カテゴリー別アーカイブ: 05 芸術・エンターテイメント

手のひらの中の小宇宙‐1462‐

 昨日の京都は20℃を超えました。

 ゴッホ展も気になりますが、かなりの混雑のようで今回はパス。

 「樂美術館」へ行ってきました。

 千家の茶道具を手掛ける茶碗師、樂篤人(あつんど)さんが、十六代目吉左衛門を継ぐという記事を見かけました。

 「樂美術館」は、御所の西にある樂家の居宅に隣接して建っています。

 ろくろ等を使わず手でつくる焼き物を「楽焼」と呼びますが、「樂焼」は樂家によって作られた焼き物を指します。

 手で形をつくり、ヘラで削るだけで創り上げらる、手法としてはごく原始的なものです。

 樂焼は一子相伝で、「吉左衛門」の名を継ぎます。

 十五代450年もの間、脈々と受け継がれてきました。

 秀吉が建てた「聚楽第」近くに、初代長次郎が居を構えていたこともあり、利休に好みの茶碗を求められたようです。

 そして、秀吉から聚楽第の「楽」の一字をもらい、樂家となりました。

 初代長次郎の黒樂筒茶碗「杵ヲレ」。

 利休の求める「詫び茶」を体現するため、模様や色彩もなく、殆どが黒もしくは赤の茶碗です。

 僅かな歪みや曲線だけで、その存在感は放たれています。

 この椀を、利休も手にとったのでしょうか。

 樂家、歴代随一の名工と言われる三代道入。

 別名ノンコウによる赤樂筒茶碗「山人」です。

 ヘラ削りによる造形と、夕日のような赤が革新的。

 こちらも三代道入の黒樂茶碗「残雪」。

 長次郎の茶碗と比べて縁は更に薄く削られ、釉薬は艶やかです。

 「残雪」の銘の通り白がわずかに散りばめられ、新たな挑戦も見えます。

 この抑えた表現が、一流の迫力と自覚を感じさせるのです。

 四代一入の黒樂筒茶碗「誰が袖」。

 縁には僅かに朱が散りばめられ、中央あたりのくびれ部は釉薬が掛け外されています。

 限られた表現の中に、これだけ豊かな世界が生れるのです。

 樂家のことを知ったのは、22歳の時でした。

 大学4回の時、オープンデスクに行った設計事務所に、その写真集が置かれていました。

 その美しさに目を奪われ、一子相伝という物語に心奪われたのです。

 樂家の家訓は「教えないこと」だそうです。

 釉薬の調合法などもそれぞれ違い、全てにおいて自らが考えることを求められる。

 それゆえ、歴代の樂茶碗があると篤人さんは書いていました。

 利休は、たった二畳の茶室に、土壁を背にした一畳の床を設けました。

 そこに一輪の野花を活けることで、亭主が客をもてなす心を最大限に表現します。

 茶室が小さな宇宙と言われる所以です。

 樂美術館のアプローチには咲く寸前の梅が活けられていました。

 また、利休の説いた通り塀越しに桜が見えました。

 幹の太い桜は、塀越しが最も美しいという考えからです。

 学ばなければならないのは、方法ではありません。考え方や生き方です。

 樂茶碗を表現するなら、手のひらの中の小宇宙です。

 答えはいつも自分の良心の中にある。それは樂茶碗であれ、建築設計であれ、全く違いはないと思います。

ジェットコースター卒業します‐1458‐

 今月は娘の誕生日がありました。

 2つプレゼントを頼まれていたのですが、ひとつがUSJ行き。

 もうひとつのプレゼントは後日書くとして、 前回行ったのは2008年の12月でした。

 娘が10カ月の時なので、覚えているはずもありません。私もまだ2回目の初心者なのです。

 タイミングが合い、一緒に行くことになった長男が案内役となりました。

 チケット、スケジュールは全て妻任せですが、予定より早く開園すると聞いていました。

 8時にはゲートに到着。30分繰り上げの8時半に開園しました。

 メールでモデルコースが送られてきており、朝一番はハリーポッターエリアへ向かうとあります。

 こちらにはかなり興味があります。

 ハリーポッターシリーズは、妻、長男は完読。

 映画は全て家族で観ています。

 ゲートをくぐると、ホグズミード村が現れました。

 J・K・ローリングが思い描いた世界観はこのようなものだったのか。

 いずれにしてもワクワクする景色です。

 ホグワーツ城を遠く望む景色は、感動すら覚えました。

