タグ別アーカイブ: 三十三間堂

だから私は嫌われる‐2334‐

昨日は、昼過ぎからフラッと京都へ。

大阪-京都は新快速で29分。スピードならやはりJRです。

妻は三十三間堂に行ったことがないらしく、6年振りの再訪です。

私は3回目くらいでしょうか。

大雨の後だったので、緑は生き生きとしています。

正式には「蓮華王院」。

後白河上皇が、1164年に平清盛に命じて作らせましたが、現在の本堂は1266年に再建されたものです。

三十三の柱間があるので三十三間堂と呼ばれますが、長さ120mあるので、一間は3.6m程になります。

一般的な一間の1.8mではありませんでした。

本堂自体が国宝で、内部空間も仏像も素晴らしいのですが、残念なのは内部撮影が全て不可であること。

本尊の千手観音座像はじめ、1001体ある千手観音立像は全て国宝です。

雷神・風神像や、観音二十八部衆像も全て国宝。

水晶をはめ込んだ「玉眼」は、仏像に命を与えているかのようです。

五眼を持つ音楽神、「摩睺羅像」は音楽神だけに琵琶のような楽器を持っています。
その特異さと躍動感に少しの間、立ち止まって眺めていました。

「摩尼跋陀羅像」は満賢と共に大衆を守る善神。
そのハンサムさに、ほれぼれする程です。

何とか、フラッシュ禁止などで応対してもらえないものでしょうか。

日本の文化の深さを世界に示すことになると思うのですが。

西側に回ると、「通し矢」の舞台となった「西縁」があります。

南端から北端まで射通した矢の数を競う「大矢数」は、江戸時代に大変な評判になりました。

一昼夜24時間、矢を射続けるのですが、中央あたりの垂木に1本の矢が刺さっていました。

これは当時のものなのでしょうか。

矢の飛んでくる方向にだけ、柱や肘木に鉄板が貼られています。

本堂の柱や軒を守るため、徳川家光が付加したものです。

ここで、片肌脱いだ侍が一心不乱に矢を射ていたと思うと、ちょっとコミカルな感じもするのです。

閉館時間になったので、三十三間堂を後にしました。

帰り道、すぐ近くにあった和菓子屋さんに入りました。

インバウンド価格かなと入ってみたのですが、そうでもなく、和菓子を購入し帰路につきました。

帰りは京阪七条から乗ったので、ちょっとぜいたくプレミアムカー。

500円が高いか安いかは別にして、何ともありがたいシステムです。

うつらうつらしながら車窓を眺めていると、守口市駅を過ぎたあたりで黒煙が見えました。

淀川の北あたりでしょうか、かなりの高さまで煙が立ち上っています。

日曜日の夕方。最もリラックスしている時間帯だろうに、大変なことです。

先週、青森と山梨で大きな地震がありました。
ベネズエラでもマグニチュード7を超える地震がありました。

地球の内部はマグマですから、いつどこで何が起こってもおかしくありません。

天災を語るとき、その警句がよく引用されるのが、物理学者であり、文学者である寺田寅彦です。

こんな言葉も残していたようです。

何度か紹介しましたが、10cm程の小さな催涙スプレーです。

飛距離が2~3mで、護身用の唐辛子スプレーですが、別に熊専用もあります。2つは持てないし、唐辛子スプレーなので熊にもある程度効くのではと勝手に思っています。

山間部に出掛ける時、家族が持てるよう4つ購入し、高音が出るホイッスルと共に常備しています。

ゴルフをする人、山間部でキャンプをする人には、何か熊対策をするよう勧めるのですが、多くの人は「ハイハイ、分かりました」というリアクションです。

自然の中で、人ほど弱いものはそうありません。
それゆえ、槍、弓矢、銃などを発明、改良してきました。そして、弓矢の腕を磨いたのです。

「こんなところまで」という場所に熊がでています。

笑われても、狂人扱いをされても構いません。
本当に熊がでたら、もしそれで自分が大けがを負ったとしたら家族は……と考えて貰えればと思うのです。

勿論、私が万全という訳ではありません。
ただ、無抵抗のまま熊にやられる訳にはいかないと思っているだけです。

妻には、「そんなことばかり言ってるから、嫌われるのよ」と言われます。
自分でも、そうなんだろうなと思いますが。

先の土産物屋さんで買った「お茶々餅」。864円でした。

こしあんを餅で包み、宇治の抹茶きな粉で仕上げた和菓子です。
値段も含めて満足できました。

