コピーの功罪

 この週末、妻と子供は高槻の実家に帰っていました。

 日曜日の夕方迎えに行くと、どの公園も花見客で賑わっていました。

 桜は撮るのが難しい花です。淡いピンクのイメージで撮っていても、出来上がりは極めて白に近くものになります。

 イメージで言えば、蕾のほうが近いかもしれません。

 話は変わりますが、先週の水曜日、散髪に行っていました。

 この日だけは夜の9時まで受け付けてくれるのです。

 店長のDさんは45歳くらいで、イタリア人のように明るい人です。しかも馴れ馴れし過ぎず、よそよそし過ぎず。いつも話すのを楽しみにしています。この日は珍しく愚痴っぽい話でした。

 「最近、見習いって言わなくなりましたね。僕らの頃はその字の通りで、見て習え。ほとんど教えてくれません。でも頼めば、11時を過ぎても付き合ってくれました。終わったあとは最敬礼で、有難うございました!という感じでしたね」と。

 よく聞こえてくる話ですが、何故変わったのだろうと考えていました。

 写真、更に進んで動画が出来る前は、目の前で起ることが全てだったはずです。動画の前に、同じものを複製、再生できるようになって、その場、その時間、その人の価値が希薄になって行ったのかもしれません。そこが分岐点なのかなと思い、調べてみました。

 写真の発明
 ジョセフ・ニエプス(フランス) 1822~24年頃

 映写機の発明
 トーマス・エジソン(アメリカ) 1891年

 コピー機の発明
 チェスター・カールソン(アメリカ)1948年

 コピー機が一番最後でした。

 実は先々週まで、事務所にはコピー機がありませんでした。どうしても必要な時は、近くのコンビニまで走っていました。

 伝えると大概は驚かれましたが、無くてもなんとかなって来ましたし、簡単にコピーを取ることが、あまり良いことではないと思っていたのです。

 ついにお下がりのコピー機がやってきました。何でもそうですが、その功罪は確かにあると思うのです。

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