心の琴線に触れる、という言葉があります。
そんな言葉を、2005年からまとめてきました。その2つ目は、魯山人の言葉です。
美の源泉は自然にある。自然なら美しいか。
花を雨、日で育てるのも自然。
木を一瞬にして焼き払うのも自然。
自然がなにを目指しないを行わんとするか。
けだし我々人智のよく量りえるところではない。
-北大路魯山人- 書家・陶芸家
答えがあるようでない。極めているようで、諦めているようでもある。解釈が幾通りも出来る言葉です。
彼は、漫画「美味しんぼ」に登場する海原雄山のモデルとされています。書、陶芸、食とあらゆるものに通じ、一家言もっている。しかし、憎まれ口も叩き敵も多かったようです。
先日読んだ、白洲正子の著書「ものを創る」にこうありました。
結局、魯山人の芸術の特徴は、その素人的な所にあったと思います。素人というと、誤解を招くおそれがありますが、技巧におぼれず、物のはじめの姿というものを、大づかみにとらえていた。
物を見る(うぶ)な眼と、職人の(熟練した)手というものは、中々両立しないものですが、その両方を備えていたといえましょう。
熟練した手は、ひたむきに取り組めば、近づける気がします。では、うぶな眼は。
「うぶ」を辞書で引くとこうあります。 【初々しく世間慣れしていないさま。純情】
熟練しているのに、慣れていない。やはり簡単ではありません。
しかし、いつも進歩したいと思う。これならできそうな気がします。うぶなとは言わないまでも、新鮮な眼くらいは持てそうだと思うのです。
眼の輝きとはよく言ったもの。死んだ魚の眼にはならないよう。