 このエリアの工事は清水建設が請け負いました。

 その現場所長か、すぐ下のポジションに居たのが私のクライアントなのです。

 自宅が竣工してからの工事だったので、詳しい内容までは聞けていませんが、私まで誇らしい気持ちになります。

 とても精度の高い仕事でした。

 しかし余裕があったのはここまで。

 先に書くと、私はジェットコースターの類が苦手ですし、あえて乗りたいとは全く思いません。

 なら乗るなという話ですが、ホグワーツ城内での人気アトラクション、空飛ぶイスに乗ってしまいました。

 もの凄い浮遊体験で、長男は最高に楽しかったと言いますが、私は完全に目がまわってしまいました。

 娘も喜んではいましたが、若干酔い気味。それで、酔い止めを与えました。

 ザ・フライング・ダイナソーは、完全にノックアウト。

 フリーフォールを前のめりに90度回転したような姿勢で、下向きにぶら下げられます。

 徐々に最高地点まで持ち上げられていくのですが、自分と地面を遮るものは一切なし。もう怖いを通り越していました。

 後は、頭を下に急降下、振り回され、錐もみ回転……

 全く生きた心地がしませんでした。子供達は、最高に楽しかったそうですが。

 その後、フラフラになりながらジョーズ、モンスター・ライブ・ロックンロールショーへ。

 こういうお祭り感はとても好きなのですが。

 2008年に来た時は、見たことがあるなと思いながら素通りした「メルズ・ドライブイン」。

 ジョージ・ルーカスの「アメリカン・グラフィティ」に登場するレストランでは、60年代のアメリカが再現されています。

 デュークボックスから、音楽が流れて欲しい空間です。

 ここでハンバーガーを食べましたが、噂通りのお値段で1600円。

 ディズニーランドの売り上げは、7割がチケット以外の売り上げと聞いたことがあります。

 正確な比率は知りませんが、構造はUSJも同じでしょう。

 少しだけ小市民から皮肉を。

 小学生チケットは、誕生日割引で4千円ほど。

 こちらのフェイスペインティング2千5百円なり。

 魔法の杖は4千9百円。

 ちなみに、魔法の使えない杖なら4千5百円。

 この杖は魔法が使えるほうで、塔の上に火がともりました。

 大阪だけあって、なかなか商魂たくましいのです。

 アメリカ発なので大阪は関係ないか。

 ここからは良かったところです。

 ミニオンパークは凄い人出でしたが、はなやかな雰囲気は好感がもてます。

 こんな、遊べる壁の落書きは大歓迎。

 子供には4つ程の、エクスプレスパスを与えていたので、混雑時は基本待つだけ。

 私にとっては街歩きのようなものです。

 アメリカの地方都市を思わせる街並み。

 当たり前ですが車が通らないので、ハリウッド通りは歩行者天国。

 広い道路の真ん中を歩くのは、思いのほか気持ちがよいもの。

 本物ではありませんが、海を望む景色はなかなか雄大です。

 その街全体を使った、名探偵コナンの謎解きイベントも、なかなか面白かったのです。

 私はやはり自発的なアトラクションが好きです。

 朝の8時半から夕方の6時まで、娘にとってはほぼ初めてのUSJ。兄妹とも十分に満喫しました。

 もうそれだけで十分です。

 ジェットコースターを楽しめない私に、長男は「楽しんだもの勝ちやん」と言いました。

 それはその通りです。

 大学時代は確実に飛行機を楽しみにしていました。

 それがいつからか、ジェットコースター、観覧車、飛行機に乗ると、手に汗握るようになりました。

 守るべきものが出来たからといって、守りの人生に入ったつもりはありません。常に前向きに、アクティブに生きて行きたいと思います。

 しかし、あの下向き逆さづりはもうこれで……

 ついに、娘も付き添いが不要な身長になりました。これにて、私はジェットコースターを卒業させて貰おうと思います。

 どうせ、ジェットコースターのような仕事人生が続くのですから。

こんな私で良かったら、好きになって頂けませんか?‐1442‐

 私のジョギングコースには、お寺が結構沢山あります。

 平野郷にある全興寺(せんこうじ)は聖徳太子によって建立されました。

