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階段手摺にみる物語‐1381‐ 

 今日はあいにくの雨ですが、サツキの美しい季節です。

 普段はやや愛想のない灌木ですが、この時期は見事なもの。

 先日、秋田県立美術館の階段がとても美しかったと書きました。

 館の設計は安藤忠雄。

 階段に合わせ、手摺も柔らかい曲面に沿って登っていきます。

 スチール製ですが、まるでスクリーンのような繊細さです。

 ここ数年、春先にウェスティン都ホテル京都へ行く機会があります。

 今年は4月末でしたが、なぜかいつも天気にめぐまれず、この日も花曇り。

 それでも八重桜が満開で、東山の新緑に文字通り花をそえていました。

 ホテルは、関西が誇る巨匠、村野藤吾の設計です。

 村野の芸達者は、常人には及びもつきませんが、有機的な曲線は彼の特徴といえます。

 西館にあるスチール階段は、華麗さ、美しさ、軽やかさを兼ねそろえた階段です。

 見るたびに、ため息に近いものが漏れるのです。

 逆光につき、側面からみるとその柔らかい色使いも見てとれるでしょうか。

 見下ろすと、柔らかなフォルムが一層引き立つのです。

 1段目に村野の特徴がよくでています。

 やはり階段自体が芸術品といえるのです。

 しかしこの時期の村野の作品で、トップがステンレスのものがあったかなと考えます。

 また、全体のプロポーションからすれば幾分太いようにも見えます。

 もしかすると都ホテルがウェスティンブランドになった際、改修で作り直されたのかもしれません。

 そうだとするなら、原型に近いプロポーションを追求したあとは見えます。

 しかし、デザインする側は極限まで無駄を省きたいもの。極小は常に美しいことを知っているからです。

 実際に手摺をつくる鉄工所は、当然のことですが機能を満たし、安全を担保しなければなりません。

 材が小さいとたわむ、揺れが大きくなるのではという懸念が常にあります。

 美しいや感動は、無難からは生まれません。一歩踏み込んだところにしかないのです。

 これらは全て私の想像ですが、そう思わせる迫力を一流の建築家は常に持っています。

 何かを成そうとするなら、覚悟、強い意思、勇気が必要。

 手摺と階段が、それらを如実に物語っている気がするのです。

安住の地をみつけた白鯨‐1280‐

 この日曜日は「宝塚の家」3ヵ月点検でした。

 その帰り、宝塚の市街地を回ってきました。

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 宝塚市役所は1980年の完成。

 大阪が誇る巨匠、村野藤吾の設計で、御年89歳の仕事です。

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 市役所は休みなので、目当てはカトリック宝塚教会。

 市役所から言えば一駅北にあります。こちらは1966年の完成で、村野が75歳の仕事。

 阪急沿いなので、見たことがある人も多いでしょうか。

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 アプローチは線路の反対、西側から。

 教会のパンフレットにはこうあります。

 大洋を漂いつづけていた白鯨がようやく安住の地をみつけ岸辺に打ち寄せられたとでも申しましょうか。

 詩的な表現にときめく、とでも申しましょうか。

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 モチーフは白鯨でした。

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 建物を左から覗き込むとエントランスが。

 滑らかに吸い込まれていくような形態です。

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 エントランスホール上には、聖歌隊席があり、天井が低く抑えらています。

 2m20cmくらいでしょうか。

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 歩を進めると、200席ある信者席。

 緩やかにうねる天井に包まれています。

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 祭壇付近から、尖塔に向かってぐっと空間がつまみ上げられているよう。

 神聖な空間であることの説明は不要です。

 私は、神とはそれぞれの良心なのだと思っています。

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 雨水の落とし口は、モダニズムの巨匠、コルビュジエの影響を感じさせます。

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 この教会は、まるで地面から生えているよう。

 これらの有機的な表現は、村野ならでは。圧倒的に人の手が掛かっている証明でもあります。

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 パンフレットにはこうもあります。

 四季折々の花々が咲き乱れる暖かい家庭的な雰囲気の教会堂になりますことをお祈りしています。

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 この季節、アジサイをはじめ、バラ、ポピー、キクの仲間か、沢山の花が咲き誇っていました。

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 住宅街にありながら、スケール感が素晴らしい教会で、一編の詩のような建物でした。

 本より、私が村野藤吾の批評などおこがましいのです。93歳で亡くなる前日まで働いたという、まぎれもないレジェンドですから。

 この美しい教会の後に、埃っぽい話をするのは気が引けますがもう一度だけ書きます。

 不適切ではあるが、違法ではない。

 罰せられるか、罰せられないかのギリギリに居る人が、首長である必要は全くありません。

 また、人に判断を仰ぐ必要もありません。自らの良心が全て知っているはずですから。

 前回紹介した作家・城山三郎ですが、朝は新聞を読まなかったそうです。

 理由は、腹が立ちすぎて仕事が手に付かなくなるから。

 私もこんなことで憤っているくらいなら、新聞等読まない方が良いのかもしれませんが。