。

 そこを抜けるとOhanaが見えてきます。

 エントランスの黄色い扉も、床材のピンコロも、全てに思い入れがあります。

 竣工時は2m程度だったオリーブ。

 現在は4m程に成長しました。

 予算が厳しかったので、古川庭樹園までクライアントと一緒に買いに行き、一緒に植えたものです。

 「センスの良い知人宅のリビング」と設定したレセプション。

 緑も増え、まさにOhana色に染まっています。

 2階スタジオからもオリーブが見えるようになり、「ようやく背景として使えるようになってきたんですよ」と。

 クライアントは、保育園のアルバム撮影もしています。

 目指すのは、130名全員が笑顔のアルバム。

 撮影前の遠足では、笑わせるのが難しそうな園児と積極的に遊ぶそうです。

 そして撮影当日。

 その時の「仲良し」を武器に、懇親のギャグを連発するのです。

 同業の人が「どうやったら、全員笑顔の顔写真がとれるんだ」と聞いたそうです。

 これが私のクライアントだと胸を張りたくなりました。

 今回はある相談で伺いましたが、そのお題は、決して簡単なものではありませんでした。

 しかし「この人のためなら何とかしよう」と思います。

 そんな人とばかり仕事をしてきたので、私も成長できたし、幸せな仕事人生だと心から思うのです。

 その後、予約してくれていた京橋の焼き鳥屋さんへ移動しました。

 トイレへの通路は極めて狭いですが、最高に美味しい店だったのです。

 その席で、長男の合格祝いを頂きました。そして、この日がクライアントの誕生日だったことを思い出したのです。

 まったく、こういったことに気がつかない私ですがこれだけは言えます。

 あなたは絶対幸せになる。ならなければおかしい。

 偉そうですが本当にそう思うのです。

建築家にとって一番大切なもの‐1355‐

 今月の初め、建築家・高松伸さんとお会いする機会がありました。

 あるホテルで、フレンチをご一緒させて頂いたのです。

 高松伸さんは京都大学の名誉教授で、私達の年代から見れば、レジェンドと言ってよい存在です。

 2年前、母校での文化祭に呼んでもらいました。

「卒業生によるプロフェッショナル相談会」というイベントに参加するためです。

 そこに参加していた大先輩から「高松先生と食事をするけど、ご一緒してみる?」と声をかけて貰ったのです。

 先日行った沖縄の浦添市にある「国立劇場おきなわ」。

 2003年の作品です。

 何と言っても目を引くのが反りかえった外観です。

 竹を編んだような外皮はプレキャストコンクリート製で、軒下空間をつくっています。

 これは沖縄の民家をコンセプトに取り入れたものでした。

 2007年完成のナンバ・ヒップス。

 これは知っている、という人も多いのでは。

 現在は無くなりましたが、道頓堀と心斎橋筋商店街の交点にあった、キリンプラザ大阪も1987年の作品です。

 2015年のシルバーウィークは長崎、佐賀をまわりました。

 長崎港ターミナルは、1995年の作品。

 グラバー邸から見下ろした景色ですが、出島エリアでも存在感を放っています。

 島根県伯耆町にある、植田正治写真美術館も1995年の作品。

 2013年の夏季休暇旅行で訪れました。

 逆さ富士ならぬ、逆さ大山が水面に映ります。

 京都駅から歩いて行ける東本願寺。

 その参拝接待所は地下に埋められています。

 こちらも高松伸さんの設計で1998年の作品。

 スケール感、造形の自由さ。間違いなく日本の建築界を牽引してきたトップランナーです。

 子供みたいな質問をして、場をしらけさせないようにと思っていましたが、どうしても聞きたいことを質問してみました。

 「ご自身が一番納得しているのはどの作品ですか」

 「それは、今設計している作品ですね。未来の作品がそうだと思っています」

 即答でした。

 台湾でも、ビッグプロジェクトが完成、また進行中とのこと。

 そのヒストリーを聞くと、仕事の成功とは本当に青天井だと感じます。

 高松伸さんは食事会のあと京都に帰られましたが、会でご一緒した方と朝方まで飲んでいました。

 何をして成功と言うのかは、人によって違うかもしれません。

 しかし、誰がみても成功という成功は間違いなく成功です。

 カリスマやレジェンドという言葉を軽々しく使うつもりはありまあせんが、そういった人達のみに許される呼称なのでしょう。

 それらを分ける分岐点は、やはり日々の行いのような気がします。

 「仕事とは整理整頓に尽きると所員には教えていますよ」と仰っていました。

 もうひとつの質問です。

 「建築家にとって、一番大切なものは何ですか」

 「クライアントですね」

 クライアントの希望をかなえてこそ建築家だものね、と。

 成功、成長と感謝は同じカテゴリーにない言葉だと思っていましたが、どうもそうではないようです。

 トップランナーが発する言葉の中で「感謝」は最も頻度の高い言葉だと思います。

 最高にモチベーションが上がった夜だったのです。

すきすき大スキー‐1354‐

 すきすき大スキー

 わたしはスキーがすきだ

 だから今年もお父さんに行きたいとたのんだ

 だけどお父さんは

 今年はお兄ちゃんのべんきょうがあるからむりや

 わたしはがっかりした

 娘が書いた4連からなる詩のでだしです。

 先生から褒められたとノートをみせれくれました。

 それほどスキーが好きだとは私が分かっておらず……

 久し振りに行ってきました。

 昨年の正月、御岳山のふもとにある開田高原へ行って以来です。

 高鷲スノーパークはトリコロールカラーのゴンドラがトレードマーク。

 良い天気に恵まれました。

 向かいには昨年は滑っていた、霊峰・御嶽山が見えます。

 中級コースまでなら、家族4人で滑れるようになりました。

 娘がこけたのは、2回くらいか。

 だいぶ安定感がでてきました。

 長男は2014年の3月からずっとスノーボードでしたが、この日は久し振りにスキーをしたいと。

 急斜面を滑っているとき、パラレルターンのきっかけをつかんだようです。

 急斜面ではハの字に開くボーゲンでは滑りにくく、スキー板を平行にしてターンするきっかけを掴みやすいのです。

 「それっ!」みたいな感じで伝えました。

 スキーは私が教えられる数少ないものなので、何とかここまで滑れるようにしてやりたいと思っていました。

 この日が「楽しい」の分水嶺になれば良いのですが。

 「白馬の山小屋」のクライアントの長男さん(ややこしい表現ですが)は私の6つ先輩です。

 クライアントが亡くなられてからは、白馬まで頻繁に足を運び、山小屋を守って下さっています。

 関西で競技スキーをしていて、この方を知らない人は居ないのですが、今年はお子さん2人が大阪府代表の国体選手に選ばれました。

 長男さんは国立大学へ通い、中学3年生の娘さんも希望の高校に合格したようです。

 親子3人での国体行きを目指してしたのですが、お父さんは100分の3秒だったか届かずだったそうです。

 2005年に、四天王寺にあった「欧風カレー工房 チロル」のファサード改修計画を手伝いました。

 店主は、若い頃から一緒にスキーをしてきた仲間でした。

 その後、そのお店は飛騨高山へ移転したのですが、メディア等でも取り上げられる人気店です。

 飛騨高山の自然に惚れて、越していきましたが、もうひとつの理由がスキーです。冬の間は店を閉め、競技スキーに打ち込むのです。

 昨年だったか、全国クラスの大会で、優勝していたと思います。

 高校野球の指導者に、「どんな選手が伸びますか」と聞くと、多くは「野球が好きな子」と答えるそうです。

 30歳近くまで、私も本気でスキーに取り組んできたつもりですが、この2人を見ていると、その「好き」には及ばないなとはっきり分かります。

 特に、6つ上の先輩の長男さんは、関西の国立大に通っています。まさに文武両道。

 お子さん2人がこの結果を出す程、お父さんの好きが凄いのだと想像するのです。

 娘がもし、本気でスキーをしたいと言ったら、はたして応えてやれるだろうか……

 自然の中でのスポーツは本当にいいものです。

 すきすき大スキー。

 なかなかいい題です。

沖縄の旅<後編>‐1353‐

 2月12日(日)沖縄2日目です。

 予報は曇りでしたが、概ね晴れてくれました。

 恩納村のホテルをあとにし、海岸沿いの国道58号線を北上します。

 1時間弱で名護市役所に到着。

 1981年、象設計集団の作品で、日本建築学会作品賞を受賞しています。

 建物まわりには整列されたグリッド状の回廊がめぐらされ、樹々が建物を覆います。

