タグ別アーカイブ: 利休

手のひらの中の小宇宙‐1462‐

 昨日の京都は20℃を超えました。

 ゴッホ展も気になりますが、かなりの混雑のようで今回はパス。

 「樂美術館」へ行ってきました。

 千家の茶道具を手掛ける茶碗師、樂篤人(あつんど)さんが、十六代目吉左衛門を継ぐという記事を見かけました。

 「樂美術館」は、御所の西にある樂家の居宅に隣接して建っています。

 ろくろ等を使わず手でつくる焼き物を「楽焼」と呼びますが、「樂焼」は樂家によって作られた焼き物を指します。

 手で形をつくり、ヘラで削るだけで創り上げらる、手法としてはごく原始的なものです。

 樂焼は一子相伝で、「吉左衛門」の名を継ぎます。

 十五代450年もの間、脈々と受け継がれてきました。

 秀吉が建てた「聚楽第」近くに、初代長次郎が居を構えていたこともあり、利休に好みの茶碗を求められたようです。

 そして、秀吉から聚楽第の「楽」の一字をもらい、樂家となりました。

 初代長次郎の黒樂筒茶碗「杵ヲレ」。

 利休の求める「詫び茶」を体現するため、模様や色彩もなく、殆どが黒もしくは赤の茶碗です。

 僅かな歪みや曲線だけで、その存在感は放たれています。

 この椀を、利休も手にとったのでしょうか。

 樂家、歴代随一の名工と言われる三代道入。

 別名ノンコウによる赤樂筒茶碗「山人」です。

 ヘラ削りによる造形と、夕日のような赤が革新的。

 こちらも三代道入の黒樂茶碗「残雪」。

 長次郎の茶碗と比べて縁は更に薄く削られ、釉薬は艶やかです。

 「残雪」の銘の通り白がわずかに散りばめられ、新たな挑戦も見えます。

 この抑えた表現が、一流の迫力と自覚を感じさせるのです。

 四代一入の黒樂筒茶碗「誰が袖」。

 縁には僅かに朱が散りばめられ、中央あたりのくびれ部は釉薬が掛け外されています。

 限られた表現の中に、これだけ豊かな世界が生れるのです。

 樂家のことを知ったのは、22歳の時でした。

 大学4回の時、オープンデスクに行った設計事務所に、その写真集が置かれていました。

 その美しさに目を奪われ、一子相伝という物語に心奪われたのです。

 樂家の家訓は「教えないこと」だそうです。

 釉薬の調合法などもそれぞれ違い、全てにおいて自らが考えることを求められる。

 それゆえ、歴代の樂茶碗があると篤人さんは書いていました。

 利休は、たった二畳の茶室に、土壁を背にした一畳の床を設けました。

 そこに一輪の野花を活けることで、亭主が客をもてなす心を最大限に表現します。

 茶室が小さな宇宙と言われる所以です。

 樂美術館のアプローチには咲く寸前の梅が活けられていました。

 また、利休の説いた通り塀越しに桜が見えました。

 幹の太い桜は、塀越しが最も美しいという考えからです。

 学ばなければならないのは、方法ではありません。考え方や生き方です。

 樂茶碗を表現するなら、手のひらの中の小宇宙です。

 答えはいつも自分の良心の中にある。それは樂茶碗であれ、建築設計であれ、全く違いはないと思います。

近くて遠い街、堺にて‐1337‐

 大阪市のすぐ南にある堺市。

 私にとって近くて遠い街でした。今まで本格的に訪れたことがありませんでした。

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 仁徳天皇陵を訪れるのも初めて。

 横は数えきれないくらい通っているのですが。

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 3重の堀に守られた、長さ約500mの日本一大きな古墳。地元では「御陵さん」と呼ぶそうです。

 世界遺産の暫定リストにも記載されています。

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 その大きさは俯瞰しなければ、ピンときません。

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 北西にある、堺市役所の21階に展望ロビーから見下ろすことができます。

 観光マップあり、各所にボランティアのガイドを配したりと、堺も観光に本腰を入れているのが分かります。

 昨日は快晴で、明石大橋まで見えました。

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 展望ロビーには、鉄砲も展示されていました。

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 堺は水運によって発展した都市です。

 旧堺港の入り口に立つ灯台は、明治10年に建築されたもの。

 所在を変えずに現存する洋式木造灯台としては、最も古いもののひとつだそうです。

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 備前の国の石工が建造したという石積みは、有機的なフォルムで、現代には見れない美しさがありました。

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 旧堺灯台から東に1kmほど内陸にはいると、ザビエル公園があります。

 中央あたりにある段差は、中世における海岸線だったそうです。

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 公園のすぐ海側には環濠が残っています。

 さすがに日本一大きな環濠都市だけあり、濠の規模が違いました。

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 環濠都市の中央付近ある千利休の屋敷跡。

 利休は1522年、堺のこの地に豪商の長男として生まれました。

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 17歳の時から茶の湯を学び、のちに武野紹鷗に師事。わび茶を大成させます。

 現在は、井戸が残るのみでしたが、井戸屋形は大徳寺の山門改修の際にでた古材でつくられたものだそうです。

 大徳寺は秀吉との確執で切腹においこまれた、因縁の寺でもあります。

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 利休は茶人として粋を極めた結果、発言力を持っていきます。

 しかし「利休好み」の言葉もある通り、質素な茶の湯を旨としました。

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 利休が設計したと言われる、現存する唯一の遺構は、大山崎にある「待庵」です。

 わずか二畳の茶室に、一畳の床を設けています。

 壁は藁すさのみえる荒壁で、そこに一輪の野の花を活ければよいと考えました。

 高価な物を飾るのではなく、亭主のもてなす心を表現するために、床に一畳をさいたのです。

 黄金の茶室をつくった秀吉と、精神的な部分で交わることはなかったのだと思います。

 利休は、師である武野紹鴎に「詫びとは慎み深く奢らぬ様」と教えられました。

 読めば読むほど、深く、迷宮に入ってしまいそうな言葉です。

 茶の湯という、伝統ある精神文化を高めた利休が、堺の地に生まれたのは偶然ではないと思います。

 新しい文化が次から次へと入ってくる堺だったからこそ、利休は深く根源をみるようになったのではないかと思うのです。

 「伝統」とは「起源」の忘却のことである
-エドムント・フッサール- オーストリアの数学者・哲学者

 現在の伝統文化も、もとは前衛的だったはず。今に固執せず、より深く精神世界を突き詰めてみたいと思うのです。

 この日記も、今年は残すところ1回となりました

 過去をなどってはいないか、前を向けているか、根源をみようとしているか。自戒、反省の念が次から次へと湧いてきます。
 
 しかし、この1年を良い形で締めくくるため、残る1週間を利休のように精一杯考え、働くのみです。