タグ別アーカイブ: 法善寺横丁

変わるOSAKA、変わらない大阪スタイル‐1635‐

 先日、ミナミへ出たついでに少し歩いてきました。

 天王寺が一番近い繁華街ですが、ミナミも電車で30分圏内です。

 キタも同じようなものですが、ミナミに対してはどこかで「我が街」と思っているところがあります。

 千日前商店街を北へ向かって歩くと、東西に流れる道頓堀川にぶつかります。

 訪日観光客数が、ついに東京を抜いてトップになったという記事を目にしました。

 確かに10年前では考えられない程、外国人が歩いています。

 考えてみれば、大阪ほど安上がりで楽しめる街はそうないかもしれません。

 いくら観光客相手とはいえ、たこ焼きが千円することはないでしょう。

 火災の後、特例で以前の街並みを再現した法善寺横丁も、苔むした水不動尊も、海外の人からみるとエキゾチックな風景だと思います。

 千日前商店街を北に向かって歩いていると、凄い行列がありました。

 ざっと見た感じで100人レベル。

 お好み焼きの「美津の(みづの)」でした。

 2010年の11月に妻の友人が来阪した際に訪れました。

 「確かに美味しかったもんな」と思い出していたのです。

 名物の山芋焼き。

 いくら人気店と言っても、お好み焼きなので1万円することはないでしょう。

 渦巻きお好み焼き、焼きそばといずれも絶品でしたが、この様子では当分無理かもしれません。

 そのまま「美津の」を通り過ぎ、道頓堀商店街まで出てきました。

 ここはいつも通りの賑わいです。

 少し目線を上に上げると、地味な遊園地より余程カラフルで刺激的。

 このSNS時代。大阪の価値はさらに上がったのかもしれません。

 もう至る所がインスタ映えですから。

 ビリケンさんのようにも見えますが、ここに居て問題があるのか、ないのか……

 「くいだおれ」という店は無くなったが「くいだおれ太郎」は健在という、この商魂たくましい街が大阪なのです。

 2010年11月に、道頓堀を歩いた時の写真がありました。

 「ずぼらや」の看板が写っていますが、9年でここまで変わりました。大阪はOSAKAとなったのです。

 写っている子供達がまもなく高校生ですから、おかしくはないかもしれませんが。

 大阪が人気観光都市になった理由として「人が温かい」「コミュニケーション好き(おせっかい)」というものがあります。

 勿論他の都市と比べればそれも大きいでしょう。

 旅行者にとって、「泊まる」と「食べる」は必須です。

 「泊まる」の質を上げようと思えば、高級ホテルに泊まれば良いのですが、「食べる」は少し工夫すれば大したお金を使わなくても、かなり満足できます。

 特に大阪においては。

 そう考えれば「食い倒れの街」に、観光客がこれまで少なかったことのほうが問題なのかもしれません。

 大阪が人気観光都市になったのは、「掛かった費用<満足度」この数式が成り立つからに他なりません。

 そう考えると、仕事のスタイルは大阪スタイルで良いのだと思えてきます。

 進歩、成長は必須です。しかし原理原則が変わることはありません。

 「安くて美味い」

 これの価値を超えることは誰にもできないと、我が街が示してくれたのですから。

■■■『suumoリフォーム 実例&会社が見つかる本 関西版』2019年9月30日発売に「回遊できる家」掲載

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

【News】
『大改造!!劇的ビフォーアフター』7月21日(日)BS朝日で「住之江の元長屋」再放送
『建築家と家を建てる、という決断』守谷昌紀
ギャラクシーブックスから2017年11月27日出版
amazon <民家・住宅論>で1位になりました
『homify』5月7日「碧の家」掲載
『houzz』4月15日の特集記事
「中庭のある無垢な珪藻土の家」が紹介されました
『デンタルクリニックデザイン事典vol.1』4月1日発売に「さかたファミリー歯科クリニック」掲載
「トレジャーキッズたかどの保育園」
地域情報サイトに掲載されました

メディア掲載情報

◇一級建築士事務所 アトリエ m◇
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

ミナミの南で受け継がれるもの‐1384‐

 娘が「たまには外食に連れて行け」ということでミナミの高島屋へ。

 百貨店は選択肢が多く、子供連れには便利なところです。

 大阪に暮らしながら、なかなかミナミに行く機会もなく。食事の前に法善寺へ寄ってきました。

 現在はミナミのど真ん中にみえる法善寺ですが、江戸時代は刑場、火葬場、墓などがある、ミナミの南端でした。

 獄門台(さらし首をさらすところ)まであったそうです。

 そのために法善寺はここへ移ってきたようですが、苔むした不動尊の前の列が途絶えることはありません。

 法善寺は千日念仏で知られるようになり、このあたりを千日前と呼ぶようになりました。

 刑場などは明治時代に移転され、周辺は発展していったのですが、当時は安価にもかかわらず、なかなか買い手がつかなかったそうです。

 集まった人たちへの露店や茶店が法善寺横丁の始まりとなりました。

 水掛不動から一本北にある法善寺横丁への西入口。

 右隅に、寛美の文字が見えます。

 松竹新喜劇の藤山寛美によるものですが、 吉本帝国の関西で彼の芸風は一服の清涼剤でした。

 反対の東入口に架かる看板は、3代目桂春団治によるものです。

 法善寺横丁は2002年、2003年の火災で、一帯が焼失しました。

 建築基準法では最低4m以上の道幅の道路に、2m以上の接道を求めています。

 他の現行法規に照らし合わせても、元の街並みを回復できないことが分かりました。

 しかし市民からは再現を望む声が大きく、特別措置がとられたのです。

 個人で特例をだして貰うことなど不可能なので、複雑な気持ちもありますが、安全や間違いのないこと以上に大切なこともあると思います。

 「美しい」「心地よい」「風情」などがそれにあたると思いますが、特に「風情」はひとりで創りだすことはできないもの。人、街、が時間をかけて創り上げる総合芸術ともいえるのです。

 ミラノの市街地の道路は、小さな花崗岩が敷き詰められています。

 車で走るとガタガタするのですが、ミラネーゼ(ミラノっ子)はそれで、我が街に帰ってきたと感じるといいます。

 便利より、この街が好きが勝るからそれらが守られるのです。

 帰りに、夜の法善寺横丁にも寄ってきました。

 苔むした水掛不動さん。

 誰かが絶え間なく参り、井戸水を掛けるから、常に像は苔むしています。強要や、強制ではないから続くのです。

 いくら法規制をしても同じです。中学生が制服の着方を崩していくように。

 街も同じです。

 強制は美しさを生みません。「なんかいいな」と感じてもらえる街となるよう、1軒1軒、微力ながら力をつくしたいと思うのです。