 境内のナンテンが見事に色づいています。

 赤と緑が美しく、まさにクリスマスカラー。

 幸せや平和を願う気持ちに、宗教は関係ありません。

 昨日は、我が家でもささやかなクリスマス・パーティを開催しました。

 その際に、娘が「サンタはお父さんなんでしょう」と。

 小4で9歳。そろそろ……

 いやいや、そこは「信じるものは救われる」です。

 「信じる人のところには来てくれるんじゃないかな。お父さんは信じているけど」

 今朝、枕もとにあるプレゼントを見つけ、喜々とした声を上げていました。この話題はまた来年に持ち越しです。

 夕食後、先月録画していた安室奈美恵の番組を皆で観ました。

 子供達は「HERO」が好きで、買い与えていたのです。

 番組はキャリアのスタートから引退に至るまで、順を追ってインタビューでたどっていくという構成でした。

 15歳でデビューし、小室哲哉プロデュースで一気に時代の寵児に。20歳で結婚、そして休業。

 その後、小室哲哉による楽曲提供、プロデュースは終了します。

 売り上げも低迷し、彼女は自分を見つめ直すことになりました。

 そして、得意ではないMCが全くない、2時間、歌って踊り続けるコンサートのスタイルにたどり着いたのです。

 「こんな私で良かったら、好きになって頂けませんか?」

 10代、20代、30代、40代で、ミリオンセラーを記録した、唯一無二の女性アーティスト。その彼女の言葉です。

 ずしりと響きました。

 人はここまで謙虚になれるのです。

 彼女が話す姿を、初めてまじまじと見ましたが、極めて繊細な感性を持っているのだと分かります。

 引退撤回大いに結構、という記事を一度書きました。

 「一生続けていく仕事じゃないなと思っていた」の言葉と、「もっと楽しい未来が待っていると思っている」の言葉を、僭越ながら応援したいと思います。

 今年の年末は、久し振りに紅白を観てみようかと思ったのです。

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1985年のサザンオールスターズ‐1441‐

 『houzz』という、建築家登録サイトがあります。

 このサイトはアメリカ発の会社で、世界展開をしています。昨日、「松虫の長屋」houzzツアーという特集記事で取り上げてもらいました。

 『houzz』からオファーがあり、ライターのkawaguchiさんから取材を受けました。

 非常に的確で、また大げさになりすぎす、とてもよい記事だと思います。

 他者に認めて貰う、特別扱いして貰うことは、仕事の遣り甲斐のなかでも、かなり大きなウェイトを占めていると思うのです。

 初めての著書を出版させて貰いましたが、出版社が月曜日にプレスリリースをしてくれました。

 産経新聞時事通信日刊工業新聞とそれぞれのweb版の中で、プレスリリース枠に掲載されていました。

 毎日、多くの企業がこれだけ沢山のプレスリリリースをしていることを初めて知りました。

 この高度情報化社会で、人に見て貰う、目に留まるということは、極めてハードルが高いことだと、反対に納得したのです。

 こちらは、少し前に新聞記事でみかけた本。妻に購入を頼んでいましたが、なかなか届かずでした。

 品薄になるくらい売れているのかも知れません。


『サザンオールスターズ1978-1985』
スージー鈴木(著)

 音楽評論の本を読んだのは初めてですが、結論でいうとかなり面白かったのです。

 「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」にサザンオールスターズが登場したのが1978年8月31日。

 デビュー曲「勝手にシンドバッド」を、短パンにランニング姿で桑田佳祐が歌う映像は、何度も観たことがあります。

 当時私は小学2年生。それがリアルタイムだったのかは定かではありません。

 1982年の「チャコの海岸物語」のヒット時は6年生になっていたので、はっきり覚えています。

 1978年に衝撃の登場をしたサザンオールスターズが、1985年「メロディ」という傑作が収録されている「KAMAKURA」というアルバムを発表し、活動停止に至るまでが描かれています。