面倒な話しをしましたが、意外に安いお土産情報に免じて許してください。

■■■5月8日『ミラタップ』のカタログ「ドッグランのあるタイル床の家」の写真が掲載されました■■■

■■10月1日『建築人 10月号』「尼崎園田えぐち内科・内視鏡クリニック」が掲載されました■■

株式会社 一級建築士事務所 アトリエ m
建築家・守谷昌紀TV

キヤノンで観音様を撮ってみたい‐1350‐

 先週、京都に立ち寄ったと書きました。

04 - コピーのコピー

 海外からの旅行者の玄関口となる京都駅。1997年の完成です。

 梅田スカイビル等でも知られる原広司の設計です。

05 - コピーのコピー

 京都の碁盤の目をモチーフに、中央を谷に見立てたプランで国際コンペを制しました。

 景観論争にも発展し、最も高さが低かった原広司案が選ばれたと記憶しています。

 正直、京都にあっているとは思いませんが、そこに一つしか存在できないのが建築なのです。

  京都駅前から東山七条くらいまで行くと、ようやく街並みにも雰囲気がでてきます。

 三十三間堂は、京都国立博物館の南向かい。

09 - コピーのコピー

 一間=約1.8mなので60mかと思いきや、長さは120m。日本で最も長い木造建築だそうです。

 柱間が三十三あるので、通称として三十三間堂と呼ばれるようになったそう。形態が通称となったのです。

 三十三間堂は平清盛が援助し、1155年に後白河上皇の院内に創建されたのがはじまり。

 しかし火災にあい、1266年に再建されました。

 よく知られる「通し矢」は、お堂の西軒下で行われました。

 高さおよそ2.5m、幅も1m強の限られた空間で矢を24時間射続けます。そして、何本の矢を射通せるかを競いました。

 120mを射抜くには強靭な体力と技が必要とされ、京都の名物行事となっていったのです。

 内部はさらに素晴らしい。

 国宝の千手観音坐像は3mはある見事なもの。それを取り巻くように、階段状になった10段ある壇上に1,000体の千手観音像がずらりとならんでいます。

 仏像のある空間をみて、これほど感激したことはありませんでした。まさに圧巻です。

 しかし、残念ながら内部は撮影禁止でした。

 私は何か撮りたいものがあるときは、CanonのEOS 5D Mark Ⅱにシフトレンズ(建築写真用)とズーム付きのレンズを持って行きます。

 海外では写真好きの外国人に、それらをきっかけに声を掛けられたことが何度かありました。Canonは世界中で支持されているのです。

 Canonのロゴについては、公式サイトにこう載っていました。

 1933年に精機光学研究所が設立され、最初の試作機は「KWANON(カンノン)」と名付けられました。

 観音様の御慈悲にあやかり世界で最高のカメラを創る夢を実現したい、との願いを込めたものでしたが、世界に通用するブランドが必要になりました。

 そこで、英語で「聖典」「規範」「標準」を意味する「Canon」となったのです。

 カナカナ表記なら「ヤ」は小さくせず「キヤノン」が正解です。

 当初の「KWANON(カンノン)」の際は、まさに千手観音と燃え上がるロゴがデザインされていたそうです。

 まさに世界標準となった「Canon」。キヤノンで観音様を撮ってみたかった。

 創業者の御手洗毅は元医師でしたが、共同経営者が出征したため、本格的な経営に取り組むことになります。

 世界一を目指し「打倒ライカ」を掲げ実力主義を徹底するのです。

 一方、いち早く週休2日を導入。また、家族あってこそ仕事ができると、早く家に帰ることを奨励したそうです。

 企業においての働き方が問われる時代です。

 キヤノンの御手洗さんのように、医師としても、経営者としたもスマートで、世界的企業に育て上げる人もいます。

 先日、あるゼネコンの社長と話しをしていたら「いまどき週休2日じゃないと、応募がこないんですよ」と言っていました。

 建築現場も、週休2日が標準となる時代へ向かっているようです。

 その社長は「私は24時間、年中無休で、いつでも電話してこいと言っているんですが」と笑っていました。

 観音様の御慈悲は、もちろん皆に注がれています。

 しかしながら、若干の哀愁を感じてしまったのもまた事実です。

滋賀はシカ、石の国だった‐1348‐

 初期相談があり、先週も滋賀へ。

