京都へ行く際は、阪急電車にかぎります。
他の電車より、景色とシートが京都気分を盛り上げてくれるのです。
どのくらいの人が賛同してくれるでしょうか。
京都現代美術館で、9月24日まで「北大路魯山人展」が開催されています。
この美術館は何必館(かひつん)といい、館長が「何ぞ必ずしも」と定説を常に疑う自由な精神を持ち続けたいと名付けたそうです。
ちらと寄ってきました。
少し東へ行けば八坂神社。
すぐ南には祇園、花見小路。
京都の真ん中に、こんな美術館があったとは知りませんでした。
朝一番に訪れたのですが、京都の夏は暑い。
しかし、浴衣姿の女性が多いのは目にも涼やかです。
北大路魯山人は、1983年、京都上賀茂神社の社家に生れました。
陶芸家、書家、篆刻家、そして美食家。
漫画「美味しんぼ」に登場する海原雄山のモデルとされています。その批評は極めて鋭いがゆえ、敵も多かったようです。
以下は、何必館館長のことばです。
傲慢、不遜、非常識と、生前の魯山人を知る人々は激しく罵る。彼の美における断罪の激しさは、そこに徹底した純粋さを求めるがゆえの、無邪気とさえいえる優しさの表現だった。
魯山人の作品を、一度にこれだけ見たのは今回が初めて。
特に焼き物は、彼の多彩さが一目でみれとれます。
織部、備前、志野、青磁、楽焼となんでもありに見えますが、いずれも遊び心があり、対象となるものが映えるだろうと思います。
何と表現すればよいのか、こちらが感情移入する余白を残していると感じます。例えるなら、古典音楽と流行歌の違いのような。
白洲正子の著書「ものを創る」にはこうありました。
結局、魯山人の芸術の特徴は、その素人的な所にあったと思います。素人というと、誤解を招くおそれがありますが、技巧におぼれず、物のはじめの姿というものを、大づかみにとらえていた。
物を見る(うぶ)な眼と、職人の(熟練した)手というものは、中々両立しないものですが、その両方を備えていたといえましょう。
写真撮影は禁止でしたが、館を出て扉越しに1枚撮ってみました。
織部と備前の花瓶です。
織部は鮮やかな緑に大胆な造形、備前は控えめに色つけがなされていました。
魯山人は、身の回りに優れた美術品を常に置き、自らの眼を鍛え、先人の工夫を必至に学んだといいます。
身の回りの環境によって人は作られるという考えを、座辺師友(ざへんしゆう)という言葉で表しました。
魯山人がそうしたように、できれば身の回りの全てのものを自分が納得するものだけに囲まれて暮らしたいものです。
「城陽の家」のクライアントは、気に入ったテーブルを買えるお金が貯まるまで、地べたの食事もいとわないといいました。
納得できる机を買ったのは、竣工から2年程経った頃だったでしょうか。
座辺師友。
こういった言葉を、特別なことだと思わないようにしたいものです。
夏の京都。
路地の影が、人を誘います。
しかし、館をでるころにはこの人出。
行くなら朝一番に限ります。