スキーのない人生

 月曜日はスキーの事を書きました。

 今でこそ、年に数回行く程度ですが、20代の頃は試合に出るため、毎週のように出掛けていました。また、現在の仕事にも大きく関わりがあります。

 父の趣味が夏は海、冬はスキーでした。

 3歳ぐらいから何となく滑っていたと思います。

 近所でスキーをしている友達は皆無。

 父に彼らを一緒に連れていって貰った事が何度かありました。

 当然私が一番上手いことになります。

 大学に入るまで自分より上手い同級生はいないと思っていました。

 知らないという事は悪なのです。

 大学受験の際に一浪。あきらめ悪くもう一年仮面浪人しました。
 
 しかし希望の学校には合格せず。

 すでに1年通っていた近畿大学の建築学科に通うことになります。

 絶対建築家になりたいと思っていましたが、大学では体育会に入ろうとも思っていました。丸坊主が嫌で、中学で野球を辞めてしまったことを、後悔していたからです。

 それなりに自信のあった、野球、ゴルフ、スキーをピックアップしました。

 ところが近畿大学の体育会は非常にレベルが高く、概ね日本のトップレベル。2回生から入りたいという私を受け入れてくれる所はありませんでした。

 スキー部には、当時木村公宣という選手が在籍していましたが、彼はオリンピック選手だったのです。

 現役で大学に入った友人から、競技スキーはとっても面白いと聞いていました。どこも受け入れてくれなかった事を話すと「じゃあ一緒にやれば」と、声を掛けてくれたのです。

 それから、週に3回甲南大学に通うという生活が始まりました。1991年、大学2回の春の事です。

 そんな経緯で、正規の大学の試合に出れない私は、国体出場を目標に据えました。

 大阪府から国体へ行けるのは3名。
 
 大学を出てからも、30歳手前くらいまで頑張りましたが、ベストリザルトは4位。

 未だ国体へは行けていません。

 まだ諦めた訳ではありませんが、学んだこと、得たことは沢山あります。

 他大学の体育会に付いてまわるという微妙な立場で、自分の存在を認めて貰いたければ、一生懸命練習するしか無かったこと。

 もう一つは、競技スキーという割にマイナーなスポーツであったが故に、普段では知り合う事のない、多くの大学、色々な世代の人と知り合えたこと。

 これは、競技スキーに打ち込んでいると言う共通項があったからに他なりません。

 私が独立するきっかけとなった「羽衣の家」はスキー部の先輩の両親の家です。

 続く「白馬の山小屋」は、私を可愛がってくれた先輩の両親が持つ山荘の改修。更に「spoon cafe」は、スキー部の後輩の店、「生野の家」もスキークラブの先輩の家なのです。

 これらのクライアントが居なければ、早くに独立することは無かったと思います。これら競技スキーの存在を教えてくれたのが、iceteeの代表を務める中学からの友人なのです。

 もし私の人生にスキーが無かったら、という想像はしません。あらゆる縁に感謝しながらも、全ては必然だと思っているからです。
 
 また、現実こそが唯一最高の結果。それ以外は全て仮定でしかないからです。

 それらに迷いが生じたら、すぐに行動を起こすだけ。これもスキー、仕事に教えて貰った事なのです。