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ミナミの南で受け継がれるもの‐1384‐

 娘が「たまには外食に連れて行け」ということでミナミの高島屋へ。

 百貨店は選択肢が多く、子供連れには便利なところです。

 大阪に暮らしながら、なかなかミナミに行く機会もなく。食事の前に法善寺へ寄ってきました。

 現在はミナミのど真ん中にみえる法善寺ですが、江戸時代は刑場、火葬場、墓などがある、ミナミの南端でした。

 獄門台(さらし首をさらすところ)まであったそうです。

 そのために法善寺はここへ移ってきたようですが、苔むした不動尊の前の列が途絶えることはありません。

 法善寺は千日念仏で知られるようになり、このあたりを千日前と呼ぶようになりました。

 刑場などは明治時代に移転され、周辺は発展していったのですが、当時は安価にもかかわらず、なかなか買い手がつかなかったそうです。

 集まった人たちへの露店や茶店が法善寺横丁の始まりとなりました。

 水掛不動から一本北にある法善寺横丁への西入口。

 右隅に、寛美の文字が見えます。

 松竹新喜劇の藤山寛美によるものですが、 吉本帝国の関西で彼の芸風は一服の清涼剤でした。

 反対の東入口に架かる看板は、3代目桂春団治によるものです。

 法善寺横丁は2002年、2003年の火災で、一帯が焼失しました。

 建築基準法では最低4m以上の道幅の道路に、2m以上の接道を求めています。

 他の現行法規に照らし合わせても、元の街並みを回復できないことが分かりました。

 しかし市民からは再現を望む声が大きく、特別措置がとられたのです。

 個人で特例をだして貰うことなど不可能なので、複雑な気持ちもありますが、安全や間違いのないこと以上に大切なこともあると思います。

 「美しい」「心地よい」「風情」などがそれにあたると思いますが、特に「風情」はひとりで創りだすことはできないもの。人、街、が時間をかけて創り上げる総合芸術ともいえるのです。

 ミラノの市街地の道路は、小さな花崗岩が敷き詰められています。

 車で走るとガタガタするのですが、ミラネーゼ(ミラノっ子)はそれで、我が街に帰ってきたと感じるといいます。

 便利より、この街が好きが勝るからそれらが守られるのです。

 帰りに、夜の法善寺横丁にも寄ってきました。

 苔むした水掛不動さん。

 誰かが絶え間なく参り、井戸水を掛けるから、常に像は苔むしています。強要や、強制ではないから続くのです。

 いくら法規制をしても同じです。中学生が制服の着方を崩していくように。

 街も同じです。

 強制は美しさを生みません。「なんかいいな」と感じてもらえる街となるよう、1軒1軒、微力ながら力をつくしたいと思うのです。

南海沿線

 日曜日は大阪府の南端、みさき公園に行っていました。知人から入園券を貰ったのです。

 南海電車のなんば駅から特急で1時間弱。

 駅前からすぐです。動物園、プールも併設されている、大き過ぎない手頃な遊園地です。

 目指していたイルカショーに間に合わないという失態をおかしてしまいました。

 埋め合わせにいくつか乗り物に。観覧車は1人300円。

 海風にあおられて結構揺れるので、ちょっと緊張しました。

 子供の体調もあってプールはやめましたが、上から見ていると楽しそうです。

 この日も暑く、子供がぐずぐず言い出したので、食事のあと電車で昼寝をしながら帰って来ました。

 学生時代は良く来ていた、難波を久し振りに歩きました。駅近くの新歌舞伎座は村野藤吾の設計です。

 戎橋の北東角にある高松伸の代表作「キリンプラザ」が解体されるので、最後にと思いましたがすでに解体中でした。

 大阪名物と言っていいでしょう。通称「ひっかけ橋」。しかしこの人出ではちょっと難しいかもしれません。

 「くいだおれ太郎」がメディアを騒がせていました。お向かいはカニです。

 もしカニが無くなるとなれば同じ騒動が起こるのでしょうか。

 表通りに対して、南の裏通りは法善寺横丁です。

 火災の後、特例措置によってこの路地は何とか保たれました。

 法善寺の水掛不動尊には列が出来ていました。

 法善寺は千日念仏を唱えていたことから別名、千日寺と呼ばれたそうです。その前ということでこの辺りは千日前。

 お参りに使う水はすぐ隣にある井戸からくみ上げたものです。

 だからこれだけコケも育つのでしょうか。見るからに涼しそうです。

 休日は子供と出掛ける事が多くなりました。ただ自分も楽しみな所を少し含んでいます。

 今回は、南海電車からの車窓。阪南市の鳥取ノ荘以南は海沿いを走ります。

 関西の私鉄では、京阪の淀川水系並走エリアを抜いて、一番に推薦しておきます。