タグ別アーカイブ: 大阪歴史博物館

大阪通史と、大大阪になりえた理由‐1885‐

昨日は久し振りの休日で、大阪歴史博物館へ行ってきました。

NHK大阪放送会館と一体となったこの建物。

あべのハルカスなどもデザインしたシーザー・ペリが設計に参加しています。

ペリは2019年の7月に亡くなりましたが、日本にも多くの作品を残しました。

この建物にも何度か訪れましたが、背が高いうえに水平、垂直、曲線が入り乱れ、撮影がとても難しいのです。

意外にこんなアングルの方が形状が良くわかるのかもしれません。

最上部まで連続するガラス部の先端は、こうなっていました。

館内も訪れた気でいましたが、実際の展示を見たのは初めてでした。

建物の軸線が、まっすぐに大阪城を向いていることは、ここから眺めないと分かりませんでしたから。

実は1年前、地元でこの貼り紙をみかけ、すぐに一度訪れました。

まさか1年前から告知しているとは思わず、『2022年』を見落としていたのです。

よって今回はリベンジ再訪です。

ですが、喜連村史展のみ撮影禁止とのこと。成果としてはこの写真くらいになってしまいました。

しかしこの博物館、期待を遙かに上回る充実度でした。

いきなり横長の大開口に圧倒されます。

https://youtube.com/watch?v=TLKukynNWpU%3Frel%3D0

外観写真で、太陽があるあたり。

10階の開口部ですが、眺望も演出も素晴らしかったのです。

10階から6階へと下りながら観覧していきますが、冒頭の3分くらいの映像を見るだけでも600円の価値があります。

紀元前3000年の大阪平野。

7世紀に、奈良から大阪に都が移ってきました。

その場所は、大阪歴史博物館のすぐ隣です。

戦国時代を終わらせたのは秀吉でしたが、大坂の陣で徳川の世へと移り変わります。

江戸時代、天下の台所として、商人の町大阪はひとつの頂点を極めます。

しかし明治維新のあと、近代国家を目指す混乱期にはインフラ整備の遅れもあり、大阪の経済は落ち込んでいきました。

そこから脱出し、日本最大、世界でも第6位の人口を誇る、「大大阪時代」を迎えるのです。

その理由は後ほど。

第二次世界大戦で焼け野原に。

そして復興。
高度経済成長期の沸点として、1970年の大阪万博を迎えました。

映像だけでなく、展示物も素晴らしかった。

ここなら4時間くらいは軽く楽しめそうです。

「大大阪時代」を迎えるに至った理由についての映像もありました。

紡績業の成功も大きかったのですが、アジア最大規模と言われた「大阪砲兵工廠」と「造幣局」ができたことが大きな要因になったそうです。

重工業から化学産業に至るまで、多くの分野で産業が発展したからです。

江戸幕府が大阪に銅座をおいたこと、住友家の銅精練所が中央区島之内にあったことも、「造幣局」が大阪にできた理由のようでした。

商人の町、民の力もあったのですが、こういった背景があったことも分かりました。

少し寂しい気もしますが、民と官は敵対すべきものではないことに納得したのです。

おまけですが、1階にあるレストランはお勧め。

デミグラスハンバーグ&海老フライが1000円。この立地を考えればなかなかリーズナブルです。


谷町四丁目駅のすぐ近くにある中学校。

門扉越しに紅白の梅が見えました。
時間があれば、大阪城の梅林を見にいこうと思っていました。

昨日は時間切れで諦めましたが、とても得をした気分になりました。

なかなか出歩きにくい時代です。

しかし、直接目にしないと分からない事や、思いがけない発見こそが、街歩きの醍醐味です。良い休日になりました。

実はまだまだ書きたいことがあるので、次回ももう少し大阪について書いてみようと思います。


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2月27日「照明計画」
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■1月6日『Best of Houzz 2022』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が受賞■

■1月8日『homify』の特集記事に「光庭の家」掲載
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自分、骨あるん?‐1779‐ 