 象設計集団はバナキュラー(土着的)な建築設計で知られ、この名護市庁舎も、沖縄の民家を手本としました。

 その木漏れ日は、極めて優しいのです。

 背面に回ると全く違った表情を見せてくれます。

 強い日差しと相まってか、イスラム圏の建築を思わせます。

 各柱、梁の交点にシーサーが鎮座しています。

 その全てのシーサーは、ひとつとして同じものがありません。

 建築を覆う樹々のなかから、小鳥のさえずりが聞こえてきます。

 建築と自然。相反するものが、廃墟でなく融合している。

 日本の市庁舎の中で、最も美しいものかもしれません。

 名護をあとにし、今度は東海岸を目指します。

 平安座島(へんざじま)の海中道路。

 子供達は海の中を走ると期待していましたが、もちろんそれは無理。

 しかし、海と道が近く運転していても爽快です。

 さらに橋を渡り、浜比嘉島にも立ち寄ってきました。

 近くの港をのぞくと本物の海人に初遭遇。

 昔ながらの民家ばかりではありませんが、それでも沖縄の風土を受け継いだ民家が数多く残っています。

 石敢當(いしがんどう)と読むそうですが、交差点などにおく魔除けだそうです。

 街中でもかなりの頻度で見ました。

 空家問題は、全国的なものですが、沖縄の空家は深く樹々に覆われたものが沢山ありました。

 北海道にも沢山の空家がありましたが、ここまでになるには、かなりの時間がかかるでしょう。

 駐車場に停まっていた車のホイールがちょっと変な感じでした。

 近くでみてみると、錆びきっているものにカバーが付けられていました。

 沖縄は太陽も、潮風も、全てが強く、それらは人工物にダメージを与えるでしょう。

 日本の自然は、欧米の自然に比べると「強い」と言えます。

 高温多湿で、放っておけば空き地は草木が生えてきますが、これはどこでも起こることではありません。

 その日本の中で、沖縄は最も自然の強い地域です。

 沖縄での台風を体験したことはありませんが、その厳しく美しい自然が、建築の形態を受け継がせるのではないかと思うのです。

 一番心に残ったのは、やはり自然の美しさでした。

 人は自然を消費する罪深い生き物です。さらに私の仕事は、人工物を創ることです。

 沖縄の建築にみた、畏敬であったり、敬意を込めた物創りをしたいと思います。

 青い空、澄んだ海、濃い緑のガジュマル、深紅のハイビスカス、赤瓦に白い漆喰。

 初めての沖縄は、思った以上に刺激の多いものでした。

 今度は泳げる季節に来てみたいと思います。

<目指せ、家族で47都道府県制覇>
43/47 【】はまだ

北海道

【青森】 【岩手】 【宮城】 【秋田】  山形 福島

茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川

新潟県 富山 石川 福井 山梨 長野 岐阜 静岡 愛知

三重 滋賀 京都 大阪 兵庫 奈良 和歌山

鳥取 島根 岡山 広島 山口

徳島 香川 愛媛 高知

福岡 佐賀 長崎 熊本 大分 宮崎 鹿児島

沖縄

沖縄の旅<前編>‐1352‐

 「家族で47都道府県制覇の旅」は昨秋の佐賀長崎以来です。

 家族揃って日本をめぐるのが目的ですが、私が行ったことのない県が1つだけ残っていました。

 それが沖縄です。

 青い空に、赤瓦の屋根。

 そこに鎮座するシーサー。

 全てが初めて目にするものです。

 2月10日(土)10:00amに初めて沖縄に足を踏み入れました。

 私にとって最後の日本です。

 車を借り、那覇市内に向かいました。

 まずは昼食ということで、住宅街にある「す~まぬめ」という沖縄そばの店へ。

 この日の那覇は最高気温が14℃。

 地元の人は寒い寒いといいますが、大阪の朝は3℃。私にとっては十分南国です。

 強い日差しに対して、深い軒がかかっていました。

 もう少し天気が良ければ外で食べたかったところですが、娘が風邪気味で、残念ながら屋内の席に。

 ソーキそば700円、沖縄そば600円、じゅうしい150円(沖縄のかやくごはん)。

 日本で最も古い肉食文化を持つ沖縄ですから、豚、牛とも本当に美味しかったのですが、麺類がこれほど美味しいとは驚きました。

 かつおと豚骨の合わせ出汁とのこと。

子供は正直なもの。

付け合わせのヨモギは無理でしたが、あっと言う間に平らげてしまいました。

 土地の物を食べると、多くのことが分かります。

 その足で、世界遺産の首里城へ。

 首里城は戦争で全て消失しており、初めに再建されたのがこの守礼門です。

 全ての再建が終わり、2000年に世界遺産に登録されました。

 沖縄の文化は、風土、食、衣服をみてもあきらかに独特のものです。

 中でも建築に大きな影響を与えるのは、台風を含むその厳しい自然環境でしょう。

 首里城南西にある、金城町石畳道。

 戦禍を逃れ、500年前から残るものだそうです。

 現在の沖縄では、住宅の多くが鉄筋コンクリートで作られています。その比率は驚く程でした。

 現代の住宅が、重くて頑丈からかい離して行く中、その厳しい自然が逆方向に建築を導いているのです。

 那覇から浦添市の港川にある「外人住宅街」にも立ち寄ってきました。

 戦後すぐに、米軍用に建てられた住宅ですが、1972年の本土復帰とともに、民間の手に渡っていきました。

 コンクリートブロックで出来た住宅のようですが、軒が極めて薄く、非常に軽快な印象です。

 何よりカラフルが似合う街でした。

 宿泊は西海岸にある恩納村のホテル。

 夕食は近くのライブのある居酒屋へ行きました。

 沖縄の1日目は、オリオンビールとともに更けていったのです。

 この旅の相棒は、黄色のビートル。

 飛行機は鮮やかな黄緑。

 外人住宅街には赤いものも。

 日本最南端ですから、自然が美しいのは分かっていましたが、想像を上回る美しさ、カラフルさでした。

 しかしただ手放しで喜んでもよいのだろうかという気持ちもあります。

 もちろんそれは、沖縄を戦争と切り離して語ることはできないからです。

 それは回をあらためて書こうと思っています。

 南北、東西ともに3000kmあるこの国を、隈なくとまでは言わないまでも、一回りするのに46年掛かりました。

 一足先に私が47都道府県を制覇しましたが、多少感慨深いものもあります。

 今、思うのは本当に美しい国だなということです。

 2日目はまた木曜にUPします。

<目指せ、家族で47都道府県制覇>
43/47 【】はまだ

北海道

【青森】 【岩手】 【宮城】 【秋田】  山形 福島

茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川

新潟県 富山 石川 福井 山梨 長野 岐阜 静岡 愛知

三重 滋賀 京都 大阪 兵庫 奈良 和歌山

鳥取 島根 岡山 広島 山口

徳島 香川 愛媛 高知

福岡 佐賀 長崎 熊本 大分 宮崎 鹿児島

沖縄

必ず最後に愛は勝つ‐1351‐

 今日は朝から現場を回っていました。

 大阪も泣き出しそうな空だなと思っていたら、北摂では雪が降ってきました。

 つぼみをつけた桜の木も本当に寒そう。

 この時期の現場打合せは本当に寒いのです。

 家の形はしていますが、現場は基本外。7、8℃を下回ると足下からかなり冷えてきます。

 冬山に登るくらいの感じで着こんできてくださいねと、いつも伝えるのです。

 先週、「中庭のある無垢な珪藻土の家」の現場へ行くと、クライアントのお母さまが、ぜんざいを差し入れてくれました。

 塩昆布付きです。
 
 是非現場の方にと言っていただいたのですが、この日は大工さんが空けており……

 それだけが残念でしたが、その心遣いは現場の皆に届きました。

 今日は「北摂の家」だったのですが、3階キッチンの横に畳の小上がりがあります。

 その高さを詰める予定でしたが、出来ればクライアントにも見て頂きたいね、という話になりました。

 その場で「早い時期に打合せをお願いしたいのですが」とメールすると、「昼からなら伺えますよ」と。

 急遽、大工さんに式台をつくってもらったのです。

 その甲斐あって、明確に方針が決まりました。

 実は、現在ストップしていた現場があり、その近隣説明に同行しました。

 かなりの住宅密集地で、その分、互いの利害関係もより密接に発生します。

 私が一緒に回ることはあまりないのですが、役所の方からも「できれば建築士の人からの説明のほうが……」と言ってもらい、現場監督と廻ってきたのです。

 結論で言うと、一定の理解を示してもらい、工事を再開することになりました。

 家は幸せを叶えるために創るものです。

