日本の観光ブームは、四季が担っているのではと書きました。
四季とは常ではないということ。その散り際もみごとなものです。
「北摂の家」の前にある桜も、一気に葉を落としていました。
桜並木の前に住むあるクライアントは「紅葉は素晴らしいですが、落ち葉掃除は結構大変なんですよ」と。
借景もただではない訳です。
今年の6月、琵琶湖博物館へ行きました。
湖畔に建つ立派な博物館でしたが、水族館エリアが改修中。
そちらが目的だった娘にとっては、残念な日になってしまいました。
琵琶湖の水位がもっと低かった、縄文時代のはじめ。5000年前から、人はここに住んでいました。
瀬田大橋北の湖底で、世界最大の淡水貝塚「粟津貝塚」が発見されています。
当時の人々にとって、貝は貴重なたんぱく源でした。
そして出来たのがこの貝塚。ようはゴミ捨て場です。
その復元模型が展示されていました。
古代の暮らしなら、不潔は命を奪うかもしれません。
勿論、清掃車も、ゴミ収集車も来ません。
現代より、ゴミのポイ捨てなど少なかったのかも。この貝塚をみているとそんな気がしてきます。
あるデザイナーがこんなことを言っていました。
「要らなくなった紙をゴミ箱にすてるとき、綺麗に破って、ゴミ箱の中に揃えて捨てなさいと言っています。それが出来ない人間に、良いデザインなど出来る訳がない」
この話を聞いた時、もっともだと思いました。
ずっとゴミの捨て方は気になっていました。以来、当社では弁当のプラスチック容器などは水で洗って、1/4くらいに切り、綺麗に重ねてゴミ箱に捨てることにしています。
弁当を食べたあとの容器が、汁気の残ったままビニール袋に押し込まれ、それがうず高く詰め込まれている。
そんなアトリエで、美しいものは創作できないと思いますし、この事を納得できないないスタッフは辞めていくことになります。
ゴミだからどれだけ汚くても良い。ゴミ箱の中だけが治外法権。そんなことはありません。
ゴミ箱は、人の弱さを集めるブラックホールに見えてきました。
そもそもゴミとは何なのか。
一度は自らが必要としたが、後にこちらが不要と決めたもの。
ダイレクトメールなど、一方的に送られてくるものはこの中に入りませんが、こう定義してみます。
木々が枯れた葉を惜しげもなく落とすように、自分にとって役立たなくなった様々の考えを捨ててしまえるように願っている時。
このいらなくなったものが、なんだってこんなに美しいのだろう。
-アンドレ・ジイド-
自らを通り過ぎていったものをゴミと言うなら、ある人にとって私は……
ゴミとは過去の友達です。過去とはいつも美しくあって欲しいものなのです。