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ここが仕事の入口、時々の初心忘るべからず‐2165‐

暑くなく、寒くなく、空高いこの季節。

晴れた日の朝は、1年でも一番気持ちの良い時期かもしれません。

街路樹が赤い実をつけています。

リンゴより一回り小さいくらいの大きさです。

何と言う木なのか分かりませんでした。

道路脇の植え込みは、トウネズミモチのようです。

常緑の灌木は見分けがつきにくいものですが、ネズミモチとトウネズミモチの違いはごくわずか。

紫のブドウのような実と、葉の画像を見比べて分かりました。

こちらは季節はずれのキョウチクトウの花。

本来は夏に咲くものですが、今年の暑さでまだ花をつけているのでしょう。

かなりの毒性があるので要注意です。

「上町のアトリエ兼住居」移転計画が本格的に進みだし、中央区役所へ行く用事がありました。

丁度、阪神高速の東船場ジャンクションの南西角にあります。

高速の下には、大阪城の外掘だった東横堀川が南北に流れています。

中央大通りと交差する所に掛かるのが「農人橋」です。

「のうじんばし」だと思っていたら「のうにんばし」でした。

江戸時代は幕府が管理する公儀橋だったのは、そのくらい重要だということです。

名前の云われは、ここから農民が耕作に通った橋だったとありました。

城外の仕事場に向かう出入口だったのです。

そのまま、中央大通りにそって東に歩くと谷町四丁目駅。

そう言えばと思い、駅の周りを少し歩きました。

社会人1年目の時に就職した、設計事務所のあったビルを探してみたのですが、見つけられず。

すぐに分かると思ったのですが、記憶とはいい加減なものです。

仕事場に向かった、地下鉄の出入口は間違いなくここでした。

結局10カ月でクビになったので、その時の所長に感謝の気持ちなどありませんでした。

しかし、自分が人を雇う身になって、または雇いたいと思っても人手が足りない時代になって、申し訳なかったなという気持ちも今はあります。

1年生ができる仕事など限られていますし。

ただ、ここが仕事の始まりだったことは間違いありません。

中央区の設計事務所に就職し、生野区の設計事務所でアルバイトし、天王寺区で創業しました。

その後、地元の平野区に移転し、また中央区に戻ってきたのです。

双六(すごろく)で言えば振り出しに戻ったようなもの。

能の大成者、世阿弥は著書「花鏡(かきょう)」を以下の言葉で結んでいます。

是非の初心忘るべからず 
時々(じじ)の初心忘るべからず 
老後の初心忘るべからず 
命に終わりがあり、能には果てあるべからず 

最も知られた言葉だと思いますが、芸事の奥義と言われるだけあり、本当に奥深い言葉だと感じます。

若年の頃の未熟な、みじめな気持を忘れるな。

年盛りのころから老後に至るまでどのような段階でも未熟さはある。精進を忘れるな。

老後に及んでも、老後としての初心があることを忘れるな。

そして結びの言葉に続くのです。

谷町四丁目の6番出口を出る時、どんなことを思っていたかもう思い出せません。

しかし時々(ときどき)においての初心があることは、今は分かります。


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■8月30日『homify』の特集記事に「阿倍野の長屋<リノベーション>」掲載

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ゲツアサ初心忘るべからず日記‐1850‐

間もなく、アトリエmのWebサイトがリニューアルオープンです。

この後、一旦全ての更新ができなくなるので、今日は朝一番のUPです。

昨日は所用があり、谷町六丁目界隈へ。

からほり商店街あたりには、おしゃれな店が沢山あります。

街歩きをしている人もちらほら見かけ、多すぎず、少なすぎずで丁度いい感じ。

大阪城を北の頂点とした半島状に広がる上町台地。

西端あたりに位置するので、坂が多いのです。

谷町六丁目駅のすぐ近くは、観音坂とありました。

北へ歩くと長堀通りですが、ここから大阪城へ向かって、更に一段高くなっています。

楠木正成公お手植えとも言われるこの大樹は「えのきさん」。

榎木大明神として祭られています。

谷町筋を東に渡ったあたりにも、更に色々な店ができていました。

傾いて見えるのは、多分気のせいでしょう。

そこかしこに坂があり、景色の変化が楽しいのです。

大阪ガスの実験集合住宅NEXT21がありました。

存在は知っていたのですが、どこにあるのかは分かっていませんでした。

谷六と玉造の丁度中間くらいの清水谷となっていました。


1993年の完成ですが全く古びておらず、かなりの存在感です。

結局、玉造まで一駅分歩きました。

ここまで来たなら、真田丸があった三光神社に寄りたくなります。

真田丸は出城ですから、勿論小高いもの。

で、ここも坂。

その頂きにある拝殿です。

池波正太郎の「真田太平記」は最も心に残っている小説のひとつです。

真田家が暮らした長野の上田城跡から、幸村最期の地、天王寺の安居神社まで、その足跡をたどってまわりました。


日本一の兵と言われた真田幸村は、歴史上もっとも徳川家康を追い詰めた武将と言えます。

猿飛佐助をはじめとする真田十勇士を従え、徳川家と対決する講談が江戸後期に人気を博しました。

それはある種、時の権力者へのカウンターカルチャーだったとも言われています。

25歳でアトリエmを設立し、5年間全力で働きましたが、矢折れ、槍尽きた私は、1年休んで海外にでることにしました。

その時に読んだ本の中で、最も心に残っているのが 「真田太平記」でした。

六文銭は三途の川の渡し賃。

死をも恐れぬ旗印です。

皆に「独立は早すぎる」言われた中、徒手空拳で立上げたのがアトリエmです。

そもそもが、学歴も大したことがない、コネがある訳でもない。だけどやる気だけは誰にも負けないというところから始めたのです。

それが25年経つと、いっぱしの仕事をしてきたように気持ちになっていました。

是非の初心忘るべからず 
時々の初心忘るべからず 
老後の初心忘るべからず 
命に終わりがあり、能には果てあるべからず 

能の大成者、世阿弥も「花鏡」の中でこう戒めました。

芸術に、仕事に終わりはありません。

Webサイトも新しくなりますし、ゲツアサ初心忘るべからず日記として書きとどめておこうと思います。

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■1月27日 『Best of Houzz 2021』「中庭のある無垢な珪藻土の家」が受賞

■12月28日発売『suumoリフォーム(関西版)』にインタビュー記事掲載
■10月23日『homify』の特集記事に「阿倍野の長屋」掲載

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