 サザンはコンサートに行くほどのファンではありませんでしたが、ここで紹介されていたアルバムの半分くらいは持っています。

 カラオケが好きという程ではないのですが、いざ歌う機会があれば、「Ya Ya 」「ミス・ブランニュー・デイ」「「Bye Bye My Love 」「メロディ」などに頼る確率は高いです。

 練習なしでそれなりに歌おうと思うと、メロディラインくらいは自然にでてこなければなりません。

 8歳から15歳の時期に、サザンの音楽はいつもまわりに流れていました。

 「勝手にシンドバッド」は沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンク・レデイーの「渚のシンドバッド」をあわせたパロディだったとは全く知りませんでした。

 コミックバンドのような扱いから、国民的バンドへと成功、成長していく過程を、日本の音楽史、洋楽の影響も含めロジカルに語られており、飽きることがありませんでした。

 特に、日本語をロックに載せた功績は、過小評価されすぎだと著者は憤っているのです。

 歌の聞き方は人それぞれです。

 私にとって流行歌(あえてそう書きますが)は、その行間に自分の人生を投影しているものだと思います。いわば音楽日記。

 この点で、鑑賞するクラッシク音楽等とは、楽しみ方が違うのではないかと考えています。

 「胸騒ぎの腰つき」から「strawberry woman Don’t you go」まで。自分なりにsweet & bitterな、前期・青春時代を振り返っていました。

 「メロディ」のイントロが流れてくると、やはり気持ちは一瞬で15歳に引き戻されます。1985年のサザンオールスターズは、1985年の自分でもあるのです。

 King of Pop、マイケル・ジャクソンは映画「THIS IS IT」の中で、こう言います。

 最初のレコーディングの音

 観客のイメージどおりの

 それに忠実にしたい

 マイケルの求道者のような姿勢がとても好きです。

 歌の中で、人は歳をとれないのかもしれません。

 彼が自邸をネバーランドと呼びました。

 アーティストは歳をとってはならない、特別な存在でありたいと、誰より願っていたのだと思うのです。

■■■『建築家と家を建てる、という決断』守谷昌紀
ギャラクシーブックスから11月27日出版
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メディア掲載情報

