家康と幸村

 事務所のある平野は大阪市の南東部にあります。

 大阪城(大坂城)から9km離れていますが、大坂夏の陣では戦場になっています。その時の家康伝説が残っているのです。1600年の関ヶ原の戦いで勝利を納めた家康は、天下を我が物とし、更に豊臣家の滅亡を目指します。

 鐘の文字が不吉だと難癖をつけ、大坂の陣になだれこんでいく下りは有名ですが、一方的にやりこめられた豊臣方で、一人気を吐いたのは真田幸村です。
 六文銭のノボリと、赤備え(朱に塗った鎧)で有名な真田家は長野県上田の藩主でした。ノボリの六文銭は三途の川の通行料。それをも恐れない勇猛さでならし、戦国時代随一の戦上手で知られていました。

 1614年の冬の陣では、城外に真田丸という出城を築き、家康方をかく乱します。この場所は、現在も真田山という地名で残っているのです。

 猿飛佐助、霧隠才蔵に代表される、真田十勇士は、太平の世が続いた江戸時代に、講談として脚色さてたものですが、その実力は間違いありません。

 さて平野の話です。翌年の夏の陣で、家康はここに陣を構えました。

 「八尾若江の戦」「道明寺の戦」で大敗を喫した豊臣方の真田幸村は、家康がこの地を通ると読み、地雷をしかけました。カマドに火を入れると爆発する仕掛けでしたが、偶然家康が用足しに立った時に爆発。

 同時に、真田軍が一斉攻撃を仕掛けると、家康軍は散走します。家康最大の危機でした。その爆発でお堂にあった地蔵の首が400m先の全興寺(せんこうじ)まで飛んで行き、現在も祭られているのです。

 そのお堂は、環濠都市平野の樋尻口地蔵堂。

 全興寺も朝のジョギングコースなので、お地蔵さんの頭が飛んで行く距離では……と思いますが、家康を追い詰めたのは事実のようです。

 真田家と徳川家の因縁は浅からぬものがあります。

 これに詳しいのは、池波正太郎の「真田太平記」。文庫本で12巻とかなり読み応えはありますが、気になる人は是非。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA