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「知の巨人」磯崎に捧ぐ‐1971‐

昨年末の12月31日、「ポストモダン建築の旗手、磯崎新逝去」という記事が新聞の一面に掲載されました。91歳でした。

ル・コルビジュエを源流とする、モダニズム建築を日本で牽引してきたのは前川國男、丹下健三でした。

モダニズムは伝統的な建築から、機能主義的な建築を良しとする運動でしたが、ポストモダンはその批判から生まれた運動です。

装飾性や折衷性など、より芸術的な部分も求められたのです。

はじめてこの日記で、磯崎建築を取り上げたのは、2006年1月の「奈義町現代美術館」だと思います。

作家の作品ありきで設計された美術館で、妻である宮脇愛子の作品も展示されています。

そしてこの筒の中には、荒川修作+マドリン・ギンズの作品が。

全てを地面として、龍安寺の石庭が表現されているのです。

日本一危険な公園とも言われる、あの「養老天命反転地」の作者2人でもあります。

中を歩くと、ちょっと酔ったような感覚になるのです。

2005年に長男が生まれ、奥津温泉へ初めての温泉旅行に出掛けました。

その近くにあったのがこの美術館でした。

磯崎新に多くの影響を受けたことは、これまでに何度か書きました。

初期の名作、「北九州市立美術館」を訪れたのは、2014年8月の九州旅行の際。

生憎の雨でした。

磯崎は建築は、単なる建物ではなく、思想、歴史、文化などの上に成り立っていると考えていました。

一方、その造形は単純明快。記憶に残ります。

その魅力にとても惹きつけられたのです。

2008年には娘も生まれました。

47都道府県を巡りながら、作品を訪れることは私の楽しみでもありました。

また、『空間へ』や『建築の解体』など、革新的な著書を残したことでも知られています。

『建築における「日本的なもの」』の論説も痛烈でした。

二条城は1603年、徳川家康によって築城された平城ですが、本丸にあった5層の天守閣は、1750年の落雷で焼失しています

現在も残る二の丸御殿は、神社仏閣の佇まいを色濃く残しています。

『建築における「日本的なもの」』で磯崎はこう語っています。

ブルーノ・タウトという建築家が、伊勢神宮、桂離宮を天皇的で「ほんもの」とし、日光東照宮を将軍的で「いかもの」と表現した。

磯崎はこれらを、ハイアート、キッチュと区別しています。

妻面には大きな菊の御紋が施されていますが、これは天皇家に敬意を示したものと考えられます。

一段下がった別棟の鬼瓦には葵の御紋が見えます。

葵の御紋は徳川家の家紋。菊の御紋より上にあるのです。

天皇的な「ほんもの」を 二の丸御殿 とするなら、南にある唐門は将軍的な「いかもの」と言ってよいでしょう。

「いかもの」の象徴として取り上げられたのが日光東照宮です。こちらは2015年の1月に訪れました。

先程の唐門にも、金色の菊の御紋が見えていますが、2013年にはこの下に葵の御紋が隠されていたことが分かりました。

「天皇的なもの」を「ハイアート」、「将軍的なもの」を「キッチュ」と言い切った、磯崎の洞察は見事だとしか言いようがありません。

このあたりが「知の巨人」と呼ばれる所以なのです。

最後に磯崎建築を紹介したのは、2019年にプリツカー賞を受賞した際でした。

この時は「なら100年会館」を紹介しました。

この時点で87歳。

遅すぎた感もありましたが、本人がプリツカー賞創設に深く関わっていたと今回知りました。

それなら、何となく納得できる気がしたのです。

若い頃に見た「北九州市立美術館」の白黒写真は強烈なインパクトを私に与えました。

雨の中、何とか靄が晴れるまで待って撮ったのがこの一枚です。

「下町のコンクリートCUBE」は、この建築から着想したのです。

これは今年の年賀状の裏面です。

出さないでおこうかなと思いましたが、作品を巡り始めた時は0歳だった長男が現在は17歳です。

あれから17年が経ったのです。

直接会うことは叶いませんでしたが、知性的で品のある語り口は常に憧れでもありました。

永遠の片思いとなった師に、心から哀悼の意を捧げたいと思うのです。

■6月16日 『ESSE-online』「おいでよ House」掲載

■ 『ESSE-online』にコラム連載

10月11日「テレワーク時代の間取り」
9月18日「冷蔵庫の位置」
6月18日「シンボルツリー」
6月5日「擁壁のある土地」
4月11日「リビング学習」
2月27日「照明計画」
2月14日「屋根裏部屋」
2月1日「アウトドアリビング」
1月4日「土間収納」

■11月28日『homify』の特集記事に「回遊できる家<リノベーション>」掲載
■11月17日『homify』の特集記事に「下町のコンクリートCUBE」掲載
■6月11日『homify』の特集記事に「R Grey」掲載

メディア掲載情報

「ほんもの」と「いかもの」‐1425‐

 今日は昼から、上京区で進めているオフィスビルの現場へ行っていました。

 この現場は二条城のすぐ北にあります。

 大阪の現場からの移動でしたが、少し早くついたので初めて立ち寄ってきました。

 堀川通りに面する東大手門は、いつも観光客であふれているのが車からみえていたのです。

 二条城は1603年、徳川家康によって築城された平城です。

 本丸には5層の天守閣がありましたが、1750年の落雷で焼失しています。

 よって、いわゆる城らしい佇まいは濠を残すのみ。

 今年は「イヤダロナ」で覚えた大政奉還から150年。

 徳川慶喜が天皇家に行政の権限を戻すと宣言したのが二条城です。

 まさにここから近代が始まったのです。

 東大手門から入り、西に進みます。

 唐門をくぐると、二の丸御殿が正面にみえてきます。

 唐門のきらびやかな彫刻は、日光東照宮を彷彿させます。

 しかし、他の建築と比べると多少違和感を覚えるのも事実なのです。

 二の丸御殿の正面に立ってみます。

 手前に見えるのは車寄せ。牛車で入れる大きさになっており、檜皮葺きは神社建築を思わせます。

 その奥の高い大屋根は遠侍と呼ばれる棟。

 瓦屋根は、日本建築の迫力をもっとも感じさせるもの。

 妻面には大きな菊の御紋が施されています。

 これは天皇家に敬意を示したものでしょう。

 残念ながら内部の撮影は禁止でした。

 二の丸御殿は、多くの棟が雁行しながら繋がっています。そのすべてが世界遺産であり、国宝に指定されています。

 その中央あたりにある大広間が、大政奉還の実際の舞台となったところです。

 棟の前に中庭があり、写真を撮ってみるとそのケラバにも菊の御紋がみえました。

 しかし、さらにその上の鬼瓦には葵の御紋が。みてとれるでしょうか。

 当然ながら、葵の御紋は徳川家の家紋。

 このあたりに、歴史、建前、プライドが見え隠れして、とても面白いのです。

 建築家・磯崎新の『建築における「日本的なもの」』という著書に、以下のようなことを書いています。

 ブルーノ・タウトという建築家が、伊勢神宮、桂離宮を天皇的で「ほんもの」とし、日光東照宮を将軍的で「いかもの」と表現した。

 磯崎はこれらを、ハイアート、キッチュと区別しています。

 270年の平和を築いた徳川家を、馬鹿にしたい訳ではありません。しかし、こと建築においてはブルーノ・タウトの説を支持したいのです。

 今日、プロ野球のドラフト会議が開かれました。

 高校生スラッガー、早稲田の清宮幸太郎選手は7球団からの指名があり日本ハムが交渉権を引き当てたとニュースにありました。

 過去のドラフトでは8球団からの指名が最高で、その1人が野茂英雄です。

 彼が本物であることは説明の必要はありません。

 多くの球団が指名したとしても、大成していない選手もいます。

 「やっとスタートラインに立てた」というコメントが載っていましたが、868本以上のホームランを打ち、是非、本物中の本物になって欲しいものです。

 もちろん、人のことを心配する前に、自分の精進、自社の精進です。ハイアートを目指すしかありません。

 「ほんもの」と「いかもの」が混在する場所。二条城はとても面白いところだったのです。