
6月に入りましたが、梅雨はもう少し先でしょうか。
気持ちのよい日が続きます。
先月のはじめ、ローマ・カトリック教会の新教皇が誕生したというニュースがありました。
ロバート・フランシス・プレボスト枢機卿が、第267代ローマ教皇に選ばれましたが、アメリカ出身は初めてということも話題になりました。
約14億人の信者がいるとされるローマ・カトリックの教会がすぐ近所にあります。

大阪カテドラル聖マリア大聖堂は、「ローマ教皇が直接任命し教区を統治する司教が、公式に座る椅子がある聖堂」と説明がありました。
大聖堂に隣接した高い鐘楼は、阪神淡路大震災のときに被災し、撤去されたともありました。
鐘楼も一度は見てみたかったです。

日曜日になると、色々な人種の方が教会に入っていくのを見て、Webサイトで調べてみると、日曜日は5度のミサがあり、日本語に加えて、英語、ベトナム語、韓国語のミサも開かれていました。
信者でなくても自由に参加下さいとあります。

立派な空間で、後日参加してみようとこの日は一旦帰ったのです。

入口の左には、キリシタン大名で知られる、高山右近の像があります。
高槻城の城主となった右近は、織田信長、豊臣秀吉に仕えますが、1587年突如、秀吉が伴天連(ばてれん)追放令で大名の地位を失いました。
金沢の前田利家に客将として迎えられるも、家康の禁教令でマニラへ追放。
その地で1614年に病死しました。

細川ガラシャは、明智光秀の三女、玉子として生を受けました。
1582年に信長の媒酌で細川忠興と結婚します。
しかし、1582年、光秀の本能寺の変により、細川家は玉子を離縁、丹後国に幽閉します。
同じく、1587年の伴天連追放令で、忠興から外出を禁じられますが、自宅で洗礼を受け、キリスト教徒となります。
ガラシャ(恩恵の意)はその洗礼名でした。
1600年、忠興が家康の東北の上杉氏討伐に加わった際、石田三成は忠興を味方につけるため、妻ガラシャを人質として大坂城へ連れていこうとします。
それに応じなかったため、ガラシャの屋敷に三成側が火をかけます。
キリシタンの教えでは自害が禁じられているため、家臣に胸を突かせて37歳の人生を終えたのです。

教会を少し西にいったあたりに、「越中井」が残っています。
忠興の邸内にあったものといわれ、ガラシャ最期の地とされているのです。

平日は、朝の7時からミサが行われていると知り、ジョギング帰りに初めて参加してみました。
洗礼を受けていない人は聖体拝領は受けられません。
しかし、聖書も持っていない私が参加するのは、少し場違いかなと感じました。
ただ、早朝の大聖堂の空気は清らかで、時々立ち寄らせてもらっています。
命を掛けて信仰を貫いた人が居たことは知っていましたが、より身近に感じるようになったのは事実です。
高山右近は、伝来間もない時にキリスト教に改宗、ユスト(儀の人の意)洗礼名を受けました。
全く予備知識の無い中で、改宗したその行動力にも驚かされます。
信仰の自由とは……
最近、ちょっと考えているのです。
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