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 「地名由来辞典」によると、滋賀は「シカ(石処)」の意味で「石の多い所」を指すとありました。

 「石山寺」は、巨大な岩盤の上に建つため「石山」と名付けられたそうです。

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 JRの新快速で大阪から1時間ほど。

 面談は初めてでしたが、気が付けば3時間が過ぎていました。

 「建築」を間に挟めば、興味のある人とならいくらでも話ができるものなのです。

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 天気が良かったので、帰りは京都で途中下車しました。

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 東山七条にある京都国立博物館は、2014年に平成知新館をオープンさせました。

 美術館の名手、谷口吉生の設計です。

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 それまでは、東隣に建つ明治に建てられた建物が使われていました。

 こちらは赤坂迎賓館などを設計した片山東熊の作品です。

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 長いアプローチを歩くと、南面するエントランスが見えてきます。

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 西をみると、水盤に浮かぶ列柱、カーテンウォールの単調な繰り返しが続きます。

 それがさらに奥行き感を際立たせるのです。

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 内部にはそれらが反転したアトリウムがあるだけ。

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 展示室は撮影禁止でしたが、修復にもちこまれた仏像などもあり、なかなかに見応えがありました。

 建築においては、一見単純に見えますが、この抑えが効いたたデザインは谷口吉生だけのものです。

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 ニューヨーク近代美術館の新館をはじめ、これほど多くの美術館を設計している建築家はそういません。

 その実績が、実力を何より顕著に表しています。

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 材こそ違えど、深い軒、長い縁側、そして開口部の障子と、三十三間堂を正面から見た景色とに非常に近いと感じます。

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 ここを訪れる前に、向かいにある三十三間堂にも立ち寄ってきました。

 技術の進歩により建築は自由になりましたが、つきつめていくと750年前の木造建築に重なっていくのは、不思議でもあり、必然とも感じます。

 日本人としての遺伝子が発露しているとでも言えばよいのでしょうか。

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 大きなカメラを持っていたからか、館の人が声を掛けてくれました。

 「正面の石積みは、穴太衆(あのうしゅう)によるものです」と教えてくれました。

 穴太衆とは大津市坂本穴太あたりに安土桃山時代から暮らすという、優れた石工集団の末裔です。ここは延暦寺と日吉大社の門前町でもありました。

 先の地震で崩れた、熊本城の石垣改修にも彼らが参加するという記事がありました。

 僅かな高さの石垣ですが、それを谷口吉生が望んだそうです。

 どんな時代であれ、建築は土地とは切り離せません。

 地産地消などという言葉を使うまでもなく、その地にある材で建築は構成されて、人はそこで暮らしました。

 この自由な時代に戻るべきところがあるとするなら、土地や環境、または先祖から引き継いだ記憶だとすれば、納得できる気がするのです。

 そういう芯の太い物創りを、私もしたいと思うのです。