◇一級建築士事務所 アトリエ m◇
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

白の上の白‐1423‐

 先週、当社のwebサイトをリニューアルしました。

 webサイトの第一弾は2003年に製作しました。

 こだわりの家を建てたい人、違いのある空間を持ちたい人が知りたいと思う情報を、できる限り発信してきたつもりです。

 そのかいあって、多くの人に訪れてもらいました。

 しかし時代の変化は早く、1年程前だったか「ボタンが近すぎて使い難い」と検索サイトから忠告をうけました。

 スマホからスライドショーが見れないなどの課題もようやく解消できました。まだまだ改善点はありますが、ひとまず一段落です。

 ファーストモデルのデータはもうありませんが、マレーヴィチの「白の上の白」という絵をモチーフにしました。

 この白をグレーの表現に変え、正方形をひし形にデザインし、トップページとしました。

 当時、ロシア構成主義の画家が1918年に発表したこの絵がとても気になっていたのです。
 
 私にとって洋画のスタートはミレーだったように思います。

 母に連れられ、展覧会をまわりましたが、小学生ながら、ミレーの絵には他を圧倒する、静けさ、敬虔のようなものを感じました。

 初めて観たのは「種をまく人」だったと思います。

 その後、ゴッホ、モネ等の印象派などを知り、シャガール、クリムト、ムンクなどが気になり始めます。

 徐々に興味が抽象画に傾きはじめ、モンドリアン、そしてマレーヴィチを知るのです。

 さらに近代へ。

 アンディー・ウォーホール、リキテンシュタインとポップアートに触れます。

 これは 1960年、イブ・クラインの作品。

 この青一色の絵画は純粋精神としての非物質=空虚をしめしているとされます。

 書家、陶芸家、そして画家でもある北大路魯山人はこういっています。

 傑作と凡作との間は紙一重の相違である。

 しかし、この紙一重がなかなか破れない。

 人物の値打ちだけしか字は書けるものではない。

 字というものは、人物価値以上に光らないものである。

 60年代のパリで、クラインが描いた青だから意味があるのです。

 初めにあげたマレーヴィチは、幾何学の中で正方形を最も純粋なものと考えていました。

 彼も徐々に抽象画へと移行していった画家ですが「白の上の白」を描いたあと、この道をこれ以上進むことはできないと自覚し、1920年代には具象画へと回帰しました。

 そこまで突き詰め、終着点となった絵だったのです。

 紙一重をつき破りたい。

 その紙がどこにあるのかは分かりませんが、いつも思っていないと見つけられないはずです。

 もう一度、魯山人の言葉を引きます。

 途方もない考えがなくては、途方もない結果はない。

 必ず実現したいと思うのです。

心の庭に水やりを‐1417‐

 今日の明け方は、強い雨音で目が覚めました。

 長男は朝6時過ぎに起きて学校へ行くので、私が目を覚ました時はすでに家をでたあと。

 彼が電車に乗ってすぐに警報が発令され、授業は午後からになったようです。

 遠いから早くにでているのだと思ったら、クラスでも1番か2番に登校しているそう。
 
 高校の時「普段より、1本でも2本でも早い電車で登校してみたら。違った景色が見えるから」と言った先生がいました。

 誰に言われるでなくそうしているのは立派だなあと思っているのです。

 今週の前半は快晴続きでした。

 現在、建て替え計画中の敷地調査に行っていました。

 多くの庭木が育っており、どの木を残すかの打合せも兼ねてです。

 オリーブが大きな実をつけていました。

 こちらは鉢植えなので残すことに。

 愛情をかけて貰っているのが分かります。

 ひときわ鮮やかなオレンジで目を引くノウゼンカズラ。

 近所の公園から少し頂戴し、挿し木をしたとのこと。

 そういえば、周辺を歩いた際に立派なノウゼンカズラがありました。

 勿論このくらいは許される範囲でしょう。

 その公園で、隙間を縫うように生えていたのはエノコログサ。

 通称ネコジャラシは、粟(アワ)の原種で、食用にもなるそうです。

 そういえば、光を受けた様が黄金色に輝く小麦畑を連想させてくれます。

 収穫の秋です。

 先の先生は、最終的には教師を辞め、稼業のお寺を継ぎました。

 担当は数学で「別にこの定義に従う必要はない。自分で新たな定義を発見し、それが正しいことを証明すればいいのだから」と言っていました。

 一風変わった先生だなと思っていましたが、いつも原理原則から説明してくれていたのです。

 春先に種を植えたら、勝手に実がなり秋に収穫できればよいのですが、自然はそうなっていません。

 人間の心は庭のようなものです。それは知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからは、どちらの場合も必ず何かが生えてきます。

 もしあなたが自分の庭に、美しい草花の種を蒔かなかったら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります。