 その思いが純粋なら、さらに創り手がしっかりと愛情を注いでいれば、悪い結果になることはないと信じています。

 KANの唄ではありませんが、必ず最後に愛は勝のです。

 ガードマンは、雪が降るなか一日中立ち仕事で、本当に寒いはずです。

 それでもいつもニコニコと迎えてくれるのです。

 そんな彼には申し訳ないのですが、今週末は沖縄に行ってきます。

 私にとっては最後の日本。また週明けにUPしたいと思います。

キヤノンで観音様を撮ってみたい‐1350‐

 先週、京都に立ち寄ったと書きました。

04 - コピーのコピー

 海外からの旅行者の玄関口となる京都駅。1997年の完成です。

 梅田スカイビル等でも知られる原広司の設計です。

05 - コピーのコピー

 京都の碁盤の目をモチーフに、中央を谷に見立てたプランで国際コンペを制しました。

 景観論争にも発展し、最も高さが低かった原広司案が選ばれたと記憶しています。

 正直、京都にあっているとは思いませんが、そこに一つしか存在できないのが建築なのです。

  京都駅前から東山七条くらいまで行くと、ようやく街並みにも雰囲気がでてきます。

 三十三間堂は、京都国立博物館の南向かい。

09 - コピーのコピー

 一間=約1.8mなので60mかと思いきや、長さは120m。日本で最も長い木造建築だそうです。

 柱間が三十三あるので、通称として三十三間堂と呼ばれるようになったそう。形態が通称となったのです。

 三十三間堂は平清盛が援助し、1155年に後白河上皇の院内に創建されたのがはじまり。

 しかし火災にあい、1266年に再建されました。

 よく知られる「通し矢」は、お堂の西軒下で行われました。

 高さおよそ2.5m、幅も1m強の限られた空間で矢を24時間射続けます。そして、何本の矢を射通せるかを競いました。

 120mを射抜くには強靭な体力と技が必要とされ、京都の名物行事となっていったのです。

 内部はさらに素晴らしい。

 国宝の千手観音坐像は3mはある見事なもの。それを取り巻くように、階段状になった10段ある壇上に1,000体の千手観音像がずらりとならんでいます。

 仏像のある空間をみて、これほど感激したことはありませんでした。まさに圧巻です。

 しかし、残念ながら内部は撮影禁止でした。

 私は何か撮りたいものがあるときは、CanonのEOS 5D Mark Ⅱにシフトレンズ(建築写真用)とズーム付きのレンズを持って行きます。

 海外では写真好きの外国人に、それらをきっかけに声を掛けられたことが何度かありました。Canonは世界中で支持されているのです。

 Canonのロゴについては、公式サイトにこう載っていました。

 1933年に精機光学研究所が設立され、最初の試作機は「KWANON(カンノン)」と名付けられました。

 観音様の御慈悲にあやかり世界で最高のカメラを創る夢を実現したい、との願いを込めたものでしたが、世界に通用するブランドが必要になりました。

 そこで、英語で「聖典」「規範」「標準」を意味する「Canon」となったのです。

 カナカナ表記なら「ヤ」は小さくせず「キヤノン」が正解です。

 当初の「KWANON(カンノン)」の際は、まさに千手観音と燃え上がるロゴがデザインされていたそうです。

 まさに世界標準となった「Canon」。キヤノンで観音様を撮ってみたかった。

 創業者の御手洗毅は元医師でしたが、共同経営者が出征したため、本格的な経営に取り組むことになります。

 世界一を目指し「打倒ライカ」を掲げ実力主義を徹底するのです。

 一方、いち早く週休2日を導入。また、家族あってこそ仕事ができると、早く家に帰ることを奨励したそうです。

 企業においての働き方が問われる時代です。

 キヤノンの御手洗さんのように、医師としても、経営者としたもスマートで、世界的企業に育て上げる人もいます。

 先日、あるゼネコンの社長と話しをしていたら「いまどき週休2日じゃないと、応募がこないんですよ」と言っていました。

 建築現場も、週休2日が標準となる時代へ向かっているようです。

 その社長は「私は24時間、年中無休で、いつでも電話してこいと言っているんですが」と笑っていました。

 観音様の御慈悲は、もちろん皆に注がれています。

 しかしながら、若干の哀愁を感じてしまったのもまた事実です。