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憧れのパリ‐1579‐

休耕田なのか、菜の花が満開でした。

街中に広がる黄色いじゅうたんです。

関西が生んだ巨匠、司馬遼太郎。

彼がこの野花をこよなく愛したのも、分かる気がしてくるのです。

ゴシック建築の傑作。ノートルダム寺院の尖塔が焼け落ちる映像は、ショッキングなものでした。

初めての海外行きにフランスを選んだのは、やはり憧れの存在だったからです。

1995年、24歳の時ですが、1社目をクビになると失業手当がでました。それを元手に海外へ行こうと思いたちます。

ル・コルビュジエ設計、ロンシャンの礼拝堂を是非見たかったのです。

沈黙がうなるとでも表現したくなる、あの空間を今でも忘れることはありません。

しかし、それ以上に刺激的だったのが初めて目にする海外の街でした。

パリの街は灰色にも関わらず、極めて美しいものでした。

パンをかじりながら、ただただ歩き回っていたのです。

アールヌーボーの旗手、ギマールのガラス屋根に感激。

ルーブルにも足繁く通いました。

そして、I・M・ペイのガラスのピラミッドに対峙したのです。

「漂えど沈まず」それがパリなのです。

当時は、近代、現代のアートへの興味が9割で、ノートルダム寺院の写真は1枚しか残っていませんでした。

その一枚が尖塔を横から見たもの。

もう四半世紀前のことで、その時の気持ちを覚えていないのですが、極めて美しい写真です。

24歳の私も心動かしたのでしょう。

この繊細な木細工に火が付いたなら防ぎようはないと思います。

反対の言い方をすれば、火災を防ぐことを第一に考えればこの尖塔は存在しません。

火災は人の命を奪う可能性があります。

よって、最大限の予防をする必要がありますが、現行法規の下なら、ノートルダムの尖塔も、ミラノのドゥオモも、法隆寺も存在しなかったと思います。

美とは通常ではないからこそ美なのです。

フランス国民は、悲哀にくれていると思います。

形あるモノは必ず壊れます。しかし、人が望めばモノは必ず再現できます。

自由・平等・博愛を表すというトリコロール。

建築家・白井晟一は「青は希望の色」と言いました。

希望を持ち、いつまでも憧れのパリであって欲しいと思うのです。

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【News】
『houzz』4月15日の特集記事
「中庭のある無垢な珪藻土の家」が紹介されました
「トレジャーキッズたかどの保育園」
地域情報サイトに掲載されました
大阪ガス『住まう』11月22日発行に「中庭のある無垢な珪藻土の家」掲載
『住まいの設計05・06月号』3月20日発売「回遊できる家」掲載
『homify』6月29日「回遊できる家」掲載

メディア掲載情報

◇一級建築士事務所 アトリエ m◇
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記

博愛‐1221‐

初めての海外は1995年、24歳の時でした。

新卒で就職した設計事務所をクビになってすぐ。4月だったと思います。

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「建築に対する愛が足りない」と言われてたのですが、クビになったり鬱になったりと人生には色々な事が起こります。

失業保険を使って、すぐにフランスのパリを訪れました。

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ルーブル美術館は計3日程訪れました。

その頃は、建築と言うよりアート全体に興味があったように思います。

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ピカソ、シャガール、岡本太郎にとってそうだったように、私にとってもパリは「芸術の都」でした。

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一番行きたかったのは、ル・コルビュジエ設計のロンシャン礼拝堂。あの不思議な建物を、是非自分の目で見たかったのです。

パリ北駅から急行で一時間。駅からタクシー15分程。1時間程、佇んでいました。ここから、仕事人生の2回戦がスタートしました。

パリでのテロを知ったのは、土曜日の朝、ミーティングが終ってすぐです。マルコから聞きました。

彼はイタリア人なので、隣国の事件には、より危機感を感じると思います。

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パリを訪れたのは20年前。モーリス・ユトリロの愛した、モンマルトルの丘から見た街並みも、おぼろげになってきました。

しかし、あの美しい街に、悲鳴がこだまする光景は想像出来ません。

断固として許せない。勿論そうですが、人を殺し、自爆死し、巻き添えにし、世の中の何が変わるというのか。

私は人として最もしてはいけないことは、自殺だと思っています。折角与えて貰った命を、自分で絶つ権利を人は持っていません。

自分の命、時間を大切に出来ない人が、誰かの役にたったり、愛情を注いだりは出来ないのではと思うのです。

信仰の違いがあっても、人種の違いがあっても、人は幸せを求め、子孫の繁栄を願うことに、代わりはないはず。

死ぬために生まれてくる人等、誰一人居ません。本当に対話は不可能なのでしょうか。

自由、平等、博愛。

愛するのは簡単でないとしても、博(ひろ)く知ることから始めるしかないのではと思います。

会ったことも無い人を憎みあっているなど、この高度情報化社会が生んだ負の産物です。

お化け屋敷のお化けは、暗がりで見るから怖いのであって、太陽の下で向かい合えば、怖い人等居ないはず。

政治家は、今こそ行動を起こして欲しいと思います。どんな手を使っても、会うしかないのだと思うのです。