 20世紀初頭の作家・哲学者、ジェームス・アレンの言葉です。

 必ず何かが生えてくるという言葉に、ある種の衝撃を覚えました。

 また、こうも書いています。

  植物は種から芽生えます。それは、種なくしてはあらわれることはできません。そして私たちの行いもまた、内側に密かにめぐらされて思いという種から芽生えます。

 これもまた、その種がなければ現れることがありません。意識的に行うことでも、無意識に行うことでも、ひとつとして例外はありません。

 心という庭に種をまき、水をまき、日々手入れしなければ、雑草だらけになってしまう。

 しかも、意識的であれ無意識であれ自分の思いが発芽するので例外はない。

 この原理原則を、何とか子供達に、またスタッフに伝えたいと思います。

 しかし、自分が数学の先生の話しを聞けなかったように、人の考えを受け入れるのは難しいことです。

 なら、聞きたいと思って貰えるような立派な人になるしかありません。

 親として、仕事人として道のりはいつも険しいですが、登る先が見えているのは幸せなことだと思うのです。

一歩進むことであってほしい‐1414‐

 日曜日は、母校高槻中学・高校の文化祭定でした。

 ここ数年「頼れる卒業生による無料相談」に参加しています。

 しかし到着してすぐ、台風による警報が発令され、11時50分での中止が決定しました。

 懸命に準備をしてきた生徒にとっては本当に悔しいことでしょう。

 新校舎も完成し、更に工事も進んでします。

 また、今年から男子校から共学にかわりました。

 学校も時代に合わせて変化しなければならない時代なのだと実感します。

 今日は、昼から時間ができたので、娘とJRで京都へ。

 台風一過の快晴でした。

 水族館というリクエストと、昼から、連休の渋滞を避ける、という条件で、京都水族館にしました。

 確か昨年も台風中に訪れた気がします。

 京都駅から歩いていけるというロケーションは重宝するのです。

 ペンギンがあわただしいので、水上階へ上がってみるとエサやり中でした。

 コミカルといえばコミカルですが、食事ショーには微妙な感じもあります。

 イルカショーは梅小路公園を背にしたプールで、夕風に吹かれながら。

 最上部の席でリラックスしながらみました。

 これまで、子供と一緒に沢山のイルカショーをみました。

 ここでは「プー」と呼ばれるストローを割った笛を皆で吹くという演出があります。

 イルカと交互に笛を吹くという場面は一体感があり、なかなか盛り上がりました。

 小学校の低学年くらいまでならまだししも、高学年になれば、行きたいと思うところしかついてきてくれません。

 一方、足水をみつけると、さっさと靴下を脱ぎ入ってしまいました。

 まだまだ子供らしいところと、ここから大人へ向かっていくんだろうなという部分の、両方を持ち合わせているのが9歳、10歳くらいでしょう。

 最近、本当によくわかったのが、怒って何かをさせることはできないということです。

 このくらいの歳になると、いくら怒っても、脅しても、いうことを聞かせるのは無理です。

 あるクライアントがこんなことを言っていました。

 「僕は子供に、できることは何でもしてあげようと思っているし、買い与えていいと思ってるんです。ただ、大人になってからもそれを叶えたかったら、自分で努力してね。そういう考えかたなんです」

 以前は、それは私の考えかたと少し違うなあと思っていました。しかし、最近はよくわかる気がします。

 最終的には、自分がしたいと思うこと以外、行動が持続することはありません。

 ここなら行きたいと思って貰える景色をできるだけ沢山見せてあげるしか、親にはできないのです。

 この点は、考え方を大きく変えたつもりです。

 勿論のこと、私は完成品ではないので、変化しつづけるしかありません。

「一日生きることは、一歩進むことでありたい」

 日本初のノーベル賞受賞者、湯川秀樹博士の言葉です。

 できれば、それが進歩であってほしいと願うのです。

座辺師友、環境こそが師‐1405‐

  京都へ行く際は、阪急電車にかぎります。

 他の電車より、景色とシートが京都気分を盛り上げてくれるのです。

 どのくらいの人が賛同してくれるでしょうか。

 京都現代美術館で、9月24日まで「北大路魯山人展」が開催されています。

 この美術館は何必館(かひつん)といい、館長が「何ぞ必ずしも」と定説を常に疑う自由な精神を持ち続けたいと名付けたそうです。

 ちらと寄ってきました。

 少し東へ行けば八坂神社。

 すぐ南には祇園、花見小路。

 京都の真ん中に、こんな美術館があったとは知りませんでした。

 朝一番に訪れたのですが、京都の夏は暑い。

 しかし、浴衣姿の女性が多いのは目にも涼やかです。

 北大路魯山人は、1983年、京都上賀茂神社の社家に生れました。

 陶芸家、書家、篆刻家、そして美食家。

 漫画「美味しんぼ」に登場する海原雄山のモデルとされています。その批評は極めて鋭いがゆえ、敵も多かったようです。

 以下は、何必館館長のことばです。

 傲慢、不遜、非常識と、生前の魯山人を知る人々は激しく罵る。彼の美における断罪の激しさは、そこに徹底した純粋さを求めるがゆえの、無邪気とさえいえる優しさの表現だった。

