人の鑑・アニキ‐1213‐

 秋深き 隣は何を する人ぞ

 絶句となった「旅に病んで 夢は枯野を 駆けまわる」を除けば、芭蕉、最後の句だそうです。

 亡くなる2週間前、晩秋の大阪で詠んだものでした。

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 秋であろうが、なかろうがという気もしますが、病床に伏した芭蕉を思うとより情感が伝わってきます。

 阪神タイガースの監督に、金本知憲氏が就任しました。

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 阪神は、言わずと知れた関西の人気球団。トラキチではないのですが、金本氏は気になる監督です。

 失礼ながら、キャリアを簡単にまとめてみます。

 1991年、ドラフト4位で広島に入団。非力な選手だったが、ウェートトレーニングによってそれを克服。広島で主軸を務める。2003年、FA権を行使し阪神に移籍。リーグ優勝に貢献。腕が骨折したままヒットを打つなど、連続フルイニング出場を続け、世界記録を樹立。ファンからも絶大な支持を受けたが、2012年惜しまれながら引退。

 阪神は1985年の優勝から、長い低迷期を迎えました。

 弱小チームだったヤクルトを、3度の日本一に導いた野村克也監督。1999年、球団に請われ阪神の監督に就任します。

 野村は、チームに入りその雰囲気に驚いたと書いています。

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 最下位に落ちても、そこそこ観客の入る甲子園球場。また、2軍選手であってもタニマチが付き、遊ばせて貰える。また、そのタニマチが、チーム、監督の批判をすると言います。

「おまえを使わないのは、あの監督が悪い」と。

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 選手こそが主役ですが、チームが無ければ働く場さえありません。

 チームの為、組織の為に戦うのでなく、給料(個人成績)を上げるために野球をやりだす。野村が説いても、その雰囲気は簡単に変わるものでないと感じ、1年での退任を申し出ました。留意するオーナーにこう言いました。

「4番とエースは育てられないというのが持論です。掛布だけは阪神が育てたと言ってもいい。それならあと70年待ちますか」

 また野村は、4番とエースは鑑でなければならないと言います。中心選手が人としても立派なら「あいつがやっているなら」と、集団は良いほうへ向かうのです。

 その彼が、阪神の雰囲気を変えたのが、金本だと言います。

 野村は3年間監督を務めますが、全て最下位。その後を継いだ星野監督は、広島から金本をくどき落としてきました。

 その2003年、阪神は1985年以来、18年振りにリーグ優勝するのです。

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 2007年5月20日。友人に誘われて甲子園へ行きました。この日も金本を4番を張っていました。

 金本は、ちょっとや、そっとの事では痛いと言わない。ましてや試合は休まない。そして、チームへの忠誠心が高い。ファンもその姿勢を知り、アニキと慕うのでしょう。

 これらは、あくまで野村克也の意見です。しかし、プロ野球という日本最高レベルの組織で、こんな事が起っているなら、一般の組織なら、より顕著にその影響はでるでしょう。

 「1人のホンモノに触れれば、100人のニセモノを忘れさせてくれる。それが人間社会の有難さである」

 社会派小説で知られる城山三郎の言葉です。

 私も小さくはありますが、組織のリーダーで4番です。まずは自分がホンモノと鑑を目指す他ありません。

 しかし気になる監督ですが、それも秋が深まってきたからなのか。

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