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苦しみが十分でない‐1025‐

 今日の大阪は快晴。

 隣の工場からはサンダーで何かを削る音が響いてきます。

 こんな音の中で暮らしてきましたが、これからもずっとそうなのだろと思います。

 本日が仕事始めです。

 年始は白浜で過ごしました。

 気温的には3、4度ですが、景色も含めて南国気分ではあります。そんな中、義妹から、甥っ子が骨折したと電話がありました。

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 昨日は、弟家族と実家に集まりました。

 長男に続いてですが、骨はいずれくっつきます。可哀そうではありますが、すべては今後の糧になるはず。頑張れ甥っ子。

 年末、撮っていたイチローの番組を観ました。

 僕の数字で言えば、4000という数字ではなく、8000と向き合ってきたという事実はある

 4000本安打を達成したあとのコメントですが、「8000」とは凡打に終わった打席の数のことです。その失敗と、誰よりも向き合ってきた、と彼は言いきりました。

 「はっきりと言えるのは、打つことに最終形はないということ。ぼんやりとした理想形があるだけ」

 「いつ辞めるのかと考えると、苦しみが十分でない。まだ苦しめる」

 そう言ってイチローは笑っていました。

 言葉がまっすぐで、野球を通し、人はここまで成長できるのかと感じます。喜びは、苦しみがあってこそ。その場に立っていなければ、味わえないものです。

 昨日、母方の祖母が亡くなったと連絡がありました。これで、4人の祖父母は全員亡くなりました。

 香川へ向かい、最も世話になった祖母の人生と向き合ってきます。

人生の晩秋を向える時& 讃岐うどんの名店Ⅴ

この連休は墓参りに帰っていました。

まずは岡山県倉敷市へ。

父方の祖父母は亡くなりましたが、共に92歳まで生きました。

今は瀬戸内海を見下ろす墓で、静かに眠ります。

瀬戸大橋を渡り、今度は母方の里、香川県まんのう町へ。

祖父の入る墓は、船の神さま、金毘羅山(こんぴらさん)を望む田の中にあります。

曲がった事が大嫌いな人でした。

自分で言うのも何ですが、私が一番その気質を受け継いでいると思います。

香川に来た時、うどん店めぐりはかかせません。

今回寄った店は「純手打ちうどん よしや」。

名店も多い、飯野山(いいのやま)別名讃岐富士の麓にあります。

麺が冷たい、だしが熱い「ひやあつ」としょうゆうどん。

ゲソとレンコンの天ぷらに、おにぎりとおでんのスジ。

これで1050円程。

「純手打ちうどん」の看板通り、手打ち麺を包丁で切るこだわりの店長。

「大将」と呼ばれていましたが、まだ若い感じでした。

一時のブームは去ったとは言え、連休の昼時は店外まで列ができていました。

その表情にはやや疲労の色も。

「気長にやりなよ」と声を掛けてあげたい気持ちもありましたが……

味の方は間違いないものでした。

母方の祖母は88歳で健在です。

今は年に1回くらいですが、小学生の頃は夏休みを一緒に過ごしました。

段々と仏さんのような顔になってきました。

愛おしいと思えるのは我が祖母だからでしょうか。

子供たち、そして私もあと何回会えるのか。

人生の晩秋を迎えた時、果たして私はどんな顔をしているのか。

そんな事を考える時間が彼岸なのだと実感するのです。

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■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

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一級建築士事務所 アトリエ m
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

およそ65年

 先週の木曜日、大正6年(1917年)生まれ、父方の祖母が亡くなりました。

 お通夜には間に合わず、週末の告別式からになりました。岡山県の児島まで、大阪から、車で2時間半です。

 祖母は愛媛県岩城島の出身で、この街に働きに出て来ました。そこで、5年前に亡くなった祖父を紹介され、結婚したのです。

 2人は戦争前に結婚。その頃、祖父は三井造船で船大工として働いており、戦争には行かずに済みました。次男だった父は戦時中の昭和20年に生まれたのです。

 終戦後はこの地で、材木屋を始めました。商売は上手く行ったようで、住居とがつながる店は今も残りますが、結構な大きさです。自分の趣味である、果樹園をするための裏山も持っていました。

 祖母は、3年前に足を骨折するまで、考えられないくらい元気でした。5年前、妻と墓参りに帰った時には、サンダル履きで、花と水を持ち、裏山への坂道では、妻の足元を心配してくれるほどでした。

 しかし、苦労も多かったと思います。商売が上手く行った祖父は、遊びのほうも派手だったようで、祖母は50歳の時に、ガンで胃を全摘出しています。

 60歳の頃には2、3ヶ月、大阪の私の家に滞在していた事もありました。この時代の女性は、耐えることが多かったのだと思います。

 5年前の祖父の出棺の時、祖母は小さなビンを3つ入れていました。後で聞くと、祖父の好きだった、日本酒、養命酒、はちみつでした。

 祖父の命日は5年前の10/28。祖母の命日は2日違いの10/30。共に93年の生涯を終えました。

 愛とは時間という言葉もあります。連れ添っておよそ65年。35歳で結婚した、私には体験できないであろう時間を共に過ごした事になります。

 仏教では、現世を終えるとみな仏です。仏となった2人は、2人の息子。4人の孫。7人のひ孫を、見守ってくれるでしょう。何の揉め事もない世界から。