 魯山人の作品を、一度にこれだけ見たのは今回が初めて。

 特に焼き物は、彼の多彩さが一目でみれとれます。

 織部、備前、志野、青磁、楽焼となんでもありに見えますが、いずれも遊び心があり、対象となるものが映えるだろうと思います。

 何と表現すればよいのか、こちらが感情移入する余白を残していると感じます。例えるなら、古典音楽と流行歌の違いのような。

 白洲正子の著書「ものを創る」にはこうありました。

 結局、魯山人の芸術の特徴は、その素人的な所にあったと思います。素人というと、誤解を招くおそれがありますが、技巧におぼれず、物のはじめの姿というものを、大づかみにとらえていた。

 物を見る(うぶ)な眼と、職人の(熟練した)手というものは、中々両立しないものですが、その両方を備えていたといえましょう。

 写真撮影は禁止でしたが、館を出て扉越しに1枚撮ってみました。

 織部と備前の花瓶です。

 織部は鮮やかな緑に大胆な造形、備前は控えめに色つけがなされていました。

 魯山人は、身の回りに優れた美術品を常に置き、自らの眼を鍛え、先人の工夫を必至に学んだといいます。

 身の回りの環境によって人は作られるという考えを、座辺師友(ざへんしゆう)という言葉で表しました。

 魯山人がそうしたように、できれば身の回りの全てのものを自分が納得するものだけに囲まれて暮らしたいものです。

 「城陽の家」のクライアントは、気に入ったテーブルを買えるお金が貯まるまで、地べたの食事もいとわないといいました。

 納得できる机を買ったのは、竣工から2年程経った頃だったでしょうか。

 座辺師友。

 こういった言葉を、特別なことだと思わないようにしたいものです。

 夏の京都。

 路地の影が、人を誘います。

 しかし、館をでるころにはこの人出。

 行くなら朝一番に限ります。

日本一の境地なり‐1402‐

 台風5号は、今日の夕方にも和歌山に上陸するようです。

 今日と打って変わって、昨日は1日よい天気でした。

 夏休みにはいり、退屈そうにしている娘が海遊館へいきたいと。

 夕方から出掛けたのですが、それなりの込み具合でした。

 おきまりのスタンプラリーも完成です。

 天保山界隈にも「大阪港開港150年」のフラッグがあちこちに上がっています。

 そのスタンプラリーもあるようで、回ってきました。

 まずは天保山・築港エリアで3ヵ所。

 うちの1つは築港赤レンガ倉庫です。

 新聞でクラッシックカーミュージアムが人気という記事を読みました。

 各地に赤レンガ倉庫は沢山あります。

 大阪も150年の歴史を誇る港町。当然このような場所もある訳です。

 すぐ近くには名門、井桁マークのついた赤レンガ倉庫。

 この古びた感が、何とも歴史を感じさせるのです。

 天保山エリアをクリアしたら、今度は川口エリア。

 こちらも3ヵ所あり、地下鉄阿波座駅周辺です。

 開港と同時に、外国人居留地として発展したのが川口です。

 大阪の近代化はここから始まりました。

 函館、横浜、神戸、長崎の居留地は訪れましたがここは初めて。意外に知らないものです。

 川口基督教会は1920年の建築。

 居留地時代の面影を残しています。

 最後のポイントは中之島漁港

 大阪中央卸売市場の南にあり、「港と街を直接つなぐ鮮魚取引所」とあります。

 魚介類を買ったり、その場で食べることができる、新しい漁港を目指す民間企業のよう。

 スタンプラリーの最後としては、ややしまらない感もありますが、食事処としては面白そうな施設でした。

 地名としては、 室町時代に石山本願寺を建てた蓮如上人の文章に「大坂」とでてくるのが初めと大阪市のwebサイトにあります。

 当時の文献には「大坂」とも「小坂」ともあり、いずれも「オサカ」と発音されていました。

 現在の大阪城が建つ位置にあった、石山本願寺をどうしても欲しかったのが信長です。

 本願寺法主、顕如と激しく戦いを繰り広げたのですが、あの信長が退けられ続けました。それほどまでに、石山本願寺の立地が素晴らしかったのです。

 信長はこういっています。

 大坂は凡そ日本一の境地なり

 最終的に、秀吉によって大坂城は築かれました。そして、安土桃山時代から、昭和初期までの大大阪へと繁栄は続くのです。

 八百八橋を誇るとおり、水運によって栄えた街なので、海、川とは切っても切り離せません。

 自動車、飛行機の発展で、水運への依存度も変わってきました。それでも、港町ということばに、ある種のノスタルジーを感じます。

 港街大阪。街にも色々な側面があるものです。

 反対に言えば、人にしろ街にしろ、1つのイメージで片付けようとしていないのだろうかとも思うのです。

「どうせ」はやめた‐1364‐

 先週の金曜日、中高の先輩に声をかけてもらい、京都へ行っていました。

 20歳ほど上の先輩が、2件目に連れていってくれたのが「カルシウムハウス」

 京都で35年続くニューハーフのショーパブです。私も名前くらいは聞いたことがありました。

 こちらのオーナー、梶子ママはかなりメディアに露出しているそうで、高槻中高の先輩でした。

 何期上かは彼女(彼?)の商売柄を考えて控えておきます。

 お土産にもらった、「なにわのおばちゃん&おネエの牛すじカレー」。

 右が梶子ママです。

 見た目は美しいですが、声は完全に酒やけしたダミ声。もちろんそれも商品のはずですが。

 その翌日、ご一緒したその先輩から、「ビフォーアフターに 貴兄が出てますね」とメールをいただきました。

 土曜日の午後2時から、「住之江の元長屋」の再放送があったようです。地上波放送は今回で3回目だったと思います。

 テレビ局側から再放送に関して連絡はないので、全く知りませんでした。

 放送後「 明かりも大切ですが、私は 風が抜ける設計を評価しますね。 通風性の重要さを思い付かない方が多いし、解決策が 見事です」とメールをもらいました。

 ニューハーフのオーナーママあり、建築好きの税理士ありと、改めて母校の奥行きを知ったのです。

 この春から、長男が中学校へ行きます。

 部活は必須だそうで、候補にしている卓球を一度やってみようとなりました。

 妻がカミ卓球場というところを見つけてきました。

 加美は平野区なので、車で5分くらい。

 また、2006年の作品「加美の家」も近いので土地勘はあります。

 住宅っぽい門扉の先にあるのは元作業場のよう。

 それらを改修し練習場となっていました。

 中には卓球台が4台ありました。3人で2時間借りて3000円。

 子供達は、実家にある小さいテーブルで練習を重ねているそうで、思った以上でした。

 長男は左打ちなので、結構いけるかもしれません。

 娘も負けず嫌い感をだして頑張っていました。

 壁には、福原愛、石川佳純、伊藤美誠とオリンピック選手の色紙や写真が飾ってありました。

 こちらのコーチは、先日結婚した福原愛ちゃんの練習相手をしていたそうです。

 ここで練習していたのかは分かりませんが、トップ選手ながら、卓球をとりまく環境も楽ではないのだろうと想像します。

 ベスト4まで進み、盛り上がりを見せていたワールド・ベースボール・クラッシク。予想以上の活躍を見せ、注目を集めたのが巨人の小林捕手です。

 彼の談話が載っていました。

 「『どうせ』って言うのはやめました。僕は下手くそなんで必死にやるだけ。がむしゃらに。それだけです」

 巨人のレギュラーである小林捕手にしても、超エリート集団にはいると「どうせ」と言いたくなるのです。

 ということは、どんな分野の、どんなレベルであれ、同じことが起っていると想像できます。

 入社試験を1日で辞退。

 それは個々の生き方なので自由です。

 イエール大学の建築学科卒なら別ですが、エリート街道という言葉がある通り、私達に舗装道路など残っているはずがありません。

 でこぼこで水たまりだらけの泥んこ道を行くしかないのです。

 大した努力もしてきていない非エリートの私達が口にしてよいのは「どうせ」ではありません。

 「せっかくなら」以外ありえないのです。