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家康が愛した街、家康が愛された理由‐1760‐

 新年あけましておめでとうございます。

 2021年は年始から穏やかな好天に恵まれました。

 状況が状況なので迷いましたが、このタイミングしかないと思い、静岡、東京行きを決めました。

 1月2日の早朝に大阪を発ちました。

 東名を走っていると、静岡側からの富士山が見えてきました。

 大阪から300km。静岡インターで高速を降ります。

 静岡県は何度も来たことがありますが、市内は初めてだと思います。

 1時間程で所用を済ませました。

 地図を見ると、「三保松原」の文字が見えたので、海沿いまで走ってみました。

 近くに御穂(みほ)神社があったので、まずは初詣で。

 やはり人出は少な目です。

 一年の健康と安全を祈念してから「神の道」を歩きますが、これがなかなか雰囲気があるのです。

 10分位歩くと、駿河湾が見えてきました。

 青い海に白い波。

 そして一筋の雲に冠雪した霊峰富士。

 まさに絶景でした。

 駿府城公園にも立ち寄りました。

 櫓は見えますが、残念ながら天守閣は残っていません。

 徳川家康は三たび駿府に入り、最後の地に選んだことでも知られます。

 中心街のすぐ北にありますが、現在は広大な公園として開放されています。

 正月らしく、凧揚げをしている家族がいました。

 中央部あたりにある家康像です。

 鷹狩りを好んだ家康らしく、左手には鷹が止まっていました。

 戦国時代、駿府城は強大な勢力を誇った今川家の城でしたが、家康は人質にとられ、7歳から18歳までをここで暮らしました。

 しかし、信長が桶狭間の戦いで今川義元を討つと、今川家は急速に衰え、1568年武田家に追放されます。

 1582年、今度は家康が武田家を追放し駿府に戻ります。

 ところが今度は秀吉の時代となり、1590年に関東へ移封され再びこの城を出ることになるのです。

 秀吉が世を去り、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1603年、征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。

 パックストクガワーナとも呼ばれる、270年に及ぶ太平の世の礎を築いた家康は、1607年に秀忠に征夷大将軍を譲り、大御所となって三たび駿府に戻ったのです。

 そして75歳という長寿の人生をこの地で終えました。

 静岡の人は家康がこの地を愛した理由を4つのキーワードで語るそうです。

 水、空気、海、そして雪が降らない

 十分に感じることが出来ましたが、今度は水を知る為に、何か地の物を食べてみたいと思います。

 関西での暮らしが好きですが、山のある景色だけは少し物足りないかもしれません。

 富士山、磐梯山、岩木山に開聞岳。

 「良い山がある町から大人物が育つ」と聞いたことがあります。

 家康が天下を収めた理由は富士山だけではないと思いますが、単純に顔が上を向くだけでも、人生が違ったものになるとも思うのです。

 評論家、谷沢永一は著書「人間通」でこんなことを書いています。

 彼奴には至らんところが多いけれど、なにしろ可愛気があるから大目に見てやれよ、と寛大に許される場合が殆どである。(中略)才能も智恵も努力も業績も身持ちも忠誠も、すべてを引っくるめたところで、ただ可愛気があるというだけの奴には叶わない。人は実績に基づいてではなく性格によって評価される。

(中略)

 可愛気の次に人から好まれる素質、それは、律気、である。秀吉は可愛気、家康は律気、それを以て天下の人心を収攬した。律気なら努めて達し得るであろう。律気を磨きあげれば殆ど可愛気に近づくのである。

 可愛気は全く自信がないのですが、律気なら何とかできそうな気がします。

 磨きあげれば、殆ど可愛気に近づくという言葉には随分救われた気がします。


 
 先程東京から戻ったのですが、ひとつやらかしてしまいました。

 続きは木曜日にUPします。

 今年も一年、宜しくお願いいたします。

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メディア掲載情報

◇一級建築士事務所 アトリエ m◇
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

「ほんもの」と「いかもの」‐1425‐

 今日は昼から、上京区で進めているオフィスビルの現場へ行っていました。

 この現場は二条城のすぐ北にあります。

 大阪の現場からの移動でしたが、少し早くついたので初めて立ち寄ってきました。

 堀川通りに面する東大手門は、いつも観光客であふれているのが車からみえていたのです。

 二条城は1603年、徳川家康によって築城された平城です。

 本丸には5層の天守閣がありましたが、1750年の落雷で焼失しています。

 よって、いわゆる城らしい佇まいは濠を残すのみ。

 今年は「イヤダロナ」で覚えた大政奉還から150年。

 徳川慶喜が天皇家に行政の権限を戻すと宣言したのが二条城です。

 まさにここから近代が始まったのです。

 東大手門から入り、西に進みます。

 唐門をくぐると、二の丸御殿が正面にみえてきます。

 唐門のきらびやかな彫刻は、日光東照宮を彷彿させます。

 しかし、他の建築と比べると多少違和感を覚えるのも事実なのです。

 二の丸御殿の正面に立ってみます。

 手前に見えるのは車寄せ。牛車で入れる大きさになっており、檜皮葺きは神社建築を思わせます。

 その奥の高い大屋根は遠侍と呼ばれる棟。

 瓦屋根は、日本建築の迫力をもっとも感じさせるもの。

 妻面には大きな菊の御紋が施されています。

 これは天皇家に敬意を示したものでしょう。

 残念ながら内部の撮影は禁止でした。

 二の丸御殿は、多くの棟が雁行しながら繋がっています。そのすべてが世界遺産であり、国宝に指定されています。

 その中央あたりにある大広間が、大政奉還の実際の舞台となったところです。

 棟の前に中庭があり、写真を撮ってみるとそのケラバにも菊の御紋がみえました。

 しかし、さらにその上の鬼瓦には葵の御紋が。みてとれるでしょうか。

 当然ながら、葵の御紋は徳川家の家紋。

 このあたりに、歴史、建前、プライドが見え隠れして、とても面白いのです。

 建築家・磯崎新の『建築における「日本的なもの」』という著書に、以下のようなことを書いています。

 ブルーノ・タウトという建築家が、伊勢神宮、桂離宮を天皇的で「ほんもの」とし、日光東照宮を将軍的で「いかもの」と表現した。

 磯崎はこれらを、ハイアート、キッチュと区別しています。

 270年の平和を築いた徳川家を、馬鹿にしたい訳ではありません。しかし、こと建築においてはブルーノ・タウトの説を支持したいのです。

 今日、プロ野球のドラフト会議が開かれました。

 高校生スラッガー、早稲田の清宮幸太郎選手は7球団からの指名があり日本ハムが交渉権を引き当てたとニュースにありました。

 過去のドラフトでは8球団からの指名が最高で、その1人が野茂英雄です。

 彼が本物であることは説明の必要はありません。

 多くの球団が指名したとしても、大成していない選手もいます。

 「やっとスタートラインに立てた」というコメントが載っていましたが、868本以上のホームランを打ち、是非、本物中の本物になって欲しいものです。

 もちろん、人のことを心配する前に、自分の精進、自社の精進です。ハイアートを目指すしかありません。

 「ほんもの」と「いかもの」が混在する場所。二条城はとても面白いところだったのです。