イタリアとスペインの旅⑦ <バルセロナ編>

 “Have a nice trip!”

 寝台電車で同室だったブラジル人に別れを告げ、8月16日(木)の朝、バルセロナに降り立ちます。最後の街になりました。

 まずは、リキテンテンスタインの「バルセロナヘッド」に挨拶を。駅のすぐそばにあるのです。

 バルセロナを3日間で見尽くしてやるという意気込みです。

 ガウディのライバルとも言われる、ドメネク・イ・モンタネール設計の、カタルーニャ音楽堂へ。

 世紀末に起こった芸術運動、アールヌーヴォーはスペイン南部のカタルーニャ地方の建築にも影響を与えました。

 それをモデルニスモ建築と呼ぶのですが、その初期の代表作がこの音楽堂です。

 装飾技術の粋を尽くされた天井中央にあるステンドグラスのシャンデリア。

 問答無用の迫力でした。ドメネク・イ・モンタネールはガウディの先生でもあったのです。


 そのまま、ピカソ美術館とサグラダ・ファミリアを見に行きましたが、あまりの行列で、一旦退散してきました。

 他のガウディ建築をと、まずはカサ・ミラへ。1910年の作品なので築100年です。

 何度も写真で見たものですが、思った以上に突飛な感じは受けませんでした。ごく普通にそこにあるというか。


 内部も観れますが、やはり特徴は屋上です。

 2つの吹抜けを囲む床は、激しく上下しています。

 この自由な屋上または屋根形状を成立させる為、ガウディは薄いレンガのアーチを幾重にも重ねるという工法を考え出しました。

 一番最後の、コロニア・グエルで見れるので、ひとまず進みます。

 アントニ・ガウディは1856年生まれで、1926年にバルセロナの市電に
はねられ亡くなります。

 カサ・ミラは後期の作品になるので、その作品群の中でも非常に洗練されていると感じます。

 リチャード・マイヤー設計のバルセロナ現代美術館まで歩き、次はバルセロナ・パビリオンへ。

 1929年バルセロナ万博の際、ドイツ館としてミース・ファン・デル・ローエによって設計されました。

 それが、1986年に同じ場所で復元され、ミース記念館とされたのです。

 ガウディが亡くなったのは1926年。ほぼ同じ時代に、建築のふり幅がここまであるのは驚きです。

 世紀末の有機的な形態を持つ建築、モデルニスモ建築が、ミース・ファン・デル・ローエの考える、モダニズム建築の反対項であったのは間違いありません。

 これらを見比べる事によってミースの“Less is more”の思想は、より迫力が増してきます。

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 バルセロナ2日目、8月17日(金)は、電車で1時間半ほどの、フィゲラと言う街へ出掛けてみました。

 サルバドール・ダリの故郷で、自らが設計したダリ美術館があるのです。

 かなり早めに出たのですが、到着した頃にはすでに長蛇の列。

 「女優メイ・ウエストの部屋」も横から写真を撮るのがやっと。

 この時期を外さなければ、ゆっくり見るのは難しいそうです。

 再びバルセロナに戻りガウディを訪ねます。

 住宅の傑作と言われるカサ・バトリョへ。1906年の完成です。

 この家は、海の家とも呼ばれます。外部タイルも、内部吹抜けに使われているタイルモ、青を中心としたものが多く、涼やかな印象でした。

 2階の広間の通りに面した窓も、青を基調としたステンドグラス。

 濃厚で有機的なデザインの中にも、一服の清涼剤といった感じでしょうか。

 2日目の最後は、市街地から少し西にある高台、モンジュイックの丘にあるミロ美術館へ。

 かなり歩き、汗だくになりましたが、屋外展示を見ながら日影にいると、すっと汗が引きます。

 バルセロナを愛した芸術家は、ミロをはじめ、ピカソ、ダリなどです。燦々と降り注ぐ太陽と、乾いた空気、陽気な人柄が、創作の場として魅力を持っているのでしょう。

 特にミロは好きな作家です。

 8月18日(土)のバルセロナ3日目。

 実質最終日なので、朝一番から再びサグラダ・ファミリアへ。9時の開門に対して1時間前に着きました。それでも40名程並んでいたでしょうか。

 平等院の鳳凰堂と全く同じように、サグラダ・ファミリアも池に映る姿まで含めて、デザインされていると聞きました。

 その写真を是非撮りたいと思っていたのです。

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 東面、生誕のファサードは、唯一ガウディの生きている間に完成しています。

 何度も何度もファインダーをのぞき、シャッターを押しました。彼と同じ景色を見ていると思いながら。

 やはりその規模、その装飾においてこれがガウディの傑作に間違いないでしょう。

 限りなく高い天井に向かって何本も生えるように建つ生き物のような、骨のような柱。それが複雑な陰影を生み、より荘厳な空間を創造しています。

 生誕のファサードの中央、塔の部分までエレベーターで登れます。

 未だ建築現場でもあるこの教会の、すさまじさを見る思いがしました。かつその高さに腰が引け、大した写真も撮れず下りてきたのですが。

 昼前にはグエル公園。1914年。

 そしてグエル邸。1889年、ガウディ37歳の年です。

 その名が示す通り、ミケランジェロにメディチ家があったように、アントニ・ガウディにはエウセビオ・グエルというパトロンであり、最良の理解者がいました。

 カサ・バトリョが後期の傑作なら、グエル邸は前期の傑作住宅と言えます。

 全ての制限を外したかのように、惜しみなくお金が掛けられているのが分かります。

 この家をガウディが30代に設計したことによって、その後の人生が変わったと言っても過言ではないでしょう。

 この3日間見た中で、最も刺激的だったのはコロニア・グエル教会です。
 
 グエルは、繊維工場をバルセロナ郊外に移し、生活に必要な建築全てを、ガウディとその弟子に造らせました。

 グエル邸とほど同時期、初めての工業コロニーが作られのです。バルセロナからカルーニャ鉄道で20分。更に駅から10分程歩きます。

 この教会は最終的には中央に40mの塔を備えた、立派なものになる予定でした。

 1890年に注文を受け、その実験だけに10年をついやしたガウディに、流石のグエルも1917年に計画の中止を命じます。

 その時点で出来上がっていたのは、地下部分の教会だけ。それが現在の、コロニア・グエル教会なのです。

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 ガウディが、サグラダ・ファミリアで実現するトウモロコシ状の塔は、この教会でも実現されるはずでした。

 また、カサ・ミラで触れた薄いレンガのアーチも良く見てとれます。この教会が、ガウディの最高傑作とする向きもあるとパンフレットにありましたが、私もそう思います。

 非常に原始的にも見える空間が、より強いメッセージを持っています。それは宗教弾圧によってできたカタコンベ(地下教会)や、原始の洞窟空間に似た、荒々しい、よりプリミティブなものと言えば良いでしょうか。

 最後にここへ来て、そんな事を思いながらバルセロナ市街へ戻ったのです。

 翌朝、6時半の飛行機で、バルセロナからローマへ。空港内で家族と落ち合い、8月20日(月)の朝、大阪に戻りました。

 関空快速にのりながら、次はオーストリアかスイス、もしくは北欧か、などと考えていました。これだけの休みをいつ取れるのか分かりません。でもまた出掛けたいと思います。

 知らない街へ下り立った時の、あのときめきを求めて。

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■■■『大改造!!劇的ビフォーアフター』■■■ 7月8日(日)「匠」として出演しました

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