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高島野十郎が描く、やるせないほどの美しさ‐2314‐

日曜日は、3月初め以来の完全オフ。

のんびりと、大阪中之島美術館の『没後50年 髙島野十郎展』へ行ってきました。

天気はもうひとつでしたが、暑くもなく寒くもなく。

髙島野十郎は、昨年の夏放送されたNHKの『日曜美術館』で知りました。

絵画はやはりブランド力が大きくものを言います。
誰も知らない絵を観る機会はほぼ無いからです。

しかし、テレビを通してでも感じ入るものがありました。
存命中は無名だったと知り、とても気になっていたのです。

「絡子をかけたる自画像」 大正9(1920)年

高島野十郎は、明治23(1890)年に福岡県久留米市の裕福な酒造家の5男として生まれます。

そして中学生の頃、絵に目覚めます。
東京帝国大学農学部水産学科を主席卒業するという秀才ですが、皆が驚くなか、画家の道を選ぶのです。

独学、独身、美術団体にも属さない、孤高の人でした。

「壺とりんご」 大正12(1923)年

「世の画壇とまったく無縁になることが小生の研究と精進です」と知人への手紙に書き残しています。

明治末期には様々な西洋絵画の情報が日本に入ってきました。

雑誌『白樺』が盛んに紹介したこともあって、多くの若い画家がフィンセント・ファン・ゴッホの影響を受けます。
野十郎もそのひとりでした。

「イーストリバーとウィリアムズブリッジ」 昭和5(1930)年

昭和5(1930)年にヨーロッパ視察の旅に出ています。

その前に立ち寄ったニューヨークで描いた1枚ですが、印象派の影響も色濃く受けていることを感じさせます。

「ひまわりとりんご」 大正時代(1912~1926)頃

ゴッホの象徴とも言えるひまわりに、りんごを加えているところも何だか愛らしいのですが。

「からすうり」 昭和10(1935)年

しかしその筆致はここまで進化します。

遺構ノートが見つかったことで、彼の考えを言葉で知ることができます。

「からすうり」はやるせないほどの美しさでした。

学生時代は魚類の感覚に関する研究を行っていました。

その時のスケッチが公開されていました。

食材としても高級魚のオニカサゴ。もう美味しそうでさえあるのです。

左:「雨 法隆寺塔」  昭和40(1965)年  右:「法隆寺塔」  昭和33(1958)年

詩人だった兄の影響からか、仏教に深く傾倒していました。

写実的な描写が慈悲の実践と考えていたので、絵を描くこと自体が仏の教えに迫ることだったのです。

「積る」 昭和23(1948)年以降

一方、その画風は多彩を極めます。

点描画のような表現が、雪の軽さと、豪雪地帯の雪の過酷さを同時に表現しているようです。

解説には、好んで通った山形である可能性が高いとありました。

最後の展示エリアは、凄い演出でした。

野十郎が生涯に渡って書き続けた、「蠟燭」と「月」が、ほぼ真っ暗な中で展示されています。

「蝋燭」 昭和23(1948)年以降

「蝋燭」 はかなりの点数が展示されていましたが、個展で発表されることもなく、親しい友人や知人に感謝の気持ちとともに手渡された贈り物でした。

「満月」 昭和38(1963)年頃

光を描くという意味では同じ主題ともいえる「月」。

最初は月夜の風景を描いていたのが、晩年はただ闇夜に輝く満月だけを描くようになっていきます。

主役は闇でした。

存命中はほぼ無名だった野十郎ですが、没後5年経った昭和55(1980)年の「近代洋画と福岡県」という展覧会で評価がはじまります。

そして没後50年の、この展覧会に至るのです

独学、独身、孤高ということばで語られますが、不思議と悲壮感は全く感じません。
そこは育ちの良さと、頭の良さからくるのでしょうか。

展示作品は約150点にも関わらず、ほぼ全ての作品に解説があり、全く飽きることはありませんでした。
この展覧会を主催した人達の熱意も伝わってきます。

撮影可能な作品をいくつか紹介しましたが、実物はこの比ではありません。

6月21日(日)まで会期があるので、まだの方に絶賛お勧めしておきます。

孤独ではない孤高の人。

何だかヒントを貰ったような気持ちになりました。

「月」 昭和37(1962)年

■■■10月1日(水)『建築人 10月号』「尼崎園田えぐち内科・内視鏡クリニック」
が掲載されました■■■

■9月28日(日)地域のために、リハビリ棟を増築「ささき整形外科クリニック」内覧会開催

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