 会社のある平野は、堺につぐ規模の環濠都市だったと言われています。

 信長にキリスト教を伝えた宣教師、ルイス・フロイスがその手記に「美しき村」と紹介するくらい豊かな村だったようです。

 商人が力を付け、武士に頼るのではなく、自らの手で村の周りに濠をめぐらせて自衛したのが環濠都市。

 大阪市内なら、遠里小野や喜連などにもその痕跡が残っています。

 3月末まで、大阪歴史博物館で「喜連村史展」なる催しがあると知り、やってきました。

 大阪歴史博物館とNHK大阪を繋ぐ、ガラスの球体エントランス。

 一昨年に亡くなったアルゼンチン出身の建築家、シーザー・ペリの力作です。

 念のため、受付のお姉さんに開催の確認をすると、「現在そのような展示は無かったと思うのですが……」と。

 確かに3月下旬までの開催だったと思うと伝えると、展示フロアに確認してくれました。来年の1月~3月の開催とのこと。

 まさか1年先の告知だとは思わず、年の確認をできていなかったのです。

 何とも情けない話ですが、折角なので辺りを歩きました。 

 館の南面に回ると難波宮跡の案内がありました。

 その脇に、法円坂遺跡の高床式倉庫が再現されていました。

 法円坂遺跡は5世紀後半のもので、16棟の柱跡が見つかっています。

 1棟の大きさが90㎡ですからおよそ30坪。

  当時としては最大級の規模とあります。

  私が注目したのはここ。

  通常の入母屋造りの屋根なら、ここまで棟が張りだすことはありません。

  羽子板ボルトなど無かった時代にここまで跳ねだしているのは、雨を防ぎながら、しっかり換気をすることが、保存状態に大きく影響したからでしょう。

 お金よりも大切な食料を、湿気や害虫から守るために高床式とし、更に極めて風通しのよい空間を求めたのです。

 そう想像しながら見ていると、頭でっかちで、若干安定感を欠くプロポーションも愛おしく見えてくるから不思議です。

 反対に、館の北側に回ると、本町通りを挟んで大阪府警本部庁舎があります。

 完成は2007年12月。設計者の黒川紀章は完成を待たず10月に亡くなっています。

 黒川の実績は言うに及ばずですが、評価が分かれるという事実はあるでしょう。

 どんな仕事であれ、誰もが称賛するという事はありませんが、それは本人が一番理解していたふしがあります。

 「建築家としての私の評価はともかく、思想家としては何かを残せたのではないかと思っている」

 この言葉を聞いた時、私の黒川への視線も一気に変わりました。


 

 生物用語で「新陳代謝」をさす「メタボリズム」という思想を、具現化したのが中銀カプセルタワービルです。

 1972年の完成ですが、カプセルは取り替えができる、可変性を備えた建築なのです。

 東京の新橋にありますが、すぐそばには師であり、同じ系譜の丹下健三設計の静岡新聞・静岡放送ビルもあります。

 1967年の完成ですが、つい先日こちらのオーナー社長が幾分メディアを賑わせていました。

 ゴシップ記事は嫌いですが、この建築を思い出させてくれたなら、目にしてしまった価値もあるというものです。 

 地下鉄の掲示板に、大阪府警の募集ポスターが張られていました。

 戦後10年、日本復興の入口にある広島平和記念資料館をコンペで勝ち取った丹下健三は、空襲によって母を亡くしています。

 しかし、自らが学生時代を送った広島での作品を足掛かりに、世界的建築家へと登りつめました。

 外野の声など気にすることなく、「共生」という思想を説き続けた黒川紀章。

 まさに気骨の人々です。

 ○○新聞のオーナーや、マル秘接待を受けていた(いたとされる)政治家にこのキャッチコピーを届けます。

 自分、骨あるん?と。

 勿論、平野の商人や、偉大な先人達にそう言われないよう、自分へも問わざるを得ません。

 あれから10年。人は命ある限り何度でも立ち上がれると信じています。

■■■1月27日 『Best of Houzz 2021』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が受賞

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■12月28日発売『suumoリフォーム(関西版)』にインタビュー記事掲載
■10月23日『homify』の特集記事に「阿倍野の長屋」掲載
■9月11日発売『リフォームデザイン2020』「回遊できる家」掲載
■5月16日『homify』(英語)の特集記事に「下町のコンクリートCUBE」掲載
■5月10日『Houzz』の特集記事に「阿倍野の長屋」掲載
■4月8日『Sumikata』東急リバブル発行に巻頭インタビュー掲載

■2017年11月27日ギャラクシーブックスから出版『建築家と家を建てる、という決断』守谷昌紀がamazon <民家・住宅論>で1位になりました

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